♢♢♢


(紫珱さまはなぜ嘘をついたんだろう)

 きっとなにか理由があるはずだからと自分に言い聞かせても、もやもやとした気持ちが残る。

 紫珱が帰るまで待っていたい。帰宅は明け方になるだろうけれど。

 そう思ってはいても、気付けばうたた寝しかけてハッとなり、目が覚めることの繰り返しだった。

 怪我のことも心配だった。

 霊力が完全に戻っていないから、体力は消耗しているだろうとラセツは言っていた。

 霊力が完全だったら。

 真の目覚めを促す『朱の葩印』にもっと早く触れていたなら。

 紫珱は怪我を負うことなどなかったのではないだろうか。


 同じ部屋で寝ていても、紫珱はまだ美琴の葩印に触れてこない。

 怯えて泣きそうになってしまう自分のことを思って気遣ってくれているのだ。

 以前より慣れてきたとはいえ、紫珱に対しての緊張や恐怖心が消えたわけではない。

 ───そういう私の想い、伝わってしまっているのかな……。

 なんだかとても申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 嘘をつかれたのは私が頼りなくて臆病だから。

 こんな自分ではダメだ。もっと自覚を持たなければ。

 紫珱さまの伴侶になるのだから。

 紫珱さまにもっと言霊を伝えてあげなければ。

 霊獣の選定者として。



 ───あんたが二番目の選定者?

 訪ねてきた貴族の青年が自分を見つめながら言った言葉を思い出す。


 ───亡霊女が最初の選定者に似てるとか似てないとか。それで必死になってるらしいけど。


 あれは聞き違いではない、だとしたらその意味は?


 墓地で遭遇した亡霊の姿が脳裏にチラつく。


 亡霊とはいえ容姿は美しかった。漆黒の中に銀色が混ざった不思議な髪色をしていた。


 あの亡霊は誰で、紫珱さまとどんな関係があるのだろう。

 瞼が重い。眠ったら怖い夢を見そうな気がする。



 ───「教えてあげようか………」


 どこか遠くから声が聞こえ、また我に返る。


 ───「霊獣がなぜ嘘をついたのか」


 微睡みの中で聴こえたその声は、あの貴族のものではないが、どこかで聞いたことのある声だと思った。

 (でも思い出せない……)

 両目にチクリとした痛みを感じ、かすむ視界の先にぼんやりと何かが見える。


(誰?)


 人の形だと思うのに、それはぼやけていた。

 気付けば辺りは灰色だけの世界となっていて、見慣れた部屋は消えていた。

 夢を見ているのだろうか。───きっとそう、これは夢だ。

 だとしたら起きなければ。紫珱さまが帰ったら聞きたいことがあるのだ。


 ───「霊獣がなぜ嘘をついたか知りたい?」


 男性と女性の入り混じったような声が響いた。


(誰なの?)


 不気味な声など無視して早く目覚めた方がいいと思いながらも、知りたいという欲望が心の中で声となった。


(何を知っているの?)


 ───「あいつは最愛の者を取り戻したいんだ。君を伴侶になどとは考えていないんだよ」


(そんなの嘘よ)



 ───「あいつは君に嘘をつき、騙している。霊獣は君を犠牲にして最初の選定者を蘇らせたいんだ。亡霊となってしまった本当の妻をね」



(あの亡霊が紫珱さまの……? そんなこと……わたし、信じない)


───「貴族を信じてはいけない。君は幸せにはなれない。不幸になるだけ。あの獣を信じてはいけない。早く逃げるんだ、その場所から───」


 霞む視界の先に見えていたものが形を成す。


 黒と銀の髪色をした女性が美琴の前に立っていた。


 その顔には微笑みが浮かんでいるけれど。

 なぜだかとても恐ろしいと感じた。


 女は美琴に右手を伸ばした。


 その甲にうっすらと浮き上がる朱色。


 ───「返してくださいませ、私の……」


(来ないで!)


