もし、僕の両親が離婚していなかったら、僕と菜緒ちゃんは一体どういう人生を歩んでいたのだろうか?
 小学校の教師として就職も決まり、つい最近に大学を卒業したばかりの僕は、石垣島に向かう飛行機の中で、菜緒ちゃんのことを考えていた。菜緒ちゃんは五つ年上の僕の従姉だった。菜緒ちゃんは、僕にとって姉であり、幼馴染であり、初恋の人だった。更に言うと、僕と菜緒ちゃんは幼い頃に将来を誓い合った仲だった。そして今、僕は菜緒ちゃんのいる島に向かっているところだった。

 菜緒ちゃんは、父の実家を継いだ伯父の一人娘だった。父の実家は沖縄県石垣島の沖にある小さな島だった。その島は殆ど全ての家が、昔ながらの伝統的な作りで、赤瓦の屋根には、それぞれ個性豊かなシーサーが鎮座していた。どの家も、単に石を積み上げただけの素朴な石垣に囲まれ、門と家屋の間にはひんぷんと呼ばれる魔除けの壁が立っていた。
 珊瑚が砕けてできた白い砂が敷き詰められた道を歩けば、一年中赤い花をつけているハイビスカスを初めとする南国の花々が、そこここに見られた。そこは、まるで琉球の昔に迷い込んだような感覚すら覚える島だった。故に、都会では考えられないような古い風習が今も残り、信じがたい伝説が今も語り継がれている場所だった。

 赤ん坊の時から、僕は父に連れられ、その島にある父の実家を何度も訪れていた。菜緒ちゃんは、四歳の時に、可愛がっていた幼い弟を失くしていた。伯父夫婦は、弟はすぐに生まれ変わって菜緒ちゃんの許に戻ってくると気休めの嘘をついていた。僕がその直後に生まれたものだから、小さい頃の菜緒ちゃんは、僕を弟の生まれ変わりだと信じ、実の弟のように可愛がってくれていた。
 
 僕が四歳の時、母は僕を置き去りにして家を出て行ってしまった。夫婦仲はそれ以前から冷え切っていたようで、父が発展途上の国に配属されることが決まったのが引き金になったらしい。
 治安も教育環境も極端に悪いその国に、母親もいない僕を連れてゆくことを父はためらった。その結果、僕は父の実家に預けられることになった。そして僕は、小さな島で、菜緒ちゃんと姉弟のように育てられた。僕たち二人は喧嘩をすることもほとんどなく、とても仲が良かった。

 それは、まだ僕が五歳、菜緒ちゃんが十歳の時の大晦日のことだった。一時帰国していた父も島に来ていた。夕食が終わる頃、父も伯父もすっかり酒が回りご機嫌だった。食卓の近くで仲良く遊んでいる僕たちを見て、不意に伯父が冗談めいた話を切り出した。
「お前たち二人、本当に仲が良いな。いっそ将来は結婚したらどうだ?」
「ああ、それはいいかもしれないな」
 父も無責任に伯父の提案に賛同した。
「結婚するって、どういうこと?」
 僕は即座にそう尋ねた。
「俺と伯母さんみたいに夫婦になって、健が、菜緒とずっと一緒に暮らすことだよ」
 伯父さんが言ったことは、幼い僕にはとても素晴らしいことに思えた。
「ああ、それ良いな。僕、菜緒ちゃんと結婚したい。ねえ、菜緒ちゃん、僕と結婚してくれる?」
 結婚の持つ意味もろくに分からないまま、僕は無邪気に菜緒ちゃんにプロポーズをしていた。
「いいよ。私、大人になったら健ちゃんのお嫁さんになってあげる」
 菜緒ちゃんは笑顔でそう答えてくれた。五歳の僕は、その言葉をそっくりそのまま受け止めた。だから僕は、大人なになったら菜緒ちゃんと結婚するという未来を信じて幼少期を過ごした。

 そして僕は時折、菜緒ちゃんに尋ねた。
「ねえ、菜緒ちゃんは将来、僕のお嫁さんになってくれるんだよね」
「うん、なってあげるよ」
 尋ねる度に、菜緒ちゃんはそう答えてくれた。その答えを聞くのが、僕はすごく嬉しかった。

 しかし、僕たちが成長するにつれて、そんな、ままごとのようなやり取りは次第に影を潜めるようになった。
 そしてついに、僕の小学校入学の前日、菜緒ちゃんに念を押された。
「ねえ、健ちゃん。いつ、どこで、誰に聞かれるか分からないから、これからは結婚のことを話すのは止めようね。小学校でも決して誰にも言わないでね」
 僕が寂しそうな顔をすると菜緒ちゃんは明るく笑った。
「大丈夫よ、心配しないで。私、ちゃんと健ちゃんのお嫁さんになってあげるから。ただ、このことは私たち二人だけの秘密にしておこうね」
 菜緒ちゃんにそう言われても、僕は少し不安になった。それまで信じていたことが揺らいだような気がした。菜緒ちゃんが少し僕から離れていったような気がした。
 しかし、それで僕たちの間に隙間風が吹いたわけではなかった。僕は毎朝、菜緒ちゃんと手をつないで一緒に小学校に行くのが楽しみだった。菜緒ちゃんの手の温もりは、僕の抱く不安を和らげてくれた。
 
 けれど、翌年、菜緒ちゃんが中学生になり、僕が小学校二年生になると、僕は菜緒ちゃんに悲しい宣告をされた。
「健ちゃんも、もう新入生じゃないし、私も中学生になったから、手をつないで学校に行くのは止めようね」
「そうだね、僕も子供っぽく見られるが恥ずかしかったんだ」
 僕は嘘をついた。小学校も、中学校も同じ敷地内にあったので、これからもずっと、手をつないで学校に行きたかったというのが本音だった。
 
 僕が小学四年生の時、菜緒ちゃんは中学三年生だった。菜緒ちゃんの卒業式の前日、こんなことがあった。
 僕が校庭で同級生と遊んでいると、体育館の角に五・六年生数名がいるのが目についた。彼らは体育館の裏をこっそりとのぞき見しているようだった。そのうちの一人、昇君が僕に気づいて手招きをした。僕が近づいてゆくと昇君は楽しそうに僕の耳元で囁いた。
「おい、菜緒ちゃん、昭君に告白されたみたいだぜ」
 昇君の言葉が気になって、僕も体育館の裏を覗いてみた。二人は少し離れたところにいた。
「ねえ、『告白』って何?」
 僕は昇君に尋ねた。
「何だ、お前、そんなことも知らないのか。『好きだから付き合ってください』と言うことだよ。中学の卒業の頃に告白するのは良くあることなんだぜ」
 菜緒ちゃんが男の子から好きだと言われた。そのことは僕を不安に陥れた。僕は改めて二人の方を見てみたが、距離があったので、結果がどういうことになっているのかは分からなかった。

 帰り際、僕は昇降口で菜緒ちゃんと顔を合わせた。
「ああ、健ちゃん。一緒に帰ろう」 
 何事もなかったように菜緒ちゃんは声を掛けてきた。僕が告白の現場を見ていたことなど知りもしないのだから当たり前だった。
 僕たちは並んで校門を出て、家の方に向かった。
「ねえ、健ちゃん、機嫌悪そうね。何か嫌なことでもあったの?」
 何年も一緒に暮らしてきていただけに、菜緒ちゃんは僕からにじみ出ていたものを見逃さなかった。
「別に、何もないよ」
「そう、なら良いんだけどさ」
 僕のことなどどうでもよいのかと、少し腹が立った。そして、その小さな怒りは、僕の言葉を投げやりなものにした。
「菜緒ちゃん、昭君に告白されたの?」
「え、見てたの?」
「ああ、でも僕だけじゃないから。僕は昇君に呼ばれて行ったんだからね」
 我ながら妙な言い訳をしている自分が情けなかった。菜緒ちゃんが、どんな表情をしているのかと気になって横を向くと、菜緒ちゃんはどこか嬉しそうだった。
「告白されたのが、そんなに嬉しかったの?」
 僕が尋ねると、菜緒ちゃんは首を横に振った。
「ううん、違うよ」
「そう、嬉しそうに見えるけど」
「健ちゃん、やきもち焼いてくれたんだね。でも、安心して、ちゃんと『ごめんなさい』したから」
 言い終えると、菜緒ちゃんは僕の手を取った。
「止めてよ、もうガキじゃないんだから」
 僕は気持ちと裏腹にその手を振り払った。
「いいじゃない、たまには」
 もう一度、僕の手を取ったその温もりを、僕はもう振り払おうとは思えなかった。
 夕陽を浴びた家々の赤瓦がやけに温かく見えた。
 
 将来は島の小学校の先生になりたいと言っていたのに、菜緒ちゃんは中学を卒業するとすぐに、観光客相手のレンタサイクル店に就職してしまった。小学生の僕でも、伯父の家の家計が急速に苦しくなっていることは、どことなく感じていたが、そこまでとは思っていなかったので、ショックだった。
 菜緒ちゃんが働き始めると、僕たちが一緒に過ごす時間が一気に減った。まだ十一歳で、小学校五年生の僕と、十六歳とはいえ、すでに社会人の菜緒ちゃんの間では共通の話題も少なくなってきていた。
 それでも、僕たちは相変わらず仲が良かった。菜緒ちゃんは、土日に休みが取れた時には、僕を石垣島に連れて行ってくれた。一緒にボーリングやゲームをした後、島では食べられないハンバーガーを食べさせてくれたりもした。だから僕は、不安を抱えながらも、菜緒ちゃんは将来、僕と結婚してくれるものと、まだ思っていた。
 
 
 小学校六年生になり、もう少しで中学生になろうという頃になると、さすがに僕も常識的なものの見方ができるようになってしまった。
 僕たちが結婚の約束をしたのは僕が五歳、菜緒ちゃんが十歳の時のことだった。そして、僕たちが最後に結婚の話をしてから、すでに六年近くの時が過ぎていた。普通に考えれば、菜緒ちゃんも幼い日の婚約は今も有効だと思っていると信じる方がどうかしていた。
 将来は菜緒ちゃんと結婚するのだと信じて生きてきた自分が、僕は急に愚かに思えてきた。なんと、幼稚だったのだろうかと、恥ずかしかくなった。とはいえ、物心ついた頃から抱いてきて菜緒ちゃんへの想いは、ますます、強くなるばかりだった。
 小学生という社会的には無力な立場にいるのに、体の一部だけが大人になったのが悲しかった。夢に出てくる菜緒ちゃんは、もはや姉でも従姉でもなかった。 
 
