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 紫珱の選定者だった莉乃が自害していたという話。

 そして亡霊騒動の裏には妖魔と莉乃の弟が関わっている。

 語られる真実に美琴は驚いたが、やっと出逢えた選定者を一瞬で失ってしまった紫珱の悲しみに胸が苦しくなった。



「亡霊を捕らえるのですか?」


「ああ、俺はそうしたいと思っている」


 それから……その後は。どうするのだろう。

 夢の中で聞いた声を思い出してしまう。


 亡霊になってしまった妻を蘇らせたい……?


 あれは悪い夢。忘れなくては。


「どうした美琴、顔色が悪い。恐ろしい話をしてしまったな、すまない」


「……いいえ、平気です」


「俺は莉乃を妖影の呪縛から解放してやりたいんだ」


「莉乃」とその名を呼ぶ紫珱の声に、チクリと胸が痛む。

 そんな反応をしてしまう自分が、なんだか嫌だった。


「美琴、おまえに聞いておきたいことがあるんだ」


 張り詰めた空気が漂う中、紫珱が尋ねた。


「俺が黎彩へ戻っている間、誰かと会っていたか?」


「なぜそのようなことを聞くのですか?」


 紫珱の瞳が揺らいだ。そしてその視線はそらされ、話が続いた。

 亡霊が握っていた髪の毛の話を聞かされ、美琴は言葉を失くすほど驚いた。


「わたしの……本当に?」


「俺の話を疑っているのか」


「いえ、そういうんじゃ……」


(私が会っていたのは……。でも、そんなまさか───)


「心当たりがあるんだな」


 鋭い光が紫珱の目に宿っていた。


 ……どうしたんだろう。紫珱さま、怖い顔してる。


「誰なんだそれは。誰と会っていた?」


「わ、たし……」


 紫珱から伝わる怒りの感情に美琴の声は震えた。


「紫珱さま」


 落ち着こうと小さく息を吐いて美琴は続けた。


「わたしには紫珱さまと出逢う以前に蜜華亭の女将さんの紹介で縁談があり、お見合いをしていました」


 美琴は縁談相手だった鷹也のことを話し始めた。


「───あの日、紫珱さまがわたしの前に現れて言霊を交わした日は、鷹也さんと初めて二人きりで会う約束をしていた日でした。でも霊獣の選定者となり体調も悪くなってしまって会うことは出きず、縁談もお断りしました。ですからもう会うことはないと思っていました。でも……あれは紫珱さまが黎彩からお戻りになる前日のことです」


 引き受けていた仕立て物の品を届けに行き、帰りに寄った街の小間物屋で偶然、鷹也と再会したことまでを美琴は話した。


「鷹也さん以外に誰かと会ったことはありませんし。その日は二階の茶房で少し話をしただけです」


「どんな話をしたんだ」


 内容まで聞かれるとは思わず、美琴は言葉に詰まった。


「紫珱さまは鷹也さんを疑ってるのですか? でも彼は莉乃さんとは何の関係もないと思います。弟さんとは名前も違いますし」


「奴は名を偽りこの沙英の街に潜伏している」


「でも……そんな決めつけなくても」


「可能性が高いと言ってるんだ」


「鷹也さんがそんな……。彼はとても優しい人で……」


 人違いだ。紫珱は誤解している。そしてなぜそんなに怒っているのだろう。


「好いていたのか、そいつのこと」


「え……」


 ♢♢♢

 こんなこと聞くつもりではなかった。聞かなければよかった。

 なのに美琴がその名を、自分の知らない男の名を口にするのが嫌だった。

 庇うような態度にも我慢ができない。

 この感情はなんだ?

 いくつもの想いが心をかき乱す。

 怒りと焦り、不安と苛立ちが混ざり合って制御が難しい。そのうえ後悔もしている。

 美琴を怖がらせたくないのに。


 好いていたかと尋ねた後、すぐに違うと言ってほしかった。けれど美琴はしばらく黙っていた。


 怒ったような顔にも見えるが眼差しはどこか悲し気にも思えた。


♢♢♢


「嫌いではありませんでした。でもだからといって特別な感情があったわけでもありません」


 ───ほんとうになかったと言える?

 心が問いかけた。

 二人で会うことを楽しみにしていたのは本当だ。

 わたしは鷹也さんを好きになりかけていたかもしれない。

 あのまま紫珱さまと出逢うことがなければ。

 でもわたしは紫珱さまと出逢ってしまった。選定者として。

 それに今はもう……。


「本当か?」


 紫珱さまのことがとても好き。───それなのに。

 疑われているの?


「本当です」


 疑われたくない。嫌われたくない。怒らないでほしいのに。


 莉乃さんのことで必死なのは仕方のないことだけど。


 鼻の奥がツンとなって泣きそうになる自分を紫珱に気付かれたくなかった。

 選定者は自分だけだと思っていた。霊獣が選んだ者はたった一人で。自分だけだと。

 一番でなかったことが、なんだか悲しいなんて。

 わたしは莉乃さんに嫉妬している。そういう気持ちがある。

 醜い感情だ。

 こんな想いを紫珱さまに伝えるわけにはいかない。

 言霊が穢れてしまうのではないかと美琴は思った。


「そうだ。あの、これを」


 美琴は懐に仕舞った手鏡を取り出した。


「祝いの品をいただきました。鷹也さんとはそれきりで……」


「───美琴っ、今すぐそれを放せ!」


(え⁉)


 紫珱は叫ぶと同時に手を伸ばし美琴の手元から鏡を払い落とした。

 じんわりとした痛みが美琴の指先に残る。

 美琴は動揺した。なぜ紫珱がこんなことをするのか。

 向けられた双眸に恐ろしくなり、目を逸らして落ちた鏡を見ると、なぜか鏡は畳の上でくるくると回転している。

 とても不自然な動きだった。


「離れろ美琴!」


 紫珱は美琴へ腕を伸ばした。

 美琴は鏡に手を伸ばしていた。


「それに触るなッ!」


 紫珱の手が美琴に触れるよりそれは速かった。抱き寄せるために伸ばした腕は美琴に触れる直前で何かに阻まれた。

 鏡が影を放ち風を巻き起こした。

 影は形を変え、細かな紙吹雪のようになって紫珱の視界を遮る。

「ラセツ!」

 紫珱は使役する精霊を呼んだ。

 ラセツはすぐに現れたが、勢いを増していく風と広がりを見せる影が美琴の姿を覆い隠そうとしていた。

 そして黒い吹雪は刃となって紫珱を攻撃し傷つけた。

「紫珱様っ」

 ラセツが叫んだ。

「俺のことより美琴を!」


 追わなければと必死にもがく。

 あちこちに傷を負い血が滴っているのがわかる。

 体勢の崩れた紫珱を支えながらラセツは言った。


「美琴さまの姿が……。これ以上、追うことはできません」


 閉ざされた闇の向こうに美琴は消えた。

 それまで吹いていた風が嘘のように止み、後に残ったものはひらひらと舞い落ちる細かな灰色が、まるで雪のように溶けていくだけだった。