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 琴子の父・勝正と、桐矢の若君・真継の守護鬼屋敷への不法侵入は大々的に報じられた。
 その記事の中には守護鬼の伴侶が見つかったこと、櫻井の鬼花の本来の役割などが事細かに記されており、財界人のみならず平民にも琴子の存在が知れ渡ることとなった。
 とはいえ鬼の屋敷に群がるような奇特な者はおらず、琴子は今まで通り穏やかに過ごしていた。

 だが、渦中の櫻井と桐矢の家はそうも行かなかったらしい。
 真継は一先ず蟄居(ちっきょ)を命じられ今後の昇進は怪しいだろうと噂され、父に関しては後継に代替わりせよとの勅令を頂いたのだという。

 それらの騒動も多少落ち着いてきた頃、櫻井家の新当主として琴子の兄・藤也が挨拶に訪れた。
 朱縁の屋敷にて対面した兄は、朱縁の側にいれば異性と同じ部屋にいても琴子の気分が悪くならないと知り安堵していた。

「良かった。これからは朱縁様がいらっしゃれば普通の兄妹として接することが出来るのだな」

 柔らかな笑みを浮かべた藤也は、どうやら昔琴子に触れてしまったことで怖がらせてしまったことをずっと気に病んでいたらしい。
 琴子にとっては何を考えているか分からない兄だったが、存外妹思いだったらしい。
 父に娘として見られていなかったことに衝撃を受けていた琴子は、兄からの家族の情に救われる思いがした。
 お互いに笑みを交わした後、藤也は改まって朱縁に向き直り頭を下げた。

「この度の騒ぎを受けて、私、藤也が櫻井家当主へと就任致しました。今後、父が朱縁様や琴子に手を出すことは無いとお約束致しましょう」
「そうか。藤也は琴子の兄だ、今後も付き合いはあるだろう。よろしく頼む」

 淡々と、だが目元を和らげて朱縁は告げた。
 だが、琴子は不安が拭いきれない。

「本当に大丈夫なのでしょうか? お父様なら、代替わりしたとしてもお兄様の目を掻い潜って手を出して来そうですが……」

 あの父が、代替わりしたからと何もせずにいてくれるのだろうか?
 屋敷に訪れた際の傲慢さを思うと、いくら藤也の言葉であっても信じ切れなかった。
 だが、琴子の不安を聞いても藤也は「問題ない」と力強く頷く。

「大丈夫だ……なぜなら、母様が切れた」
「は? 切れた?」

(切れた、とはどういうことかしら?)

「どうやら母様は、ただ大人しく父に付き従っていたわけでは無かったらしい」

 そう語り出した藤也の話は初めて耳にする内容ばかりで、琴子は驚きに何度も目をぱちくりさせてしまう。

 父は、櫻井の鬼花という存在自体を嫌悪していたらしい。
 琴子の前の鬼花――つまり琴子にとっては叔母に当たる人が大層我が儘だったらしく、祖父母も彼女ばかりを優遇していた所為だとか。

 結果として父は女性全般に嫌気が差し、母はそんな父を哀れに思っていたのだそうだ。
 女性不信ではあっても、従順であれば父は普通に接してくれていたため、琴子にもそのように振る舞えと言っていたらしい。
 真継も噂で聞いた限りでは父と大差ない相手のようだったから、琴子が不要に傷つかぬようこれからも従順にしなさいと告げたのだそうだ。

(あ、それで桔梗の簪を持ってきたときにあんなことを……)

 思い返し、今更ながら母の思いを知った琴子に藤也は続けて話す。

「だがな、いくら女性に嫌悪を抱いていると言っても実の娘へのあり得ない暴言。その詳細を聞いて堪忍袋の緒が切れたのだそうだ」

 子を産むことだけがお前の価値だなどと、実の娘によく言えたものだな、と鬼の形相で詰め寄っていたらしい。
 怒ったことなどない母に完膚なきまでに押し負け、父は大人しくなったのだとか。