その頃、僕の人生を揺るがす事態が起こった。
 父が帰国し、また東京で一緒に暮らすことになったのだ。僕は島の中学を卒業するつもりでいたのだから、正に大事件だった。僕は必死に父に懇願したが、認めてはもらえなかった。
 父が日本にいて、僕も、もう中学生になるのだから、いつまでも伯父の家に迷惑はかけられないと言われた。伯父の家の家計が苦しいことも、もはや、はっきりと自覚していたので、僕も父の言葉に従うしかなかった。
 
 小学校の卒業式の翌日、僕は菜緒ちゃんと二人きりで石垣島のホテルのレストランで昼食を取った。菜緒ちゃんが僕の卒業祝いをしてくれたのだ。
 僕にとっては、生まれて初めてのフルコースのディナーだった。二人とも未成年だったので、乾杯で飲んだのは赤ワインを模したジュースだった。
 そして、それは、菜緒ちゃんによるテーブルマナー講習会でもあった。菜緒ちゃんは丁寧にナイフやフォークを使う順番など教えてくれた。
 いつもとは違い、少し着飾って、薄く化粧もした菜緒ちゃんは驚くほど奇麗だった。僕を置き去りにして、菜緒ちゃんが一人でどんどん大人になってゆくような気がして少し寂しかった。
 デザートも食べ終わりコーヒーが運ばれてくると、菜緒ちゃんに聞かれた。
「ねえ、健ちゃんは将来、どんな仕事に就きたいの?」
 その質問をされて、僕は答えに躊躇した。決まっていなかったからではなかった。答えた時の菜緒の菜緒ちゃんの反応が楽しみでもあり、怖くもあったからだ。
「僕は、島の小学校の先生になって、ずっと島で暮らしたいんだ」
 本当は『菜緒ちゃんと一緒に』という言葉が入るのだが、それは言えなかった。
 菜緒ちゃんは僕の答えに対して、複雑な表情を見せた。僕は、それをある程度予期していた。僕が語ったことは、かつて菜緒ちゃんが諦めた夢だったからだ。
 最初は複雑だった菜緒ちゃんの表情は、次第に笑顔に変わっていった。
「素敵な夢ね。でも、小学校の先生になるためには、結構良い大学を出ないといけないの。でも、ちょうど良かったわ」
 菜緒ちゃんは笑顔を見せると、バッグの中から奇麗に包装された小さな箱を取り出し、それを僕に差し出した。
「はい、これ、健ちゃんの卒業祝い。電子辞書よ。大学受験まで使えるものを選んでおいたから」
「ありがとう、菜緒ちゃん。大切に使うよ」 
 僕はプレゼントの箱を手にして上機嫌だった。生まれてから一番のプレゼントをもらったような気がした。

 そして、僕が島を出る日が二日後に迫った夜、予想外の展開があった。
 僕たちは昔からよく家の軒下に腰を降ろし、菜緒ちゃんの弾く三線に合わせて一緒に歌を歌ったりしていた。しかし、いつの間にか僕は、一緒に歌うよりも菜緒ちゃんの歌と三線に黙って耳を傾ける方が好きになっていた。だが、その日は、菜緒ちゃんの歌も三線も、僕の耳をほとんど素通りしていた。
 はっきりさせなければいけない時が来たと、僕は思っていた。
 菜緒ちゃんが結婚の約束を、まだ有効だと思っていると信じるのは馬鹿げていたが、それでも、「もしや」という思いはあった。それを確かめないままに東京に帰ることはできなかった。
 三線の音が途切れた時を見計らい、僕は話を切り出した。
「ねえ、菜緒ちゃん、昔、約束したこと、まだ覚えてる?」
「ああ、結婚のこと?」
「うん、そのこと」
 意を決したつもりだったが、僕は言葉に詰まった。僕が言い出しにくいことを口にできずにいると思ったのか、菜緒ちゃんの方が逆に聞いてきた。
「もしかして、健ちゃん、東京に帰るから、婚約破棄したいの?」
「『婚約破棄』って何?」
「約束はなかったことにして、私とは結婚しないってことよ」
 菜緒ちゃんの言葉には、少しばかり寂しさが滲んでいるような気がした。僕はすぐさま菜緒ちゃんの言葉を否定した。
「まさか、違うよ、全然違うよ」
 僕は焦った。お陰で次の言葉は少し大声になった。
「僕は、絶対に菜緒ちゃんと結婚したい」
 僕の言葉を受けて、菜緒ちゃんは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、健ちゃん、明日、私と結婚する?」
「え?」
 菜緒ちゃんの意外な問いに、僕は思わず言葉を失った。小学生の僕でも、自分がまだ結婚できる年齢には程遠いことなど分かっていたからだ。
 当惑する僕の様子を楽しむような顔で、菜緒ちゃんは話を続けた。
「昔からの風習でね、この島では年齢制限なしで結婚ができるのよ。本人同士が同意して、神様の前で式を挙げればね。まあ、もちろん、法律的に認められたものじゃないけどね。でも、この島では神様の前で式を挙げることの方が、役所に婚姻届を出すよりも重要なことなのよ」
「そんなことができるんだ」
 僕は、まだ半信半疑だった。
「そう、できるのよ。どうする、明日、私と結婚する?」
「もちろんする。絶対する」
 僕には一片の迷いもなかった。
「そう、嬉しいな。ああ、まだ宵の口だから、私、これから、神職の方にお願いに行ってくるね」
 菜緒ちゃんは三線を片付けると、門の外に出ていった。

 菜緒ちゃんはしばらく帰ってこなかった。僕は不安を抱えたまま、軒下で帰りを待ったが、戻ってきた時の菜緒ちゃんの顔は晴れ晴れとしていた。
「『いくら何でも若すぎるだろう』って言われて、すぐには承知してもらえなかったけど、『年齢制限なしは、昔からの習わしだから仕方がない』って、最後は了承してもらえたわ」
「大変だったんだね、ありがとう」
 僕が礼を言うと、菜緒ちゃんは思い出したように念を押した。
「ああ、でも、このことは誰にも内緒だからね」
「うん、分かった」
 その後すぐ、僕たちはそれぞれの部屋に戻った。しかし、興奮冷めやらぬ僕は一晩中眠れなかった。
 
 次の日の夜中、僕たちはこっそりと家を抜け出して島の神様のお社に向かった。僕たちが到着した時には、すでに神職の女性が式の支度を済ませていた。神職の女性が昔からよく知っている近所のお婆さんだったのには少々驚いた。
 式そのものは、簡素で時間も短かったが、極めて厳かな雰囲気の中で行われた。それぞれの名前を書いた誓約書を神様の前に供え、神職が祈祷を済ませると式はそれで終わりだった。
 僕たちは神職から誓約書を手渡され、どちらかが神様の前で誓約書を破れば、離婚が成立すると聞かされた。もちろん、そんなことは起こるはずがないと僕は思っていた。
 式が完全に済むと神職の表情が緩んだ。そして、僕たち二人に優しげに語り掛けた。
「さて、これで、お前たち二人は、この島では夫婦だ。式は済んだから、これから言うことは近所の婆ちゃんの小言だ。いいか、お前たちは、まだ子供だ。式を挙げたからと言って、羽目を外したりするんじゃないぞ。まあ、二人は昔から真面目な良い子だから、そんなことはないとは思うがな」
 菜緒ちゃんは極めてあっけらかんと小言に応じた。
「うん、大丈夫。ちゃんとした夫婦になるのは健ちゃんが大学を出てからだから、そうね、十年後かしらね」
 もちろん僕も、すぐに菜緒ちゃんと本当の夫婦になれると思っていたわけではなかったが、十年という言葉を聞いて、昨夜からの興奮が一気にしぼんでいった。
「健、菜緒ちゃんの言う通りだ。十年、お前がきちんと自制するんだぞ」
 神職にまで念を押され、僕は「はい」と答えるしかなかった。
 十年は長いと思った。しかし、僕は待てる自信があった。
 だが、十年は菜緒ちゃんにとっては、より長い時間だった。僕より先に、どんどん大人になってゆく菜緒ちゃんが、変わらずに待ち続けるには余りにも長い時間だ。増して、僕たちは、今までと違って、離れ離れに暮らしてゆかなければならいのだ。
 十年という言葉が、僕の頭の上に重くのしかかってきた。結婚式を挙げたというのに、僕は、まだ不安を拭い去ることができなかった。
 
 翌日、僕は八年間暮らした島を出た。三月二十六日のことだった。
 その日、菜緒ちゃんは僕を港で見送ってくれた。
「東京には、可愛い子がいっぱいいるから、浮気しないでね」
 菜緒ちゃんが、冗談めかして言った言葉に僕は過剰に反応してしまった。
「うん、しない。絶対しない」
 菜緒ちゃんは僕の反応が可笑しくて仕方がないという顔をしていた。
 僕は、もう少し確かな言葉が欲しくて、更に言葉をつないだ。
「僕が大人になるまで、まだ随分あるけど、菜緒ちゃんは待ってくれるよね」
「うん、待つよ。夕べもそう言ったじゃない」
「十年、待ってくれる?」
「うん、ちゃんと待つよ」
 わざわざ確認をとったのに、僕は、まだ不安げな顔をしていたのか、菜緒ちゃんにつっこまれた。
「言葉だけじゃ信じられないから、キスでもしてもらいたいわけ?」
「まさか、そんなこと思っていないよ」
 慌てて否定したものの、顔が赤面していることに自分でも気づいた。
「う~ん、してあげたいけど、ここだと人目もあるしね。それに、小学生にはちょっとキスは早すぎるでしょう。せめて、中学生ぐらいにならないとね」
 わずか数日後ではないか、と僕は思った。
「キスは次に会った時にしようね。夏休みには、また、来てくれるんでしょう」
「うん、来る。絶対に来る」
 有頂天になった自分が恥ずかしかった。
「ああ、健ちゃん、そろそろ船に乗らないと」
 菜緒ちゃんに促されて、僕は船に乗り込んだ。
 僕が乗り込むとすぐに船は出港し、桟橋から離れていった。僕は船尾に回り、桟橋の端に立つ菜緒ちゃんに手を振った。菜緒ちゃんも大きく手を振り返してくれた。
 そうして僕は、菜緒ちゃんの姿がまったく見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。

