——い、……おい。
誰かが私の体を揺すぶってる。
うるさいなあ、もうちょっとだけ寝かせてよ。
ぼんやりと聞こえる声に心の中で悪態をつく。
口元まで布団を引き上げて、もう一度眠りにつこうとした。
「おい、起きろって」
だけど、今度ははっきり聞こえたその声に、嫌々ながらゆっくりと目を開けた。
せっかく気持ちよく寝ていたのに……。
「……!? なんでいるの!?」
心地よいまどろみに浸る間もなく、私の頭は覚醒して飛び起きた。
だって、目の前にいるのは間違いなく大溝くんだったから。
私が急に大声を出したからか耳を押さえる仕草をして、マスクをしていても嫌そうな顔をしていることが想像できた。
もう一度「なんでいるの?」と恐る恐る話しかけると、しぶしぶといった感じで大溝くんは言う。
「あんたのこと先生が起こしてたけど、起きなかったから頼まれただけ」
これから会議なんだってさとぶっきらぼうに言いながらベッドの横にある緑の丸椅子に座り、黒いケースに入ったスマホをいじっている大溝くん。
「あ、そうなんだ……」
本当にただ起こしてくれただけなんだ。
というか、教室とは違って普通に話してくれることに拍子抜けしてしまう。
ぶっきらぼうではあるけれど、教室で喋る時より幾分かマイルドだ。
……あれ。そういえば大溝くん、会議って言った?
いまっていったい何時なんだろう。
「もう放課後。授業全部終わった」
私の疑問が顔に出ていたのか、大溝くんが察したように答えてくれる。
「えっ、ほんとに?」
疑いながらスマホを開くともう夕方で、随分長い時間眠っていたんだと気が付いた。
メッセージの通知も二件来ていて、開くとそれは真結と凛花と三人で作ったグループメッセージからの通知だった。
『よく寝てたから、先に帰るよ』
『荷物は持ってきてあるけど、足りなかったらごめんねー』
それを見てからベッドの足元に視線を移すと、壁際のベッドの上に私のスクールバッグが置かれていた。
教室にまた戻るのは正直しんどいから、本当にありがたい。
『ありがとう』とだけ、ひとまず急いで返事を打ち込んで送信した。
それにしても、ふたりが来てくれたのにも気付かないなんて、だいぶ深く眠っていたみたい。
だけどよく眠れたおかげか、心なしか体も軽いし吐き気も治まった。
いくつかの授業に出られなかったのは痛いけど。
やっぱり睡眠不足って良くないんだなあと痛感する。
「隈、ちょっとはよくなったな」
「え……?」
そういえば、大溝くんの存在を忘れていた。
まさか話しかけてくるとは思っていなかったから、突然の大溝くんの言葉に驚いてしまう。
反射的に大溝くんの方を見ると、「いや、いつも目の下に隈作ってたから」なんて言われるからさらに驚いた。
化粧で隠しているつもりだったのに、ばれてたなんて思わなかった。
ばれるほど普段からよく見られていることにも驚きだけど。
「……そんなにひどかった?」
「かなりな。やつれた主婦みたいな面してる、いつも」
その言葉に、思わず両手でほっぺを触る。
頬がこけてる、ってこと?
