誰かに。
呼ばれたような気がして。
美琴は動かしていた手を止めた。
(なんだろう? まただ……)
それは三日前から度々あることだった。
一日に幾度も感じる空耳に、美琴は振り向き視線を巡らせてみるのだが誰もいない。
今もまた、おかしいなと首を傾げながらも、中断していた野茨の赤い実を摘む作業を再開させた。
初夏に白い花を咲かせる野茨は、冬のはじめに赤い実をつける。
これを摘み、果実酒を作り、焼き菓子などの風味付けに使う。
花の香料なども混ぜ、毎年夏季限定で作られて売られる菓子は、美琴が働く甘味茶屋〈蜜華亭〉で人気の品だった。
果実酒の他にも、実を粉にして乾燥させるとお腹の薬になるのだと薬師だった祖母が教えてくれた。
蜜華亭と美琴の住居は隣り合っていて、祖母の代から親交があった。
茶屋の庭に植わる野茨の実を祖母は毎年分けてもらい、そのお礼として作った果実酒をお返ししていたのだ。
美琴は白い野茨の香りが大好きだった。
病弱だった母が、まだ五つになったばかりの美琴を連れ祖母を頼ってこの街、沙英に来たときも、この野茨がたくさんの花を咲かせていた。
お隣の庭に咲く白い花は眩しく、風が運ぶ甘酸っぱい香りは慣れない土地で不安になっていた美琴の心を不思議と落ち着かせた。
祖母は寡黙だが優しく、薬師の評判も良かった。
母は臥せっていたことが多かったが、手先が器用でお針子の内職をよく受けていた。
けれど美琴が十一歳のときに母が亡くなり、高齢だった祖母もその二年後、この世を去った。
天涯孤独となってしまったが近隣の住民は皆親切で、特に隣家〈蜜華亭〉の女将、真紀乃は親代わりのように接してくれた。
そんな真紀乃の勧めもあり、祖母が亡くなってから美琴は蜜華亭で働き始める。───それから三年。
美琴は十六歳になった。
♢♢♢
───うん。そろそろ、いいかも。
「美琴ちゃん、終わった?」
小籠いっぱいに摘み終えたとき声がした。
この声は不思議な空耳などではなかった。
振り向くと店の仕事着である藍色の袷衣に、白い前掛け姿の女性が戸口に立っていた。
彼女は瑠香という名で蜜華亭の従業員だった。
美琴は店の裏方で調理や雑用担当をしているが、瑠香は店内の接客担当だ。
小柄で地味な印象の美琴とは逆に、瑠香は長身で華やかな雰囲気の美人だ。
美琴より三つ年上の彼女は春に結婚したばかりの新婚さんで、暇さえあればお惚気話をしたがる。
もともとの話好きが、仕事中もお喋りが過ぎて女将さんに注意されることも度々だが、朗らかで憎めない性格だった。
「美琴ちゃん、今日は午後からお休みでしょ。支度があるだろうから、女将さんがそろそろお昼ご飯にしてもいいって。……んふふ」
意味あり気に微笑んで瑠香は美琴の顔を覗き込み、そして言った。
「彼氏と待ち合わせだって?」
「か、彼氏だなんてっ、まだそんなんじゃなくて……。とりあえず友達からって話で……」
「ふふ。美琴ちゃんってば真面目すぎ〜」
赤くなった美琴の頬を指でつんつんしながら瑠香は笑った。
「もお! 瑠香さんってば」
五日前。
真紀乃の知人からの紹介で美琴は見合いをした。
相手は街の医院で働く鷹也という名の青年で歳は二十才。
内気で人見知りな性格だった美琴に、鷹也はのんびりとした会話で接してくれた。それは美琴にとってとても心地良いもので、穏和な鷹也の人柄は好印象だった。
見合いから二日後に「もう一度会いませんか」との文があり、今日の午後二人きりで会うことになったのだ。
「美琴ちゃんのことだからぁ、夕べはドキドキしちゃって眠れなかったとか……。当たり?」
瑠香のひやかしに返す言葉もみつからないまま、美琴は丸い顔を赤くして林檎のように固まってしまう。
異性と付き合ったことなどない美琴にとっては男性と二人きりで会うことなど、とても勇気のいることだった。
それでも見合いを受けたのは内向的な自分の性格を少しでも変えたいという思いがあったことと、毎日幸せそうな瑠香を見ていて羨ましく思えたからだ。
誰かを好きになること。そして誰かに好きになってもらうこと。
そんな体験を自分も経験できたら。
恋愛に憧れる淡い感情も、見合い話を受ける後押しとなった。
「どんな服で行くか決めた? 髪型は? お化粧は?」
瑠香が瞳を輝かせながら勢いよく聞いてくる。
「瑠香さんに髪を結うの手伝ってほしくて」
「うんうん! 任せて。とびっきり可愛くしてあげるっ。美琴ちゃんの艶っつやでサラッさらな黒髪、上手く結ってあげるから」
仕事中、髪は一つに結い上げ丸くまとめて三角巾を被る決まりだった。
美琴の髪は下ろすと腰まであり結うのが大変だったが、艶の良い髪は綺麗だとよく褒められ、美琴の自慢でもあった。
「さあ、戻ってお昼ご飯にしよ。楽しみだなァ、どんな髪飾りにしよっか。……あれ、美琴ちゃん?」
(あ。また……聴こえた)
再び誰かに呼ばれた気がして。
美琴は立ち止まり、辺りを見回した。
「美琴ちゃん、どうしたの?」
「誰かが、わたしを……」
いったい、だれ?
