「ゆっ、幽霊⁉」
紫珱の後ろで美琴は声を上げた。
(ま、まさかっ。だって足はあるみたいだもの……)
「美琴」
紫珱は美琴の手を掴んだ。
「俺から離れるな」
声から伝わる緊迫した様子に、美琴は胸がざわついた。
「……うふふ」
女は嗤った。
そして何やら唇を動かしたように見えた。
そのとき、美琴の手を掴んでいた紫珱の指が一瞬、ピクリと小さく動いたのが判った。
その直後、風に溶けるように女は消えてしまった。
(なにを呟いたんだろう)
美琴には何も聴こえなかった。
けれどあの女性は紫珱に向かって何かを言っていたようだったと美琴は思った。
この距離では耳に届く前に風に消されてしまうだろうし、そう見えただけで自分の勘違いかもしれない。
本当のところはよくわからなかった。
けれど今、判るのは……。
紫珱に掴まれている手首が痛い。
そこから伝わる、彼の動揺。
(紫珱さま……?)
美琴は背後からそっと身を乗り出し彼の横顔を見上げた。
そこにはいつも美琴に向けてくる優しげな瞳はなかった。
その眼は細められ、どこか悲痛な面持ちに美琴は胸が痛むのを感じた。
「紫珱さま」
美琴のか細い声にようやく気付いた紫珱が振り向いて言った。
「雲蛇でここを出る」
言い終えてすぐに紫珱は不思議な動作をした。
右手を上げ、手のひらを天へ向ける。
そして美琴の聞き慣れない言葉を唱えながら、ゆっくりと何かを掴むように握りしめ、次にそれを胸の辺りでゆっくりと開いた。
するとそこから白い靄が広がった。
そしてそれはまるで雲が湧くように濃くなり、徐々に細長く伸びて敷物のように厚みを成したかと思うと美琴の足下を包み込んだ。
「これが雲蛇?」
途端にぐらりと身体が揺れて、体勢を崩しかけた美琴の肩を紫珱が抱き寄せた。
「しっかり掴まってろ」
言い終わらないうちに美琴は身体が浮き上がる感覚に包まれた。
雲蛇が上昇しながら空中を進む。
(───空を飛んでるっ⁉ ……怖いっ。目も開けられない!)
風音と暴風に晒されて悲鳴すら出せない美琴は、紫珱にしがみつくのが精一杯だった。
震えて泣きそうになっている美琴に気付いたのか、紫珱の腕に力がこもる。
(………あったかい)
大きな胸の中に抱かれると不思議と風が遠退いた。
美琴は小さく息をついて目を閉じたまま、その暖かさの中に身を委ねた。
♢♢♢
しばらくして、雲蛇がゆっくりと下降していくのが判った。
「降りるぞ」
やがて美琴の爪先に硬いものが触れた。
美琴が目を開けると、いつの間にか雲蛇は消え自分たちは地面に降り立っていた。
木陰になっているが、そこは墓地がある丘へ登る坂の入り口付近だった。
「美琴、大丈夫か?」
「は……ぃ…」
返事はしたものの、まだ頭がくらくらしていて紫珱に掴まっている手を離したらよろけてしまいそうだった。
「すまない、もっとゆっくり飛んでもよかったんだが」
紫珱は美琴を優しく抱きしめた。
そして美琴の乱れた髪を指先でそっと梳く。
美琴は紫珱を見上げたが、彼の眼差しは美琴を捉えていなかった。
遠い目をして何かを考えながら己を必死に落ち着かせようとしている様子に見えた。
それはなんだかとても苦しげで。
初めて見る顔だと思った。
美琴を見ていない、青紫の瞳。
『真の目覚め』が果たせていないせいで、どこかぼんやりと視える紫珱の輪郭。
不鮮明なその姿に美琴は不安を募らせた。
まるで……このまま。
紫珱が消えてしまうように思えて。
美琴はおもわす紫珱の袖を強く掴んでいた。
「歩けるか?」
ようやく視線を美琴に戻した紫珱が訊いた。
頷いて、美琴は紫珱から離れようとしたが、紫珱は美琴の手を離そうとしなかった。
「このまま行こう」
繋いだ手の温かさに美琴は少しホッとして、ようやく落ち着きを取り戻せたような気がした。
「あれは亡霊でしょうか」
美琴の問いに紫珱は少し考えるように間を置いてから返答した。
「妖魔の気配は微弱だった。すぐに消えてしまったからな」
彩陽国で幽霊、亡霊の類いは『妖魔に属するもの』として忌み嫌われている。
もしも庶人が遭遇したら、まずはどこの街にも必ず一箇所は配置されている〈巡視所〉と呼ばれる邸へ赴いて知らせなければならない。
巡視所では領主に仕えている者が常勤している。
「帰ったら俺が巡視所へ行ってくる。それより美琴」
「はい?」
「腹が減った」
口をへの字に曲げて訴える紫珱に、美琴は慌てて返事をした。
「そうですね。街へ戻ったらお昼ご飯を食べましょう。美味しいお蕎麦のお店があるんです」
「蕎麦か!良いな」
(……あ。なんかいつもの紫珱さんの顔に戻ったような……)
柔らかなその表情に美琴は嬉しくなった。
「蕎麦も良いが、街の露店の匂いも気になったなぁ」
「ではその後に露店で何か甘いものでもつまんで帰りましょうか?」
「ああ、そうしよう」
美琴の言葉に紫珱は笑った。
いつもの優しい微笑みだった。
この日、美琴たちが遭遇した白昼の怪異現象は、紫珱曰く「すぐ消えてしまった」程度のものだったが。
日が暮れてから、沙英の街に漆黒と銀色の斑髪をした亡霊のような女が彷徨う姿を目撃した者が相次いだ。
♢♢♢
その日の夜、隣で静かな寝息をたてる美琴を起こさないように、紫珱はそっと部屋から外へ出た。
裏庭で、紫珱の前に現れたラセツが無言で深く頭を下げた。
「おまえでも追えなかったか、ラセツ」
「はい……」
街で女の亡霊騒ぎが起きたことを紫珱は聞いていた。
「こちらの貴族が動く前に尻尾を掴みたかったが」
「申し訳ございません。ですが晶珂から我等の同胞を幾人かお呼びくだされば紫珱さまを煩わせることもないかと」
ラセツの申し出に紫珱は少し考えてから首を振った。
「ここは東領地だ。よそ者があまりうろつけば領主も煩がるだろ。明日、俺一人で探ってみる。西へ帰るまで何事もなければそれでいい。だが……」
まさか、とは思うが。
「ラセツ、おまえは俺の留守中に美琴が亡霊と接触することがないよう注意していてくれ」
「御意」
ふわりと消えたラセツを見送りながら、一抹の不安が風音と共に紫珱の胸の内を通り過ぎて行った。