 十七歳の菜緒ちゃんが、まだ小学生だった僕と将来を誓い合い、法的には無効な島の風習とはいえ、結婚式まで挙げた。そんな話はありえないと思う人がほとんどだろう。しかし、こう考えれば、そうでもあるまい。
 赤ん坊の時の僕は、菜緒ちゃんにとって弟の生まれ変わりだった。その赤ん坊は、母親に捨てられ、父親とも一緒に暮らせない可哀そうな男の子になった。一緒に暮らすようになって、その男の子は、ひたすら菜緒ちゃんに愛を乞う気弱な少年に育った。
 そんな少年を傷つけることなく、大人になるまで見守ってあげたい。菜緒ちゃんの心のどこかに、そんな母性があったとすれば、僕たちの関係は、それほど不思議なものではないと言えないだろうか。
 古今東西、世の中に溢れる常識外れの男女の物語に比べれば、僕たちのことなど、ありえないと騒ぎ立てるほどのものでもないだろう。

 僕が島を出て東京に帰ってから、僕たちは毎日メールを送り合った。メールの内容は、たわいもない日常のことばかりだったが、離れていても気持ちがつながっていると確信が持てるのが嬉しかった。そして、僕は、菜緒ちゃんと再会できる夏休みをひたすらに待ち続けた。
 五月も半ばに入り、中間試験も終わった頃、僕は夕食中に父に話しかけた。
「父さん、僕、今年は夏休みに入ったらすぐに島に行きたいんだけど、いいよね?」
 父の顔が少し曇ったのに気付き、僕は少し不安になった。
 父は茶碗と箸を置くと、顔が険しくなった。
「そのことなんだけどな」
 父は相変わらず険しい表情で先を続けた。
「結論から言う、今年は島へ行くのは諦めてくれ」
 天地がひっくり返るような父の言葉に、思わず僕は声を荒げてしまった。
「どうして?島で暮らし始める前から、夏はいつも島で過ごしていたじゃないか」
 僕の反応を、父は予想していたようだった。父の表情からは険しさが消え、申し訳なさそうな顔に変わっていた。
「なあ、健、お前、中間試験の結果がだいぶ悪かったよな」
 痛いところを突かれたと思った。しかし、父の言葉は僕を非難するような口調ではなかった
「実はな、担任の先生と電話で話したんだ。父さんも、自分の出た島の小学校のことを悪く言いたくはないが、やはり、都会の学校のようなわけにはいかないところがあるんだ。だから、この夏、お前には穴埋めをしてもらうことにした。担任の先生に相談して、お前の状況に適した予備校の講習も予約してある。家庭教師も手配済みだ。お前にとって島は故郷だ。友達にも会いたいだろう。でも、悪いが、この夏は島へ行くのは諦めて勉強に専念してくれ」
「僕に一言も言わずに、ひどいじゃないか」
 簡単に引き下がれるような話ではなかった。
「済まない。だが、分かってくれ。父さんだってお前が憎くてした訳じゃない。しかし、このままでは、お前は学校で落ちこぼれてしまう。今なら、まだ、遅れを取り戻せる。担任の先生が言うには、本来、お前は頭が良いから、もし今、頑れば、学校でもトップに立てる可能性が十分あるそうだ」
「僕は別にトップに立ちたいなんて思わないよ」
「そうか。父さんも、お前にトップに立って欲しいわけじゃない。中学で良い成績を取って、偏差値の高い高校に行ってもらいたいとも思っていない。本気でしたい仕事があるなら、中卒で就職したって文句は言わない。だが、将来、どんな道でも選べるようにしておくためには、きちんと勉強する以外、今のお前にできることはない。お前がしたいことが見つかった時、あの時、もっと勉強しておけば良かったと思っても遅いんだ。だから、今年の夏だけは、我慢してくれ。これから、ずっと島には行かせないと言っているわけじゃない」
 父の言ったことを、すぐに了解することなどできなかった。僕は何も言わないまま、夕食も食べきらずに自分の部屋に逃げ込んだ。
 僕はベッドに寝転んで天井を見上げた。悔しさが、じわじわとこみあげてきた。しかし、少し時が経つと、父の言っていたことが飲み込めてきた。
 小学校の教師になるには、結構ハイレベルの大学に入らなければならないことは菜緒ちゃんから聞いて知っていた。ならば、ここで落ちこぼれてしまうことなどできるわけがなかった。将来、菜緒ちゃんと一緒に島で生きていくことを考えれば、夏休みに島に行くことは諦めざるを得ないと思えてきた。僕は歯を食いしばって苦渋の決断をし、菜緒ちゃんにメールを送った。返事はすぐに返ってきた。
『残念だけど仕方がないね。キスはお預けだね。でも、冬には会えるよね。しばらく会えないからって、浮気しちゃだめだよ!』
 菜緒ちゃんのメールには、そう書かれていた。

 菜緒ちゃんからの日々のメールだけを楽しみに、僕は寂しい日々に耐えた。しかし、東京の暑さがすっかり収まった頃、菜緒ちゃんからのメールに変化が見え始めた。僕のメールの内容にはきちんとした対応の返事が返ってきたが、菜緒ちゃんは次第に自分のことを語らないようになっていた。
 そして、ついに菜緒ちゃんからのメールが途切れたのが、十月の初めだった。といっても、まだ数日のことだったので、慌てて家電に電話を掛けるのは控えた。
 そんなある日、父に突然、週末に島に連れていってやると言われ、まだ十二歳の僕は嬉々として石垣行の飛行機に乗った。
 
 飛行機はかなり遅れて石垣空港に到着した。
「う~ん。まずいな」
 石垣港行のバスに乗り損ねた後、父は腕時計を見て頭を抱えた。まだ、午前中で、島に行く船はいくらでもあったのに、なぜ父が慌てていたのか良く分からなかった。
「仕方がない、タクシーで行くか」
 父はかなり焦っているようだった。タクシーに乗り込むと疑問は更に膨らんだ。父が行き先として運転手に告げたのは、港ではなく、市街地の外れの方にあるホテルだった。タクシーの中でも、父はやたらと時間を気にしていた。
 タクシーがホテルに着くと、父はトランクを引いて走り出した。エレベーターに乗ると、ため息交じりに呟いた。
「ああ、もう着替えている時間はないな」
 ここまで来るとると、さすがに気になって僕は尋ねた。
「ねえ、父さん、どうして着替えるつもりだったの?なんでホテルなんかに来たの?」
「まあ、すぐに分かるよ」
 父がにやけた顔を見せたので、僕は、ようやく父が何かしらのサプライズを仕掛けたのだと分かった。
 エレベーターを降りると右手に白い扉があるのが見えた。雰囲気からして、僕は、そこがホテルの結婚式場なのだと気づいた。
「健ちゃん」
 左手から、驚いた様子の菜緒ちゃんの声がした。声のした方を向くと、純白のウェディングドレスに身を包んだ菜緒ちゃんが、ちょうど歩き出した足を止めたところだった。菜緒ちゃんの少し後ろには、礼服を着た伯父さんが立っていた。
「驚いたか、健、菜緒ちゃん奇麗だろう。お前をびっくりさせようと思って黙っていたんだ。菜緒ちゃん、お嫁に行くんだよ」
 僕たち二人の結婚のことなど知らなかった父は、自分が仕組んだことが、サプライズではなくカタストロフィ(大惨事)になったことにまるで気づいていなかった。
 真っ白なウェディングドレスに身を包んだ菜緒ちゃんは息を飲むほどに美しかった。しかし、菜緒ちゃんの顔に幸せそうな色は欠片もなかった。
 菜緒ちゃんは、なぜか僕よりも少し遠くを見ながら、ゆっくりと僕の方に歩いてきた。それから菜緒ちゃんは僕のすぐ前で足を止めた。
「健ちゃん、手紙読まなかったの?私たち、十日前に離婚したんだよ」
 あまりにも衝撃的な報告に僕は言葉を失い、身動きすら取れなかった。
 そんな僕を菜緒ちゃんはきつく抱きしめた。
「健ちゃん、ごめんね。私、あなたを待っていられなくなったの」
 無理やり絞り出したようなその言葉は、僕の耳を素通りしていった。
「ごめんね。でも、私が本当に好きなのは、今でも健ちゃんだから」
 そう言われても、僕の頭は空回りするばかりだった。
「でも、言葉だけじゃ信じてもらえないよね」
 菜緒ちゃんは泣き出しそうな声で続きを話した。
「この前、キスは次に会った時にしようねって言ったよね」
 そう言うと、菜緒ちゃんは僕の頬を両手で包み僕と唇を重ねた。喜びと悲しみが心の中で渦を巻き、もはや、その混乱をどうすることもできなかった。
 唇を離すと、菜緒ちゃんは、もう一度、僕を抱きしめた。
「健ちゃんは、他の人と幸せになってね」
 菜緒ちゃんの言葉は、まるで遥か遠くから聞こえてくるようで、現実味が薄かった。僕を抱きしめたままの菜緒ちゃんの所に式場の係員が近づいてきた。
「ご新婦様、それでは、入場のご準備をお願いいたします」
 菜緒ちゃんは、僕を抱きしめていた腕を解くと、僕から離れていった。そして、伯父さんに促されて、チャペルに続くドアの前に立った。
 ドアの向こうからウェディングマーチが聞こえてきた。開いたドアの向こうに菜緒ちゃんたちが踏み出すと、ドアが閉ざされた。そして菜緒ちゃんは僕の手が届かない所へ行ってしまった。

