翌日は朝から薄曇りだったが風はそれほどでもなく、雪の心配もなさそうだった。


 朝餉の後、食後の運動だと言って霊獣の姿に変幻した紫珱が、空の散歩に行くからと言って出た後、美琴は身支度にとりかかった。

 広がって波打つ髪をどうしようかと暫し悩む。

 首元が寒く『朱の葩印』のこともあるので結い上げることはやめて、左右の耳上を薄紅の髪留めで止めた。

 けれど今度は跳ねた前髪がとても気になる。


「そうだ、あれを持って行こう」


 鏡台の上の白い小箱。

 中には鷹也から貰った美しい手鏡が入っている。


 前髪が気になるときはこれを見て直すことにしよう。


 取り出してそこに映る自分の顔を見た直後、鏡がキラリと小さな光を放った。


(───なんだろう今の。……気のせいかしら)


 それはほんの一瞬で、美琴は然して気にすることもなく手鏡を上着の懐に入れた。


 程なく紫珱が帰宅して、二人は出かけることとなった。



 ♢♢♢



「墓地は遠いのか?」



 屋敷の裏口を出た辺りで紫珱が尋ねた。


「いえ、それほど遠くはないですけど」


「雲蛇を出すか?」



「紫珱さま、今日は歩いて行きませんか? ……あ、霊獣の姿ではダメですか?」


「俺は構わないが。美琴は本当にそれでいいのか?」


「はい。紫珱さまと一緒に歩きたいんです、沙英の街を。もう長くここには居られないから」


「そうか。だが霊獣では目立ちすぎるだろ」


 こう言うと紫珱は人の姿に変幻した。


(こっちも充分目立つとは思うけど)


 美琴はそんなことを思いながら紫珱に尋ねた。


「でもその姿はあまり長く保てないのでは?」


「二日や三日続けてとなると無理だが、一日くらいは大丈夫だ。俺も美琴と一緒に歩きたい。だが……行きたくない気持ちもある」


「え?」


 美琴の左耳に紫珱の手が触れた。


「なんだか今日の美琴は特別可愛い。その薄紅の髪留めもよく似合ってる。だから外へ出したくないな。美琴を他の者の目に触れさせたくない」


(そ、そんなこと言われても!)


 紫珱の眼差しを見つめ返すことが出来ずに、美琴は視線をあたふたと彷徨わせた。


「そんな困った顔するな。大丈夫だ、一緒に行くから」


 ぽんぽん───と、紫珱は優しく美琴の頭に手を置いて笑った。


「行こうか」


 差し出された紫珱の手に、美琴はドキドキしながらも小さく頷き自分の手を乗せるのだった。


 ♢♢♢


(やっぱり、かなり目立ってるみたい)


 人の行き交う大通りへ出ると、さすがに美琴たちは人々からの視線を浴びながら歩くようになった。


 美琴は隣を歩く紫珱の様子をそっと伺ったのだが。


 彼は周囲から向けられる眼差しなど気にしている様子はなかった。


 歩幅も美琴に合わせてゆっくり歩いてくれる。

 そんな気遣いが美琴は嬉しかった。


「あそこを曲がるとお花屋さんがあるんです。そこで供える花を買っていきますね」


 店には花の他にも新年を祝う飾り物や縁起物などが所狭しと並べられてあった。

 美琴はその中から白、紅、黄色の小菊を選んだ。


「大通りへは戻らないのか?」


 花屋のある細い通りをそのまま進む美琴に紫珱は尋ねた。


「はい。墓地はここから裏道へ入った高台にあるんです」


 街中から外れると田園が目立つ景色に変わった。


 しばらく行くと道が次第に緩やかな坂道になる。


 周りに見える家並みが少しずつ眼下へと降りて小高い丘を登りきった先に墓地が見えた。


 この時期に墓参りになど訪れる者はなく、敷地内には美琴と紫珱の二人きり。

 美琴は母と祖母の墓石の前で足を止めた。

 持参した布で軽く汚れを落とし、水筒の水を花器に移して花を供えた。

 そして墓碑に向かい心の中で語りかける。



 ───母さん、おばば様。

 わたし、お嫁にいくことになったんだよ。

 相手は貴族で霊獣なの。まさかわたしが霊獣のお嫁さんになるとは思わなかったけど。

 紫珱さまというの。

 まだ少し怖いけど。

 でもとても綺麗な毛並みで。

 触るともふもふでふかふかで! 触り心地がとてもよくて……。

 それから甘党なんだよ!

 お菓子大好きで。

 ……食いしん坊さんなの。

 それでね、食べてるときね、なんだかとても幸せそうでね、子供みたいな顔になるの。


 ふと、顔も思い出も知らない父親のことを美琴は心に思った。

 母も祖母も多くを語らなかったが、察するところ美琴が産まれて間もない頃に家を出て行ったという父は、家族や家庭を省みない勝手な男だったようだ。


 ───美琴。旦那さんにするなら、家族を大切にしてくれる人でないとね。

 相手を思いやることのできる、心の深い人。

 そして信じることの出来る相手。

 それからなによりも美琴、おまえを心から想ってくれる男でないとね。

 そして美琴も、そう想える人に嫁ぎなさいね。


 こんな言葉を母は生前何度か口にした。


 ───母さん。

 不安はたくさんありすぎるほどだけど。

 だけどね……。紫珱さまは優しいよ。

 ときどき、わたしを茹で顔にさせて困らせるコトがあるけれど。

 でもわたし、頑張ってみようと思うんだ、新しい場所で。

 だから母さん、おばば様……行ってまいります。


 ♢♢♢



「もういいのか?」


 立ち上がり、こちらに向いた美琴に紫珱が聞いた。


「はい。一緒に来てくださってありがとうございます」


「じゃあ次は俺が話す」


「え……?」


 紫珱は墓石を前にして言った。


「母殿、祖母殿。俺は美琴を生涯大切にする。何一つ不自由はさせない。だから晶珂へ連れて行くことを許してほしい」


 紫珱は墓石に向かって頭を下げてから美琴へ向き、そして言った。


「向こうの暮らしに慣れたらまたここへ来よう」


「いいのですか? わたし、こっちへはもう戻れないのかと思ってて」


「そんなことはない。たまにはいいだろ。雲蛇で移動すれば余裕だ」


 思ってもみなかった言葉に美琴は嬉しくなって微笑んだ。


 紫珱もそんな美琴に笑いかけたのだが、不意に表情が硬くなった。


「───⁉」


 紫珱の頬を掠めた風の気配が異様な空気を運んだ。

 咄嗟に紫珱はその背に美琴を庇うと周りに視線を向けた。


 ───あれは……? 人……女か?


 墓地の外側、少し離れた場所にこちらを向いて立つ者の姿があった。


 風に揺れる長い髪は漆黒。けれどその中に所々、銀色が(まだら)になっている。

 瞳から鼻梁にかけての整った面差しは品の良い印象を与える。

 しかしその目は虚ろだった。

 衣服も真冬だというのに上着も纏っていない質素な身なり。

 青白い肌、けれど唇だけが異様に赤い。


 薄い衣服から覗く豊かな胸の丸みや、その赤い口元は艶っぽさを引き立たせ、禍々しさと共に妖艶な雰囲気を漂わせていた。