***
朝食後訪ねた朱縁は、昨日とは打って変わって落ち着いた装いをしていた。
唐紅の着流しは同じだが、着崩れてはおらず襟元もしっかり合わせられている。
上からは山吹茶色の羽織を着ていて、緩く結った銀糸の髪もほつれが無いため変な色香は出ていない。
だが、身だしなみを正している朱縁は雰囲気も整えられていて昨日とはまた違った魅力があった。
「琴子の方から訪ねてきてくれるとは、嬉しいかぎりだ」
薄い整った形の唇を緩め、赤い紅玉の目を幸せそうに細める朱縁に琴子はなんとも気まずい思いをしていた。
詳しい事情は分からずとも、利津から聞いた話だけで朱縁がずっと唯一の伴侶とやらを探していたことは理解できる。
それが琴子であり、やっと見つけた相手だと喜ぶ朱縁に離縁を望むとは言いづらい。
だが、言わねばならない。
「その……私が朱縁様の望んでいた花嫁だということはなんとなく理解しているのですが……それでも離縁していただけないでしょうか?」
「無理だ、離縁などしない」
ニコニコと笑顔で即答されてしまった。
「ですがその、私には強い異能持ちを産み育てるという役目が――」
「それは私が伴侶を得るために妖力を与えたことで派生した副産物としての役目であろう?」
「え?」
どういうことなのか。
すぐに理解できなかった琴子は目をぱちくりと瞬かせる。
「はじめから話した方が良いだろうな」
そう言った朱縁は、遙か遠くを眺めるような目をして昔語りをした。
太古の昔、いつかも忘れてしまう頃朱縁は生まれた。
最強の鬼としてあやかしの頂点に立ったこともあれば、気の良い友と遊び暮らしていたこともあったとか。
そうして過ごしていても、周囲の者は先にいなくなってしまう。
長き時を生きるあやかしですら、朱縁と共にはいられなかった。
寂寞の思いに耐えきれなくなった朱縁は、長き生を共に生きられる存在を探すことにした。
とはいえ同じ存在などそれまで生きてきた中でも聞いたことが無い。
だから作り出すことにした。朱縁の妖力を受けた者は寿命が延びると分かっていたから。
だが、同じあやかしでは妖力が反発し合いちゃんと受け取ることが出来ない。
だから人間から選ぶしか無かったが、長い時を生きることが出来るほどに妖力を受け続けるにはそれ相応の肉体が必要だった。
そのような肉体を持つ者がいるかどうかも分からない。
だが、一度自覚した寂しさは消えるどころか増すばかり。
それ故朱縁は賭けに出ることにした。
一人の人間に数年の時をかけて妖力を流し込み、その後も朱縁の妖力を受け続けることが出来るのか調べ、共に生きられる存在を探し出そうと。
そのために人の帝と契約し、花嫁を得ていたのだと。
「そして、長き時が経ってもそのような存在は見つからずほとんど諦めていたのだ……」
感情が抜け落ちた様な、昏い目をした朱縁が視線を下げる。
だが、その無機質な瞳に光が差し、喜びに溢れた紅玉が琴子を映した。
「だが、見つかった。琴子ならば私と共に生きることが出来る。ずっと、私の側にいてくれ」
優しく、愛おしむような微笑みに琴子は思わずドキリとする。
朱縁がどれほどの寂しさを抱え、長い時を生きてきたのかは分からない。
