「紅嵐が来たのか?」


 美琴がお茶と菓子を用意して部屋を訪ねると、人の姿の紫珱が聞いた。


「はい……。でもなぜ判ったのですか?」


 不思議そうな顔をする美琴に紫珱は言った。


「同じ貴族の気配、特に霊獣同士はすぐ判る。あいつは騒がしい奴だからな、ここへ来る気か?」


「ええ、後から来るかと……」


 二人は───穂奈美さまと紅嵐さまはまだ抱き合っているのかしら。


 いけない、いけない!


 そんなこと考えてたらまた顔が赤くなっちゃう。


 美琴はお茶を淹れることに集中した。


 用意したお茶からは爽やかな薄荷の香りが漂い、気持ちを落ち着かせた。


「美味そうだな」


 卓上に並べられたものを見た紫珱が言った。


 昼食を抜いたので、今朝作った林檎の菓子のほかに肉饅頭も用意した。


「どうぞ召し上がってください」


「ああ。いただきます」


 紫珱は最初に林檎の菓子を頬張った。

 美味いと言いながら嬉しそうに食べるその顔は子供のように無邪気に見えて、美琴を驚かせた。


 美琴が肉饅頭を半分も食べ終わらない間に、紫珱の皿は空になる。


「おかわり」


 こう言って向けられた笑顔は、それまで美琴の中に重苦しく残っていた緊張感を軽くする表情だった。


「はい、すぐに持って来ますね」


 なんだか少し嬉しい気持ちになり、美琴は「おかわり」に他の菓子も幾つか増やした。


 そして美琴がたくさんの「おかわり」を用意して卓の上に並べていると、穂奈美と紅嵐が顔を出した。


「よ、兄弟。元気そうじゃねえか」


 紅嵐が、紫珱の肩を叩きながら言った。


「相変わらず騒々しい奴だな。俺は貴様と兄弟になった覚えはない。一体何をしに来た」


「妻を迎えに来たんだ、悪いか?まったく。いくら総代とはいえ、もう待てん。───おおっ、美味そうなものがあるじゃないか!」


 仏頂面で席に着きながらも、卓の上の菓子を見て眼を輝かせる紅嵐の様子に、紫珱は顔を顰めた。

「食っていいのか?」


「はい、どうぞ」


 美琴はお茶を淹れながら頷いた。


「まあ!美味しそうなものばかりですね。でもすごい量ですね、帰るまでに太りそうなのは紫珱さまかも」


 紅嵐に続いて椅子に腰掛けた穂奈美が卓に並べられた菓子を見て笑った。


「さっそくですけど紫珱さま。輿入れの日取りを決めたいのですが。新年を迎えてからですよね。いつ頃にしましょうか」


「新年まで待つ気はない。明日にでも俺は美琴を連れ帰りたいのだ。だがそうもいかぬだろうから、遅くても三日後。俺はそれまでここに残るぞ。それまで晶珂へ戻る気はないからな」


「領主がそんなに留守していいのか?」


 呆れるように言った紅嵐に、つかさず紫珱も反論する。


「貴様に言われたくないわ。おまえこそ早く凉珪へ戻るべきだろう」


「わかってるさ、明日にでも戻るつもりだったが、穂奈美のやつ明日はどうしてもおまえの嫁さんと街へ買い物に行きたいって言うからさ、約束してるって言うから。仕方ねぇ、それが済んだら帰る」


「……まったく。妻と一緒でないと一人で帰れないなんて、困った旦那さま達ですこと」


 紫珱と紅嵐の会話に穂奈美は溜め息をつきながら呟いた。


「でも紫珱さま、もう少し……せめて十日は待ってもらいたいのです」


「なぜだ」


「それは花嫁衣装のためだからです」


「衣装?」


 穂奈美は頷くと、美琴に視線を向けて優しく微笑んだ。


「素敵な衣装を手配しましたの。本当はまだ私と真紀乃さまとの秘密でしたけど」


「女将さんと?」


 驚く美琴に穂奈美は頷き、そして言った。


「花嫁衣装は真紀乃さまがどうしても用意してやりたいからと仰って。内緒で支度をさせてあげたいと言われて私に相談されたんです。つい先日も私と真紀乃さまで一緒に出かけて選んできたんですよ。仕立て屋にはなるべく早くと頼んでありますが、なにせ花嫁衣裳ですからね、そう簡単には出来上がりません。でもとても美しい反物で仕立てる衣装なんですよ。紫珱さまだって見てみたいでしょう?美琴さまの花嫁姿を」