 気がつくと僕は走り出していた。ホテルの階段を一気に駆け降りると、当てもなく市街地の方へと向かった。
 石垣島の町中を、夜までさ迷った後、僕は、営業が終り、明かりも落ちた港の待合所の前のベンチに腰を降ろした。行く場所もなく途方に暮れているところを、捜索願を受けて巡回中だった警察官に保護された。

 僕があまりにも大きなショックを受けていたので、父は僕に掛ける言葉を失っていた。二日後、僕の自室の机の上に菜緒ちゃんからの手紙が置かれていた。「ダイレクトメールに紛れ込んでいて気が付かなかった。すまなかった」と書かれた父のメモが添えられていた。
 封筒には、破られた結婚の誓約書が同封されていることは容易に想像がついた。もはや、手紙を読む気にもなれず、僕は自分の誓約書と共に未開封のままの封筒を粉々にちぎってごみ箱に捨てた。
 そのまま、僕と父の間では、菜緒ちゃんのことはもちろん、沖縄のことを話すことさえタブーになった。
 そのタブーを父が破ったのは昨日のことだった。僕が島を出てから、ちょうど十年の時が過ぎていた。

 その十年の間、僕は誰とも付き合わなかった訳ではなかった。しかし菜緒ちゃんの結婚が僕の心に大きな傷を残したせいで、僕は恋愛に関して極めて消極的だった。深い仲になった女性も何人かいたが、二年間付き合った大学の同級生とも、卒業を機に関係を清算したばかりだった。
 菜緒ちゃんとの約束が叶わなかったというのに、小学校の教師という道を選んだことも、どこか未練がましい気がしないでもなかった。
 
 昨日は、朝起きた時から妙な気分がした。そして僕は一日中、得体のしれない不安のような物に付きまとわれていた。交際相手と別れたことには何の後悔も、未練もなかった。四月から社会人になることにストレスを感じていたわけでもなく、体はいたって健康だった。つまり僕には、気になることなど、何もなかったのだ。故に僕は、妙な感覚の正体を掴むことができなかった。
 それが分かったのは、夜になってからだった。四月から務めることになった小学校での打ち合わせを終えて家に戻ると、父はダイニングキッチンのテーブルを前にして座っていた。酒には強いが、めったに飲まなくなっていた父が、なぜか貰い物のウィスキーを飲んでいた。テーブルの上には氷も水も用意されていなかった。
「ただいま」
 そう言って、そのまま自分の部屋に向かおうとすると、父に呼び止められた。
「健、話があるんだ。ちょっと座ってくれ」
 僕が応じて向かいに座ると、父は辛そうに話し始めた。
「健、菜緒ちゃんが、今朝、亡くなったそうだ」
「え!」
 父の言葉はひどく僕を驚かせた。まだ三十前の菜緒ちゃんが、なぜと思った。僕は素直に父に疑問をぶつけた。
「菜緒ちゃんはどうして亡くなったの?」
「いわゆる突然死という奴らしい。昨日まで元気だったのに、朝、起きてこないので見に行ったら、冷たくなっていたそうだ」
 辛そうに言った後、父は、グラスに残っていたウィスキーを一気に飲み干した。
「健、今更だが、あの時は、本当に申し訳ないことをした。私も、伯父さんたちも、お前と菜緒ちゃんが、本気で将来を誓い合っていたなんて知らなかったんだ」
「自分たちで焚きつけたくせに、いい気なもんだな」
 僕は父の手元にあったグラスを取り上げると、そこにウィスキーを注いで一気に煽った。
 その僕の様子を辛そうに見ながら、父はもう一度僕に謝った。
「すまなかった。ずっと黙っていたが、十年も経って、やっと詫びが言えた」
「今更、謝られても、どうにもならないじゃないか、いっそのこと、菜緒ちゃんが亡くなったことも、ずっと黙っていて欲しかったな」
 古い傷に触れられたようで、僕は無性に腹が立った。
「いや、そうもいかなくなったんだ。伯母さんが、どうしてもお前に、葬儀に出席して欲しいと言ってきたんだ」
 その言葉は、僕を更に不機嫌にさせた。菜緒ちゃんの旦那や子供の顔など見たくもなかった。
「嫌だよ。僕と菜緒ちゃんは、ただの従姉弟だよ。近県に住んでいるならともかく、沖縄まで行くほどの関係じゃないだろう。もしかしたら、式の前の話を知っている奴がいて、嫁ぎ先の人たちから変な目で見られるかもしれないじゃないか」
 父は、次の言葉を口にするのをためらったように見えたが、観念したように話し始めた。
「それならば、心配いらない。菜緒ちゃんは、入籍は済ませていたが、式の後、すぐに離婚して、実家に戻っていたんだ」
「ふざけるな!」
 僕はテーブルを右手で叩き、立ち上がっていた。
「なんでそのことを教えてくれなかったんだ。僕たちは、やり直せたんじゃないか」
 怒りで体が震えた。父を殴りたい気持ちをかろうじて抑えた。
「健、全部、きちんと話すから、落ち着いて聞いてくれ」
 泣き出しそうな父の顔を見て、僕は素直に腰を降ろした。
「お前も、薄々は感じていたと思うが、菜緒ちゃんの結婚は、本人にとっては不本意な政略結婚だったんだ。時代劇みたいな話だが、『借金の形に娘を取られた』というのが本当の所だそうだ。お金のことなら、私に相談してくれれば、なんとかしてあげられたのに、とても残念だ」
「今更、そんなことは、どうでもいいよ。僕が知りたいのは、菜緒ちゃんが離婚したことを教えてくれなかった理由だよ」
 問い詰められ、父の表情は更に辛そうになった。やや間が開いた後、父は真相を語り始めた。
「結婚式の日の夜、菜緒ちゃんのご主人が初夜を迎えようとしたら、菜緒ちゃんは、それを拒んで急に暴れ出したそうだ。突き飛ばされたご主人が唖然としているうちに、菜緒ちゃんは部屋から逃げ出した。その後、菜緒ちゃんは石垣港で泳いでいるところを救助された。停泊していた船に乗り組んでいた海上保安庁の人が、菜緒ちゃんをみつけてくれたんだ。事情を聞いたところ、島まで泳いで帰るつもりだったということだけはどうにか分かったが、会話はほとんど成立しなかったそうだ。菜緒ちゃんは精神に異常をきたしていたんだ」
「嘘だろ」
 余りにも衝撃的な話を聞いて、僕の口から出たのは、そんな一言だけだった。
「ただでさえ、菜緒ちゃんの結婚に大きなショックを受けていたお前を、正気を失った菜緒ちゃんに会わせることはできなかった。だから私たちは、そのことは、お前には一生秘密にしておこうと決めたんだ」
 語り終えた父は、大きくため息をついた。
 父や伯父夫婦の配慮にはそれなりに納得がいった。しかし、同時に疑問が浮かんだ。
「だったら、どうして、菜緒ちゃんの葬儀に出席しろなんて言うんだ?一生秘密にしておくつもりだったんだろう」
「さっき言っただろう。伯母さんが、どうしてもお前に葬儀に出席してほしいと言ってきたからだ。お前に直接会って話したいこともあるらしい。伯母さんは菜緒ちゃんの産みの親で、お前の育ての親だ。私にとってはお前を育ててくれた恩人だ。だから、伯母さんの気持ちを大切にしたいと思ったんだ。もちろん、お前の気持ちも大切だった。だから最初は断ったんだ。でも、伯母さんが電話の向こうで泣きながら何度も、何度も頼むので、最後はお前に秘密が知れることを承知で、伯母さんの願いを聞いてあげることにしたんだ。お前がどうしても行きたくないというのなら、無理にとは言わない。伯母さんにもそれは了承してもらった。後はお前の判断に任せるが、できれば伯母さんの願いを叶えてあげて欲しい」
 僕は、すぐに答えを出すことができなかった。部屋に戻りあれこれと考えた末、僕は島に行くことにした。しかし、伯母さんの願いを聞いてあげることは、ほとんどその理由にはなっていなかった。僕が島に行く気になったのは、朝から続いていた不思議な感覚の正体がはっきりし始めたからだった。誰かが、何かが、あるいは島自体が、僕を呼んでいるのだと気づいたからだった。

 それが、今、僕が石垣行の飛行機に乗っている理由だった。
 今にして思えば、菜緒ちゃんと僕の関係は、あべこべに満ち溢れていた。
 八年間も同居した末に、キスも交わさないまま僕たちは結婚した。しかし、結婚式の翌日から別居して、一日たりとも夫婦生活を送ることなく、七か月足らずで離婚した。離婚後にファーストキスを交わした僕たちは、そこから、それぞれ別の人生を歩み始めた。そして、十年間会うことを禁じられていた僕たちが、再会を許されたのは菜緒ちゃんが死んだからだ。なんともおかしな話だった。

 石垣港から乗った高速船を降りると、浮桟橋の先に伯母さんが迎えに来ているのが目についた。伯母さんの許に近づくと、お悔みの言葉は避けて型通りの挨拶をした。
「ご無沙汰しています。元気そうで何よりです」
「健ちゃん、すっかり立派になったわね。見違えちゃった」
 喜びと悲しみが入り混じった顔で伯母さんはそう言った。それから伯母さんは、僕を車の方に連れていった。
 走り出すと、すぐに車は伯父夫婦の家に到着した。赤瓦の屋根の家は、僕が島を出た十年前と何も変わっていないように見えた。家を囲む石垣の外から、庭を見下ろすように立つガジュマルの木も、あの頃のままのような気がした。

