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 霊獣の姿で宿場街の上空を翔けているときだった。


「苦戦しているようだな、紫珱」


 背中に届いたその声に振り返ると、眼の色以外は自分にそっくりな銀色の霊獣の姿があった。

 紫珱は無言で下降し、目に付いた建物の屋根に降りると、霊獣もその後に続いた。


「紅嵐が心配していたぞ。私の妻も気にしているようなので来た。見に来ただけだがね。手は貸さないからな。関わって私の大事な妻、紗由良(さゆら)を危険な目に合わせるわけにはいかない」


「ああ、わかってるさ。羽矢斗(ハヤト)


 羽矢斗と呼ばれた霊獣は美しい翡翠色の瞳を笑むように細めた。

 羽矢斗は沙英の街を含む東方の地を治める霊獣(領主)だ。


「収穫は全く無しか?」

 羽矢斗が尋ねた。


「そうでもない。昨夜接触したあれは前日まで彷徨っていた亡霊とは違った。明らかに殺意と闘意を持っていたし妖影の気配がしていた」


「ならばそれは傀儡だな。屍は妖魔が操っていると考えられる」


「朱の葩印があったんだ。屍には霊力が残っているのかもしれない」


「残っていた、と言うべきだな。所詮は屍、いつかは朽ちる。そのときそれの弟とやらがどう出るかが問題だな。……いや、すでに弟の魂も妖魔に乗っ取られているんじゃないのか?」


「トウヤと言う名の弟の所在が判ればいいんだが」


「名前を偽り身を隠しているのだろうが。この沙英にいることは確かだな」


「なぜわかる?」


 言い切る羽矢斗に紫珱は尋ねた。


「北方の貴族がうろついてる。ちょうどおまえが嫁さんを選んだ頃からだ」


「紅嵐が俺に言った。北方の連中が三年前からずっとトウヤを捜していると。彼は〈はじき者〉かもしれないと」


「はじき者か。嫌な言葉だ」


「莉乃の亡霊は美琴の髪の毛を握っていた。幻惑を見せられたのか、それとも本物なのかはわからないが……」


「髪、ねぇ。おまえの知らないところで嫁さんと何者かの接触があったということか?」


「わからん」


「だが身近にいる者たちに妖魔の気配はないんだろ? 相手に警戒心を抱かせず髪の毛を盗ったとなると、よほど親しい間柄なのかな……?」


「知らんっ」


 羽矢斗の言葉に紫珱は苛立った様子で声を上げ鼻息を荒げた。


「まあまあ、そう怒るな。霊獣のやきもちなんてみっともないぞ。友達程度の関係かもしれないだろ。───ああ、ほら雪が降り出してきた」


 羽矢斗が空を見つめながら言った。


「紫珱、おまえ今夜はもう帰れ。今晩だけ私が偵察してやるから」


「手は貸さないんじゃなかったのか」


「早く帰って治した方がいい。その傷も弱っている心も」


「弱ってなどいない」


「たまには兄の言うことをきけよ」


「あんたと兄弟になった覚えはない」


 同じ台詞を前に紅嵐にも言ったなと紫珱は思い出しながらため息をつく。


「毎晩留守にして嫁さんを一人にするのはよくない。何かあったらどうする。今回の件もそうだが、おまえ話してあるのか? 自害している最初の選定者のこと」


 黙ったままの紫珱を見つめながら羽矢斗は言葉を続けた。


「話しておいた方がいい。せっかく言霊を得られたんだ、嫁さんとたくさん話せよ。交友関係や誰かと会っていたかくらい聞いてもいいんじゃないか」


「羽矢斗は思ったことないのか?」


「なにを?」


「選定者が……霊獣に選ばれた娘が不幸ではないかと。勝手に選ばれて……本当は伴侶になどなりたくはなかったと思っているんじゃないかって……」


 ───ああ、まただ。


 恐怖と絶望の眼差し。莉乃のそれが美琴の表情と重なる。


 自分の存在は命を絶つほどに受け入れがたいものだったのか。


「紫珱」


 声と共に頭の上に手が置かれたのを感じて紫珱は我に返った。


 見上げると人に変化した羽矢斗が傍らに立っていた。

 その眼差しを天から舞い降りる雪に向け、羽矢斗は静かに言った。


「俺たちの選定は確かに身勝手なものだ。でもな、信じろよ、紫珱。嫁さんと自分のこともな。だって今の嫁さんはちゃんとおまえの傍にいるだろ」


 頷いた紫珱に羽矢斗は微笑んだ。


「打ち明けてみろよ、三年前のこと」


 話したら。美琴はどう思い、どう感じ、そしてどんな言霊を俺にくれるだろうか。


「───まあ、悩むことも経験だな。みんな同じさ。私だって紗由良と出逢って間もない頃は苦労したもんだ」


 こう言って、羽矢斗はわさわさと紫珱の頭をやや乱暴に撫でた。


「あ、ほーら見ろ。さっさと帰らないから、なんか向こうから厄介な奴らがこっちに来るぞ。私は一旦、姿を眩まして亡霊捜索に出てやるから。いいか、おまえはあいつらの説教をちゃんと聞いて、今夜の狩りは我慢して帰れよ。じゃあな」


 羽矢斗は霊獣の姿に戻るや否や、暗闇の中へ消えた。


 紫珱が前方に目を凝らすと、雲蛇に乗りこちらへ向かってくる者たちの姿が見えた。

 あれは北方の領主に仕える貴族だ。

 彼等は少し離れた位置で空中に留まり、紫珱を見下ろした。

 人数は五人。


「傷を負った身で懲りない方ですね」


 こう言いながら一人の男が雲蛇から屋根に立つ紫珱の前に降りた。


「私は慶秦(けいしん)と申します。西方の紫珱殿、此度の一件は北地の一族が預かり受けることとなりました。黎彩(皇都)からの勅令です」


「だから手を引けと?」


「再三申し上げたはずですが」


「トウヤという者はおまえたちの縁者なのか」


「一族の内情にあまり深入りされない方が賢明かと」


「どういう意味だ」


「ではあなたはなぜあの亡霊にこだわるのです? 新しい選定者は見つかったのでしょう? こちらの内情を知りたいのなら、あなたの理由も聞かせてもらいますが」


 紫珱はしばらく逡巡していたが慶秦に打ち明けた。



「美琴が……俺の選定者が一度どこかでトウヤと接触しているかもしれない。髪を奪われた。亡霊が持っているのを見た」


「花嫁が狙われているかもしれないのなら、早く戻って傍で護っていた方がいいのではありませんか」


「美琴を狙う理由が知りたい。今宵は帰るが亡霊狩りの協力はさせてほしい」


「私だけの判断で返答はできません。一族の長に相談はしてみますが。……しかしよいのですか? 狩りを続けることで、あなたの花嫁の身を危険にさらすことになるのでは?」


「花嫁の安全を優先させる。美琴は俺が必ず護る」


 眉を顰めていた慶秦だったが、気迫のこもる紫珱の声と表情に渋顔で頷いた。


「───わかりました。長に伝えます」


 慶秦は紫珱に向かい頭を下げると再び雲蛇で宙に昇り、空で待機していた仲間たちと共に離れて行った。