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夏草の青いにおいが、すうと鼻腔を通り抜けた。
障子を開ければ、朝の澄んだ冷気が吹き込み、身体に湿気を孕ませていく。木陰から漏れ出した日差しに目を細めながら、華は柱に雪崩れるようにして腰を下ろした。
柊に離縁を申し出てから早一日。
あのあと柊は、華の言葉にしばらく固まり「少し時間をくれ」と言って華を追いだした。
あれだけ失礼な物言いをしたのだ。きっと、もうすでに離縁の手続きをしているに違いない。
――本当は、この離れでの生活が、とても心地よかったのだけれど……。
柊と結婚してから、この離れで過ごした半年間は華にとって平穏な日々だった。
華が暮らすこの離れには人が少ないように思う。しかし、華のお世話をしてくれる人たちはみんな華に優しく接してくれる。あたたかい食事が出ることも、しっかりと仕立てられた着物が用意されることも、華にとっては考えられないくらい幸せなことだった。
しかしこれは全て、華が嘘をついて得た生活だ。
心臓に妖魔の欠片があり、そのせいで不能であることを知れば、みんなきっと離れていく。
華が本来いるべき場所はここではない。かといって、冷たく孤独な叔父の家もまた華の居場所ではないだろう。
それならば華は、どこに行くべきなのだろうか。
ぎゅっと襟元をつかんだそのとき、襖の向こうでカタンと物音が鳴った。
誰かいるのだろうか。そう思い立ち上がろうとした瞬間、勢いよく襖が開く。
「失礼いたします!」
襖を入ってきたのは、幼い男の子だった。
木綿の着物に動きやすい袴を合わせた小姓の恰好だ。おでこの上できゅっと結んだちょんまげ頭がなんとも可愛らしい。
「お初にお目にかかります、小太郎と申します。今日から、奥さまの側仕えとして働かせていただきます!」
「そ、側仕え……?」
頬を上気させながら、こちらを見上げる小太郎に思わずそう聞き返してしまう。
華がポカンとしていると、小太郎は「あれ」と目を丸くした。
「旦那さまから何も聞いてませんでしたか?」
「いえ、何も……」
「ええ、おかしいなぁ。おれ、旦那さまから命じられてここに来たのに」
「私の側仕えになるようにと命じられたのですか? 旦那さまに?」
「はい! あっ、でも、おれだけじゃないですよ。奥さまが寂しくないようにと、離れの使用人もどかんと増やしたそうです!」
満面の笑みでそう言った小太郎に、またもや呆然とする。
あの柊が、華のために使用人を増員した。しかも、理由は‟華が寂しくないように”。
にわかには信じられないその言葉に、思考が止まってしまう。
固まっている華を気にすることなく、小太郎はせっせと自分の荷物を座敷に運び入れた。
そのなかには、大きなお膳も入っている。きっと、朝餉を一緒にとるつもりなのだろう。
しかし、見間違えでなければお膳は華と小太郎の他にもうひとつあるように見える。
「あ、あの小太郎さん」
「さん付けなんてしないでください! 小太郎、でいいですよ!」
「では……小太郎くん?」
「へへへ、なんでしょう、奥さま」
うれしそうに八重歯を見せて笑った小太郎に、思わずきゅっと心臓が鳴った。
すごく可愛い。もし自分に弟がいれば、こんな感じなのだろうか。
それに愛らしいだけでなく、小太郎が現れてから空気がほんのりとあたたかくなったような気がする。
「小太郎くん、ここで朝食をとるのですか?」
「そのつもりですが、だめでしたか?」
「いいえ、そうではなく……お膳がひとつ、多いように見えたので」
華が指さしたお膳をきょとんと見やり、小太郎は納得したようにうなずいた。
「ああ、これは旦那さまのお膳です。今日から、こちらで一緒に食事をとられるようですよ」
「へっ?」
間の抜けた華の返事が響くなか、再び襖がスパンと開く。
反射的に振り返れば、そこには至極当然というような顔をした柊が立っていた。
――どうして旦那さまが……!?