 伯母さんは、僕を居間に通し、お膳の前に座らせると、さんぴん茶の入ったグラスを持って来て僕の正面に座った。さんぴん茶は沖縄で広く飲まれているジャスミンティーの一種だ。かつては大好きだったさんぴん茶も、この十年、一度も飲んだことがなかった。久しぶりに飲んださんぴん茶の味は、苦さだけが舌に残るような気がした。
 それから、僕がさんぴん茶を飲み終わるまで重い沈黙が続いた。僕が飲み終わるのを見届けると伯母さんが口を開いた。
「遠くまで呼びつけて悪かったわね。私もね、頭では菜緒のことは秘密のままにしておくべきだって分かっていたの。でもね、やっぱり、私は菜緒の母親なのね。どうしても、菜緒をあなたに会わせてあげたかったの。健ちゃん、まずは、菜緒の顔を見てあげて」
 伯母さんが立ち上がったので、僕もそれに続いた。そして、僕は菜緒ちゃんの部屋に連れていかれた。
 障子を開けて、菜緒ちゃんの部屋に入った途端、窒息しそうな息苦しさを感じた。菜緒ちゃんの部屋は、僕が島を出た時と何一つ変わっていなかった。しかし、その部屋の真ん中には、顔に白い布を被された菜緒ちゃんの亡骸が横たわっていた。
 伯母さんに続いて、僕は菜緒ちゃんの顔の脇に腰を降ろした。
「菜緒の顔を見てあげてちょうだい」
 伯母さんが顔に被された布に手を掛けた瞬間に、恐怖とも不安ともつかぬ不思議な感覚に僕は襲われた。何か邪悪なものが僕に取り入ろうとしているような気がした。
 そして、それとは別に、誰かが、あるいは何かが僕に助けを求めているような気もした。しかも、僕に助けを求めているのは一人ではないようだった。少なくとも二人以上の誰かに、僕は助けを求められているような気がした。
 僕は、それらの不思議な感覚に捕らわれたまま、菜緒ちゃんの顔を見てはいけないような気がした。僕は、得体のしれない何かに突き動かされるように立ち上がった。
「すみません、失礼します」
 そう言い残すと僕は、呆然とする伯母さんを部屋に残して家から逃げ出してしまった。海の方向に向かって少し走ったところで僕は足を止めた。不思議な感覚が収まるまで、しばらく時間が掛かった。

 僕がそこに立ったままでいると、僕を島の人間だと思ったらしい観光客の女性に質問をされた。
「あの、この辺りに『戻り岩』という岩が有るらしいんですが、ご存じないですか?」
「いえ、知りません」
 僕はとっさに嘘をついていた。
「そうですか。どうもありがとございました」
 女は礼を言うと集落の方に歩いて行った。

 「戻り岩」は島の伝説に出てくる岩だった。小学校の道徳の時間に、僕は先生から「戻り岩」の伝説を聞かされた。話の内容はこうだった。

 昔、島に一人の男が住んでいた。男と妻の間には息子が一人いた。ところが、この息子はハブに噛まれて死んでしまった。男は息子を取り戻すため、島の伝説にある「戻り岩」の力を使おうと考えた。「戻り岩」の上に立って願うと、過去に行くことができると信じられていたからだ。
 男は早速、「戻り岩」に立ち、息子が死ぬ前の過去に戻った。そうして、息子がハブに噛まれないように一日中家から出さなかった。しかし、「戻り岩」の力が切れ、元の時代に戻ると、息子がハブに噛まれて死んだという歴史はまるで変っていなかった。
 男はその後、何度も過去に戻り、あれこれと色んな方法を試みたが、元の時代に帰ると、やはり息子が死んだ歴史は変わっていなかった。男は、過去から戻る度に、息子の死と直面し、息子を失った悲しみは深くなってゆくばかりだった。
 「戻り岩」は、力を使った者の精気を少しずつ吸い取っているようで、次第に男は体力が衰えていった。ついには「戻り岩」の傍で倒れているところを、探しに来た妻が見つける事態になった。
 妻に問いただされ、男はそれまでのいきさつを全て妻に語った。すると妻は泣きながらこう言った。
「あの子が亡くなった過去に拘って死なないでください。私のお腹の中にいるこの子の未来のために生きてください」
 その言葉を聞き、男はようやく死んだ息子のことは諦めて、新しく生まれてくる子のためにしっかりと生きていこうと決意した。

 その話を語り終わった後、先生は伝説に関する解説を語りだした。
「いいか、この島には『戻り岩』なんてありはしないんだ。この話は、他の多くの伝説と同じように、教訓を伝えられるために作られたものだ。この伝説が伝えたいのは、『変えることのできない過去を嘆くよりも、未来に希望を持って生きろ』と言うことだ」
 
 授業後の休み時間に、同級生の和夫が僕の所に寄ってきた。
「健、さっき先生は、『戻り岩』なんてないって言ってたけれど、あれは嘘だ。『戻り岩』は、お前の家の裏手の林の中にあるらしいぜ」
 そう言われて僕は、ならば確かめに行ってみようかと思った。

 家に戻り、荷物を置くと、僕は門を出て右手に向かった。そこには昔から一本のガジュマルの木が、まるで家の庭を見下ろすように立っていた。伯父夫婦の家は集落の一番外側に位置していたので、ガジュマルの木の後ろからは、人が立ち入ることのない林が海まで続いていた。
 僕が林に足を踏み入れようとした時だった。
「おい、健、その林に入っちゃダメだ」
 頭上から声が降ってきた。ふと見上げると、ガジュマルの木の中ほどの太い枝の上に男の子が座っているのが見えた。しかし、その子は肌の色も髪も赤く、腰蓑のような物しか身に着けていなかった。ガジュマルの木に住む妖怪、キジムナーだとすぐに分かった。
 だが、不思議と僕は恐怖を感じなかった。むしろ親しみを覚えた。
「いいか、この林の中にはハブだけじゃなくて、毒虫もいるんだ。だから絶対に入っちゃダメだ。お前に何かあったら菜緒姉ちゃんが悲しむからな」
 キジムナーは僕に警告を繰り返した。その表情は真面目そのものだった。警告を無視するつもりはなかったが、「戻り岩」への興味が消えた訳ではなかった。だから、僕は尋ねた。
「ねえ、この林の中には本当に『戻り岩』があるの?」
「ある。でも、絶対に探そうなんて思うな。理由はさっき言った通りだ。それに、あの岩の力を使っても苦しみは増すばかりだ」
 言われて、僕は授業で聞いたことを思い出した。
「ああ、そういえば、先生もそういう話をしてたよ」
「そう、その通りだ。これから先、何があっても、絶対にこの林には入るな。『戻り岩』の力を使おうなんて決して思うな。分かったか、健」
 キジムナーの言葉には有無を言わせぬ気迫がこもっていた。
「わかったよ」
 僕がそう答えたのにキジムナーは更に念を押した。
「約束しろ、決してこの林には入らないと」
「うん、約束するよ」
 僕には変えたい過去もなかったし、何かあって菜緒ちゃんを悲しませたくもなかったので素直に約束をした。
「良し。それでいい。俺はこれからもずっと、ここでお前と菜緒姉ちゃんのことを見守っているからな。そのことを忘れるなよ」
「うん、わかった」
「じゃあな」
 そう言ったきりキジムナーは見えなくなった。僕がキジムナーの姿を見たのはそれ一度きりだった。キジムナーに言われたわけではなかったが、キジムナーを見たことは他人には話すべきではないような気がした。だから、僕は菜緒ちゃんにさえ、キジムナーのことを話したことがなかった。そして、僕はそれ以来「戻り岩」のことなどすっかり忘れて生きてきた。

 しかし、今、状況はまるで変っていた。菜緒ちゃんが亡くなったこと、離婚していたことを知り、久しぶりに島に戻ってきてから、胸の中にくすぶっていた菜緒ちゃんへの想いが、再び燃え上がっていた。
 そして、「戻り岩」の伝説は、菜緒ちゃんを悲惨な運命から救い、もう一度やり直したいという思いを引き起こすことになった。
 キジムナーはかつて、『戻り岩』の存在を認めていた。だから、僕はその伝説にすがりつきたい気持ちになった。試してみてダメでも、僕には失うものはなかった。だから、試さずにいることはできなかった。

