家に戻った美琴は鏡台の前で絶句した。


 髪も衣服も乱れていて、顔は紫珱の言った通り茹で上がったように真っ赤だ。


 美琴はたまらなく恥ずかしくなって、自分の頬をパチパチと叩いた。


 そして首筋にある朱の葩に触れた。


 その場所はなんだか熱を帯びたように熱く疼いていた。


 鏡に映る自分はまだ泣きそうな顔をしている。


(そんなに簡単に慣れっこない。でも……)


 優しく触れてきた紫珱の手の感触と抱き寄せられたときの感覚や、ときおり見せる微笑みが美琴の中に残されていて。


 怖れや不安があるはずなのに。


 何度も思い返してしまうのはなぜだろう。


 フワフワとしたよくわからない感情に翻弄されている。


 今はとにかくお茶の用意をしよう。穂奈美さまも呼んで。


 でもその前に乱れ過ぎた髪を整えなくては。


 美琴は溜め息をつきながら髪を梳きはじめた。



 ♢♢♢


 しばらく経った後、美琴は蜜華亭に赴き穂奈美の部屋を訪ねた。


「紫珱さまは元気になりましたか?」


「……は、はい」


 寝台での戯れを思い出し、美琴はまた顔が火照るのを感じた。


「今、ラセツさんと話をしていてお茶はその後にと。そろそろ伺ってみようかと思ってます」


「そうだ美琴さま。明日はぜひ一緒にお買い物がしたいのですけど、いいかしら?」


「はい、もちろんです。沙英の街を案内させてください」


「まあ、嬉しい。楽しみですわ〜」


 和やかに二人で微笑み合っていると。


(……なんだろう?)


 何やら店の方から騒がしい声が聞こえた。


 使用人たちの慌てる声。


 そして乱暴に廊下を歩くような音が近付いてくるような……?


「何かあったのかしら?」


 美琴と穂奈美が顔を見合わせたそのとき、



「───ここか!穂奈美っ」



 部屋の戸が開けられ、一人の男が現れた。



紅嵐(コウラン)⁉」



 穂奈美が驚いて声をあげた。


 こうらん……って。───ええ ⁉


 じゃあ、この方が穂奈美さまの旦那さま?


 今は人の姿をしているけれど。


 西方の彩都『凉珪』。

 その領主にして領地を守護する霊獣。

 短く刈った銀髪。

 切れ長の瞳は鳶色。

 灰青色に銀糸で四つ葉模様が刺繍された装束を着た大柄なその容姿は、荒々しい猛者という風体で。

 その雰囲気は凶暴な熊を思わせる。そんな印象だった。


「紅嵐ったらっ。もお!なによ、突然失礼ね!」


「し、失礼だと⁉」


「だってそうじゃない。来るならちゃんと使いくらい先に来させるべきよ。びっくりするじゃない!」


 紅嵐の鋭い眼光など物ともせず、穂奈美は彼を叱った。


「仕方ないだろ!」


「仕方なくありません!他所様のお宅で、婦人の客間を突然開けるなんて。私はそんな無礼な方の妻になった覚えはありませんわ」


 ぷいとそっぽを向いてしまった穂奈美に、紅嵐は困ったような視線を向けた。

 その様子は荒々しさが感じられる紅嵐の雰囲気を一変させるものだった。


「……あ、あのな穂奈美………。おい、……あのさ、……まあそんなに怒るなょ……」


 視線を逸らしたまま無言の穂奈美に、紅嵐はがっくりと肩を落とすと溜め息をついた。


 そして次に美琴へと視線を向け「失礼をした」と頭を下げた。


「まったく。いっつもこうなんだから。美琴さま、紹介しますね。彼は紅嵐。一応、私の大切な旦那さまです」


「一応ってなんだよッ」


 拗ねるような口調で訴える紅嵐を無視し、穂奈美は続ける。


「紅嵐、こちらが美琴さま。紫珱さまに選ばれた方です」


「そうか。あんたがあいつの嫁さんか。よろしくな」


「よ、よろしくお願いします」


 ぺこりとお辞儀をする美琴を見つめ、紅嵐は目を細めた。


 その笑顔からは僅かだが紫珱の面影が重なって。


 似ている、と美琴は思った。



「それでどうしたんですか紅嵐。急に来たりして」


「どうしただって?おまえを迎えに来たんじゃないか。いい加減、早く戻れ」


 美琴の視線などお構いなしに、紅嵐は穂奈美にズカズカと近寄って抱擁した。


「───ちょっ⁉ やだっ、もおっ。人前で何よッ!」


 ぺし!


 穂奈美が紅嵐の頬を軽く叩いた。


「ってえな〜。んだよ!まったくおまえときたら……」


 叩かれた頬に手を当てながら、ふくれっ面で何やらぶつぶつと呟く紅嵐を尻目に、穂奈美は美琴に向いて言った。


「美琴さま、ごめんなさい。先に紫珱さまとお茶を楽しんでいてくださいませ。私は少しばかり旦那さまにお灸を据えてから参りますので」


「……はぁ」


 叩かれたり、お灸、などと言われても、なぜか嬉しそうにまた穂奈美を抱きしめようとする紅嵐の様子は見ていて目のやり場に困ること確かなようで。


「わかりました、ではまた後で」


 こちらが赤面しないうちに美琴は部屋を出ることにした。



 ♢♢♢



「ふうん、あれがねぇ」


 美琴が去った後、穂奈美を抱きしめながら紅嵐は呟いた。


「ずいぶんと気弱そうで幼い感じの娘だなぁ。紫珱のやつをしっかり覚醒させられんのか?」


「ああ見えても、美琴さまはとてもしっかりしている娘さんですよ。意外と子供っぽいのはむしろ紫珱さまかもしれませんわねぇ。どこかの誰かさんと同んなじ……ぅん…っ……」


 言葉は途中で途切れ、穂奈美の口元は紅嵐の唇によって塞がれてしまった。


「も、もう……紅嵐ってば。他所様のお宅でこんな……ぁ、んっ……もう、どこ触って……ッ!」


「俺が何日我慢したと思ってんだ。さっさと帰ってこないからこうして……。少しくらいいいだろ、もう少しだけ……」


「……っぁ、…す、少しだけなんですから、ねっ……」


 腕の中で頬を染め上目遣いで瞳を潤ませる愛妻に、紅嵐は優しく微笑み頷くと再び愛しい妻の唇をゆっくりと塞ぐのだった。