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(あれ?紫珱さまがいない)


 紫珱の荷物を抱えて自宅に戻った美琴だったが、教えたはずの部屋に紫珱の姿はなかった。


 家は入ってすぐに炊事場と囲炉裏のある居間、そのほかに二部屋あり、一室は空き部屋、そしてもう一室が寝所として使っている美琴の部屋だった。


 美琴は空き部屋を紫珱に教えたはずなのだが。居間はもちろん、空き部屋に紫珱の姿はない。───ということは。


 まさか……。紫珱さま、もしかしてわたしの部屋で寝ちゃってる⁉


 美琴は自室の戸をそっと開けたのだが、戸口からでは中の様子はよく見えない。


 自分の部屋なのに。

 なぜこんなふうに遠慮がちに覗かなければならないのか、甚だ疑問ではあるが。

 美琴は大きく溜め息をついた。

 けれどここは自分の家で、他に行く場所などないのだ。


 美琴は深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせて部屋へ入った。

 室内は衝立で仕切り、奥の間が寝所だ。

 けれど紫珱は奥の間ではなく部屋の隅に置かれた長座布団の上で霊獣の姿のまま眠っていた。

 その姿に美琴は少しホッとした。


 ───それにしても。まさか今日から紫珱さまと同居することになるなんて。


(……だっ、ダメだ!まだいろいろと心の準備ができないッ……)


 ぷるぷる!と美琴は首を振った。


 だってだってだって!

 わたし、まだ心が追いつかないんだ……。

 紫珱さまに。

 気持ちがまだついていかない。


 これでは『真の目覚め』のお手伝いなんて、とても無理だ。


 美琴は紫珱の眠る傍にゆっくりと近付いた。


 ───紫珱さま。わたし、どうしたらいいんですか?


 そんなふうに思いながら、美琴が紫珱の上に薄い毛布をかけてあげようと手を伸ばしたそのとき、紫珱の眼がゆっくりと開かれた。


「みこと……?」


「あ……お、起こしてしまいましたか? すみません、寒そうだったから毛布を」


「寒くはないよ。毛並みがあるからな」


 (……そういえば、そうか)


 彼にはふかふかしていてとても柔らかい毛並みがあるのだ。


 冬空を平気で駆けるくらいだもの。

 寒さなどは感じないのだろうか。


「でも人の姿のときはどうなんですか? 寒くないのですか?」


 恐る恐る尋ねる美琴に、紫珱は静かに答えた。


「そうだな、人の姿でいるときはやはり少し寒いかな。人の姿のときと霊獣の姿のときでは体感温度は幾分違うように思うが……。まだ『真の目覚め』に至ってないせいか、実は調節も難しくてな」


「ぁ、ぁあの!そのことなんですけどッ、わたし……。まだ紫珱さまを、ちゃんと……その……真の目覚めとかに、み、導いてあげられないと思います……」


「そうだろうな」


「え……」


 美琴はてっきり怒られるかと思っていた。


 けれど紫珱の反応は違った。


「仕方がないな。昼間は焦りすぎたようだ。試したせいで怖がらせたなら謝る」


 言いながら、紫珱の視線はぎこちなく彷徨いながら美琴から離れた。


 謝る。というその言葉は美琴の心に響いた。


 言霊が沁み入るとは、こんな感じなのだろうかと美琴は思った。


「いえ、あの……。でも……わたしも、わからないことばかりなので。紫珱さまに教えてもらうことばかりだと思いますけど。だけどわたしも、努力はします」


 美琴は改めて姿勢を正すと紫珱の前に正座した。


「な、なのでッ。 ふ……不束者ですけど。よろしくお願いします」


 深々と頭を下げること数秒。


「美琴」


 次に美琴が顔を上げると、目の前にはいつの間にか人の姿になった紫珱がいた。


 とても優しげなその眼差しに、美琴の鼓動が高鳴る。


「おいで、美琴」


 紫珱は言った。


 ───お!おいで……とか言われてもっ。

 いったいどこへ?


