一時間が過ぎて。
「紫珱さま」
膝の上に頭を乗せて眠る霊獣の耳元で美琴は囁いた。
「そろそろ起きてください」
「ん……」
返事はしても眼が開かない。
黒い獣の鼻がぴくぴくと動くだけだ。
「紫珱さま。わたし、その……足が痺れてきました」
「ああ……」
紫珱はゆっくりと眼をあけ、頭を上げた。
そして四肢で立ちあがるとおもいきり伸びをした。
「そろそろ夕刻か。夕飯にはまだ時間がありそうだな。少し出かけてくる」
「どちらへ?」
「おやつを食べ過ぎた。空を駆けて夕食までに腹を減らさないとな。暗くなるまでには戻るよ。───ああ、それから。今夜から一緒に眠ろう。空き部屋でなくこっちがいい。俺は美琴の傍で寝たいんだ」
こう言って、紫珱は霊獣の姿のまま屋敷を出て行った。
───いっ、一緒に眠る⁉
しばらく固まってしまった美琴だったが、ハッと我に返り立ち上がる。
(そうだ夕飯。紫珱さまの分も作らないと。それからそれから!紫珱さまのお布団も用意しないと……)
ここ最近はなかったが、友達が泊まりにきたときに使っていた布団を出さなければと考える。
一緒に眠ろうと言った紫珱の声がずっと頭の中で響いて離れない。
思ってもみなかった事ばかりが現実になり、落ち着かない時間がどんどん過ぎてゆく。
あと十日しかここに居られないのに。
もっとのんびり過ごしたかったな……。
などと思う反面で。
夕飯。紫珱さまはどんなものが好きなんだろう。
結局は紫珱のことばかり考える自分がいて美琴は驚いたが。
夫婦になればこれは当たり前なのだろうとも思う。
穂奈美も「妻は旦那さまのお世話を第一に考えること」と言っていたのだ。
でもお世話って。
具体的に何?
穂奈美に聞いてみたいと美琴は思った。
♢♢♢
「あら、美琴さま。どうかしましたか?」
美琴は蜜華亭に行き穂奈美たち夫婦の借りている客間を訪ねた。
「あの……穂奈美さまに相談というか、質問というのか。あの、紅嵐さまは?」
姿が見えないので聞いてみると、
「紫珱さまが空へ翔けていくのを見て追いかけて行きました。なんだかんだで結構仲良しさんなんですよ、あの二人は」
「そうなのですか」
どうぞ、お入りくださいと穂奈美に促され、美琴は部屋へ入った。
「あの、わたし紫珱さまから、今夜から一緒の部屋で眠ろうと言われて。そのっ、よ、夜の閨を共に過ごすのとか!そ、それは……まだ早いと思うんですけど……」
「嫌なのですか?」
「いや……というのか、あの……」
「怖いのですね?」
美琴は小さく頷いた。
「それは仕方ありません。誰でも皆最初は怖いものです。……まあ、少し痛かったりもしますし」
「え。痛いのですか?」
「でもすぐ良くなりますよ」
「よく……? すぐ治るのですか?」
「まあ……そのような感じです」
穂奈美の返答はどこか曖昧で、美琴にはよく判らないことばかりなのだが。
もう少し質問を続けることにした。
「もしも……紫珱さまが……もし夜伽を求めてきたらと思うと……わたし、どうしたらいいのか……」
「そうですわねぇ。男の方って、求めずにはいられないときがあるようですから。でも大丈夫ですよ。求められたら全てお任せなさい、紫珱さまに」
「任せる?」
「ええ。美琴さまは何もせず、紫珱さまに身体を預けてしまえばいいのです」
「何もしないで?」
「はい」
「そ、そうなのですか? わたし……知らないことばかりで……。普段のお世話なら、お洗濯とか食事の用意とかなら判るのですけど。身の回りのお世話の中でも……よ、夜伽の……お世話とかはよく判らなくて……」
「うふふ。まあそう考え過ぎないで。美琴さまは美琴さまらしく、ありのままで紫珱さまに接して触れてあげたらいいんです。心から素直に。でも我慢はよくありませんよ。嫌なことは正直に嫌だと言う気持ちも、それが大切なときもありますからね」
「はぃ……」
少しして、紅嵐と共に紫珱も帰って来たので、美琴は家へ戻ることにした。
♢♢♢
夕餉には豪華なものは出せなかったが、魚の煮つけや根菜の和え物などを用意し、人の姿に変幻した紫珱の希望もあり酒も添えた。
緊張しながらお酌をする美琴に、紫珱は食事をとるよう勧めた。
「美琴が食べ終わったらまた注いでくれ」
紫珱がこう言ってくれたので、しばらくは自分の膳を片付けることに専念する美琴だったが。
沈黙が痛い。
(な、何か話さなくちゃ!)
チラリと紫珱を見つめると、口元に盃を運ぶ彼の表情は穏やかだった。
「あの、紫珱さまの嫌いな食べ物とかって、ありますか?」
「ない。美琴は?」
「わたしは辛いものが苦手です」
「酒は?」
「果実酒なら少しは。晩酌は毎晩ですか?」
「そうだな、量は少しでもあれば嬉しい」
(そうなのか。肴料理も覚えなければ!)