「……だ、れ?」
このとき初めて美琴は呼び声に返事をした。
───『……っ! ……えたっ!』
美琴の耳に、それまでとは違う響きの声が届いた。
ぼんやりと感じられたものではなく、それははっきりとした響きだった。
『きこえた』と。
確かに人の声が天から……。
美琴は視線を空へ向けた。
「瑠香さんには聴こえませんか? あの声」
切なく、胸に迫るような……声が。
───『……いちど………をしてくれ!』
『もう一度、返事をしてくれ』と美琴には聴こえた。
「私には何も聞こえないよ、美琴ちゃん」
瑠香が訝るように美琴を見つめた。
(……わたしはここ)
───『頼む! もう一度! そしたら……』
「……誰ですか? 」
───『行ける!』
「わたしはここに……」
───『見つけた!』
突然、見上げていた空から強い風が吹いて美琴はおもわず目を閉じた。
風は一瞬で止み、美琴が再び目を開けると視線の先には何かキラキラしたものが舞っていた。
(銀色の……雪?)
「ようやく、言霊を返してくれたか」
その声は美琴の知らない男性のものだった。
「よかった。やっと見つけることができた、我が妻を」
わが……
つま?
冷たい冬の風と共に現れたのは人間の声で話す大きな獣だった。
それは子供の頃に読んだお伽話で異獣が描かれた書物に載っていた〈オオカミ〉という動物に似ていた。
全身を覆うふさふさとした毛は月光のように輝き、毛先からは白銀と混ざる虹色が淡く不思議に煌めく。
成人男性を背に乗せて駆けられるくらいの大きな体躯。
夕闇を思わせる青みがかった紫の双眸。
美琴を見つめるその眼の中、眼球の中心は金色だった。
───怖い。
けれど美しい……。
「霊獣! 美琴ちゃん、まさか霊獣の声を聴いたの!?」
瑠香がとても驚いたように言った。
「これが……霊獣?」
自分を捉える紫の眼。
人のものではない眼差しに美琴は次第に恐ろしくなり、身体が震えた。
足が竦んで動けなくなる。
「名を教えてくれるか?」
「名前……わたしの?」
「美琴ちゃんっ、霊獣と話せるの!?」
頷く美琴に瑠香は青ざめた。
「……美琴ちゃんが、言霊を受けちゃった……。大変! 女将さんに知らせなきゃ!」
瑠香が慌てて屋敷へ戻っていく。
瑠香には霊獣の声が聴こえていないようだ。
……そうよね。
貴族以外の人間は霊獣と話せないもの。
……あれ?
だったらなぜ、わたしは霊獣と話してるの?
恐怖と緊張で、美琴の思考力が鈍る。
「おまえの名を教えてほしい」
霊獣が再び問う。
その声は優しく耳に残り、何故なのか返事をしなければと思わせる響きだった。
「わたしは美琴」
「ミコト。我が名は紫珱」
「シオウ……。わたしを呼んでいたのはあなたなの?」
「ああ、そうだ。ずっと呼んでいた。応えてくれるのを待っていた、美琴。もう一度その声で俺を呼んでくれ」
近付く獣に美琴は後退った。
「……俺が恐ろしいか?」
霊獣の眼が、どこか悲しげに揺らいだ気がした。
「あの……なぜ、わたしとあなたはお話ができるのですか?」
霊獣の縁者である貴族の家柄に産まれた者でなければ、霊獣との会話はできないはずだった。
「それはこれが『選定の儀式』だからだ」
「せ、せんてい⁉ ……ま、まさか」
「ああ、そのまさかだ。美琴は〈選ばれし者〉だ」
霊獣が一瞬、嬉しそうに笑った気がした。
「ミコト、おまえは今、俺と言霊を交わし縁を結んだ。これに意味があることくらい知っているだろう、彩陽国の民ならば。ほら、その証もすでに現れているぞ」
突風で飛ばされたのか、被っていたはずの三角巾が無い。
結っていた髪もかなり乱れていた。
触ると馴染んでいた髪の感触がなかった。
サラサラとは違う、ふんわりと美琴の指に絡まるそれは……。
それはまるで陽光を含んで光る蜂蜜色だった。
長さは変わらないが、ふわふわくねくね、ゆるゆると。癖のある髪質に変化していた。
「……うそ。こんな……⁉」
茫然とする美琴に霊獣は言った。
「美しい髪だ。瞳の色も変わるとは、深い縁を得た証だ。俺と同じ紫……いや、ミコトの方が淡く明るい藤色かな。よく似合ってる……美琴、とても綺麗だ」
う、うそ……。
嘘でしょ、こんなの!
髪の色や質だけでなく瞳の色もなんて……そんな……
わたしが……
選ばれた……!?
……霊獣に。
───なんだろう。
胸の辺りが苦しくて。
……頭がくらくらする。
美琴の視界がぐるりと揺れた。
視線の先に、ふわりと宙に舞い上がる蜂蜜色の髪が見えた。
意識を手放す直前に、それは霊獣の放つ銀色の中で煌き、風に靡いた。