「ぁ……ああ。そうだな」


「それに花嫁衣裳だけじゃありません。女子の輿入れにはいろいろと準備がかかるものですからね」


「そうか、判った。では十日だ。それ以上は待てないぞ」


「ええ、いいですわ三日後には寸法を合わせたり仮縫いのために衣装屋からお針子が来る予定なんです。良かったですね、美琴さま」


「……はい」


 返事はしたものの。


(十日……)


 花嫁衣装のことも驚いたがあと十日しかない。

 たった十日しかもうここには居られない。

 知らない場所へ嫁ぐという現実に、美琴は不安になった。


「あ、そうだ紫珱。帰るまで俺もこの部屋を一緒に借りるからな」


「なんだと?」


 紅嵐の言葉に食べかけていた団子が危うく喉に詰まりそうになる紫珱だった。


「冗談だろ。おまえと相部屋なんて我慢できるか」


「仕方ねぇだろ。穂奈美はリンと相部屋だ。ここの屋敷もそれほど広くはねぇし、女将もこちらに当てがう部屋のことで頭を悩ましているだろうしな」


「だったら……。そうだな、俺はこれから美琴の家へ移る。おまえたち夫婦がこの部屋を借りたらいい」


「えっ、いいのかよ」


「ああ。いいな?美琴」


「……は?」


「いろいろと早く慣れた方がいいからな。俺は今日からおまえと過ごしたい」


(えぇッ⁉)


 美琴はおもわず助けを求めるように穂奈美に視線を向けたのだが。


「そうですね。リンの借りている部屋で紅嵐も一緒となると狭いですし。では紫珱さまのお言葉に甘えさせてもらいますね」


「で、でででもっ!」


「何か不満なのか?」


 こちらを睨みながら、探るような視線を向ける紫珱に美琴は身を縮めた。


「いえ、あのッ、不満というか……だって……。わたし、まだ妻には……」


 普通、輿入れが先では?

 式も挙げてないのに!

 そう言いたかったのだが。

 紫珱の眼差しが怖くてなにも言えない。


「まだでなくてもこれからなるのだ、同じようなものだろ」


 紅嵐の言葉に穂奈美も頷いて続けた。


「大丈夫ですよ。紫珱さまはお優しい方ですから、いろいろ無理強いなどしませんよ。ねぇ、紫珱さま?」


「もちろんだ」


 お団子片手に紫珱は答えた。


「それに、妻は旦那さまのお世話を第一に考えなくてはね」


 穂奈美の言葉に頷きながら紅嵐が言った。


「じゃあ決まり。これ食ったら移動な」


 動揺し続ける美琴などお構いなく、その後のお茶の時間は和やかに流れ、おやつはそのほとんどが紫珱の胃袋へ収まり、きれいに片付いた。


「───あ、そうだ。おまえに知らせがあったんだ」


 部屋を出ようとした紅嵐が紫珱に近寄り、その耳元に何やら囁く。


 紫珱の表情が険しく変わったような気がした。


 けれどそれは一瞬で、美琴は茶器や皿の片付けに気を取られ、次に紫珱を見たとき表情は普通に戻っていた。


「───ま、せいぜい頑張れよ」


 紅嵐は苦笑いにも似た顔で紫珱の背中を叩くと、先に戸口で待っていた穂奈美と部屋を後にした。



「美琴」


「……はいっ?」


 二人だけになった部屋で近寄る紫珱に美琴は反射的に身構えた。


 紫珱はしばらく美琴を見下ろしていたのだが、


「……いや、なんでもない。俺はもう少し寝たいんだ。先におまえの家に行ってる」


「あの、お部屋は入ってすぐ右側を使ってください。戻ったらすぐにお布団を敷きますから」


「慌てなくてもいい、俺の荷物はあそこにあるから持って来てくれ」


 見ると部屋の隅に中位程の布包みが置かれてある。


「紫珱さま、荷物なんて持って来てましたっけ?」


「持ってきたのはラセツだ」


「あの、ラセツさんはどこで寝泊まりを?」


「さあな。基本、精霊はどこでも眠れる奴等だからな。穂奈美殿はリンを可愛がっているから別だが。ラセツのことは心配しなくてもいい」


「……はぁ」


「じゃあ先に行ってる。早く片付けを終わらせておいで」


 こう言って、紫珱は美琴に背を向けると霊獣の姿に変幻し、部屋を出て行った。