莉乃は寝台から下りると美琴の傍まで歩いた。
「解いてあげる」
こう言いながら莉乃の指先が縄に触れた途端、戒めは消え、美琴の身体は自由になった。
「ありがとう……。でも、あの……どうして?」
「あなたを助けたこと?」
美琴は頷いた。
「復讐の手助けなどしたくないから。私はもうあの子の味方でいてやれない。あの子は……トウヤはもう人の心を失っている。あなたも感じたでしょ? こうなる前に、もっと早くトウヤの復讐をやめさせなければいけなかったのに。私は気付けなかった、トウヤと妖魔が共謀し、術で私の影を動かした亡霊騒ぎも。この朱色の痣の力で目覚めてからも意識が混濁としている日々が長くて。こうして起き上がって少し身体を動かせるようになったのも最近のことよ。でもこの姿を保つには限度がある。これ以上はもう……」
莉乃の身体に変化が起きた。
銀色の淡い光が莉乃の身体全体を包み込むように覆った。すると徐々に莉乃の姿は見えなくなり、やがて小さな光だけが美琴の目の前で浮いていた。
「私の肉体はほとんど朽ちかけていた。霊獣から与えられた霊力で保っていただけ。───でもそれももう終わりにした。私は今、私の意思で御魂だけとなった。……私はトウヤが望んでいるように蘇りたいとは思わないの」
莉乃の御魂は柔らかな光を放ちながら優しい声で美琴に言った。
「美琴さん、あなたにお願いがあるの。私も一緒に外へ連れ出してほしい。あなたが望む場所には、あなたの愛しい者がいる。でもトウヤもきっとそこへ向かってるはずだから。私は残っている最後の力でトウヤの復讐を止めたいの」
莉乃の言葉に美琴は頷いた。
「でもどうやってここから出られるの?」
「出口はこっちよ」
美琴は暗がりの中を進んでいく御魂の後を追った。
やがて目の前にぼんやりと扉が見え、そっと開けると冷たい夜風が頬を撫でた。
ここはどこだろう。
先程までいた屋敷は雑木林の中にあった。
周りに民家は一軒もない。御魂の灯りだけが足元を照らす以外は真っ暗で、風が木々の葉を揺らす音だけが聞こえる。
ここは沙英の街のどの辺りなのだろう。
どちらへ進んだらいいのか方角さえも分からず、美琴が途方に暮れていると莉乃が言った。
「想う心と恐れのない強い気持ちが、向かうべき場所へ導くはず。あなただけに聴こえる声があったはずです。あの方の呼び声が」
(紫珱さまの声……)
「あの方とあなたと、繋がっているものがあれば。それを信じれば必ず辿り着きます。心のままに求め続け、呼び続け、探していた声を想って。次はあなたが。私の中にもあの声がまだ少し、残っています。手伝いましょう。さあ、一緒に……」
銀色の光を放ちながら、御魂が美琴の右手に降りた。
そして吸い込まれるように消えた途端、手の甲にうっすらと朱色の葩印が浮かんだ。
(紫珱さま……)
美琴は一心に紫珱のことだけを強く想った。声を、姿を、笑顔を思い浮かべながら。
───紫珱さま。
早く早く、あなたのもとへ───。
いつしか迷いは消え、美琴の足は自然と駆け出していた。
なにか強い力が美琴の背中を押しているような、引っ張ってくれているようにも感じる。
(この気配は……精霊?)
微弱だが、ラセツが纏う気配に似たものを美琴は感じていた。
通り過ぎていくのは暗闇だけだというのに。心の中に恐ろしさはなかった。
紫珱への想いが自分を強くしてくれている。そんな気がした。
「紫珱さま……」
これは私だけが伝えられる声だ。
大切な言霊だ。
「……紫珱さま」
あのとき、闇に攫われる間際。紫珱に対して疑いや嫉妬心から気持ちに溝を作ってしまったような気がして悔やまれる。
もっと大切な想いがいくつも芽生えていたのに。
(私は紫珱さまと言霊を繋ぎたい)
この声に、想いに触れてほしい。
そしてたくさんの気持ちを伝えたい。
なんの役にもまだ立ててない、頼りない私だけど。
こんな私にもできると信じたい。
紫珱さまのために。
どうか言霊よ届いて。……伝わって。
私は必ずあなたのもとへ。
今度は私が紫珱さまを見つける。
だからどうか間に合って。………無事でいて!
駆けていた足がどんどん軽くなり、美琴は自分が風と同化しているような感覚を覚えた。
そしてなにも恐れず、迷うことなく、その想いが向かう先へ身を委ねた。