古より、人々は人ならざるものに脅かされながら生きてきた。
 妖魔(ようま)とよばれるその異形は、人の精気を奪って食らう。
 尊い命が奪われ続けることを嘆いた人々は、神に祈った。「どうか、弱き我らをすくいたまえ」と。
 慈悲深い神は、悩んだ末、自らの力を選ばれし者に分け与えることにした。
 神が与えた神通力(じんずうりき)により、選ばれし者たちは人の身でありながら妖魔に対抗できうる力を得た。そうして、人智を超えた力をたまわった者は、妖魔から人々を護る能力使いとなったのだ。

 時は移ろい大正初期。
 帝都で一番強い能力使いの一家に、花のような乙女が嫁ぐ。
 乙女の体は神通力に満ちていた。しかしどういうわけか、彼女は一切の能力を持たない不能だったという――。

♢ ♢ ♢ ♢

 ふんわりとぬるい夏風が、回廊へ吹き付けた。
 風にのって飛ばされてきたのだろう、朝露のしずくが頬に当たり、つうと流れ落ちる。
 相変わらず、気が遠くなるほど長い廊下だと心のなかでぼやきながら、(はな)はひとつの座敷の前で立ち止まった。
 閉じられた襖からひんやりとした冷気を感じ、どくんと心臓が鳴る。

 ――ここへ来るのは、どれくらいぶりだろうか。

 屋敷の離れからこの母屋まではずいぶん離れているため、道中何度か迷ってしまった。しかしそれも仕方ないことだと思う。奥にいる男と夫婦の契りを結んで以来、華はこの母屋に足を踏み入れてさえいないのだから。

「……誰だ」

 襖の奥から聞こえた声にハッとし、背筋を伸ばす。
 しっかりしなくてはならない。
 華が今日、こうしてろくに話したこともない男の元を訪れたのには理由があるのだ。

「華です。入ってもよろしいですか?」

 返事を待つが、奥からは小さく息をのむ音が鳴ったのみ。
 否定の言葉がないということは、入ってもいいということだろう。そう判断した華は、おそるおそる襖を開いた。

「自ら尋ねてくるとは、どういう風の吹き回しだ?」

 こちらには目も向けず、そう言い放った男をあらためて見た。
 純白のカッターシャツに、ダブルベストを合わせた洋装が洗練された印象を持たせる。
 闇よりも深い黒髪に、涼しげな黄金色の瞳。齢二五になる男を指す言葉としてふさわしくはないのだろうが、相変わらず、作り物のように美しい容姿だと思う。並みの女学生であれば、目が合っただけで色めき立ってしまうだろう。
 しかし、美しいと言っても愛嬌があるというわけではない。むしろその逆だ。
 帝都一の能力を持っていると名高いこの男は、常に身震いしてしまいそうなほどの冷たい雰囲気をまとっている。

「今すぐに、お伝えしなければならないことがあるのです」

 華がそう言うと、机に向かっていた男の手がピタリと止まった。
 永遠とも思えるほどの静寂が流れるなか、華は意を決して口を開く。

「私と、離縁してください」

 そう言うと、華にとって形だけの夫、一条柊(いちじょうしゅう)は初めてこちらへ顔を向けた。
 凍てつくほどに冷たいまなざしが揺れる。華を見る柊の瞳が、ほんの少しだけ、色を変えたように感じた。