目覚めると見慣れた天井があった。

 自分の部屋だと気付き、美琴は安堵した。

 きっと全てが夢だったのだ。

 霊獣が現れたことも、自分の容姿が変わってしまったことも。

 全部、悪い夢だと思ってみたのだが。


「気付いたか?」


 紫珱と名乗った霊獣の声が、夢ではなかったことを確信させた。


「気分はどうだ?」


 ───さ、最悪です……。


 こう思いながら美琴は声のする方へ向こうと思ったが、ひどく頭が重い。

 全身が怠く、熱まであるような気がする。

 起き上がろうにも身体が思うように動かない。


「今はまだ静かに寝ていたほうがいい。俺がおまえに授けた霊力がまだ身体に馴染んでいないのだ」


(霊力?)


 起き上がろうと身を捩った美琴を制するように、紫珱が真上から見つめてきた。


 その顔は霊獣ではなく人の顔をしていた。

 霊獣のときと同じ青紫で中心が金色の目がじっとこちらを見ている。

 美琴の頬にさらりと触れた髪は白銀。そして秀麗な面差し。

 けれどこちらを見つめる瞳には威圧感が漂う。


(やっぱり怖い!)


 美琴はぎゅっと目を閉じた。


 少しして、溜め息のような微かな吐息と一緒に、紫珱が離れる気配を感じて。


 美琴はそっと目をあけた。


 そしてゆっくりと首を巡らせて彼に問う。


「それが、人の形となったときの姿なのですか?」


「ああ。だが今はまだ長く保てない」


 どういう意味なのかよくわからなかったのだが。

 紫珱の全身が、何かとても薄い膜に包まれているように美琴には視えた。


 紫珱の纏う浅葱色の装束が、時折ぼんやりと霞むような感じに視える。


「美琴、俺は『選定の儀式』を終えたことを報せに、これから黎彩(れいさい)へ行かなければならない」


 黎彩は彩陽国の中心でもある皇都だ。


「その後、俺が守護する西の彩都『晶珂(しょうか)』へも一度戻る」


 西の彩都。ずいぶん遠い。……あれ?


 今、守護するとか言いました⁉


「あの、守護って」


「西彩都《晶珂》は俺が治めている領地だ」


 それって。……つまりは領主。


 たとえ地方でも領地を治める者は皆、皇家に繋がりのある者たちだ。


 霊獣の血を継ぐ眷属が統治する、この彩陽国で。

〈貴族〉と呼ばれる尊き血筋。


 けれど貴族にも様々で、霊獣の身体に変幻しない者もいると聞いたことがある。


 そうかと思えば、紫珱のように霊獣に変幻できる者は稀だとも聞いていた。


 そして変幻できる貴族は皇家の直系。できない貴族は傍系扱い。


 そんな噂も聞いている。


 しかしどれも美琴にとっては一生関わることのない話だと思っていたのに。


「近々、黎彩からここへ使いが来るだろう。俺もなるべく早く戻るつもりだが……」


 紫珱はまだ何か言いたげな様子だったが、吹っ切るように一呼吸おいてから言った。


「人を呼んでくる」


「呼ぶって……。貴族以外の者とは喋れないのでは?」


「確かに、霊獣は人外。その直系は貴族以外の者とは言葉が交わせない。だが『選ばれし者』から言霊の力を分けてもらえるのだ。美琴が俺の言霊を受け、そして返したときに力は宿った。……だが、まだまだ少ない。美琴とはたくさん喋れるが、他の人間とは片言になるだろう」


 初めて聞いたそんな事情に、美琴は戸惑うばかりだった。

 薄紫の丸い瞳をぱちぱちさせる美琴の様子を見て、紫珱は微笑した。


「片言は時間の問題だ。美琴とたくさん心を通わせることで俺は普通に喋れるようになる。だから早くもっと欲しい、美琴の言霊が」

 こう言って紫珱は少しだけ、美琴に顔を近付けた。


「それにはもっとたくさん触れ合うことも大切なんだが」


 青紫の中に金色がある、不思議だけど美しい紫珱の瞳が。その視線が、真っ直ぐに美琴へと注がれた。


(ちっ、近いです!)


