鏡を拾おうと手を伸ばしかけたとき、なにかよくない気配を感じた。
「離れろ美琴! それに触るなッ!」
叫んだ紫珱に視線を移した途端、それは起こった。
真っ黒な何かが鏡から放たれ、風となって視界を阻む。
この禍々しい気配はなんだろう。
目を開けて紫珱の姿を確認したいのに、黒く細かな紙吹雪のようなものに邪魔されてしまう。
そんな中、紫珱がラセツを呼ぶ声が聞こえ、動けなかった美琴はとにかくこの場所から少しでも逃げようと、紫珱に近寄ろうと、声のする方へ進もうと考えた。
けれどなぜか身体が動かない。ハッとして顔を上げると、美琴の周りだけ風が止んでいた。
聞こえていた風の唸りはピタリと止み、一切の音が聞こえなくなった。
静寂の中、美琴の周囲だけ闇が濃くなっていく。
目の前は黒い吹雪で、紫珱とラセツが苦戦している様子が垣間見える。
それなのに自分だけがその場所から遠ざかっているのだと気付いた。
紫珱が必死にこちらへ進もうとしているが、黒い吹雪の勢いに阻まれているのが見えた。
しかも吹雪は細かな凶器に形を変え、紫珱を襲った。
(イヤ……やめて!)
紫珱の身体に無数の刃が突き刺さる。そして切り刻むような攻撃が続く。
衝撃と恐怖に全身を包まれ、美琴は声を出すことさえできない。
暗闇がじわじわと自分を飲み込もうとしている。
───紫珱さま!
息苦しくなり、意識が遠退く。
全てが闇に包まれる間際、誰かが笑ったような気がした。
♦♦♦
「やっと来たね」
すぐ近くからの囁きにハッとして、美琴は目覚めた。
薄暗い部屋の中、美琴は椅子に座らされていた。手も足も縛られ、身体も椅子の背もたれに縄で括られていた。
「───いや、また会えたと言うべきだろうな」
目の前に立ち、こちらを見下ろすその人物に美琴は驚きに打たれた。
「どう……して……? なぜ、鷹也さんが……ここに……?」
震える声を絞り出すようにして尋ねる美琴に鷹也は言った。
「少し手間取ってしまったけれど。君を助けることができてよかった」
「助ける? あなたがどうして……あんなことを」
「あんなことって?」
鷹也の顔はなぜかとても面白がっているように見える。
「紫珱さまを傷つけるようなことをなぜ?」
思い出すだけで胸が痛む。鮮血で衣が染まるほどの傷を負っていた紫珱のことが心配だった。
「そんなこと。君が早く逃げないからいけないんだよ。声を聞いたろ? 教えてあげたはずだ。霊獣が嘘をつき君を騙していると」
夢だと思っていたあの声は鷹也のものだった。悪い予感は現実のものとなった。
けれど美琴は首を振る。
「紫珱さまは私を騙してなんていない。……あなたは莉乃さんの弟なの? 名前を偽りこの沙英の街で暮らしていたの?」
「あいつに聞いたのか。……ああ、そうだよ」
冷たい眼差しのまま、鷹也はあっさりと認めた。
「必要なものが手に入ったんだ、もう隠す必要もない。真実を教えてやろう。莉乃は僕の姉。血は繋がっていないがね、養子として迎えられた僕を気にかけ、いつも優しく接してくれた。大切な人だったのに。……莉乃は死んだ」
鷹也は美琴から視線を外し、苦痛な表情を浮かべた。
「あいつが現れて、僕の目の前で……。僕の腕の中で莉乃は……。なのにあの霊獣はいつの間にか消えていた。あいつが莉乃を殺して逃げたようなものだ! ───なのに皆、誰も莉乃に同情しなかった……。自害したというだけで疎まれ蔑まれた。こんなはずじゃなかったのに……」
鷹也の表情がまた変わった。
美琴はその顔に背筋が凍った。
鷹也は笑っていたのだ。
さっきまで悲壮感に包まれていた表情が歪み、現れたのは微笑みだった。
こんなに恐ろしく感じる微笑を美琴は見たことがなかった。
「少しずつ元気になっていたんだ。元気になるはずだったんだ。そういう筋書きを……僕がたてたのに」
「筋書き?」
鷹也は微笑みながら頷いた。
「これでも一応、医師として勤めていたからね。莉乃の恋人と名乗ったあの男を病に見立てて殺すのは簡単だった。そして恋人を失くした姉を僕が慰める。時間をかけてゆっくりとね。そうやって手に入れていくはずだった。莉乃の心も全部。……それなのに。それが台無しにされた。あの銀色の化け物に」
「あなたは……」
美琴は鷹也から異様な気配を感じ取っていた。
手鏡が放っていた邪気と同じ気配。それは人のものではない妖しさに満ちていた。
見合いをしたときも、その後に再会したときも。こんな気配は感じられなかったのに。
(優しい人だと思っていたのに)
鷹也は人を殺めていたのだ。それも姉の恋人を。
それだけじゃない、莉乃の遺体とその弟が行方不明になってから、家には殺害された両親の遺体が残されていたと聞いている。
「ご両親も殺したの?」
「ああ、そうだよ。簡単さ、本当の親じゃないからな。あいつらは好きで僕を引き取ったわけじゃなかったからね。最初から邪魔物扱い、虐待もされた。……莉乃だけだった、いつも僕を守ってくれたのは。養父母を殺す計画も筋書きの内だったが、もっと早くやっておけばよかったよ」
(このひとはもう……)
微笑みながら平然と話す鷹也を見て美琴は思う。
鷹也はすでに人の心を失くしている。
目の前にいる鷹也の中には妖魔が入り込み、全てを支配されつつあるのだと美琴は思った。