間崎教授と一緒に五山の送り火を見たあと、2週間ほど名古屋に帰省した。この期間に古本市で買った本を読もう、少しでも発表の準備を進めておこう。そう思っていたものの、現実はなかなかうまくいかない。底なし沼に沈み込むように怠惰な日々を過ごした結果、京都に戻ってから、慌てて調べものをする羽目になっている。
源氏物語は、有名すぎるほど有名な文学作品だ。高校の教科書にも載っているし、いくら古典に興味のない人でも、あらすじくらいは知っているだろう。わたしも一応文学部なので、主要な人物の名前は分かるし、初めて若紫が登場するシーンはお気に入りでもある。知っている場面なら準備も楽だが、そうではないのでだいぶ手こずっている。古本市で手に入れた本にも載っていないし、インターネットで調べるには限界がある。現代語訳は図書館ですんなりと見つけられたが、単に訳せばいいというわけではないのが、国文学演習発表の難しいところだ。気になった単語を品詞分解したり、自分なりの解釈を加えたりしていると、なかなか先に進まない。調べれば調べるほど深みにハマり、はたしてこれが正解なのか、教授の求める内容になっているのか分からなくなる。おかげで、まだ3分の1ほどしか終わっていない。
図書館で頭を悩ませていると、誰かがわたしの肩を叩いた。
「やっほ」
振り向いた先にいたのはみっちゃんだった。肌がこんがりと小麦色に焼けている。
「久しぶり。いつ帰ってきたの?」
「昨日。でも暑すぎて図書館に避難」
京都ってやっぱり暑さの質が違うわー。そう言いながら、みっちゃんはパタパタとうちわのように手を動かした。
「琴子は何してんの? 調べもの?」
「発表の準備。夏休み明けにちょうど順番が回ってくるの」
「そりゃ大変だ。ちょっと見せて」
君たちは、花の争ひをしつゝ明かし暮らし給に……。机の上に広げてある本を読み上げ、みっちゃんは「これ、何の話?」と顔をしかめた。
「源氏物語」
「あたしの知ってるやつと違うんだけど」
「わたしの知ってるやつとも違うよ」
わたしの担当する「竹河」には、光源氏も若紫も出てこない。知らない姫君たちが桜の木を賭けて碁を打ち、よく分からない和歌を詠んでいる。まるで受験勉強をしている気分だ。
「ちょっと休憩したら? 根詰めてもよくないよ」
「でも、早く終わらせたくて。そして残りの夏休みを満喫したい」
こういうものは一気に片づけないと、またいつ怠惰の沼にハマるか分からない。必ず単位をくれることで有名な教授だが、さすがに3回生ともなればそうはいくまい。それに、常日頃からあれだけいろいろ教えてもらっているのだから、なるべく完成度を上げておきたい。
「じゃあ、源氏物語にゆかりのある場所に行ってみるのはどう?」
みっちゃんはわたしの向かい側に座った。
「そしたら気晴らしにもなるし、発表の役に立つかもしれないし。一石二鳥じゃん」
確かに、彼女の言うことも一理ある。単に休憩すると罪悪感があるが、それなら勉強にもなるし、いいアイディアかもしれない。
早速、ふたりで源氏物語に関係のある場所を探し始めた。宇治には源氏物語ミュージアムがあるが、今から行くには遠すぎる。
「ここは?」
みっちゃんが携帯電話の画面を見せた。のぞき込むと、そこには「廬山寺」と書いてあった。京都御苑の東側だから、自転車で数分の距離だ。
「紫式部の邸宅跡で、源氏物語執筆の地だって。しかも、桔梗の名所」
「桔梗って、いつの花だっけ」
「えーっと、見頃は6月上旬から9月上旬らしい」
「ギリギリだね。咲いてるかなぁ」
「まぁ、気分転換に行ってみようよ。そんで、帰りに冷たいもの食べよ」
目の前には山積みの本とノートパソコンがあった。図書館に来てから、すでに2時間が経過している。ここから1時間粘っても、あまり進む気がしない。
「そうだね。行こう」
せっかくみっちゃんがわたしのために提案してくれたんだ。行っておくのも悪くない。わたしはうんと伸びをして、ノートパソコンを閉じた。
廬山寺の入口には、「源氏物語執筆地 紫式部邸宅跡」という文字があった。ほんの数分前まで図書館にいたのに、突然タイムスリップしてしまったみたいだ。みっちゃんも同じことを思ったのか、「ほんとに来ちゃったよ」とつぶやいている。そうだね、本当に来ちゃった。しかも、たったの数分で。
