翌朝、なぜか枕の感触が違うという違和感を覚え、美琴がぼんやりと目覚めてみれば。


「……ぅわ!?」


 どういうわけか昨夜とは違い、人の姿になっている紫珱の顔が間近にあり、しかも枕は彼の腕に変わっていた。



「……ん、もう朝か? おはよう、美琴」


 寝起きの、トロンとした瞳を向けて言いながら、紫珱は美琴の身体に腕を回し、そのままやんわりと抱きしめた。



「っあ、のッ。お、おはようござぃま、まますっ」


 一体いつの間に、どうして一緒の布団に入っているのか。

 考えても判るはずもなく。

 慣れない紫珱の行動に、美琴は茹だったような顔でドキドキする胸の響きを意識していた。



「ぁの、紫珱さま。そろそろ起きないと」


「……ずっとこうしてたい」


 紫珱は美琴の頭を撫でながら言った。


「でも今日は穂奈美さまと買い物へ行く約束もありますし」


「そうか。だが 二人とも午後には帰るそうだぞ。紅嵐が言っていた」


「えっ。そうなんですか………随分と早く帰ってしまうのですね」


「霊獣として護るべき場所を、あまり留守にするわけにはいかないからな」


「そうですか……」



 もう帰ってしまうなんて。


 穂奈美とはもっといろいろな話がしたかったと、美琴はとても寂しく思った。


「西方に戻ればいつでも会えるぞ」


「そうですね……」


「俺も早く帰りたい。美琴を連れて」


 やんわりと抱きしめられ、紫珱のぬくもりに包まれる。


昨夜(ゆうべ)は嬉しかった」


「え?」


「眠る間際、美琴がささやいてくれただろう。俺のこと、嫌いではないと。もっと知りたいと言ってくれた」


「聞こえていたんですか」


 なんだかとても恥ずかしくなった。


「恥ずかしがることないだろ。美琴の優しい言霊は俺の中で力になる。ありがとう」


 紫珱は美琴をきゅっと抱きしめた。


 それからゆっくりとその身を起こし、まだ布団に横たわる美琴へと顔を近付け、その口元を美琴の頬へ寄せ───、

 ちゅ。

 音をたてて触れた。


「飯の用意が出来るまで朝空を散歩してくる」


 紫珱は霊獣の姿へと変幻し、惚ける美琴の横をスルリと通り過ぎて部屋を出て行った。



 ───なななっ‼

 いまのはなに⁉


 冷んやりとした感触はすぐに熱を帯びて。



 それはその日、なかなか消えてくれなかった。



 ♢♢♢



 紫珱が朝空散歩から戻る前に美琴は穂奈美を訪ね、本当に午後に帰ってしまうのか訊いた。



「そうなんですの。紅嵐が絶対に夜までに帰りたいと言ってきかなくて。なのでお買い物は僅かな時間しかできなくて、とても残念ですけど」



「あの、西方へ行ったらまた会ってもらえますか?」



「もちろんですわ。次は私が街を案内してあげますね。それよりも美琴さま、あの……夕べは……その、大丈夫でしたか?」



「はい?」


 一瞬、何を聞かれているのか判らない美琴だった。


「閨での紫珱さまはお優しく接してくれましたか?」


 穂奈美は美琴の耳元で囁いた。


「あ……そっ、それが……」



 質問の意味をようやく理解した美琴は、顔を赤く染めながら答えた。



「何も無かったんです。きっとわたしが怯えていたせいだと思います」



「そうですか。紫珱さまはやはりお優しいお方ですね」


 微笑む穂奈美に、美琴はコクリと頷いた。



 そして美琴と穂奈美は残された時間を街で楽しく過ごそうという約束をした。



 ♢♢♢



 西方の領地へ帰る穂奈美と紅嵐の見送りは店の外では人目があり、蜜華亭の中庭で行われることとなった。



「まったく。おまえこんなに何買ったんだ? 荷物多すぎだぞ」


 紅嵐がブツブツ言いながら穂奈美の荷物を雲蛇に乗せた。


 短い時間だったが街で買い物を済ませ、穂奈美と一緒に昼食も取ることができ、楽しいひとときを美琴は過ごした。



 女将の真紀乃が揃うと、穂奈美は深々とお辞儀をして言った。

「真紀乃さま。何かと騒々しくて申し訳ございませんでした。蜜華亭でのお菓子、とっても美味しかったです。美琴さまの花嫁衣装も一緒に選べて楽しかったですわ。まだしばらくリンがお世話になりますが、よろしくお願いします」


