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 朝からしとしとと降りだした雨が、雨どいを伝って鈍い音を立てている。
 すきま風が肌寒く、華はそっと羽織をかけ直した。
 
 柊の手を振り払ってしまってから五日が経つ。あれから、彼と会話らしい会話はしていない。
 柊自身は変わらず離れを訪れてくれるが、その表情はいつもどこか固い。感情が見え隠れしていた黄金の瞳は冷たく凍り付き、まるで離縁を切り出す前に戻ったようだった。
 こちらを見て頬をゆるめた柊の表情を思い出し、どくんと心臓が鳴る。あの優しい微笑みは、もう見られないのだろうか。

 ――何を今さら。これは全て、私が望んだことのはずでしょう。

 ずっと柊と離縁するつもりで動いていた華が、寂しさを感じることなど許されない。
 華は、柊や小太郎と一緒に居てはいけないのだ。
 最初からそう、わかっていたはずだったのに。

「……奥さま?」

 いつの間にか、華のそばに来ていた小太郎にはっと顔を上げる。

「奥さま、もしかしてご気分が優れないのでしょうか。それならおれ、薬膳を持ってきます」
「いえ……違うんです」
「薬膳じゃどうにもならないようなら、お医者さまを呼んできますよ」
「大丈夫、どうか心配しないで。ありがとう」

 どうにか笑顔を作り、小太郎に言葉を返す。しかしそれでも不安そうにこちらを見上げる小太郎に胸が痛んだ。
 この前まで穏やかに話していたふたりが急に話さなくなったのだ。小太郎が戸惑うのも当たり前だと思う。
 こんなことならば、柊が小太郎を側仕えに置いてくれたときに断っておくべきだった。

 ――小太郎くんにも言わないと。旦那さまと離縁したいと思っていることを。

 華の判断が遅かったせいで、優しい彼らをもっと傷つけてしまう。
 一瞬でも、ふたりと過ごす穏やかな時間に身をゆだねていたいと思ってしまった自分が許せなかった。

「小太郎くん、ごめんなさい。私は……このお屋敷を出ていこうと思っているんです」
「それは、旦那さまとお別れするという意味ですか?」

 小太郎の言葉に、こくりとうなずく。

「だめです! どうしてですか……!? おれ、やっと奥さまと仲良くなれてきたと思ったのに、どうして!」
「ごめんなさい……はじめから、決めていたことだったんです。本当にごめんなさい」
「はじめから決めていた? おれが来る前から、ですか?」
「……はい」
「そんな……」

 小太郎の大きな瞳に涙が溜まっていく。
 今にも泣き出してしまいそうな小太郎を見て、華はもう一度力なく「ごめんなさい」と呟いた。

「奥さまは、旦那さまがお嫌いなのですか?」

 顔をくしゃくしゃにゆがめて華の着物にすがりつく小太郎に、目を見開く。

「私は……」

 柊のことは嫌いじゃない。
 離縁を切り出す前からそうだった。そもそも柊は、地獄のような叔父の家から華を連れ出してくれた恩人だ。それにたとえ会話がなかったとしても、彼と一緒にいる時間はとても穏やかで、不思議と心が休まった。
 では、言葉を交わすようになってからはどうだろうか。離縁を切り出したあとのことだ。
 柊は、華のつたないわがままを全て受け入れ、笑ってくれた。華のことが必要だと言って、氷のスミレを贈ってくれた。

「私、は……」

 いくら言葉で否定しようとしても、心がその事実を認めてしまっている。
 華にとって柊と過ごす時間はいつの間にか、居場所そのものになっていたのだ。

 そのとき、襖の向こうから小さな音が鳴った。
 思わず振り返れば、ひんやりとした冷気が足元に届く。爽やかな甘い香りが鼻腔をくすぐり、柊が来たのだとわかった。

「小太郎、そこにいるか?」

 柊の低い声でそう投げかけられ、小太郎がピクっと肩を震わせる。

「は、はい! ここにいます」
「そうか、それなら少し外してくれるとありがたい。華と話がしたいんだ」
「わ、わかりました……」

 ぐいっと袖口で涙をぬぐい、小太郎はもう一度華のことを見る。
 何かを訴えかけるような表情に華は何も返せないまま、パタパタとはけていく小太郎を見送ることしかできなかった。

 小太郎が出て行っても、柊は襖を開けようとしない。
 襖越しに、ふたりの息づかいだけが響く。

「入っても、いいだろうか」

 数秒の間をおいて、そう尋ねられる。
 まるで、華が離縁を切り出したあの日と立場が逆転したようだ。
 華が「はい」と答えると、ゆっくりと襖が開かれ、柊が中へ入ってきた。

 畳に座り込み、羽織の合わせを握りしめる華を見て、柊は小さく息をつく。
 そして華のそばへ近付くと、そっと腰を下ろした。

「……旦那さま」
「すまない、話があるというのは口実だ」

 華の言葉をさえぎるようにそう言った柊を見る。
 
 柊は最近、前にも増して妖魔討伐の任務に精を出していると聞く。
 そのせいか、柊の顔色には少し疲労の色が垣間見えた。きっと、寝る間もないくらいに忙しいのだろう。

「ただ、華の顔が見たかった」

 柊の黄金の瞳が、華だけを見つめる。
 凛と澄んだその色が、こちらを慈しんでいるようで心臓が跳ねた。

「そんなことを、言わないでください」
「……どうして?」
「私はやはり、旦那さまと一緒には居られません。私はこの一条家にふさわしい花嫁ではないので」

 柊の顔が見られない。彼は今、どんな顔をしているのだろうか。
 外から聞こえる雨音がだんだんと大きくなっていく。細かい雨が、冷たい粒子となって華の体を濡らす。手足が冷え切り、感覚がなくなっていくのがわかった。

「ですから、旦那さま……どうか、私と」
「華、私にはお前が必要だ」
「……っ!」
「もう、私の名を呼んではくれないのか?」

 掠れた低い声に顔を上げた瞬間、見なければよかったと後悔した。
 寂しげに揺れた柊のまなざしがあまりに真っ直ぐで、あ、と小さな声が漏れる。
 どくどくと痛いくらいに鳴り響く鼓動を抑えるように、華は胸を抑えた。すると、その手に柊の指先がそっと重なる。
 氷のように冷たい指先なのに、なぜかとても熱く感じた。

「……旦那さま、私と離縁してください。私は……あなたと一緒にいたくないのです」

 つう、と華の頬を涙が伝う。
 旦那さまについた最後の嘘は、まるでそれが真実かのように淡々としていた。間近に感じていた柊の温度が遠くなり、華の初恋ごと、降りしきる雨のなかに消えていくようだった。