「そんなに? そっかあ……」
かなりショックを受けるけど、大溝くんの言うことは的を射ている気がする。
だって私の生活って、学校に通っている以外は主婦となんら変わりないから。
思わず肩を落として小さくため息を吐いてしまう。
「悪い。はっきり言いすぎたか?」
気まずそうにぼそっと呟くから危うく聞き逃しそうになるけれど、大溝くんははっきりと謝った。
教室とはまるで別人みたいだ。
嘘のように違うから二重人格?それとも双子?なんて、おかしな想像すら頭をめぐる。
だから「え? ああ、うん。まあ少し?」なんて曖昧な返事しかできなかった。
教室と違ってあまりにも大溝くんが普通だから、なんだか気が抜けてしまう。
……本当に、普通すぎるくらい普通だ。
それなのになんで、大溝くんはあんなに避けられるみたいにひとりなんだろう。
自分だって近寄りたくないなんて思ってたくせに、こんなふうに思うのはおかしいかもしれないけれど、それでも不思議だった。
周りに誰もいないいまなら聞ける気がして、生唾を飲み込みだめ元で大溝くんにたずねてみる。
「……こんなこといきなり聞くの失礼ってわかってるんだけど、聞いていい?」
「だめって言ったら聞かねーの?」
片手でスマホをいじりながら言う大溝くんに、やや食い気味で答える。
「いや、聞くかも」
「なんだそれ、結局聞くんじゃん」
呆れたように小さく笑うから、やっぱり彼がなんで教室ではあんな感じなのか、余計に気になってしまう。
「最初に謝るけど……、実は先入観でびくびくしてたんだよね、大溝くんに」
「おー」
「それは本当にごめん。だけど、でもなんで教室だとあんな態度なの? 友達いないの? はじめて喋ったのに態度ひどかったよね?」
思い出せば出すほど、疑問といら立ちがないまぜになって込み上げる。
私の様子に少し困ったように上を見上げた大溝くんは、小さくうめき声を上げながらしぶしぶ目元を隠していた前髪を静かに片手で上げた。
急にどうしたんだろうと思ったけれど、声に出す前に踏みとどまった。
一目見てわかるほどの大きな傷跡……、古傷っていうのかな。
それがおでこのまんなかに堂々と鎮座していたから。
「あ……」
なんて言ったらいいかわからなくて、なんだか変な空気が流れてしまう。
そんな私の様子に、大溝くんは続けて口を開いた。
「でこの傷なー、喧嘩じゃねーんだけどでかいだろ。そんでこの目つきな。まあ生まれつきなんだけどさ。それで売ってもねー喧嘩買われたりして、いままで散々だったんだよな」
そう言った大溝くんの目を初めて見た。
切れ長の目元に三白眼。
たしかに怖い目つき、睨んでいるような目つき、例えるならそんな感じだ。
きりっとした眉毛も相まって余計そう見えるのかもしれない。
昔のことを思い出すように天井を見上げたまま大溝くんは続けた。
「で、目隠すようになって。そっから周りをビビらせないように、マスクしてれば目立たねーと思ってつけ始めて。そうこうしてるうちに、なんか俺がやばいやつみたいな噂流れ始めて。おまけに名前もなんつーか、強そうだろ?」
そう問いかけられて、彼のフルネームを思い出す。
そうだ。大溝獅子王だ。
獅子の王でししお。たしかに強そうではあるなと思う。
けどいまはキラキラネームっていうの?
結構そういう人はいっぱいいるし、気にしたことがなかった。
私がそこまで他人の名前に重きを置いていないだけかもしれないけど。
「気付いたらこのざま。誰も近寄ってこねーし、俺も誰にも近寄れねーの。話しかけようとしても避けられるし、いつの間にか俺から誰かに話しかけることもなくなった。んで、必然的に家族しか喋るやついなくなるだろ? そんなのがずーっと続いてさ。気付いたらいつの間にかほかの人とうまく話せなくなってた。変なコミュ障みたいになったんだよ。おかしいだろ? 一対一だとまあまあ話せる気がするけど、周りに人がいるとほんと無理なんだよなー」
「え、人前だと緊張して喋れないとか、そういうこと?」
「ちょっと違うけど……、まあそんな感じかなー。仲良く話せたらいいんだろーけど、緊張して自分で思ってる言葉を言う前に、別の言葉が口から飛び出てる感じ。だから余計周りに避けられて手に負えねーの」
「……ああ、そういうこと」
なんだか肩の力が抜けてしまう。
こういう人もいるんだなあ。
結構深刻な状況なことに本人は気付いていないのか、なんでだろうなーと、さして気にしてなさそうなその口ぶりに、私の方がため息を吐きそうになる。