「こちらこそ。向こうでは美琴のいい友達でいておくれ」


 真紀乃の返事に穂奈美は頷き、次に美琴へと向いた。


「西方の地でお会いできるのを楽しみにしてますね。それから……」


 穂奈美は美琴の耳元で、誰にも聞こえないように囁いた。


「真の目覚めの件、頑張ってくださいね」


 なんと返答していいものか困惑している美琴を見て微笑み、穂奈美は次に紫珱の傍へと近寄った。


「では紫珱さま、美琴さまをどうかお大切に。もしもこの先、美琴さまを泣かせるようなことがあったら、私も『銀主連』の皆も黙ってませんからね」


「心外な。そんなことは断じてない」


「約束ですよ」


 穂奈美はにっこり微笑んでから天空を仰ぎ見た。


 ……ゆっくりと、空から。


 穂奈美がやって来たときと同じように、雲のような霞のような白い塊が降りてくる。

 そして先に乗っていた紅嵐が穂奈美に手を差し出した。



「帰るぞ」


「はい」


 その手を笑顔で取りながら、穂奈美はふわりと雲蛇に乗った。


「では皆様、お世話になりました。お元気で!」


 上昇と共に風が湧く。


 桃色の髪を靡かせて、穂奈美が美琴に向けて大きく手を振った。


 美琴もそれに応えて手を振る。


 寒い冬空の中、まるで春風のような暖かさを美琴の心に残して。


 穂奈美は帰って行った。



 ♢♢♢


「冷え込んできたぞ、美琴」


 名残惜しく、しばらく空を見上げたまま動かない美琴を紫珱が縁側から呼んだ。


 気付くと中庭にいるのは自分だけ。



 (ほんと、寒い……)


 雪の降りそうな気配に美琴は身を竦める。


「家に戻ったら温かいお茶を淹れますね」


「そうか。では菓子は豆大福がいいな」


「はい。用意しますね」


 美琴は頷き縁側から部屋へと上がった。



 ♢♢♢



「───あの、紫珱さま。改めて訊きたいことがあるのですが」



 家に戻り茶の間で紫珱が二つめの豆大福を食べ終えた頃、美琴が尋ねた。


「ぇと……紫珱さま、お歳はお幾つなんでしょう?」


「二十二。年が明けたら三だな。美琴はまだ十六だったか?」


「はい。では『選定の儀式』を行うのに、年齢は決まっているのですか?」


「俺たち貴族も彩陽国の民と同じように十八で成人と言われる。俺も十八で両親から西方の領地〈晶珂〉を受け継いだ。選定はその年から始まる。ただ、あまり長いこと領地から離れるわけにいかないから、毎日〈選ばれし者〉を探し回ることはしない。少しずつ、時間をかけて探す。俺の声に応えてくれる者を」


 夕闇のような紫色の瞳が、美琴を捉えた。

 じっと見つめてくる、感慨深気なその眼差しは、美琴を落ち着かない気分にさせた。


「聞きたいことはそれだけか? 」


「あのもう一つ。紫珱さまがわたしに与えてくださった霊力(異能)というものについてです」


「ああ、それは妖魔の気配を感じる力と祓う力だな。何か感じるのか? 」


「いえなにも」


 美琴は首を振った。


「今までにない感覚や禍々しい気配がしたらすぐに言えよ。祓う力の方はまだ美琴には使いこなせないだろう。雲蛇を造り、それに乗り自在に操れるようになる方が先だ」


「雲蛇をわたしが?」


「晶珂へ戻ったら俺が教えてやる。ゆっくり覚えたらいい」


「……はい」


「それよりも美琴、今日これからの予定は?」


「衣服の整理でもしようかと」


「そうか。どこにも出かけないのだな?」


 頷く美琴を見て紫珱は嬉しそうに笑んだ。


「美琴。輿入れまで短いが心残りのないように過ごせ。行きたいところがあれば俺が連れて行く。やりたい事があれば俺も手伝う。遠慮はするなよ。でも外へ出かけるときは勝手に行かずに必ず教えること。……その、あれだ……」


「あれ?」


「心配だからな」


 照れたような顔になりながら、紫珱は美琴から視線を外すと三個目の豆大福に手を伸ばした。



 ♢♢♢


 おやつの時間を終えて。

 美琴は部屋で衣類の整理に専念した。

 もともと品数は多くなかったので、それ程大変ではない。

 春、夏、秋物の衣類をまとめ、荷造り用として部屋の隅に置く。冬物もあまり着ないものからまとめようかと考えたり……。


 ふと、こちらをじっと見つめてくる紫珱と眼が合う。

 人ではなく霊獣の姿で寝そべっている紫珱が一瞬、微笑んだような気がした。


 ……気がしただけなのに。


 美琴はなんだか妙に気恥ずかしさを感じて、慌てて視線を窓へ向けた。


 外では風が強く吹き始めた。

 いつ雪が降り出してもおかしくない季節だ。


(そうだ。雪が降る前に……)


 美琴は行きたい場所があることを思い出した。


 ……聞いてみても、いいかな。紫珱さまに。

 一緒に行ってほしい場所だから。


「あの、紫珱さま」


「なんだ」


「わたし、雪がたくさん降る心配のないうちに、行っておきたい場所があって。紫珱さまも一緒に行ってくれますか?」


「どこだ?」


「わたしの母と祖母が眠るお墓です」


 嫁ぐ前に墓参りをしておきたいと思った。


「そうか、わかった。明日にでも一緒に行こう」


(あれ……。やっぱり紫珱さま、微笑んでるような気がする)


 僅かに細められた眼を見て美琴は思った。


 優しく笑ってくれているような、そんな霊獣の眼差しに、美琴は胸が温かくなるのを感じた。