 固まる美琴を見て、紫珱はクスッと笑って言った。


「そばにおいで」


 ポンポン───。紫珱は寝ていた長座布団の上を叩く。


「……ぇと、」



(……どうしてだろう)


 動揺しながらも美琴は不思議に思った。


 霊獣の姿のときと人の姿のときとで。


 わたし、紫珱さまに対しての感じ方が……少し、違うような……。


 霊獣のときはもちろん怖いけれど、前より幾分、接しやすくなったように思う。


 でも人の姿のときの紫珱さまは。見つめられると……。


 わたし、どうしていいのかわからなくなって。動けなくなって。


 ……ドキドキして。


 なぜ顔が熱くなるのだろう。



「どうした美琴。努力するんじゃなかったのか?どんな努力をするのか聞かせて欲しいんだが。動けないなら俺の方から抱きしめに行くが?」


「い! いえっ、行きますッ、そっちに……」


 サッと立ち上がり、ビクつきながらも、美琴は紫珱の隣に腰を下ろした。

 するとすぐに紫珱の腕が美琴の腰へ伸びて抱き寄せられた。


「ぁ……」


 驚いてぎゅっと目を閉じた美琴に紫珱は言った。


「もっと身体の力を抜くんだ、美琴。何も怖いことなどない。怖がることなどしない。だから……俺を怖がらないでくれ」


 言葉の終わりの声音は、なんだかとても切なく聴こえて。


 美琴は目を開いた。そして同時に紫珱の手が頭に触れたのがわかった。


 そして そこから何度も紫珱は美琴の髪を撫でた。


 広い胸の中に抱かれ、頭を撫でられるうちに、いつしか美琴は肩の力を抜いていた。


 そしてゆっくりと触れてくる紫珱の手の心地よさを美琴は感じ始めていた。


「……うん、それでいい。美琴、もっと俺に寄りかかっていいんだ。こうしていると暖かいだろ」


「はい、とても」


 暖かい。そして心地よさがあった。


(でもこんなふうに触れられることって子供の頃以来かも)


 小さな頃、母親の腕の中で髪を撫でてもらった記憶がある。そしてそれがとても心地よく、幸せな気持ちになることを美琴は久しく忘れていた。


 こんな大切な想いを、忘れてしまっていたなんて。


 優しい手と優しい声。そして気遣う想い。


(もしかしたらこういうのが……)


 このような行為も穂奈美の言っていた『想いを伴って触れる』ということに繋がるのではないかと美琴は思った。


 こんなふうに触れながら囁かれる言葉は心に響く。

 温かくて。

 人を優しい気持ちにさせる。


 言霊の力が、そこから伝わるような気がした。


「どうだ、まだ怖いか?」


「いえ、それほどでも……というか、落ち着いた……というか」


「では交代」


「え?」


 紫珱は美琴から離れると霊獣に変幻し、美琴の膝の上に頭を乗せた。


「美琴の膝枕、気持ちがいい」


 ふさふさした長い尻尾を揺らしながら紫珱が言った。


「こっちの姿が今は楽なんだ。……もう少し眠る。一時間ほど経ったら起こしてくれ」


「はい……」


(そうか、そういえば……)


 美琴は思った。


 人の姿のときの紫珱は霊力が半減しているせいもあり、いくらかぼんやりとした姿で美琴の目に映る。


 けれど霊獣の姿のときは不鮮明さが感じられない。


「人の姿を保つのは疲れますか?」


「ああ。こちらの姿の方が本質に近いせいもあって楽なんだ」


 本質。

 それは人間の言霊を得ることも、人に変幻する必要もなかった時代を生きていた姿なのだろう。

 人間の娘など選ばず、霊力を授けて伴侶になどすることもなく生きていた霊獣の、それこそが本来の姿だったはずなのに。

 けれど大地を、そしてそこに暮らす人間を護るために本質までも変えてしまった。

 そんな未来を霊獣は選んだ。

 本来の性質を変えてまで人間と関わろうとするなんて。


 美琴の中で霊獣に対する想いが少しずつ変わろうとしていた。


 よく知ろうともせず、恐ろしいだけの存在として霊獣を見ていた自分が恥ずかしくなった。


「……ありがとうございます」


 いつしかゆっくりと、紫珱の背を撫でながら美琴は言った。


 返事はなかった。


 かわりにとても安らかな寝息が美琴の膝の上から聴こえていた。


(いつもこの地上を、この国を、わたし達を護ってくださって。感謝致します……)


 美琴は心の中で呟いた。


 そして思った。


 今度はちゃんと紫珱さまが起きてるときに言ってあげよう……。