門を抜けると、真正面には「元三大師堂」と書かれた建物があった。賽銭箱が置かれていたので、簡単にお祈りをすることにした。「発表がうまくいきますように」と願うわたしの横で、みっちゃんは「いい出会いがありますように」と手を合わせていた。前の彼氏と別れてから、特にロマンスはないようだ。
焼け焦げてしまいそうなほど強い太陽光のせいか、境内に人影はない。歩いていくと、本堂の前に廬山寺の説明板が建っていた。豊臣秀吉の時代にこの地に移されたことや、正しくは廬山天台講寺ということなどが書かれている。そのすぐ隣には大弐三位と紫式部の歌碑があった。
『大弐三位 有馬山ゐなのささはら風ふけばいでそよ人を忘れやはする』
『紫式部 めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲かくれにし夜半の月影』
大弐三位は紫式部の娘らしい。母親に匹敵するほどの才媛で、後冷泉朝の宮廷文化の昂揚に大きく寄与した、とある。
「すごいなぁ」
和歌を読みながら、みっちゃんが言った。
「どうしたの、いきなり」
「いや、分かってたんだけど、紫式部って実在したんだなって。本当にここにいたんだなって、実感しちゃった」
「うん、分かるよ。京都ってすごいよね」
教科書を読んでいるだけじゃ分からない、その人の息遣いが聞こえてくるような、そんな気がする。
もっと早く気づけばよかった。そうしたら、勉強だって修学旅行だって、もっともっと楽しめたのに。大切なことは、成長してから気づく。
本堂の入口には、黄金に輝く紫式部の像があった。紫式部は漢文の知識もあったが、周囲にはそれを見せずにいたほどシャイな性格だった、と説明書きがある。源氏物語の執筆を始めたのは夫が亡くなったあとのことで、悲しい現実を乗り越えようとした中から生まれた作品かもしれない、とも書かれていた。こういうことは、教科書のどこにも載っていない。
源氏庭には白砂と苔が広がり、桔梗の花がぽつぽつと咲いていた。
「まだ咲いてる、よかった」
盛りは過ぎているようにも見えるが、それでも十分美しい。砂の白色と苔の緑、そして桔梗の紫が、見事に調和している。奥の方には「紫式部邸宅跡」という石碑があった。
「桔梗って、昔朝顔とも呼ばれてたらしいよ」
ふと思い出して、言ってみた。
「どの花を朝顔と呼ぶかは、時代によって変わっていったんだって。桔梗とか、あと槿(むくげ)とか。間崎教授が言ってた」
「へぇーっ。言葉って、変わっていくんだねぇ」
風が吹いているせいか、暑さはそれほど気にならなかった。人の話し声も、車の走る音もしない。ただ、風が木々を揺らす音だけが、やわらかく耳に届く。
室内には、源氏物語絵巻や紫式部日記絵詞など、源氏物語に関する展示があった。花散里の巻に登場する屋敷はこのあたりだった、ともいわれているそうだ。知れば知るほど物語の輪郭が明確になって、目蓋の裏にくっきりと浮かび上がる。
高校生までは、教科書を単なる記号として読んでいた。戦争が起こった、電話が発明された、国が統一された。試験のためにただ文字を追って、表面的に暗記していただけだった。
20歳になった今なら分かる。その出来事について知れば知るほど、現実味が増していく。その単語の奥にあるものを、感じることができる。
コンビニでアイスを買い、鴨川のベンチに座りながらふたりで食べた。ほてった体が、内側から冷やされていく。
「ちょっとは息抜きになった?」
バニラアイスを食べながら、みっちゃんが言った。
「うん。ありがとう」
図書館にいた時より、ずいぶん体が軽い。勉強だって、カメラと同じだ。深呼吸をして、心を落ち着かせ、時に立ちどまって、また一歩進む。そうやって、少しずつ目標に近づいていく。
「あたしも、ようやくお寺のよさが分かった気がする。歴史ってさ、勉強だと思わない方がおもしろいんだよね。小学生の時に気づけたらよかったなぁ」
そうだよね。言いながら、わたしは両足をぶらぶらと揺らした。どうして大切なことって、あとから気づくんだろうね。
