『女の亡霊』が目撃されるようになると、すぐに巡視所から夜間外出禁止令が出され、騒動は貴族の預かる事件となった。



「美琴。俺は明日から朝餉はとらない」


 墓参りに行った翌日の晩。夕食後、紫珱の言葉に美琴はお茶を淹れる手を止め、驚いた顔で聞き返した。


「朝ご飯食べないんですか?」


「ああ。この街の貴族から依頼されてな。今夜から亡霊狩りを手伝うことになった」


(依頼が? いつ来たのだろう)


「今夜からですか」


(そうかそれで今夜はお酒を控えたのか)


 いつもならもうこの時間はほろ酔いの紫珱なのだ。


「帰りは明け方だ。すぐに寝るから朝餉はいらない。昼飯もとるかわからんな。だがおやつは食べるから。なにか用意しておいてくれ。その頃になっても起きなかったら起こしてくれよ」


「はい。───紫珱さま、どうかお気をつけて」


「貴族も霊獣も魔物(妖魔)を狩るのは慣れている。そんな顔をするな、何も心配ない」


「はい……」


 ───でも、と美琴は心の中で思う。

 紫珱の霊力は半減状態。目覚めの封印は解かれていない。

 朱の葩印に触れるという儀式がまだ為されていないせいで。


 あのとき、墓地で女の霊を前にして感じた紫珱の動揺。

 いつにも増して不鮮明で、儚く見えてしまった姿に美琴はとても不安を感じた。


「捜査に協力するだけだ。狩るのは『沙英』の貴族たちだ。しばらく一緒に食事をする時間はとれないが、おやつと夕餉は一緒だ。今日も美味かったぞ」


「お口にあいましたか? 紫珱さまはどんな料理が好きですか?」


「美琴が作るものはどれも好きだ。今朝の玉子焼きも昼餉の煮物も夕餉の魚料理も美味かった。おやつに食べた甘い麺麭(パン)も香ばしく焼けていて、ほのかに甘くて絶品だった。美琴は料理が上手いんだな」


「いえ、そんなに凝った料理でもないんですよ……」


 面と向かって褒められるのは気恥ずかしいが嬉しくもある。

 もっと腕を上げようと思った。


「明日も美味しいって言ってもらえるように頑張って作りますね」


「うん。そろそろ時間だ。行ってくる」


「え、もう?」


 お茶を飲み終え、紫珱は立ち上がった。

 霊獣の姿になって玄関へと向かう紫珱の後を美琴は慌てて追いかけた。


「なにか困ったことが起きたらラセツを呼べ。それから昼間でも外に出るときは必ずリンと一緒にな。では行ってくる」

 白銀の体躯がふわりと宙に浮かんだ。

 美琴を見下ろす眼が闇夜の中で少しずつ鋭さを増しているように見えた。


「行ってらっしゃいませ」


 やがて霊獣の姿は天高く上り、一陣の風と共にその姿は掻き消えた。


 ♢♢♢


 数日後。沙英の街に滞在できる十日間という約束も半分が過ぎ、残り五日となった。

 この五日間で私物整理も荷造りも一段落し、先日は街の仕立て屋から花嫁衣裳の仮縫いのために店主とお針子が美琴の家を訪ねた。

 衣裳は当日まで秘密だと言われ見ることはできなかったが、丈は腰で調節できるからと言われ、肩幅と袖丈だけを測っていった。


 紫珱たちの亡霊(妖魔)狩りは難航しているらしい。

 紫珱は多くを語らないが疲労が増しているのは確かな様子だった。

 この数日は夜半に強い風が吹いている。そんな中での捜索は体力を消耗させるに違いない。

 夕ご飯の食材は身体を温めるものを使って何か作ろう。

 早めに湯を焚いてお風呂の支度もしよう。少しでも疲れが取れるように。

 それからおやつは何にしようか。

 あれこれ考えながら楽しい気持ちになっている自分に気付いた。

 紫珱に対する気持ちは明らかに最初の頃とは違っている。

 会話は少ないが気まずい思いは薄れ、以前よりも打ち解けたと感じられるのは、紫珱がいつも優しく自分を見つめてくれるからだろうか。

 出逢ったばかりの頃、怖いと感じていた威圧感のある眼差しも、今はそれほど気にならなくなっている。

 このまえの晩、優しくも深い口づけを受け入れてからは更に、紫珱に対する想いは変化している。

 紫珱のことを考えながら行動することがなんだか楽しくて。

 嬉しくて幸せな気持ちになる。


(お嫁さんになるって、こんな感じなのかな)


 喜んでもらいたい。

 たくさん食べてほしい。

 元気をあげたい。

 少しでも休まる場所を与えてあげたい。

 こういう気持ちがたくさん増えていったら、儀式は成功するだろうか。

 紫珱を真の目覚めに導くことが。

 美琴の中に紫珱に対する特別な感情が芽生えていた。


 ♢♢♢



 その日のおやつは煮豆入りの揚げ菓子を作った。

 小麦粉に卵、砂糖などを加えて練ったところに豆を混ぜ、小さく丸めて油で揚げる。

 甘く香ばしい匂いが部屋中に漂う。

 いつもならこの時間になると紫珱は起きていて、居間でぼんやりと過ごしているのだが。

 今日は寝室にしている奥の部屋の前で声をかけても返事がない。

 美琴は部屋の戸を軽く叩いた。

「紫珱さま、入りますよ?」

 返事がないまま美琴は戸を開けて中を覗いた。


 霊獣(紫珱)は布団の上でまだ眠っていた。

 その姿に起こすのを躊躇う。もう少し眠らせてあげたいと思ってしまうのだが、時間厳守だと言われていた。

 お風呂にもゆっくり入ってほしい。


「紫珱さま、そろそろおやつの時間ですよ」


 美琴が優しく獣の耳にささやくと、霊獣の髭がピクリと震えた。


「お風呂も沸いてますから。起きてください」


「ン……」


 小さく返事をして霊獣は眼を開けた。

 青紫の瞳が美琴を見つめる。

「もうそんな時間か。しかしおまえの声で目覚めるのはとても気分が良いものだな。今日は先に風呂へ入るとしよう。おやつはそれからだ。湯上りには薄荷の香りのするお茶が飲みたいな」


「わかりました。用意しておきますから、ゆっくり浸かってよく温まってくださいね」


 美琴が部屋を出て行くまで紫珱はその身体を起こそうとしなかった。

 気付かれないようにやり過ごす。

 美琴が行ってから霊獣は傷に疼く体躯を起こした。


 ♢♢♢


 それまで貴族たちの包囲網をことごとく搔い潜っていた亡霊が昨夜は違った。

 明らかに紫珱を挑発するように動いた。


(罠か?)

 紫珱は危険を承知で接触を試みた。

 怪我は心の隙が招いた結果だ。

 あの日、美琴と共に墓参りに行った日から幾度も見間違いであってほしいと思っていたのだが。

 亡霊の顔を間近にし、それは確信に変わった。


(ああ……彼女だ)



 亡霊は紫珱の目の前で笑みながら右手を伸ばした。


 その手の甲にうっすらと浮き上がる朱色の葩印を目にして、紫珱は動揺し一瞬の隙を突かれた。



(莉乃……。あの亡霊はやはり……)


 遠い日の記憶は痛みと共に紫珱の奥深くに残されていた。