湯上りの紫珱はおやつの揚げ菓子と薄荷のお茶で一息つくと、また少し眠るからと言って横になった。

 美琴は夕餉の支度にとりかかり、用意ができると紫珱に声をかけた。


 貴重とも思える二人だけの時間だったが、あまり会話も弾まないうちに紫珱を見送る時間になってしまった。


「行ってくる」


 ゆっくりお風呂に浸かって、たくさん食べたはずなのに。

 精彩に欠けるのは疲労が蓄積されているからだろうか。

 一晩だけでもゆっくりと眠らせてあげることができたらいいのに。

 何か言いたげに見上げた美琴の頭に、紫珱は優しく手を置いた。


「そんな顔されたら行けなくなる」


「……心配です。紫珱さま、とても疲れているみたいで」


「大丈夫だ。美琴がちゃんとここにいてくれるから出かけられる」


 頭を撫でる手が耳の後ろへ下りて唇に触れた。


 紫珱はゆっくりとそこに顔を寄せ、美琴に口づける。


 その手も唇の感触も。一瞬ですぐに離れ、空へと遠のく。

 紫珱の姿は白銀の毛並みと虹色の光沢に包まれ、煌めきながら闇の彼方へと消えた。


(行ってらっしゃいも言えなかった)

 しばらく立ち尽くしていた美琴だったが、冷たい風に身震いし家の中へ入ろうとしたそのときだった。



「────なんだ。行き違いか」


 舌打ちに苛立った声。

 振り向いた美琴の前に一人の青年が空から降り立った。


 足元を覆っていた白い煙のような帯がゆっくりと消えていく。


(あれは雲蛇。あの人は誰だろう)


「追っかけんの面倒くせーな」


 前髪をかきあげながら青年は呟いた。


「まぁ……いいか」


 黒髪を後ろで束ね、藍色の装束を纏った青年が、真っ直ぐに美琴を見つめた。

 歩みを寄せる青年と美琴の間にラセツが姿を現した。


「──なんだよ精霊」


 青年は立ち止まりラセツを睨みながら言った。


「べつに何もしやしねぇよ。霊獣に文句言いに来ただけなんだから。行き違いになっちまったけど。そこどけ」


 無言のまま動こうとしないラセツに青年は苛立った様子で言った。


「嘘ついてどうすんだよ。これでも北の貴族だ。誓って乱暴はしない!」


 少しして、ラセツは美琴へ振り向き、頭を下げると消えてしまった。


 青年は美琴をじっと眺めてから言った。


「ふぅん、あんたが二番目の選定者?」


(───にばんめ……?)


「あんたの旦那に言っといてくれよ。亡霊狩りの邪魔するなって。俺たちは晶珂の霊獣に協力なんて頼んでないのにさ、邪魔なんだよね。昨夜(ゆうべ)だってせっかく追い詰めて、あと少しってときに割り込んで来て逃げられるし」


 美琴は驚きながら口を開いた。


「頼んでないなんて、そんなことありません。亡霊狩りに協力してほしいと頼まれたって、紫珱さま言ってましたもの」


「嘘でしょ、それ」


「そんな……」


「亡霊女が最初の選定者に似てるとか似てないとか。それで必死になってるらしいけど」


「最初の選定者……ってなんですか?」


「その辺のこと俺は詳しくねぇからあれだけど。手負いの霊獣に手伝ってもらうほど人手不足でもないんでね」


「手負い……⁉ まさか紫珱さまは怪我を?」


「なんだよ、もしかしてあんた何も聞かされてねぇの?」


 青年は気まずい表情で小さく息を吐き美琴から視線を外すと、雲蛇をどこからともなく湧き起こし、空高く舞い上がった。


「ぁ、待って!」


 呼び止めた美琴の声に応えることなく、青年はあっという間に暗闇の向こうへ消えた。


「どういうことなの……いったい」


 頭の中が混乱している。でも一つだけ判るのは紫珱が嘘をついたということ。


「ラセツさん」


 紫珱の〈使い〉である精霊の名を美琴は呼んだ。


「紫珱さまは嘘をついたのですか? どういうことなのか教えてください」


「申し訳ありません」


 ラセツは姿を現さず、声だけが美琴の耳に届いた。


「紫珱さまに直接聞く方がよろしいかと」


「怪我は? 身体は大丈夫なんですか?」


「掠り傷だと言っていましたが。霊力が完全に戻っていないので、体力は消耗しているはずです」


「心配です……。ラセツさん、お願いです。紫珱さまを連れ戻してきてください」


「私は紫珱さまの留守にあなたを護るようにと言われています」


「でも……」


「私の主は紫珱さまです。勝手に動くことはできません」


 美琴はこれ以上話すのをやめた。


 いつしか冷たい夜風の中に雪が舞いはじめた。