太陽に照らされた鴨川は、きらきらと宝石のように輝いてみえた。紫式部も、こうやって鴨川を眺めたのだろうか。そうだったらいいな。わたしは思った。
源氏物語は、有名すぎるほど有名な文学作品だ。高校の教科書にも載っているし、いくら古典に興味のない人でも、あらすじくらいは知っているだろう。わたしも一応文学部なので、主要な人物の名前は分かるし、初めて若紫が登場するシーンはお気に入りでもある。知っている場面なら準備も楽だが、そうではないのでだいぶ手こずっている。古本市で手に入れた本にも載っていないし、インターネットで調べるには限界がある。現代語訳は図書館ですんなりと見つけられたが、単に訳せばいいというわけではないのが、国文学演習発表の難しいところだ。気になった単語を品詞分解したり、自分なりの解釈を加えたりしていると、なかなか先に進まない。調べれば調べるほど深みにハマり、はたしてこれが正解なのか、教授の求める内容になっているのか分からなくなる。おかげで、まだ3分の1ほどしか終わっていない。
図書館で頭を悩ませていると、誰かがわたしの肩を叩いた。
「やっほ」
振り向いた先にいたのはみっちゃんだった。肌がこんがりと小麦色に焼けている。
「久しぶり。いつ帰ってきたの?」
「昨日。でも暑すぎて図書館に避難」
京都ってやっぱり暑さの質が違うわー。そう言いながら、みっちゃんはパタパタとうちわのように手を動かした。
「琴子は何してんの? 調べもの?」
「発表の準備。夏休み明けにちょうど順番が回ってくるの」
「そりゃ大変だ。ちょっと見せて」
君たちは、花の争ひをしつゝ明かし暮らし給に……。机の上に広げてある本を読み上げ、みっちゃんは「これ、何の話?」と顔をしかめた。
「源氏物語」
「あたしの知ってるやつと違うんだけど」
「わたしの知ってるやつとも違うよ」
わたしの担当する「竹河」には、光源氏も若紫も出てこない。知らない姫君たちが桜の木を賭けて碁を打ち、よく分からない和歌を詠んでいる。まるで受験勉強をしている気分だ。
「ちょっと休憩したら? 根詰めてもよくないよ」
「でも、早く終わらせたくて。そして残りの夏休みを満喫したい」
こういうものは一気に片づけないと、またいつ怠惰の沼にハマるか分からない。必ず単位をくれることで有名な教授だが、さすがに3回生ともなればそうはいくまい。それに、常日頃からあれだけいろいろ教えてもらっているのだから、なるべく完成度を上げておきたい。
「じゃあ、源氏物語にゆかりのある場所に行ってみるのはどう?」
みっちゃんはわたしの向かい側に座った。
「そしたら気晴らしにもなるし、発表の役に立つかもしれないし。一石二鳥じゃん」
確かに、彼女の言うことも一理ある。単に休憩すると罪悪感があるが、それなら勉強にもなるし、いいアイディアかもしれない。
早速、ふたりで源氏物語に関係のある場所を探し始めた。宇治には源氏物語ミュージアムがあるが、今から行くには遠すぎる。
「ここは?」
みっちゃんが携帯電話の画面を見せた。のぞき込むと、そこには「廬山寺」と書いてあった。京都御苑の東側だから、自転車で数分の距離だ。
「紫式部の邸宅跡で、源氏物語執筆の地だって。しかも、桔梗の名所」
「桔梗って、いつの花だっけ」
「えーっと、見頃は6月上旬から9月上旬らしい」
「ギリギリだね。咲いてるかなぁ」
「まぁ、気分転換に行ってみようよ。そんで、帰りに冷たいもの食べよ」
目の前には山積みの本とノートパソコンがあった。図書館に来てから、すでに2時間が経過している。ここから1時間粘っても、あまり進む気がしない。
「そうだね。行こう」
せっかくみっちゃんがわたしのために提案してくれたんだ。行っておくのも悪くない。わたしはうんと伸びをして、ノートパソコンを閉じた。
廬山寺の入口には、「源氏物語執筆地 紫式部邸宅跡」という文字があった。ほんの数分前まで図書館にいたのに、突然タイムスリップしてしまったみたいだ。みっちゃんも同じことを思ったのか、「ほんとに来ちゃったよ」とつぶやいている。そうだね、本当に来ちゃった。しかも、たったの数分で。