「母様があのように怒るなど……女性は怖いな」

 遠い目をする藤也に、兄も女性に対して変な不信感を持たねばいいがと琴子は少々心配になったのだった。

***

 藤也が帰ると、朱縁は琴子を部屋まで送ってくれた。
 そのまま共に過ごしても良かったのだが、午後には桐矢の現当主が詫びに来るらしくその場に琴子はいて欲しくないのだそうだ。
 琴子自身も桐矢の現当主とは面識もないため、特段会う必要も無いと判断しいう通りにする。

「では、また夕餉のときに」

 そう告げ去ろうとする朱縁を琴子は「お待ちください」と呼び止めた。
 部屋の文机に付けられた引き出しから朱縁に渡すつもりだったものを取り出し、すぐに戻る。

「あの、よろしければこちらを……。その、刺繍は得意というほどではないので少々不格好かもしれませんが」

 そうして差し出したのは手慰みにと刺していたハンケチーフだ。
 どんな理由であれ屋敷に世話になっているのだからと、初めから朱縁に贈るつもりで刺していた。
 図柄は、(まる)五角菊花紋(ごかくきっかもん)という朱縁の家紋だ。
 横から見た形の菊花とそれを守るように囲む丸と五角形。
 それを朱縁の色でもある赤と銀の糸で刺してみた。

「これは……」
「そ、その……手慰みに刺していたのですが……こっ、今後は……妻として刺す機会もあるかもしれませんしっ」

 言葉にしながらどんどん顔に熱が集まっていく。
 自分の口から朱縁の妻だという言葉を発したのが初めてでもあるため、純粋に気恥ずかしい。
 朱縁はどういう反応をするだろうかと思いチラリと見上げると、無表情で固まってしまっていた。
 美しい造形の顔が微動だにしない様は、まるで彫像のようにも思えて不安になる。

「あの……朱縁様?」
「っ! 琴子!」

 呼び掛けると、途端に動き出しギュッと抱き締められた。

「きゃっ、しゅ、朱縁様!?」
「なんと可愛らしい……いや、それよりもその言葉。私の妻でいてくれると受け取っても良いのだな?」

 力強い抱擁の中で聞かれた言葉に、琴子は照れながらもコクリと頷いた。
 だが、まだ不安がないわけではない。
 そのまま顔を上げ、申し訳なさそうに朱縁に告げた。

「私は、朱縁様に惹かれております。ですがそれは同情しているだけかもしれませんし、美しいあなたに魅了されているだけかもしれません。でも……お側にいたいと思うのです」

 朱縁と同じ思いを返せないことに罪悪感が沸く。
 でも、彼に惹かれているのは確かで、朱縁の側を離れたくないと思うのも確かな想いだった。
 琴子は朱縁の山吹茶色の羽織をきゅっと掴み、正直な気持ちを伝える。

「まだ、あなた様と長い時を生きる覚悟は持てないのです。だから、いつかどうしても離縁したいと言い出すかもしれません。それでも、お側にいてもよろしいですか?」

 それならば今のうちから側にはいないで欲しいと言われてしまったらどうしようかと僅かに震えてしまう。
 朱縁が自分のことを強く求め手放すことはないだろうと分かっていても、不安になった。

「……琴子」

 震える手に、朱縁の大きく硬い手が被さる。優しく包み込むように握られた。

「側にいてくれるという琴子を私が拒否するわけがないだろう? それに、離縁したいと言いたくならないように私が琴子を愛し慈しめば良いだけだ」
「朱縁様……」
「だから側にいてくれ。私が望むのは、琴子だけなのだから」

 真綿に包むような優しい抱擁と、甘くとろける洋菓子のような囁きにただただ幸福を感じる。
 朱縁への思いが、長き時を共に生きることを許容出来るほどに大きなものなのかは分からない。
 でも、朱縁の側にいてもっと彼のことを知りたい。
 答えは、その後でも良いのでは無いだろうか。


 心穏やかな、安らぎをくれる朱縁の腕の中で、琴子はそう思った。


 了