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 その日は、不思議なほど静かな朝だった。
 昨日はしばらく降り続いた雨がようやくやみ、やっと外に洗濯ものが干せるとほっとしたことを覚えている。
 一条家に来てから、華はできるだけお屋敷の炊事や洗濯を手伝うようにしていた。一度は必ず断られてしまうのだが、華が何度も頼み込むとみんな少し驚いたような顔をして折れてくれるのだ。

 ――でも……そんな風にここで過ごす時間も、もう終わり。

 一週間前から、柊はパタリと華の元を訪れなくなった。
 きっと、離縁の申し込みを聞き入れてくれたのだろう。これで柊や一条家の人々を傷つけることがなくなると安堵すると共に、どうしようもない喪失感が華をおそった。
 柊がいつ離縁の手続きを終えるかはわからないが、いっそのことこのままひっそり屋敷を出ていこうかという考えが頭をよぎる。叔父の家へ帰って、ただ死を待つような日々を過ごすならばいっそ、誰の迷惑にもならないようにひとりで生きていく方がいいのではないだろうか。

 一条家で仕立ててもらった着物を脱ぎ、元々持っていた小紋に腕をとおす。
 着替えが終わり、雀の涙ほどしかない花嫁道具をすみに寄せた。これで、いつでも出ていくことができる。
 そう思い顔を上げた瞬間、外からあわただしく駆けてくる足音が聞こえた。

「――奥さま!」
「小太郎くん!?」

 転がり込むようにして座敷へ入ってきた小太郎は、華の様子を見て何かを察したかのようにぎゅっと顔をゆがめた。
 小太郎の大きな瞳から、はらはらと涙が落ちる。

「お、奥さま、出て行かないでください。旦那さまを見捨てないでください、お願いします。おれ、何でもします……だからどうか!」
「小太郎くん、落ち着いてください。見捨てるだなんて、そんな……」

 華は柊を見捨てて出ていくのではない。柊たちを傷つけないために、ここを離れたいのだ。
 華が持っているという能力が柊にとって役に立つと言っても、華がいることによってもたらされる不利益の方が大きいだろう。それに柊ならば、すぐに新しい再婚相手が見つかるはずだ。華よりも優秀で、一条家にふさわしい花嫁が。

「奥さまが出て行ってしまったら、旦那さまはどうなるんですか」

 しゃくりあげるようにして泣き続ける小太郎。その言葉の意味がわからず、困惑する。
 すると小太郎は、華の小紋を握りしめて力なく引っ張った。

「奥さまがいなくなったら、旦那さまはきっと死んでしまいます」
「旦那さまに、何かあったのですか?」

 涙を流しながら何度も頷く小太郎に、背筋が凍るのがわかった。
 
 ――まさか、もう妖魔の襲撃が? 光景で視た景色は冬だったはずなのに……!

 小太郎に手を引かれ、柊がいるという座敷へと急ぐ。
 妖魔が出現したのなら騒ぎになっているはずだが、相変わらず屋敷の中は静かで瘴気のにおいもしない。
 しかし、華が母屋に足を踏み入れた瞬間、晩夏とは思えないほどの寒さが全身を襲った。

「この寒さは、一体……」
「奥さま、旦那さまはこの奥です」

 そう言った小太郎が襖を開くと、広い座敷の中心に敷かれた布団に柊が寝ているのが見えた。

 思わず、引き寄せられるようにして歩を進める。
 そして横たわる柊の全貌を捉えた瞬間、ひゅうっと喉の奥が鳴った。
 生気を失った頬には霜がはり、綺麗な黒髪はところどころ凍ってしまっている。かろうじて息はしているようだが、その息もまた柊が吐き出した瞬間に白く凍ってしまう。まるで、柊の周りだけ季節が変わってしまったかのようだ。
 
 華が言葉を失っていると、柊の凍ったまつ毛が揺れ、その瞳が薄く開いた。

「……どうして華を連れてきた。何も話すなと言っただろう」

 そう言って視線を向けられた小太郎は、ぎゅっと拳を握りしめる。

「ごめんなさい……でも、おれ、このままだと旦那さまがしんじゃうって思って……」

 うつむいたまま大粒の涙を落とす小太郎に小さくため息をつき、「もういい」と柊が言う。
 その優しい声色を聞いて、安心したかのように小太郎は鼻をすすり、そばにあった水桶を持って外へ駆けていった。

 一瞬、華と柊の間に静寂が流れる。
 華は何も言わないまま、震える指先で柊の手に触れた。人の肌とは思えないほどの冷たさが伝わってくる。

「何があったんですか」

 思わず、そう問いかけた。
 すると柊は、先ほどよりも深いため息をついて目を閉じる。

「ここ数日、連続で妖魔の討伐に行っていたツケが回ってきただけだ」
「討伐? それだけで、こんなことに?」
「……大きな傷を負ったわけではないから、死にはしない。能力を使いすぎると、いつもこうなるんだ」

 今にも泣き出してしまいそうな華を見て、柊がそう返す。
 そして、目を伏せながら言葉を続けた。

「私は、神通力を体に溜めておくことができない。消耗した力は時間と共に少しずつ回復するが、持久戦は難しい。体の中の神通力が切れると能力が暴発して体が凍ってしまうからな」

 静かにそう言った柊に、息をのむ。
 
 ――神通力を溜めておくことができない? 帝都随一の能力を持つ旦那さまが?

