(え、ご飯食べたんじゃないの?)

 聞かなかったことにするか、ツッコむべきか。以前の自分だったら間違いなく「お腹空いてるの?」と尋ねていただろうが、ここはやはり知らないふりをするのがいいだろう。
 千花が黙っていると、隼人が拗ねたようにこちらを睨んだ。

「なにか言えよ」
「え、なにかって」
「なにかはなにかだろう。つか、それ……今作ったのか?」

 隼人が野菜の入ったスープを指差して聞いてくる。もしかして食べたいのだろうか、とさすがに察した。

「これは、暇なときに大量に作って、冷凍してる。あの……もしよかったら、食べる?」
「いいのか?」

 隼人は言葉を被せるように言った。
 よほど空腹だったのか。

「朝ご飯、食べてないの?」

 千花は、自分の分を隼人に差しだして、尋ねた。
 彼はそれを受け取ると「いただきます」と両手を合わせてスプーンを持った。

「パンだけ。いつもそんなに時間がないから面倒だし」
「……冷凍庫にスープのストック入れてあるから、温めてそれだけでも食べたら?」

 言ってから、余計なことだったかと後悔する。返ってくる言葉はおそらく「いらない」だろう。そう思っていたのに。

「いいのか?」
「え……いるの?」
「いるけど、だめならべつに」
「あ、う、ううん。食べていいよ」

 どれだけ記憶をほじくり返しても、前回、こんなことはなかった。
 どうして一度目と違うのか。あれだけ隼人のために頑張っていた前のときは、一ミリの愛情も返ってこなかったのに。

(……もしかして、浮気でもしてるのかな)

 浮気をしている夫が、その後ろめたさから、突然、妻に親切にし始めると聞いたことがある。彼がなにを考えているかがわからないのは今に始まったことではない。考えるだけ無駄だ。期待はするべきじゃないと、千花は自分に言い聞かせた。

「それ、いつもつけてるな」
「それ?」

 隼人はまだ話を続けるつもりらしい。
 それ、がなにを差すのかわからず聞き返すと、千花の頭を指差した。

「あ、これね」
「大事なものか?」
「うん、大事なものだよ。基紀お兄ちゃんからもらったんだもん」

 千花は横を向き、隼人にヘアクリップを見せた。
 前のとき、これだけが千花の心の拠り所だった。隼人にどれだけ冷たくされても、基紀と希美が応援してくれているからと頑張れた。
 結婚前、安物のヘアクリップをつけた千花に、隼人はおざなりに「可愛い可愛い」と言った。適当な言葉ではあったが、彼から可愛いと言われたのは初めてだったからよく覚えている。
 もしかしたら、またそんな奇跡が起きるかもしれないという期待もあったのかもしれない。今世ではそんな期待はしていないが、もう一種のお守りのようなものであった。

「……そうか。やっぱり兄貴からかよ」

 低い呟きは千花には聞こえなかった。
 彼はさっさと食べ終えると席を立ち、食器を食洗機に入れて、なにも言わずに自室に入った。先ほどまでの機嫌の良さがうそのようだ。

 結局、その日、隼人は食事以外で部屋から出てこなかった。
 千花は隼人も食べるかもしれないと大量のスープを作り、冷凍庫に保存しておいた。だが、彼がスープを食べた形跡はまったくなかった。

(ほらね……期待するだけ無駄なのよ)