冬は嫌いだった。
寒くて暗くて寂しい季節だから。
そしてあの日を思い出すから。
あの日は細かな雪が舞っていた───。
成人の年を迎え、両親から西の領地《晶珂》の守護を継いでから一年後、紫珱は探していた『声』を北の大地でみつけた。
彼女は確かに自分の〈呼び声〉に答えた者だった。
戸惑う彼女に名を聞こうとして地上に降りた紫珱を前に、彼女の目に浮かんだのは恐怖と絶望だった。
そして嘆きの言葉が発せられ悲鳴が響いた。
いったい何が起こったのか紫珱には判らなかった。
───なぜ?
目の前で染まる紅。
血飛沫くそれは赤い花びらのように……。
雪と溶け合い積もる地面を赤く染め続けた。
紫珱の選定の儀は、選ばれし者との出逢いは一瞬にして悲惨な結末となった。
(忘れることなどできるわけがない)
呼び声に応えてくれた者のことを。妻に迎えるはずだった娘のことを。
けれど彼女はそうなる前に自害した。
紫珱の目の前で。
選定者が亡くなったと同時に紫珱の得た言霊も消えた。
なんの実感も得られないまま失った言霊。そして妻。
己を見失いかけ、ラセツに促されるまま逃げるように西の地へ帰還した。
───辛いだろうが、今は耐えるしかない。おまえに応えてくれる者は必ずいるのだから。
事情を知った両親の慰めと言葉に、そのときの紫珱は頷くしかなかった。
♢♢♢
後の調べで彼女が莉乃という名であったことを知った。
莉乃はあの頃、恋人を病で亡くしたばかりだった。
恋人の死がきっかけで家に閉じこもりがちになり、誰にも笑顔をみせなくなっていたという。
家族は両親と弟。
あのとき、その弟らしき少年が莉乃に駆け寄り抱きしめ、その凄惨な様に肩を震わせながらこちらに向けた眼差しが今も脳裏に焼き付いている。
怒りの双眸で紫珱を見つめていた。
その少年───トウヤという名の弟のことも気がかりだった。
彩陽国で自害は禁忌だ。妖魔に憑かれた者の行為としてみなされ、葬儀をあげることも許されず、遺体はすぐに王都へ運び闇祓いの儀式が行われる。
その内容は塵と化すまでその屍を焼き尽くすというものだ。
けれど王都へ運ぶ前に莉乃の遺体は消えた、弟と共に。
家には殺害された父親と母親の屍があったという。
両親の遺体には邪鬼の瘴気が移っていて、妖魔が関わっている事件となった。
それから三年。
この前、黎彩の使いとして来た穂奈美を追ってやってきた紅嵐が紫珱に告げた。
───「三年前のあれ、北方の貴族がいまだに必死になって捜してるって話だぞ。あの弟、もしかすると『はじき者』かもな」
貴族の中には雲蛇を使う力や精霊を使役する力、そして霊獣と会話するなどの霊力を全く持たない者が稀に生まれる。
傍系であっても僅かな異能は必ずあるはずなのだが。
そういった霊力を何も受け継がずに産まれた者は、庶民の家に里子に出される。
はじき者は『一族からはじかれる者』という意味もあった。
莉乃の弟だと思っていたトウヤは貴族の出生なのだろうか。
莉乃とは血の繋がらない弟だったのだろうか。
もしも、行方知れずだったトウヤが莉乃の亡霊を操っているのだとしたら。
異能を持たない者が出来る技ではない。おそらく妖魔の類に憑かれているのだろう。
あのとき。美琴と墓参りに行った日。
莉乃と墓地で向かい合ったとき。
彼女の唇から微かに発せられた言葉を紫珱は思い返す。
────「……あのときの続きを。もう一度……わたくしに証を……与えてくださいませ」
(……そんなものはない)
死人となっている彼女に与える証などない。
自分の選定者は美琴に決まったのだ。
やっと美琴と出逢ったのだ。
控えめだが、最近ようやく笑顔を向けてくれるようにもなった。
(失いたくない。もう二度と……)
大切にしたい。愛したい。今度こそ……。
昨晩、脇腹の辺りに負った傷のことを知られたら美琴はきっと心配する。
白銀の毛に付いた血痕に気付かれないように振舞った。
風呂場で人の姿に変わると血は止まっていた。
霊獣は人より治癒力が高いから傷もそのうち浅くなっていくはずだ。
お湯が傷にしみるが身体が温まっていくと気持ちも落ち着き、昨晩のことを冷静に考えようとする。
昨夜、莉乃の亡霊は紫珱に向けて右手を伸ばした。そこには淡く浮きたつ朱の葩印の痕がまだ残っていた。けれどそれよりも驚いたものが紫珱には見えた。
その指先に絡まるように巻き付いていた細い糸のようなものがふわりと風に舞ったのだ。
その蜂蜜色に紫珱は目を見張った。
(あれは髪の毛か?……あの色、まさか美琴の⁉)
動揺が隙となり近付いた莉乃が紫珱の胸元をめがけて刃物を振り下ろした。
瞬時に避けたが鋭い刃先は脇腹を掠め、莉乃と思しき亡霊は取り逃がした。
あれはただの幻惑か。
それとも本当に美琴の髪なのか?
ならばいつどこで、いったい誰に奪われたというのか。
焦りと不安が紫珱の中で渦巻いていた。