 あの手に触れられたくない、目の前の者から逃れたいという強い思いが勝ったのだろうか。


 ガクンと身体が傾くのと同時に目が覚めた。


 見回せばそこは見慣れた居間だった。


 囲炉裏で暖まった空気が柔らかく包む部屋の中だ。


(やっぱり夢だった……)


 ホッとしたのも束の間。

 コトン、と小さな音が聞こえた。


 それは収納部屋として使っている隣の部屋からだった。



 ♢♢♢


 美琴の家を眼下に捉え、紫珱が下降しようとしたとき、ふわりと目前にラセツが現れた。


「どうした、ラセツ」


 いつになく思い詰めた表情のラセツが気になった。


「紫珱さまが出かけられてすぐ、北の貴族だという青年が尋ねてきました」


「貴族が?」


「はい。紫珱さまが依頼もなく亡霊狩りをしていたことや、紫珱さまが傷を負ったこと。それから美琴さまに向かって二番目の選定者などという言葉を発して……」


「なんだと?」


 紫珱は顔を顰めた。


「私がお傍にいながら申し訳ございません。貴族は美琴さまが何も知らされていないことが判るとすぐに帰っていきましたが。美琴さまはいろいろと気にしている様子でした。今宵はまだ眠らずに紫珱さまを待っています」


「……そうか。ラセツは気にするな。美琴に黙っていた俺が悪いんだ。美琴には全部話すよ」


 ラセツは頷き姿を消し、紫珱は美琴が待つ屋敷へと下降した。


 ♢♢♢


 
 美琴が音の聞こえた収納部屋へ入ると、床に蓋の開いた小箱とその中に入っていた手鏡が落ちていた。

 物音の正体はこれなのか。

 棚の上に乗せておいたはずなのに。どうして落ちたんだろう。

 そういえば。あの声、鷹也さんの声に似てたような……。

 美琴は首を振った。

 違う、気のせいよ。

 不安と心配で、きっとあんな夢をみてしまったのだ。


 美琴が手鏡を箱の中へ戻そうと拾い上げたそのとき、

「───ただいま」


 玄関から紫珱の声が聞こえた。

 
 思っていたよりも随分と早い帰宅に美琴は驚き慌てて、咄嗟に手鏡を懐へと仕舞い、小箱は棚へ戻し玄関へ向かった。


 ♢♢♢


「ただいま」と言って人の姿に戻った紫珱が戸を開けると、驚いた顔の美琴が奥の部屋から現れた。


「……おかえりなさいませ」


 暖かな部屋の空気が紫珱を包み、身体に着いた粉雪を溶かしていく。


「濡れてますね。なにか拭くものでも」


「いらぬ。それより」


 紫珱は居間に入ると美琴へ向いた。


「話がしたい」


 こう言って腰を下ろしたので、美琴も頷き紫珱の前に座った。


「外でラセツに聞いた。貴族が尋ねて来たそうだな」


「はい……」


 美琴は困ったような顔になり紫珱から視線を外した。


 尋ねたいことがあるのに。

 頭の中はまだ動揺していて、言葉に出せそうになかった。


「貴族は何をおまえに言った」


「紫珱さまには亡霊狩りの協力依頼などしていないと……」


「それから?」


「あの……怪我は大丈夫なのですか?」


「たいしたことはない。ほかに何か言われてるか?」



 美琴はためらった。


 聞いていいんだろうか。わたしが二番目の選定者だという意味を。

 知りたい。でも聞きたくない。そんな混沌とした矛盾が胸の内にある。


「謝る方が先だな……」


 黙り込んでしまった美琴の前で、紫珱がぼそりと呟いた。


「美琴。嘘をついていて悪かった。ごめんな」


 優しい声と真摯な眼差しを向けられ、美琴の迷いは消えた。


「紫珱さま。わたしが二番目の選定者というのはどういうことですか。それから紫珱さまが亡霊を追っているのは最初の選定者に似ているからって……」


「貴族が言ったのだな」


「本当なのですか?」


「美琴。聞いてくれ……俺は三年前に……」


 ───ゆっくりと。

 紫珱は語り始めた。