 能力使いはみんな、体にある神通力を使って能力を繰り出している。
 神通力が高ければ高いほど能力の精度が高くなるとされていて、一度持って生まれた神通力は基本的になくなることがない。能力使いにとって力は当たり前に存在するものであり、消耗するものではないからだ。

 そこでとあることを思い出し、華はとっさに柊の手を強く握りしめた。
 すると、柊の体にはっていた霜がじんわりと溶けてなくなっていく。苦しそうに吐かれていた息も、温度が感じられるまでにあたたまった。
 柊が言っていた「譲与の能力者は接触によって神通力を分け与える」という言葉を、もう一度頭のなかで繰り返す。
 とっさに取った行動だったが、こんなにも効果があるなんて。
 
 ようやく、柊が華を花嫁に選んだ理由を理解した。
 譲与の能力――神通力を人に与えることができる能力は、こういう使い道があったのだ。

「申し訳ありません……私、何も知らなくて……もう少し早く来ていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」

 柊の凍った体を見れば、その苦痛がどんなに耐えがたいものであったか容易に想像できる。
 青ざめながら自分の無知を謝罪した華をゆっくり見やって、柊はそっと自ら手を離した。

「華が謝る必要はない。私が何も言っていなかったのが悪いんだ、気負わないでくれ」
「それでも……」
「そんな顔をさせたくなかったから、黙っていたのだが……私はまた方法を間違ってしまったらしい」

 そう言って、眉を下げた柊に胸が痛くなる。
 華は何も返すことができず、ふるふると頭を振った。

「私から離れたいというお前の望みも、すぐに叶えてやれずすまなかった」

 華の着ている小紋を見て、瞳を揺らした柊。
「お前が私から離れたいと望むのならば、それでもいい」と続けた柊に、我慢し続けていた涙があふれる。
 違う、柊と離れたいなんて本心では思っているはずがない。
 心にもない嘘で柊にそんな顔をさせてしまうくらいならば、もう自分の身など、どうなってもいい。
 そう思い、華は口を開く。

「どうか、お許しください。私は、ずっと……嘘をついていました」
「嘘?」
「旦那さまと夫婦の契りを結んで半年が経ったころ、不思議な白昼夢を視たんです。燃え盛る炎のなか、妖魔の襲撃に遭い……旦那さまの体が今のように凍りついてしまう光景を」

 華の言葉を聞いた柊が、かすかに目を見開く。

「私は、旦那さまの体を揺さぶるだけで何もできなくて……そんな光景を何度も繰り返し視るうちに、これは本当に起こり得る未来なのではないかと、とても恐ろしくなったんです。私の心臓に妖魔の欠片が刺さっているせいで、私がこの一条家に居るせいで、旦那さまたちを殺めてしまうのではと」

 震える声で言葉を紡ぐたびに、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
 ああ、ついに言ってしまった。
 華が欠片持ちだと知った柊は、話が違うと怒るだろうか。今すぐに荷物をまとめて出ていけと罵るだろうか。
 いや、そんなことよりも――

「ずっと騙していてごめんなさい。私は旦那さまのおそばにいる資格がないのに、ずっと……その優しさに甘えていたのです」

 そう言って華は、はじめて会ったときのように額を畳におとす。
 
 ――きっと、嫌われてしまった。

 華が瞬きをするたびに、一滴、二滴と涙が畳に染み込んでいく。
 すると柊は、ひれ伏す華の両肩をそっと持って起き上がらせた。
 ほろりと流れた涙の雫と共に視線が混じり合い、柊が見たこともないくらい優しい瞳でこちらを見ていることに驚く。

「華」

 柊が、華の名を呼ぶ。
 もう二度と呼ばれることはないだろうと覚悟したその響きは、とても柔らかく華の鼓膜を揺らした。

「華が視たというその光景は、未来に起こり得る予知ではない。きっと忘れていた過去を思い出したのだろう」
「え?」

 柊が言った言葉の意味が分からず、思わずそう聞き返す。
 すると柊は、そのままふんわりと華の体を抱きしめた。突然与えられたぬくもりに、びくっと全身が震える。

「私たちは、過去に一度会っている。華にとっては辛い記憶だろうから、このまま全て思い出さなくてもいいと思っていたが……その追憶が今の華を苦しめているのなら、思い出してほしい。私たちの出会いを」

 柊のぬくもりが、華を包み込む。
 そのどこか懐かしい温度に、あたたかな吐息がこぼれた。
 瞬間、華の頭に流れ込んできたのは、いつもと同じあのノイズ。しかしそこにあるのは恐怖ではない。華の凍り付いた記憶を溶かしていくように、柊の体温が伝わってくる。

 ――ああ、私は……どうして忘れていたんだろう。
 
 やがて全てを思い出したころ、華は静かに涙を落としながら、柊の背に手を回していた。