原谷苑を知っているか。桜の楽園とも称されていて、知る人ぞ知る桜の名所なんだよ。君もぜひ一度行ってみるといい。そのカメラで撮影するには最高の場所だよ。

そう語る間崎教授はまるで冒険に出発する子供のようだった。大海原へ航海に行く少年のような、まだ見ぬ景色を語る主人公のような、希望と好奇心に満ちた表情をしていた。講義をしている時には決して見せない表情で話すからこそ、わたしも見てみたくなってしまう。教授の語る「美しい」を、わたしも見てみたいと思ってしまう。

京都には桜の名所と呼ばれる場所が数多くある。清水寺、高台寺、東寺、醍醐寺など、数え上げたらきりがない。先日随心院に行ったばかりだけれど、どうせならもう一カ所くらいはまわっておきたい。そう教授に告げたところ、「原谷苑」を教えてくれた。

原谷苑は、金閣寺や龍安寺よりさらに北に位置している。この2年でだいぶ京都に詳しくなったつもりでいたけれど、そんなわたしも名前すら知らなかった。まさに、教授の言う通り「知る人ぞ知る」場所なんだろう。

入口を抜けた先に見えた景色は、言葉が出ないほど美しかった。桃色のしだれ桜を中心に、黄色や白色など、さまざまな色の花が咲き誇っている。お寺や神社とは違って大きな建物がないため、歩いていくと花の海に沈んでいくような気持ちになる。京都市内では散り始めている桜も多いのに、ここではまだ満開のようだ。

「花畑みたい。すごくきれいですね」

「原谷苑にはさまざまな桜が植えられているからね。遅咲きの種類も多いんだ」

教授はそう言って、舞い散る花弁をつかむように手を伸ばした。

原谷苑は北山杉などの木材を取り扱う村岩農園所有の桜苑だ。花を愛した村岩二代目が、桜や紅葉など、数十種類の樹木を植樹したことに始まるらしい。当初は身内だけで花見を楽しんでいたそうだが、人づてに評判が広がり、現在では桜や梅、紅葉の時期だけ一般公開するようになったという。広大な苑内には、ソメイヨシノやしだれ桜、山桜など、約20種400本の桜が植えられている、と教授が教えてくれた。

「桜だけでもそんなに種類があるんですね。ソメイヨシノとしだれ桜くらいしか知りませんでした」

「まぁ、普通の人はそんなものだろう」

ばかにされるかと思ったが、教授はめずらしく素直に同意した。先ほどまで伸ばしていた手をポケットにしまい、花々の間をゆっくりと進んでいく。道が迷路のようになっているので、花に埋もれて教授の姿を見失ってしまいそうだ。桜の淡い桃色と、雪柳の白さ、山吹の黄色。複数の色が混じり合って、まるで夢の中にいるようだ。

空を見上げた途端、強い風が吹いて枝がしなった。花弁が雪のように舞い散って視界の邪魔をする。

「桜吹雪ってきれいですけど、桜が散ってしまうのはいやです」

「むちゃくちゃなことを言っているな」

「だって」

わたしはシャッターを切る手をとめ、むくれた。ついこの間見た随心院の桜だって、きっともう散っているだろう。鴨川の桜もすでに青葉が混じり、新緑へと衣替えを始めている。

桜吹雪は、美しい。だけどその一方で花の儚さを思い知り、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。春の嵐が、桜を壊していくような気がする。

「花散らす風の宿りは誰か知る、だな」

知っていますか、と、教授はわざとらしく聞いてきた。

「残念ながら知りません」

「だと思った」

花散らす風の宿りは誰か知る我に教へよ行きて恨みむ。

訳せますか、と言われたので、訳せます、と答えた。訳せます。訳せますよ、それくらい。2年前なら、すぐに「分からない」と答えていた。1年前なら、少し考えて根を上げていた。はたちを迎えた今は、少しでも対等に話せるようになりたい、なんて、背伸びをしてみることにした。

「花を散らす、風の、やどり」

復唱し、単語一つ一つを噛み締める。風のやどり。やどりって何だ。宿木、と同じような意味だろうか。やどり、ともう一度つぶやく。

「桜を散らす、風の居場所を誰か知りませんか」

「そう、その調子」と、教授がうなずく。わたしは機嫌をよくして続けた。

「わたしに教えてください、行って恨みましょう」

正解、と教授が言う。受験時代に培った読解力は、まだ衰えていなかったようだ。

「恨みます。わたしは今、風を恨んでいます。吹かないでほしいです」

「そんなに叫んでも、風には聞こえないよ」

「だって、こんなにきれいなのに。散ってしまうなんて、もったいないじゃないですか」

「そこは、『散ればこそ』でしょう」

「散ればこそいとど桜はめでたけれ、ですか」

「そうだよ」

去年レポートで取り扱ったので、かろうじてその和歌は覚えていた。散ってしまうからこそ、桜は一層すばらしいのだ。このつらい世の中で、一体何がいつまでも変わらずにいられようか。

「人は永遠に続くものよりも、刹那的なものに惹かれてしまう生き物なんだよ」

教授は突然足をとめ、その場にしゃがみ込んだ。地面に落ちた桜の花弁を手に取り、太陽の光に透かす。

「花も、小説も、青春も。終わってしまうからこそ魅力があるんだよ」

じゃあ、教授。

楽しい時間にも、美しさにも、いつか終わりがあるのでしょうか。

そう尋ねようとして、やめた。分かりきったことだった。

「でも、わたし」

このままずっと、桜を見ていたいのです。そう伝えようとしたら、ちょうどよいタイミングでおなかが鳴った。そりゃあもう、大きな音で。

「風情も何もないな」

教授が立ち上がり、あきれたように言った。

「ちゃんと朝食は取ったのか」

「食べました。卵かけご飯とお味噌汁と、バナナとヨーグルトとシリアル」

「しっかり食べているじゃないか」

友人であるみっちゃんにも、「まだ食べるの?」とか「そんなに食べてよく太らないね」なんて言われることがある。そのたびにわたしは「成長期だから」と嘘をつくのだが、教授の前だと何の言い訳もできない。

「じゃあ、桜を見ながら弁当でも食べよう」

そう言って、教授は再び歩き始めた。

花散らす、花散らす。心の中で、呪文のように繰り返す。1秒だって風はやまない。季節を進めるように、枝から花を奪っていく。

わたしは今日も、あたりまえのように桜を見にいき、あたりまえのように写真を撮る。撮って、撮って、撮りまくる。最初はただ、写真を撮ること自体がすきだから撮っていた。だけど教授と過ごすうちに、それだけではない理由を見つけた。

わたしは、記憶したい。桜が散っても、いつまでも桜の美しさを覚えていられるように。去年は写真技術を向上させるため、コンテストに挑戦した。思うような結果が出ず落ち込んだりもしたけれど、しばらくは肩の力を抜いて、カメラを楽しもうと決めた。3回生になって国語学国文学専修に所属したわたしは、学業も手を抜いていられない。

青山荘という食事処で幕の内弁当を食べた。窓いっぱいに広がる桜を眺めながら、おなかいっぱい、食べた。おいしいですね、と言うと、おいしいな、と教授が言った。きれいだな、と教授がつぶやいた。きれいですね、とわたしは返した。

風が吹くたびに、花弁が枝から離れていく。こんなに満開なのに、わたしはもう桜を惜しんでいる。来年まで、さようなら。心の中でつぶやいて、わたしはもう一度シャッターを切った。