 そして僕は、家の方に戻り、裏手の林に足を踏み入れようとした。
 ガジュマルの木を見た時に、かつてキジムナーと交わした約束のことが頭をよぎった。しかし、僕にはそんなことを気にしている余裕はなかった。僕は約束を破って林に足を踏み入れた。
 意外なことに、それらしい岩はすぐに見つかった。正六角形に近い形をした岩は、幅は一メートルくらい、高さ三十センチほどで、表面に模様のような物も見られた。岩は人が手を入れたようにも、自然にできたようにも見え、素人では判断がつかなかった。
 激情に突き動かされて、さしたる考えもなく「戻り岩」を探し始めた僕は、どのようにして、菜緒ちゃんを救うか、具体的なことは何一つ考えないまま、「戻り岩」にたどり着いてしまっていた。
 僕は岩の上に立ってから、どうやって菜緒ちゃんの運命を変えるかを考えた。そして、僕は結婚式を間近に控えた菜緒ちゃんに、結婚を取り消すよう伝えることにした。もっと良い作戦もあったかも知れなかったが、慌てて考えた方法はそんなものだった。
 僕は目を閉じて、願いを口にした。
「『戻り岩』よ、菜緒ちゃんの結婚式の二十日前に戻りたい。菜緒ちゃんの結婚式の二十日前に行かせてくれ」
 閉じた瞼の外で、何かが光ったような気がした。目を開くと僕は伯父の家の前に立っていた。日差しの様子から夕方近くだとわかった。ひんぷんの向こうから、かすかな三線の音と、菜緒ちゃんの声が聞こえてきた。あまりの懐かしさに涙がこぼれそうになった。
 僕は門をくぐり、ひんぷんの右側から庭へと回り込んだ。軒下に座る菜緒ちゃんの姿が目に付いた。僕が島を出た時とまるで変らぬ菜緒ちゃんがそこにいた。胸がつぶれそうな切なさがこみあげてきて、僕はすぐに口を開くことができなかった。すると、僕は逆に菜緒ちゃんに尋ねられた。
「どなたですか?」
「菜緒ちゃん、僕だよ。健だよ」
 菜緒ちゃんはいぶかし気な顔をした。
「冗談はやめてください、健ちゃんは、まだ十二歳ですよ。あなたみたいな大人じゃありません」
 僕は興奮して菜緒ちゃんのすぐ前まで近づくと必死に語り掛けた。
「ねえ、菜緒ちゃん、僕の顔をよく見て。小さい頃の面影が有るでしょう。十二歳の僕が大人になった顔を想像してよ」
「確かに似ていなくはないですね。でも、健ちゃんは今、十二歳で東京にいます。大人になって島に現れるはずがありません」
 菜緒ちゃんのいぶかし気な表情は、不安の色に変わろうとしていた。僕のことを怪しんでいることが分かった。
「菜緒ちゃん、僕は二十二歳の健だ。『戻り岩』の力を使って十年後の未来から来たんだ」
「『戻り岩』の話は知っていますが、そんなのただの伝説でしょう。出て行ってくれませんか、さもないと人を呼びますよ」
 まずいと思った。言葉だけでは分かってもらえそうになかった。その時、考えが浮かんだ。名案かどうかは分からなかったが、迷っている暇はなかった。
 僕は自分のシャツの裾を上げて、おへその辺りを菜緒ちゃんに見せた。
「菜緒ちゃん、このおへその上の黒子に見覚えがあるでしょう。君もほぼ同じ場所に黒子があるはずだ。小さい頃、『偶然だねって』って笑いあったことがあったじゃないか」
 僕たち二人以外には、決して知りえない話と、身体的な特徴がかみ合っていたので、僕の言葉は菜緒ちゃんに、「もしや」と思わせたようだった。
「嘘でしょう。とても信じられない」
 そうは言ったものの菜緒ちゃんは人を呼んだり、逃げ出そうとはしなかった。そこで僕は、立て続けに僕たち二人しか知らないはずの過去の思い出をいくつか引っ張り出した。それは功を奏した。
「信じられないような話だけど、どうやら嘘じゃないみたいね。『戻り岩』の伝説って本当のことだったのね」
 その言葉を聞いて、ようやく僕が十年後の健だということを認めてくれたのだと思い、胸をなでおろした。
「菜緒ちゃんにとても大切なことを知らせるために僕はここに来たんだ。隣に座ってもいいかな?」
「うん」
 許しを得て、僕は菜緒ちゃんの右隣に座った。そして、僕は菜緒ちゃんに伝えるべきことを話し始めた。
「菜緒ちゃん、君はね、僕と離婚して、僕の知らない人と結婚なんかしちゃだめだ。結婚すると君は不幸になってしまうんだ」
「そんなこと、言われなくても分かってるわよ。でも、どうしようもないのよ。もう、覚悟もできてる」
 菜緒ちゃんの声は沈んでいた。
「お金のことなら大丈夫だ。僕の父さんが何とかしてくれるよ。だから、父さんを頼って東京に逃げてきて欲しいんだ。そうすれば、菜緒ちゃんは結婚しなくて済む、不幸になることもない。そうして、僕が大人になるまで、あと十年、僕を待っていて欲しいんだ」
 僕の話を聞いて、菜緒ちゃんはしばらく黙り込んだ。だが、顔はどこか嬉しそうだったので分かってくれたのだと思った。
「ねえ、健ちゃん、私の部屋に行こう」
 菜緒ちゃんに誘われて、僕は靴を脱いで家に上がった。
 二人で菜緒ちゃんの部屋に入ると、菜緒ちゃんは僕の目をまっすぐに見つめた。
「健ちゃん、今日、両親は那覇に行っていて帰ってこないの。十年も待たなくても、できることがあるよ」
 菜緒ちゃんは、言い終わらないうちに僕に体を預けてきた。
 その後、僕は菜緒ちゃんの一番大切なものをもらった。

 菜緒ちゃんは初めてだったが、僕の度重なる求めに笑顔で応じてくれた。小さい頃から繰り返し思い描いていた妄想の全てが現実になった。菜緒ちゃんの命を体全体で感じながら、僕は、菜緒ちゃんが命を落とすことはもうないだろうと思っていた。菜緒ちゃんは、もう僕のもので、他の誰の手にも渡らないものと信じていた。
 やがて、僕たちは少し疲れて眠りに落ちた。

 気がつくと僕は、「戻り岩」の上に立っていた。腕時計の針は全く進んでいなかった。何もかもうまくいった。予想もしなかった嬉しいこともあった。僕は上機嫌で伯父の家に帰った。

 僕は玄関で伯母に会った。
「健ちゃん、急に飛び出してどこに行ってたの?」
「ああ、すみません。ちょっと慌ててしまって。海を見て頭を冷やしてました。ああ、菜緒ちゃんは、今、どこにいるんですか?」
「部屋にいるに決まっているじゃない」
 伯母の声は不機嫌そうだった。それが僕に嫌な予感を抱かせた。靴を脱ぎ、僕は足早に菜緒ちゃんの部屋に向かった。障子を開けた途端、心臓が凍り付きそうな気がした。菜緒ちゃんの亡骸は、さっき見たのとまったく同じように部屋に横たわっていた。

 前の晩、菜緒ちゃんが亡くなったと聞かされた時、その痛みは針で刺されたようなものだった。空白の十年間のおかげで、菜緒ちゃんの死は、まだどこか現実味がなかった。
 しかし、今回僕が感じた痛みは、まるでナイフで切り付けられたような鋭いものだった。ついさっき、その温もりを体中で感じたばかりの菜緒ちゃんが、同じ場所に冷たくなって横たわっている。その光景は僕の心を激しく揺さぶった。僕が二度目に向かい合った菜緒ちゃんの死の衝撃は、一度目とは比べ物にならなかった。僕は伝説に出てきた男とまるで同じ目に合っていた。

 しかし、伝説が伝える痛みを味わったにも関わらず、僕は、もしかしたらという望みを捨て去ることができなかった。
 僕の父を頼り、僕との離婚を止め、知らない男と結婚しないように言っただけでは足りなかったのだ。菜緒ちゃんは僕の父に迷惑を掛けたくないと思ったのかもしれなかった。菜緒ちゃんが自分の意志で結婚を取りやめることができないなら、無理やりにでも僕が連れ去るしかないと思った。
 玄関で靴を履いていると伯母に声を掛けられた。
「健ちゃん、どこに行くの?」
「ああ、すみません。まだ少し心が落ち着かないので、もう少し海を見てきます」
 伯母さんの言葉にいい加減な返事を返して、僕は「戻り岩」に向かった。

 そして、僕は再び「戻り岩」の上に立った。他人の婚約者を奪って逃げる。まるでドラマのような話だと思った。そして僕は、ふと古い映画を思い出した。ラストで、主人公の男が結婚式場から花嫁を連れて逃げるという話だった。思い出したその瞬間に、僕は過去に飛んでしまった。

 気づくと僕は菜緒ちゃんが結婚式を挙げたホテルにいた。十年前、僕が心に大きな傷を負った場所だった。
 前方にウェディングドレスの菜緒ちゃんが、伯父さんと手を組んで立っているのが見えた。
 菜緒ちゃんは、僕に気づくと伯父さんの手を振りほどいた。そして僕の方に歩み寄ろうとした。その時、左側のエレベーターの扉が開き、十二歳の僕が、二十二歳の僕と菜緒ちゃんの間に現れた。
「健ちゃん」
 そう言った菜緒ちゃんの方に、十二歳の僕の顔が向いた。
 菜緒ちゃんは、十二歳の僕の方に歩いて行き、彼の前で足を止めた。
「健ちゃん、手紙読まなかったの?私たち、十日前に離婚したんだよ」
 何も言えずにいる彼を菜緒ちゃんは抱きしめた。しかし、菜緒ちゃんの視線は、まっすぐに二十二歳の僕に向けられていた。菜緒ちゃんが本当に抱きしめたかったのは二十二歳の僕だと、その目が語っていた。
「健ちゃん、ごめんね。私、あなたを待っていられなくなったの」
 菜緒ちゃんは、時を超えて来た僕の想いに報いなかったことを詫びていた。
「ごめんね。でも、私が本当に好きなのは、今でも健ちゃんだから」
 僕は菜緒ちゃんの言葉を少しも疑っていなかった。
「でも、言葉だけじゃ信じてもらえないよね」
 言葉とは比べようもない大切なものを、二十二歳の僕は、既に菜緒ちゃんからもらっていた。
「この前、キスは次に会った時にしようねって言ったよね」
 そう言った後、菜緒ちゃんが十二歳の僕にキスをした時、僕は自分自身に軽い嫉妬を覚えた。唇を離すと、菜緒ちゃんは、もう一度、十二歳の僕を抱きしめた。
「健ちゃんは、他の人と幸せになってね」
 菜緒ちゃんの視線は、また、まっすぐに二十二歳の僕に向けられていた。菜緒ちゃんがそう願う気持ちを素直に受け取れる余裕は僕にはなかった。
 十二歳の僕を抱きしめたままの菜緒ちゃんの所に、式場の係員が近づいてきた。
「ご新婦様、それでは、入場のご準備をお願いいたします」
 菜緒ちゃんは、十二歳の僕を抱きしめていた腕を解くと、彼の許から離れていった。そして、伯父さんに促されて、チャペルに続くドアの前に立った。
 ドアの向こうからウェディングマーチが聞こえてきた。開いたドアの向こうに菜緒ちゃんたちが踏み出すとドアが閉ざされた。そして菜緒ちゃんは、再び僕の手が届かない所へ行ってしまった。
 菜緒ちゃんが、ウェディングドレスを着て他の男の許へと去って行くのを見ているしかなかった苦痛を、僕はまた味わうことになった。
 菜緒ちゃんの一番大事なものをもらい、もう菜緒ちゃんが自分のものになったと思っていた分だけ、その苦痛は一度目とは比べ物にならなかった。それは、まるで、槍で突かれたような激しい痛みだった。
 駆け出した十二歳の僕の姿が見えなくなったのとほぼ同時に「戻り岩」の力が消えた。伯父の家に戻れば、菜緒ちゃんの亡骸がそこにあることは、もう分かりきっていた。