「……お酌、しますね」
自分の分を食べ終わった美琴は紫珱の横に移動し、ぎこちない手つきでお酌を再開し始めたのだが。
「あれ?もう終わりかな」
用意された酒が、あと僅かしか残っていない。
「新しいの持って───」
持ってきましょうか? と言いかけた美琴の腰に、紫珱は腕を回し引き寄せた。
(ふわっ⁉)
気が付くと美琴の腰から下は紫珱の膝───胡座の中にすっぽりと収まっていた。
おまけに視線は間近で、口元に吐息さえ感じるほどの距離だ。
───じっと見つめられ。
美琴はおもわず身を捩った。
「なぜ逃げようとする」
穏やかな表情に影が差し、紫珱の眼差しが揺れたように感じた。
「逃げようとしたわけでは……」
「まだ怖いのか? 俺が恐ろしいか?」
美琴は首を振った。
「ではなぜ目を逸らす。──ほら、そうやってなぜ目を閉じる?」
だ、だって!
「そ、れは。ち、近すぎて、」
「俺は美琴がよく見たいだけだ。ほら、その綺麗な瞳を見せてくれ。俺と同じ色の眼を」
紫珱の指先が目尻に触れた。
美琴はその指の熱さに驚き、瞬く。
そしてそのまま紫珱の指先は美琴の顎へ下り、くいっと上を向かされた。
まるでその眼に、自分だけを映らせようとするかのように。
紫珱の顔が間近にあった。
同じ色の瞳が。
「まだ……無理なようだな」
こう言って紫珱は美琴の顎に触れていた手を外した。
「怯えて泣きそうな目をしている。それは求める顔じゃない」
「あ、あの……」
「早く美琴が懇願する顔が見たいな」
意味がわからないと言いたげな美琴に紫珱は苦笑する。
「もっと艶のある顔になってほしいという意味だ」
「つや?」
聞き返す美琴に紫珱は薄く微笑んで言った。
「それにはまだ、時間と経験と回数が必要なんだろうな」
紫珱は盃を飲み干すと腕の中の美琴をそっと抱きしめた。
「仕方ないが。今はまだこんな感じも悪くない」
ふわりと漂う酒香に包まれ、美琴は飲んでもいないのに酔ってしまいそうだった。
「……少し飲み過ぎたようだ。今夜の酒は終いにする。膳も片付けていいぞ」
紫珱は美琴を腕の中から解放すると、そのままごろりと横になった。
その顔はなんだかとても眠たげで。
紫珱はふわぁと欠伸をした。
「お布団敷いてきます」
食事の片付けは後にしよう。
美琴は自室へと向かった。
♢♢♢
寝具の用意が済むと紫珱は眠そうな顔で部屋へ移って行った。
食事の片付けを終え美琴が寝所を覗くと、霊獣の姿に変幻した紫珱は安らかな寝息をたてていた。
よく眠っている。
(……よかった。……のかな……?)
ドキドキ感はまだ続くものの、ひとまず美琴も寝支度を整えた。
然して広くはない部屋の中で、どんなに布団を離そうとしても手を伸ばせば簡単に触れてしまいそうな距離感の中。
なかなか寝付けるはずもなく。
美琴は何度も寝返りをうった。
「……美琴」
どのくらい経ったろうか。
背後で紫珱の声と身体が動いた気配に、美琴はその身を強張らせた。
「美琴、まだ起きてるか?」
「は…ぃ」
「美琴は俺が恐ろしいか? 俺に触れられるのは嫌か?」
冷たく低く、乾いた声が部屋に響いた。
「わたしは───」
美琴は振り向くべきか迷ったが。
振り向いたら、あの眼を見てしまったら……あの瞳にみつめられたら。
何も言えなくなってしまうような気がして。
美琴は紫珱に背を向けたまま喋ることに決めた。
「あの、わたし……。紫珱さまのこと、怖いって感じることはあるけれど……半分だけのような気もします」
「半分?」
美琴は小さく頷いた。
紫珱が子供みたいな笑顔でお菓子を食べる姿を見てしまってからは。
そんなに怖くないと思ったりもする。
「半分は怖くないなと思ったりもします。でもわたし、紫珱さまのこと、まだよく知らないから。だから怖いのかもしれないです。……だから……」
もっと知りたい。
彼のことを。
「美琴、こっちを向いてくれないか? 今夜は何もしないから」
「……ほ、本当に?」
「……我慢する。でも向いてくれないなら今すぐそっちの布団に入る」
───ぅわっ。
紫珱のその言葉に。
───ササッ。
美琴は反射的に身体の向きを変えた。
「やれやれ。自重するのも楽ではないな」
そんなことを言う紫珱が意外にも霊獣の姿だったことに美琴は少し驚いた。
(てっきり人の姿に変幻しているのかと思っていた)
「だから……? 何を言おうとしたのか言葉の続きを聞かせてくれ美琴。俺がまた眠ってしまう前に、おまえの言霊を」
霊獣の眼が、少しだけ微笑んだような気がした。
でもそれはすぐに閉じられて。
安定した静かな息遣いは、霊獣が眠りの淵にいるのだと感じさせるものだった。
「わたし、もっと知りたいです、紫珱さまのこと」
躊躇いながらも、美琴は紫珱の方へそっと手を伸ばした。
「嫌いではないですから」
銀色の柔らかな毛並みに美琴は触れた。
「だから……。知りたいのだと思います、あなたのことが」
少しでも、心を近付けることが出来たらと。
そう思えるようになってきている。
「……努力、します……ね……」
だんだんと、美琴も睡魔に誘われていた。
「おやすみなさい、紫珱さま」
いつしか。
美琴はゆっくりと眠りの中へ沈んでいった。