それでも、彼の喜びようからその寂寞の欠片くらいは理解出来た。
(なんだか……切なくて苦しい)
泣きたくなるような思いに、胸が締め付けられる。
だが、だからといって簡単には頷けない。
朱縁の話が全て事実なら、自分は朱縁と共にずっと生き続けなければならないということだ。
朱縁は自分を大事にしてくれそうではあるが、これから共に長い生を送るとなると想像もつかない。
琴子は畳を見つめ惑い、とりあえず疑問に思ったことを聞くことにした。
「その、一つ疑問なのですが……今までの鬼花が極端に長寿だったとは聞いたことがありません。本当に朱縁様の妖力を得れば寿命が延びるのですか?」
朱縁の妖力を受けた者の寿命が延びるのならば、今までの鬼花は皆長寿のはずだ。
だが、そのような話は聞いたことが無い。
琴子の問いに、朱縁は二度ほど瞬きしてから「ああ」と少々皮肉げな笑みを浮かべた。
「それは子を産んだからだろう。鬼花の持つ妖力が子へと受け継がれるから強い異能持ちとなって生まれるのだ」
「あ、だから副産物と……」
朱縁の答えに先ほどの話を思い出す。
守護鬼の花嫁となりかの鬼の妖力を得て、離縁の後強い異能持ちを産み育てるのが櫻井の長女の役目。
そう教えられてきたが、朱縁の本来の狙いを聞いた後では確かに副産物として出来たお役目なのだろうと分かる。
だが、朱縁の思いはともかく、人の世では長くそのお役目を続けてきたのだ。そう簡単には覆せない。
(どうしましょう……出来れば離縁したいのだけど、朱縁様はしてくれなさそうだし……)
「……琴子」
朱縁の顔も見れず悩む琴子に、彼はゆっくりと衣擦れの音を響かせて近付いた。
伸ばされた手が琴子の頬に触れ、視線を合わせられる。
「っ」
慣れぬ男の硬い指。女とは違う力強さ。何よりその近さに琴子は息を呑む。
朝の光を受けほのかに光る銀の髪。その隙間から覗く色の濃くなった紅玉の目。
生きた宝石のような存在に、琴子は自分を制御出来ない。
「あ、あのっ! 何故そのように近く!? というか、何故私はあなた様のような殿方が近くにいても気分が悪くならないのでしょうか!?」
今までは同じ部屋に異性がいるだけで気分が悪くなったのに、と訴える。
何故朱縁だけは平気なのだろう?
「私の妻に私が近付けるのは当然だろう? それに、私の妖力を込めたこの数珠には呪いがかけてある。他の男が近付かないように、とな」
頬に触れているのとは逆の手が、琴子の右手に触れる。その長い指先で紅玉の数珠を撫でた。
「私の唯一の伴侶になるかもしれない娘がつけるものだ。他の男に近付かれるのは癪に障る。……こう見えて、私はかなり独占欲が強いのでな」
「あ、の……」
優しい笑みの中に、僅かな毒が垣間見えて言葉に詰まる。
だが、その毒を覆い隠すような甘さが赤い瞳に宿った。
「琴子……幾星霜の年月、お前をずっと待っていた。……だから、手放すことは出来ない」
「っ」
有無を言わせぬ言葉に琴子は懊悩する。
こちらの要望を聞き入れてくれない朱縁。
人である自分に、長き生を強いる無情な鬼。
だが、朱縁の妖力を受け続けてきたからだろうか?