 伯父の家に戻ると僕は台所にいた伯母さんに声を掛けた。
「伯母さん、すみません。菜緒ちゃんの顔を拝ませていただけますか?」
「そう、じゃあ」
 台所仕事の手を止めて伯母さんは菜緒ちゃんの部屋の方に歩き出し、僕もそれに続いた。
 菜緒ちゃんの部屋に入ると、僕たちは菜緒ちゃんの顔の辺りに並んで腰を降ろした。
「じゃあ、今度こそちゃんと顔を見てあげてね」
 伯母さんは僕に念を押すと、静かに菜緒ちゃんの顔に掛かっていた白い布を外した。
 そこに現れた菜緒ちゃんの顔を見て、僕は一瞬息が止まった。すでに二十七歳の菜緒ちゃんの顔は、僕が島を出た十年前とまるで変っていなかった。
「驚いたでしょう。どう見ても十七・八にしか見えないわよね」
 伯母さんの声は少し寂しげだった。
「本当に時が止まっているようにしか思えません」
 僕は思ったままを口にした。
「そう、この子にとって時間は、あなたが島を出た時点から先に進まなくなったの」
「どういうことですか」
「あなた、この子が精神に異常をきたしたって話は、もうお父さんから聞いているよね」
「はい、聞きました」
「この子が生きていた幻の世界では、時間はあなたが島を出た時点で止まっているの。だから、自分があの人と結婚したことも、離婚したこともまるで覚えていないの。心の中で時間が止まったら、体の時間も止まったみたい。だから、この子の体は十七の時のままなのよ。まあ、私が勝手にそう思っているだけで、お医者さんは体の成長が止まった原因は分からないって言っているわ」
「信じられないような話ですね」
 僕は改めてまじまじと菜緒ちゃんの顔を見つめた。
「そうね、でも現実は見ての通りよ。世の中には不思議なこともあるものね」
 伯母さんは、菜緒ちゃんがまだ生きているかのように愛おし気に頬に触れた。
「事情が事情だから、あなたには話せなかったけど、この子はね、この十年間、ずっとあなたを待っていたのよ」
「待っていたって、どういうことですか?」
 とても気になる話だった。
「この子はね、朝起きて、私たちの顔を見ると、必ず最初に『健ちゃんは、いつ来るの?』って聞いてたのよ。だから、私たちは毎朝、『健ちゃんは、明日来るそうよ』って、答えていたの」
 少しおかしな話だと思った。
「どうして菜緒ちゃんは、毎朝、同じことを聞いて、伯母さんたちは同じことを答えていたんですか?」
 伯母さんの顔に悲しそうな色が差した。
「この子はね、寝てしまうと前の日のことはすべて忘れてしまっていたの。この子が生きていた幻の世界では、毎日が『今日』で、『昨日』はなかったの。この子は、この十年間、果てしなく『今日』を繰り返して生きていたの」
 菜緒ちゃんは正気を失ってしまったのだから、そういうことがあっても不思議ではなかった。
 僕が何も言えずに黙っていると、伯母さんが話の続きを始めた。
「この子は、正気は失っていたけど、家では、ごく普通に暮らしていたのよ。そうして、『明日、あなたが来る』と聞くと、いつも顔を輝かせていた。いつも、あなたが来るからって、汚れてもいない部屋を、毎日きれいに掃除していたわ。それから、あなたと歌うからって三線の練習もしていた」
 伯母さんは、そこまで話すと滲んできた涙を拭った。
「さっき言ったわよね。この子は毎日同じ『今日』を生きていたって」
「はい、聞きました」
「この子の生きていた『今日』には、結婚や離婚といった過去も含めて『昨日』はなかったの。でも、あなたが来るはずの『明日』はちゃんとあったのよ。幻の世界ではあったけれど、この子は過去に捕らわれずに、未来に希望を持って毎日生きていたってこと」
 心の痛みが治まっていなかったせいか、僕は嫌味のこもった言葉を返してしまった。
「それって伯母さんがそう思いたかっただけじゃないですか?」
「あなたがそう言うのも分かる気がするわ。でもね、あなたのことを待っていたこの子は、本当に毎日嬉しそうだった」
「でも、所詮は幻の世界の出来事じゃないですか」
 僕の反論には少し怒りがこもった。
「そうね。確かに私たちからすれば、幻の世界の出来事よね。でも、この子にとっては現実だったの。その現実の中で、この子は幸せに生きていたのよ。無理を言ってまで、あなたに来てもらった一番の理由は、そのことを伝えたかったからなの」
 伯母さんの言っていることが少しだけわかりかけてきた。伯母さんの言葉には、毎日一緒に暮らしてきた母親としての実感がこもっていた。
「けれど、やっぱり、現実じゃないじゃないですか」
 僕は、まだ伯母さんが言うことを完全に納得したわけではなかった。
「そうね、じゃあ聞くけど、現実を生きているあなたは、今、幸せなの?もし、あなたが、『幻の世界で、菜緒と幸せに暮らしていくこと』と、『現実の世界で菜緒を失って苦しむこと』の、どちらも選べるとしたら、あなたはどちらを選ぶの?」
 答えは前者のような気がした。しかし、僕はそれを口にすることはできなかった。答えなくても、伯母さんは分かっていたような気がした。
 いまや、僕は伯母さんの方が正しいのかもしれないとは思っていたが、十年間も離れて暮らしていた僕には、やはり菜緒ちゃんは可哀そうだとしか思えなかった。
 菜緒ちゃんは、この十年間、ただひたすら僕を待ち続けた。しかし、約束の十年が過ぎても僕は現れず、とうとう、力尽きて死んでしまった。僕が島を出たのは十年前の三月二十六日、菜緒ちゃんが亡くなった昨日は三月二十七日だった。そんな悲しい話があってよいものかと思った。余りにも惨い運命から、菜緒ちゃんを救ってあげたいという気持ちが再び芽生えてきた。すでに、二度も痛い目にあっているにも関わらずだ。
 菜緒ちゃんの結婚をなかったことにすることはできなかったが、僕を待っている菜緒ちゃんの所に行けば、待ち疲れ、力尽きて死んでしまうことはないのではないか。そんな思いがどんどんと大きくなっていった。
 たとえ菜緒ちゃんが正気に戻ることはなくてもいいと思った。死ななければそれでよかった。生きてさえいてくれれば、ずっと菜緒ちゃんのそばで暮らしてゆこうと思った。
「伯母さん、びっくりするような話を聞いて、また、ちょっと混乱してきました。浜で頭を冷やしてきます」
 そう言い訳をして立ち上がると、伯母さんは不安げな声を洩らした。
「待って、健ちゃん、あなた、まさか・・・」
 伯母さんの言葉を無視して、僕は再び「戻り岩」に向かった。

 同じ失敗を繰り返さないように、僕は岩の上に立つ前に慎重にいつの時代に戻るべきかを考えた。そうして、僕は一月前を選んだ。それならば、僕が二十二歳の僕として菜緒ちゃんの前に現れても不思議ではなかったし、まだ菜緒ちゃんは元気だったのだから、命を救うには遅すぎることはないだろうと思えた。
 「戻り岩」の上に立ち、願った瞬間に、僕は伯父の家の前に立っていた。
 ひんぷんの向こうから、三線の音が聞こえてきた。僕は足早に庭に足を踏み入れた。
 菜緒ちゃんは軒下に腰を降ろして三線を弾いていたが、僕に気が付くと、三線を弾く手を止めた。二十七歳の菜緒ちゃんは、やはり、僕が島を出た時の十七歳の菜緒ちゃんとまるで変っていなかった。
「どなたですか?」
 菜緒ちゃんの顔は少し怯えた様子だった。
「僕だよ、健だよ」
「冗談はよしてください。健ちゃんは、まだ十二歳ですよ」
 菜緒ちゃんの顔に怒りの色が見えた。二十二歳の僕に、すでに会っているはずなのに、菜緒ちゃんは僕だとは分からないようだった。僕は動揺して、内容も整理できていない話を始めてしまった。
「どうしたんだ、菜緒ちゃん、僕たちは会ったことがあるじゃないか、君の結婚式の二十日前に」
「変なこと言わないでください。私、まだ十七歳ですよ。キスもしたことがない私が、結婚なんかしたことある訳がないじゃないですか」
 菜緒ちゃんの顔に怒りの色が増した。
 僕は焦って、菜緒ちゃんの前に歩み寄ると、その両肩に手を掛けた。
「あの日、菜緒ちゃんは一番大切なものを僕にくれたじゃないか。あんなに愛し合ったじゃないか」
「失礼なこと言わないでください。おかしな妄想を抱いて、あなた変態じゃないですか?」
 菜緒ちゃんの顔の色は怒りから恐怖へと変わっていた。
「菜緒ちゃん、僕だよ、健だよ。思い出してくれよ」
 その次の瞬間に菜緒ちゃんは悲鳴を上げた。
「きゃあ、助けて、お母さん」
 菜緒ちゃんが、僕の手を振り払い、地面に落ちた三線が悲しい音を立てた。菜緒ちゃんは駆け足で家の奥へと逃げだした。
 菜緒ちゃんの後姿が消える前に、僕は「戻り岩」の上に帰っていた。

 打ちのめされていた。菜緒ちゃんの記憶の中から二十二歳の僕は完全に消えていた。菜緒ちゃんが待っていたのは、大切なものを与えた二十二歳の僕ではなかった。菜緒ちゃんが待っていたのは、幻の世界では、まだ、キスすら交わしていない十二歳の僕だった。
 二十二歳の僕には、もう菜緒ちゃんを救うことはできないのだと思い知らされた。十二歳の僕と、紛れもなく現実の世界でキスを交わしたことさえ、菜緒ちゃんの記憶から消えていることに、僕は大きな衝撃を受けていた。過去に戻ったことによって生じた痛みは、さらに激しさをましていた。それは、刃物で内臓をえぐられたような痛みだった。

 林から道に戻ろうとしたら、そこに伯母さんが立っているのが見えた、僕を待ち構えていたようだった。
「健ちゃん、やっぱり『戻り岩』の力を使ってたのね」
 伯母さんはとても悲しそうな顔をしていた。