門を抜けると、真正面には「元三大師堂」と書かれた建物があった。賽銭箱が置かれていたので、簡単にお祈りをすることにした。「発表がうまくいきますように」と願うわたしの横で、みっちゃんは「いい出会いがありますように」と手を合わせていた。前の彼氏と別れてから、特にロマンスはないようだ。
焼け焦げてしまいそうなほど強い太陽光のせいか、境内に人影はない。歩いていくと、本堂の前に廬山寺の説明板が建っていた。豊臣秀吉の時代にこの地に移されたことや、正しくは廬山天台講寺ということなどが書かれている。そのすぐ隣には大弐三位と紫式部の歌碑があった。
『大弐三位 有馬山ゐなのささはら風ふけばいでそよ人を忘れやはする』
『紫式部 めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲かくれにし夜半の月影』
大弐三位は紫式部の娘らしい。母親に匹敵するほどの才媛で、後冷泉朝の宮廷文化の昂揚に大きく寄与した、とある。
「すごいなぁ」
和歌を読みながら、みっちゃんが言った。
「どうしたの、いきなり」
「いや、分かってたんだけど、紫式部って実在したんだなって。本当にここにいたんだなって、実感しちゃった」
「うん、分かるよ。京都ってすごいよね」
教科書を読んでいるだけじゃ分からない、その人の息遣いが聞こえてくるような、そんな気がする。
もっと早く気づけばよかった。そうしたら、勉強だって修学旅行だって、もっともっと楽しめたのに。大切なことは、成長してから気づく。
本堂の入口には、黄金に輝く紫式部の像があった。紫式部は漢文の知識もあったが、周囲にはそれを見せずにいたほどシャイな性格だった、と説明書きがある。源氏物語の執筆を始めたのは夫が亡くなったあとのことで、悲しい現実を乗り越えようとした中から生まれた作品かもしれない、とも書かれていた。こういうことは、教科書のどこにも載っていない。
源氏庭には白砂と苔が広がり、桔梗の花がぽつぽつと咲いていた。
「まだ咲いてる、よかった」
盛りは過ぎているようにも見えるが、それでも十分美しい。砂の白色と苔の緑、そして桔梗の紫が、見事に調和している。奥の方には「紫式部邸宅跡」という石碑があった。
「桔梗って、昔朝顔とも呼ばれてたらしいよ」
ふと思い出して、言ってみた。
「どの花を朝顔と呼ぶかは、時代によって変わっていったんだって。桔梗とか、あと槿(むくげ)とか。間崎教授が言ってた」
「へぇーっ。言葉って、変わっていくんだねぇ」
風が吹いているせいか、暑さはそれほど気にならなかった。人の話し声も、車の走る音もしない。ただ、風が木々を揺らす音だけが、やわらかく耳に届く。
室内には、源氏物語絵巻や紫式部日記絵詞など、源氏物語に関する展示があった。花散里の巻に登場する屋敷はこのあたりだった、ともいわれているそうだ。知れば知るほど物語の輪郭が明確になって、目蓋の裏にくっきりと浮かび上がる。
高校生までは、教科書を単なる記号として読んでいた。戦争が起こった、電話が発明された、国が統一された。試験のためにただ文字を追って、表面的に暗記していただけだった。
20歳になった今なら分かる。その出来事について知れば知るほど、現実味が増していく。その単語の奥にあるものを、感じることができる。
コンビニでアイスを買い、鴨川のベンチに座りながらふたりで食べた。ほてった体が、内側から冷やされていく。
「ちょっとは息抜きになった?」
バニラアイスを食べながら、みっちゃんが言った。
「うん。ありがとう」
図書館にいた時より、ずいぶん体が軽い。勉強だって、カメラと同じだ。深呼吸をして、心を落ち着かせ、時に立ちどまって、また一歩進む。そうやって、少しずつ目標に近づいていく。
「あたしも、ようやくお寺のよさが分かった気がする。歴史ってさ、勉強だと思わない方がおもしろいんだよね。小学生の時に気づけたらよかったなぁ」
そうだよね。言いながら、わたしは両足をぶらぶらと揺らした。どうして大切なことって、あとから気づくんだろうね。
太陽に照らされた鴨川は、きらきらと宝石のように輝いてみえた。紫式部も、こうやって鴨川を眺めたのだろうか。そうだったらいいな。わたしは思った。