 思考もろとも固まる美琴を前に、紫珱は微笑んだ。


 そしてゆっくりと、紫珱の手が美琴の頬に触れた。


 その行動と、指先の冷たい感触に美琴は驚いて身を縮ませ、キュッと目をつむる。


「まだ少し熱があるな」


 溜め息と共に手が離れたので、美琴はホッとして目をあけることができた。


「あまり無理はするなよ」


 立ち上がりながらこう言って、憂いを帯びた眼差しを美琴に向けた後、紫珱は部屋を出て行った。



 び……


 びっ……


 びっくりしたっ!



 熱が余計に上がったと美琴は思った。



 ♢♢♢


 しばらくして、真紀乃が顔を出した。


 身体を起こして迎えた美琴に、真紀乃は心配そうに聞いた。


「まだ顔色が悪いよ。起きて大丈夫かい?」


「女将さん、わたし鷹也さんに……」


 会う約束をしていた見合い相手のことが、ずっと気になっていた。


「そのことなら、使いを出しといたから。霊獣の件は伏せといたけどね。今日会う約束は断ったから。体調を悪くしたって伝えておいたよ」


「すみません」


「謝ることでもないだろう。それより驚いたねぇ。まさか霊獣さまが現れるなんて思わなかったよ。しかも人に化けて片言を喋るなんて!長生きはするもんだねぇ」


 霊獣や貴族たちとは禍闇(まがやみ)に潜む魔物や魍魎など妖の類が人を惑わし害を及ぼすという事件でも起こらない限り、まず出逢うことはない。


 美琴の暮らす街《沙英》は皇都である黎彩からは遠く東方に位置していたが、妖魔絡みの事件など起きたことのない平穏な街だった。


「それにしても突然だねぇ。霊獣の嫁選びにあんたが当たっちまうなんて」


 真紀乃は溜め息をついた。


「選ばれることはとても名誉なことだけど……。娘が突然、勝手に遠くへ連れて行かれるようでね、なんだか腹が立つったらないよ。そりゃあ、あの方々のおかげで、私らは豊かな国で無事に暮らしているけどさ」


 遥か昔から、彩陽国の大地を守護している霊獣たち。

 その血を継ぐ眷属の申し出を断ることは重罪だ。

 そして言霊を交わし縁を結んだ証が、美琴の髪と瞳に現れてしまったのだ。


 もう簡単に辞退はできない。


「……女将さん。鷹也さんとの縁談、断ってもらってもいいですか?」


 美琴は抗えない現実を受け入れることに決めた。


「残念だけど仕方ないね。でもさ、あんたもこんなときくらい、もっと泣いたらどうだい。玉の輿だと言われても、相手は人外なんだよ」


 真紀乃が涙を滲ませて言った。


「女将さん、わたし……悲しいとか腹が立つとかじゃなくて、ここに……沙英の街に居られなくなるのが残念で……寂しいです」


「何言ってんの! いつでも帰っておいで」


 真紀乃は美琴の肩を引き寄せて言った。


「蜜華亭はあんたの実家だと思っていいんだからね」


「女将さん……」


 真紀乃の腕の中で、美琴は静かに泣いた。


 そんな美琴の背中を撫でて、真紀乃は優しく髪に触れた。


「この髪だってそれほど悪くないさ。外見が変わっても、心根まで変わっちまうわけじゃないからね。───さて。あのお方はどうしたかねぇ。まだ食べてるのかしら」


「あのお方って、霊獣?」


「そう。店の菓子を食べたいって言ってさ。甘くていい匂いがするからって、催促してきてね」


 饅頭やら焼き菓子に揚げ菓子と、かなりの量と種類を選んだのだと真紀乃は言った。


「もちろん、代金は支払ってくれたからいいけどさ。人の姿ではいるが、霊獣が菓子を好むなんてねぇ」


 驚いた、と真紀乃は笑った。


(霊獣がお菓子を?)


 美琴は白銀の獣の姿を思い出し、次に人の姿となった紫珱を思い出していた。


 お菓子を……。


 とても想像できない。なんだかとても意外だった。


 人の姿で食べている様子を想像するが、なんだか違和感がある。


 まさか霊獣って皆そうなの?


 甘党なの!?


 冷たい印象のある眼差しの紫珱が、女の子受けしそうなお菓子を手にする姿はなんだか似合わないと思うのだった。