彼の纏う雰囲気は心地よく、はじめて感じる大きな手に身を預けたくなってしまう。
優しくも強引な鬼だが、琴子は嫌うことが出来なかった。
「だが、だからこそ私は琴子の望むことは叶えてやりたいと思っている。勿論、離縁以外でな?」
最後の言葉をおどけて口にする朱縁に、知らずしていた緊張が解ける。
触れていた手が頬を撫で離れると、そのおどけた調子のままで朱縁はひとつ提案をした。
「とにかく、私たちは互いのことをよく知らない。まずは知るために明日にでも買い物に出かけてみないか?」
「え?」
「琴子の着物や生活用品を購入せねばならぬしな。丁度良いだろう」
ご機嫌に話す朱縁に、琴子は力が抜けるような心持ちになる。
ずっと大事なお役目だと思っていたことが実は人間が勝手に作ったお役目でしか無いと判明したこともあり、どうするのが最良なのかすぐには判別出来ない。
琴子自身、考える時間が必要だと思った。
お互いのことを知ろうというならば、すぐに手を出すなどということもないだろう……多分。
どう結論を出すにしても、時間が欲しかった琴子は数拍考えてから頷いた。
朝食後訪ねた朱縁は、昨日とは打って変わって落ち着いた装いをしていた。
唐紅の着流しは同じだが、着崩れてはおらず襟元もしっかり合わせられている。
上からは山吹茶色の羽織を着ていて、緩く結った銀糸の髪もほつれが無いため変な色香は出ていない。
だが、身だしなみを正している朱縁は雰囲気も整えられていて昨日とはまた違った魅力があった。
「琴子の方から訪ねてきてくれるとは、嬉しいかぎりだ」
薄い整った形の唇を緩め、赤い紅玉の目を幸せそうに細める朱縁に琴子はなんとも気まずい思いをしていた。
詳しい事情は分からずとも、利津から聞いた話だけで朱縁がずっと唯一の伴侶とやらを探していたことは理解できる。
それが琴子であり、やっと見つけた相手だと喜ぶ朱縁に離縁を望むとは言いづらい。
だが、言わねばならない。
「その……私が朱縁様の望んでいた花嫁だということはなんとなく理解しているのですが……それでも離縁していただけないでしょうか?」
「無理だ、離縁などしない」
ニコニコと笑顔で即答されてしまった。
「ですがその、私には強い異能持ちを産み育てるという役目が――」
「それは私が伴侶を得るために妖力を与えたことで派生した副産物としての役目であろう?」
「え?」
どういうことなのか。
すぐに理解できなかった琴子は目をぱちくりと瞬かせる。
「はじめから話した方が良いだろうな」
そう言った朱縁は、遙か遠くを眺めるような目をして昔語りをした。
太古の昔、いつかも忘れてしまう頃朱縁は生まれた。
最強の鬼としてあやかしの頂点に立ったこともあれば、気の良い友と遊び暮らしていたこともあったとか。
そうして過ごしていても、周囲の者は先にいなくなってしまう。
長き時を生きるあやかしですら、朱縁と共にはいられなかった。
寂寞の思いに耐えきれなくなった朱縁は、長き生を共に生きられる存在を探すことにした。
とはいえ同じ存在などそれまで生きてきた中でも聞いたことが無い。
だから作り出すことにした。朱縁の妖力を受けた者は寿命が延びると分かっていたから。
だが、同じあやかしでは妖力が反発し合いちゃんと受け取ることが出来ない。
だから人間から選ぶしか無かったが、長い時を生きることが出来るほどに妖力を受け続けるにはそれ相応の肉体が必要だった。
そのような肉体を持つ者がいるかどうかも分からない。
だが、一度自覚した寂しさは消えるどころか増すばかり。
それ故朱縁は賭けに出ることにした。
一人の人間に数年の時をかけて妖力を流し込み、その後も朱縁の妖力を受け続けることが出来るのか調べ、共に生きられる存在を探し出そうと。
そのために人の帝と契約し、花嫁を得ていたのだと。
「そして、長き時が経ってもそのような存在は見つからずほとんど諦めていたのだ……」
感情が抜け落ちた様な、昏い目をした朱縁が視線を下げる。
だが、その無機質な瞳に光が差し、喜びに溢れた紅玉が琴子を映した。
「だが、見つかった。琴子ならば私と共に生きることが出来る。ずっと、私の側にいてくれ」
優しく、愛おしむような微笑みに琴子は思わずドキリとする。
朱縁がどれほどの寂しさを抱え、長い時を生きてきたのかは分からない。