 居間で待つように言われて、お膳の前に腰を降ろしていると、伯母さんがビール瓶とグラスを二つ乗せたお盆を運んできた。伯母さんは腰を降ろすと、グラスを僕の前に差し出し、先に僕のグラスにビールを注いだ。僕も伯母さんのグラスにビールを満たした。
「お疲れさま。辛かったでしょう」
 その言葉を聞いて、僕は伯母さんも『戻り岩』の力を使ったことがあるのだろうと思った。たぶん、菜緒ちゃんの弟が死んだ時のことだろう。
「いいえ」 
 僕は意地を張ってそう答えて、伯母さんが差し出したグラスに自分のグラスを合わせた。そして、何かを吹っ切るように、僕は一気に中身を飲み干した。すぐに伯母さんは僕のグラスにビールを注ぎ足した。僕が二杯目に口を付けずにいると、伯母さんがそれを待っていたかのように話し始めた。
「あなたが『戻り岩』の話を覚えていたなんてね、どこにあるかまで知っているなんて思いもしなかったわ。でも、もう二度と『戻り岩』に頼ったりしないでね。健ちゃん、小学校の時に、『戻り岩』の伝説のことを習ったでしょう。その時に、教訓も聞かされたはずよ。『変えることのできない過去を嘆くよりも、未来に希望を持って生きろ』って。菜緒は、もう帰ってこないのよ。だから、あなたは、未来をみつめて生きて欲しいの」
 過去に拘っていてはいけない。そのことは、もう身に染みていた。しかし、僕には、まだ、未来の希望は見えていなかった。ドラマのように都合よく気持ちが切り替わることはなかったが、未来に目を向ける努力をするしかないことだけは良く分かっていた。
「分かりました。頑張ってみます」
「良かった。それを聞いて伯母さんも安心したわ」
 伯母さんは表情を和らげて自分のビールに口をつけた。そして、ゆっくりと飲み干した。

 その後、僕は庭に出て、昔のように軒先に腰を降ろした。すると、どこからか僕を呼ぶ声が微かに聞こえたような気がした。僕は辺りを見回したが、近くには人は誰もいなかった。
「健、どこを見てるんだ。こっちだよ。」
 庭を見下ろすようにして立つガジュマルの木を見上げると、真ん中あたりの太い枝の上にキジムナーが座っていた。
 僕は立ち上がり、門を抜け、ガジュマルの木のすぐ下まで歩いて行った。すると、キジムナーは機嫌悪そうに僕に言葉を投げてきた。
「健、お前、『戻り岩』の力に魅入られていたせいで、さっきまでは俺の姿も見えず、声も聞こえなかったようだな。だが、ようやく、少し未来に目を向ける気になったおかげで、俺のこともわかるようになったって訳だ」
 キジムナーは顔をしかめていた。
「お前、『戻り岩』の力を使って辛い思いをしただろう。子供の頃にも、さっき林に入る前にも忠告してやったのに馬鹿な奴だな」
 キジムナーの言ったことが本当であった分だけ、僕は余計に腹が立った。
「しかたがないだろう。菜緒ちゃんを助けるためだったんだから」
「まあ、確かにお前には、菜緒姉ちゃんを助けてくれって念を送って来てもらったが、『戻り岩』の力を使えなんて言ってないぜ」
 僕は呼んだのはキジムナーだったのかと合点がいった。しかし、僕に助けを求めていたのは一人ではないはずだった。だが、それよりも気になることがあった。
「おい、お前、今、菜緒ちゃんを助けるために僕を呼んだって言ったよな。ということは、お前、菜緒ちゃんを助けることができるって思ってたってことだな。『戻り岩』の力を使っても過去は変えられないのに」
 僕の腹立たしい顔が可笑しくて仕方がないような様子で、キジムナーは右手で鼻の脇を掻いた。
「誰が過去を変えろなんて言ったよ?」
 キジムナーのものの言いように僕はますます腹が立った。
「過去を変えないで、どうやって菜緒ちゃんを助けるんだよ」
「いいか、変えるべきなのは現状、あるいは未来の行方だ。方法自体は簡単だよ、『帰って来てくれ』って、願うだけでいいんだよ」
 僕は完全に馬鹿にされていると思った。
「何言ってんだ。死んだ人間がそんなことで帰ってくるわけないだろう」
 僕の反応を見て、キジムナーは更にいやらしい顔をした。
「まあ、普通はそうだな。でも、菜緒姉ちゃんの場合はちょっと違うんだよ」
「どういうことだ、それは?きちんと説明しろよ」
 馬鹿に仕切った様子に、僕は思わず声を荒げた。
「おい、おい、他人にものを頼む態度じゃないな」
 キジムナーは更に僕をからかってきたが、ここは神妙にするしかないと思った。
「すまなかった。菜緒ちゃんを助ける方法があるなら、どうか教えて下さい」
「良し、良し、良い子だ。じゃあ、教えてやろう。だが、その前に、菜緒姉ちゃんの今の状態を説明しておいてやろう。菜緒姉ちゃんの魂は、健が十年待っても来ないから気落ちして、つい体の外に出てしまったんだ。でも、菜緒姉ちゃんの魂は、まだ、あの世に行った訳じゃないんだ。実は、まだ、家の中にいて、自分の体に戻りたがっているんだ。しかし、菜緒姉ちゃんの魂は、自分の力だけでは体に戻ることができないのさ。菜緒姉ちゃんの体の傍で、誰かが強く戻ってきて欲しいと望んでくれないとダメなんだ。菜緒姉ちゃんも周りに助けを求めたんだが、父ちゃんも、母ちゃんも気がつかなかったんだ。でも、お前の所には助けを求める声が届いていたんだろう。俺一人の力でお前を島に呼べたとは思えないしな」
 キジムナーだけでなく、菜緒ちゃん自身も僕に助けを求めていた。なるほど、そういうことだったのかと思った。だが、疑問も残った。
「ありがとう。でも、一つ聞くけど、そこまで分かっていたなら、どうして、お前が菜緒ちゃんを呼び戻してくれなかったんだ?」
「俺じゃダメなのさ」
 キジムナーが少しだけ寂しそうな顔をしたような気がした。
「健、菜緒姉ちゃんを呼び戻せるのは、たぶんお前だけだ」
「僕だけ?」
「ああ、そうだ。お前だけだ。やるべきことは魂が体に戻ることを祈り、願うことだけだが、そう簡単にはいかないはずだ。それにだ、時間も限られている。体を出てしまった魂は、長い間この世に留まることはできないんだ。もっても、明日の夜明けまでだろう。どこまでお前が頑張れるか、お前の気持ちがどこまで本気か、全てはそこにかかっている」
「分かった。全力を尽くしてみるよ」
「そうか。頼りない弟で心もとないが、菜緒姉ちゃんが幻の世界で夢見てた未来を、きちんと現実のものにしてやってくれ。頼んだぜ」
 そう言うと、キジムナーはふっと姿を消した。
 最後にキジムナーが僕を弟と呼んだことが気になった。もしかしたら、あのキジムナーは、僕が生まれる前に亡くなった菜緒ちゃんの弟が転生した姿だったのかもしれないと思った。

 家に戻ると、僕は台所仕事に戻っていた伯母さんに声を掛けた。
「すみません。僕と菜緒ちゃんを、僕が部屋から出てくるまで、二人きりにしてもらえませんか?もしかしたら、とても長い時間になるかもしれませんが」
「ええ、良いわよ。健ちゃんが菜緒の部屋から出てくるまで決して声を掛けたりしないから。そろそろ伯父さんも帰ってくると思うけど、伯父さんにもそう伝えておくわ」
「ありがとうございます」
 僕は礼を言うと、そのまま菜緒ちゃんの部屋に向かった。

 菜緒ちゃんの部屋に入ると、僕は菜緒ちゃんの顔の脇に腰を降ろした。そうして、静かに菜緒ちゃんの顔を覆う白い布を外した。それから僕は、静かに菜緒ちゃんに語り掛けた。
「菜緒ちゃん、御免ね。十年も会いに来なくて。でも、僕はやっと君の許に帰ってきたよ。だから、菜緒ちゃん、君も僕の許に帰ってきてくれ」
 僕は目を開いたまま、胸の前で両の掌を互いにきつく握りしめて、菜緒ちゃんの魂が肉体に戻ってくることをひたすらに祈った。しかし、どれだけ願っても、菜緒ちゃんの体には何の変化も見られなかった。
 それでも僕は祈り続けた。願い続けた。食事も取らず、眠りもせず、トイレに立つこともせぬまま、ただ一心に、菜緒ちゃんの帰りを待ち続けた。
 その時間を、僕は長いとは思わなかった。ただひたすら僕を待ち続けていた菜緒ちゃんの十年間に比べれば、それは一瞬でしかなかった。そして、良くも悪くも、僕の待ち時間は夜明けまでと決まっていた。
 やがて、障子の外に朝の気配が迫ってきた、残された時間が少ないことを感じて、僕は更に強く願った。だが、それでもなお、菜緒ちゃんの瞼は閉ざされたままだった。
 このままではダメかもしれないと思った。菜緒ちゃんの顔の上に屈みこんで、童話の王子様の真似事でもしてみようかと思った時、菜緒ちゃんの瞼がゆっくりと開いてゆくのが見えた。
「あれ、健ちゃんだよね」
「ああ、そうだよ」
 こぼれそうになる涙を堪えて僕はそう答えた。
「随分、立派になってびっくりしちゃった」
 菜緒ちゃんの声は、まだ弱弱しかったが、その目はきちんと現実を見つめているように見えた。
「十年経ったんだよね?」
「うん、約束通りとは言えないかもしれないけれど、僕は菜緒ちゃんの許に戻ってきたよ」
「良かった。待った甲斐があったね」
「そうだね」
「あれ、でも、この十年、私、何をしてたのかな?」
 菜緒ちゃんは、すっかり正気を取り戻していたものの、僕が島を出てからの記憶は無いようだった。
 僕たちの離婚に端を発した十年に及ぶ長い不思議な物語を、どう菜緒ちゃんに伝えたらよいのか僕は判断に迷った。
 迷っている僕の顔を見て、菜緒ちゃんが笑みを浮かべた。
「ねえ、健ちゃんが島を出た日に港でした約束を覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ」
 そう答えて、僕は菜緒ちゃんの顔に自分の顔を近づけた。そうして、菜緒ちゃんは離婚してから二度目のファーストキスを僕と交わした。