昨日は黒いダブルベストが特徴的な洋装だったが、今日はさらりとした着流し姿だ。
薄い青地の羽織りが、柊の雰囲気によく似合っている。
いや、気にするべきなのは彼の服装ではない。どうして、柊がここにいるのだろうか。
「旦那さま! お待ちしておりました。今すぐご飯を持ってまいりますね」
「ああ」
パタパタと足音を立てて小太郎が出て行った瞬間、ひやりと場の空気が凍る。
昨日の今日で、この対面は気まずいにもほどがある。
今まで一緒に食事なんてとろうともしなかった柊が、こうして自らやってくるなんてどういうつもりなのだろうか。
「あ、あの」
気まずさに耐えられなくなった華が口を開くと、柊の目線がこちらに向く。
「昨日の件ですが、考えていただけましたでしょうか」
「考えた。だからこうして今、ここにいる」
間髪入れずに返ってきた言葉に、またもや疑問がうまれる。
すると、華の返事を待たずに柊が言葉を続けた。
「離れには人が少なく、寂しいと言っていただろう」
たしかに言った。「寂しい」の部分のみ嘘ではあるが。それに華が差す昨日の件とは、そのことではなく離縁のことだ。しかし柊は止まることなく、また口を開く。
「だから使用人の数を増やし、側仕えの者もこちらによこした。小太郎は、日の能力を持っているからな」
「日の能力?」
「あいつが近付くと、場があたたまったように感じなかったか? あれは小太郎の能力だ」
その言葉に、あっと合点がいく。
出会った瞬間から太陽のような子だと思っていたが、小太郎が持つ能力のおかげでもあったのか。
「小太郎はまだ幼いが、優れた能力の使い手だ。食べ物を焼くくらいの温度であれば体ひとつで操作できる。‟ここは夏なのに寒い”と言っていたお前の不満も解消されるだろう」
それもたしかに言った。
ということはつまり、柊は華が昨日適当に言いつらねた不満を全て解消するためにここを訪れたのか。
まさか柊がそこまでするとは思っていなかった華は、再び思考が止まりそうになる。
いや、きっとそれほどまでに受け入れがたい話だったということだろう。
華と離縁してしまえば、本家からのお見合い催促はまた復活するだろうし、形だけの花嫁であっても簡単には手放したくないのだ。
――そういうことならば、もっと難儀な奥さんにならないといけない。旦那さまが呆れて、離縁を申し込んでくるくらいの。
名付けるならば、‟旦那さまに嫌われる大作戦”といったところだろうか。
昨日言ったくらいのことでは、柊は全く動じないのだとわかっただけでも収穫があった。
柊の行動は予想外だったが、これからは柊の許容範囲を超える行動をとればいい。
とにかく華は、なんとしても柊に離縁してもらわなければ困るのだ。彼を、護るためにも。
無言のままうなずいた華を見て不思議そうな顔をした柊だったが、特に何も言うことなく腰を下ろした。
なるほど、本当に隣で朝餉を取るつもりらしい。
「お待たせしました! ささ、冷めないうちに食べちゃいましょっ」
そうこうしているうちに、食事を持った小太郎が帰ってきた。
両手いっぱいにお盆をかかえる小太郎を慌てて手伝い、華も柊に続いて畳に座る。
なんだか、誰かと一緒に食事をとるのは久しぶりだ。
一条家へ嫁いでからは大体ひとりでいたし、叔父の家にいたときは、いつもみんなが食べ終わってから冷めた食事をとるのがあたりまえだった。
「みんなで食べるとおいしいですね!」
「……そう、ですね」
にんまりと笑いながら口いっぱいにご飯をほおばる小太郎に、思わず頬がゆるむ。
そのままそっと栗の甘露煮を口に運べば、ほんのりとした甘さが口内に広がった。
「栗が好きか?」
ふと、柊からかけられた言葉にびくりと肩を上げる。
「えっと……はい、好きです」
「そうか。では私の分もあげよう」
そう言って、柊は手早く自分の甘露煮を華の膳に乗せた。
「そんな、いただけません……! これは旦那さまがお食べください」
「私はいい。お前が食べろ」
「でも、甘露煮はご褒美というか、お膳のなかの主役みたいなものなので……」
「甘露煮が主役? お前は甘いものが好きなんだな」
目を細め、柔らかく口角を上げた柊を見て息をのむ。
――今、笑った? あの旦那さまが?
思いがけない柊の笑みに目を奪われていると、「なんだ」と言いたげに柊が眉を上げる。
しまった、すっかり自分の目的を忘れかけていた。
甘露煮をもらって嬉しくなっている場合じゃない。ここはもっと気合いを入れて、嫌われるような返しをしなければ。
「たしかに甘いものは好きです。ですが、こんな甘露煮なんかじゃ、ぜ、ぜん……っ、全然足りません。もっと……そうですね、金平糖とか、飴玉とか、洋菓子なんかも食べてみたいです」
思い切り噛んでしまったうえに若干早口になってしまった。それでも、昨日よりはうまく言えたような気がする。
しかし本当に、なんて失礼なことを言っているのだろうかこの口は。きょとんと目を丸めている小太郎と柊を見て、顔を覆いたくなるのをプルプルとこらえる。
静まる空気に耐えきれなくなったころ、沈黙を柊の笑い声がやぶった。
「ふっ……そうか、わかった。すぐに用意させよう」
「え……?」
「わあ、おれも一緒にたべていいですか!? 旦那さま、おれはおはぎが好きです!」
期待に満ちたまなざしでそう言う小太郎の頭を軽く撫で、わかったと微笑む柊に目を奪われる。
呆れさせるつもりで言ったのに、またすんなりと受け入れられてしまった。
しかも何故か、先ほどよりも柊の機嫌がよくなったように見える。
戸惑う華の心を冷やすように、障子のすき間から風が舞い込んだ。
風に吹かれた新緑の葉が、華の髪に乗る。
その葉をそっと取りながら、柊はもう一度、頬をゆるめた。
「昨日から、お前の新しい一面を見ているようだ。思うことがあるなら何でも言ってくれ。私にできることなら、全て叶えてやる」
細まった黄金の瞳が朝日に照らされ、宝石のように輝く。
その優しいまなざしから、華はしばらく目を離すことができなかった。