それでも、彼の喜びようからその寂寞の欠片くらいは理解出来た。
(なんだか……切なくて苦しい)
泣きたくなるような思いに、胸が締め付けられる。
だが、だからといって簡単には頷けない。
朱縁の話が全て事実なら、自分は朱縁と共にずっと生き続けなければならないということだ。
朱縁は自分を大事にしてくれそうではあるが、これから共に長い生を送るとなると想像もつかない。
琴子は畳を見つめ惑い、とりあえず疑問に思ったことを聞くことにした。
「その、一つ疑問なのですが……今までの鬼花が極端に長寿だったとは聞いたことがありません。本当に朱縁様の妖力を得れば寿命が延びるのですか?」
朱縁の妖力を受けた者の寿命が延びるのならば、今までの鬼花は皆長寿のはずだ。
だが、そのような話は聞いたことが無い。
琴子の問いに、朱縁は二度ほど瞬きしてから「ああ」と少々皮肉げな笑みを浮かべた。
「それは子を産んだからだろう。鬼花の持つ妖力が子へと受け継がれるから強い異能持ちとなって生まれるのだ」
「あ、だから副産物と……」
朱縁の答えに先ほどの話を思い出す。
守護鬼の花嫁となりかの鬼の妖力を得て、離縁の後強い異能持ちを産み育てるのが櫻井の長女の役目。
そう教えられてきたが、朱縁の本来の狙いを聞いた後では確かに副産物として出来たお役目なのだろうと分かる。
だが、朱縁の思いはともかく、人の世では長くそのお役目を続けてきたのだ。そう簡単には覆せない。
(どうしましょう……出来れば離縁したいのだけど、朱縁様はしてくれなさそうだし……)
「……琴子」
朱縁の顔も見れず悩む琴子に、彼はゆっくりと衣擦れの音を響かせて近付いた。
伸ばされた手が琴子の頬に触れ、視線を合わせられる。
「っ」
慣れぬ男の硬い指。女とは違う力強さ。何よりその近さに琴子は息を呑む。
朝の光を受けほのかに光る銀の髪。その隙間から覗く色の濃くなった紅玉の目。
生きた宝石のような存在に、琴子は自分を制御出来ない。
「あ、あのっ! 何故そのように近く!? というか、何故私はあなた様のような殿方が近くにいても気分が悪くならないのでしょうか!?」
今までは同じ部屋に異性がいるだけで気分が悪くなったのに、と訴える。
何故朱縁だけは平気なのだろう?
「私の妻に私が近付けるのは当然だろう? それに、私の妖力を込めたこの数珠には呪いがかけてある。他の男が近付かないように、とな」
頬に触れているのとは逆の手が、琴子の右手に触れる。その長い指先で紅玉の数珠を撫でた。
「私の唯一の伴侶になるかもしれない娘がつけるものだ。他の男に近付かれるのは癪に障る。……こう見えて、私はかなり独占欲が強いのでな」
「あ、の……」
優しい笑みの中に、僅かな毒が垣間見えて言葉に詰まる。
だが、その毒を覆い隠すような甘さが赤い瞳に宿った。
「琴子……幾星霜の年月、お前をずっと待っていた。……だから、手放すことは出来ない」
「っ」
有無を言わせぬ言葉に琴子は懊悩する。
こちらの要望を聞き入れてくれない朱縁。
人である自分に、長き生を強いる無情な鬼。
だが、朱縁の妖力を受け続けてきたからだろうか?
彼の纏う雰囲気は心地よく、はじめて感じる大きな手に身を預けたくなってしまう。
優しくも強引な鬼だが、琴子は嫌うことが出来なかった。
「だが、だからこそ私は琴子の望むことは叶えてやりたいと思っている。勿論、離縁以外でな?」
最後の言葉をおどけて口にする朱縁に、知らずしていた緊張が解ける。
触れていた手が頬を撫で離れると、そのおどけた調子のままで朱縁はひとつ提案をした。
「とにかく、私たちは互いのことをよく知らない。まずは知るために明日にでも買い物に出かけてみないか?」
「え?」
「琴子の着物や生活用品を購入せねばならぬしな。丁度良いだろう」
ご機嫌に話す朱縁に、琴子は力が抜けるような心持ちになる。
ずっと大事なお役目だと思っていたことが実は人間が勝手に作ったお役目でしか無いと判明したこともあり、どうするのが最良なのかすぐには判別出来ない。
琴子自身、考える時間が必要だと思った。
お互いのことを知ろうというならば、すぐに手を出すなどということもないだろう……多分。
どう結論を出すにしても、時間が欲しかった琴子は数拍考えてから頷いた。