けれど、理由がわかればなんとなく理解はできる気がする。
それにしても私への態度はかなりひどかったけど。
私の気にしすぎも災いしているのかな……。
そりゃあ大溝くんの周りに誰も寄り付かなくなるわけだ。
「昨日も朝も、俺あんたにきつかったよな? ごめんな」
申し訳なさそうに大溝くんが言うから、ううんと首を横に振った。
こんなふうに普通に話せたら友達なんてすぐにできそうなのに。
まあ、人前が無理って言うならそう簡単にはいかないのかな。
ふうと一呼吸置いて、とりあえず思ったことを口に出した。
「ひとまずさ、目も隠してさらに口も隠して、それも黒マスクだったら普通怖いよ、誰でも」
表情ひとつわかるだけで、その人がどんな人なのかって想像できる。
だから、そのひとつも知りえることのできない顔のすべてを隠した大溝くんが敬遠されるのは当然のことのように思えて、あえてはっきり言ってみた。
「まじで? けど白いマスクってダサくね?」
「いや、だったら外せばいいじゃん。ビビらせないようにマスクするっていうの、むしろ逆効果だから。ビビらせてるから、逆に」
マスクを外すという選択肢がはなからないのが気にかかる。
一度自分の姿を客観的に見て評価した方がいいと思う。
私が思い切ってズバッと言うと、まるで目から鱗と言わんばかりに「それは盲点だった……」と大溝くんが呟いた。
その姿に呆れてしまう。
「大溝くんってバカなの?」
反射的に口をついて出たその言葉にはっとして急いで口元を押さえたけど、飛び出た言葉は戻ることはない。
気まずい気持ちで大溝くんを見据えると、私の思いに反して大溝くんは噴き出すように笑った。
「あんたって、そんなにはっきり物事言うタイプだったの? 意外なんだけど」
けらけらと笑いながら言われたその言葉に、脳天に衝撃が走る。
考えてみれば、言いたいことを自分の思いのままに言うことって、いままでほとんどなかったかもしれない。
いつも顔色を窺って、本当に言いたいこともしたいことも、心の中で折り合いをつけてきたから。
「……大溝くんがバカすぎたから、思わず出ちゃったの」
大溝くんからぷいっと視線を逸らしてぼそっと言えば、また声に出して大溝くんは笑った。
ひとしきり笑った後、急に静かな時間が流れる。
不思議とその感覚が嫌じゃなくて、初めて喋ったのにどうしてだろうと考えた。
……そうだ。
大溝くんがあまりにもあけっぴろげだから、私もいつもより思ったままの言葉を口に出せているからかもしれない。
ひとりで納得していると、おもむろに大溝くんが口を開く。
「言いたいこととか、我慢せずに言っちゃえばいーのに。あんた、いつもなにか我慢してるみたいな顔してるし」
「……大溝くんにはそう見える?」
「おー。なんつーか、生きづらそう」
「……そんなふうに、見えるんだ」
「おう。若年寄? 的な?」
「え、ひどくない?」
まさか、初めて話した相手にそんなことを言われるなんて想像もしていなかった。
だけど、こうやって包み隠さず話してくれるからか、すごく話しやすい。
生きづらそうとか、若年寄とかは、さすがに堪えるけど。
仕方ないじゃん。今の私にはそうやって生きることしかできないんだから。
内心落ち込んでいると、大溝くんはまた口を開いた。
「なー、あんたが良ければなんだけどさあ」
ぴくりと、大溝くんのある一言が気にかかる。
「そのあんたっていうのやめて」
さっきから気になっていた『あんた』という呼び方。
私にはちゃんとした名前がある。
あんたとかおまえとかって言われるのは、好きじゃない。
大溝くんの言葉を遮って睨むと「香坂が良ければ……」と何事もなかったかのように続ける。
私がちょっと強めに言ったってあっけらかんとしているから、私も嫌だと思うことははっきり言うことができる。
それは、相手が大溝くんだからかもしれない。
「たまにでいいから、こうやって俺と喋ってくんねー?」
「え……?」
大溝くんの言葉に、固まってしまう。
だって、そんなことを言われるなんて思ってもなかったから。
今日は予想外続きだ。
「俺さ、やっぱり友達ほしいんだよな。けど、教室で誰かに声かけるとかは無理だし。いまみたいにどっか人のいないとこで喋る練習みたいなの? できたらしてーんだけど」
だめか?なんて、首を傾げながら聞かれても。
……困る、と言いたかった。
だけど、なぜか思った通りのその言葉を口に出せなかった。
大溝くんの秘密を知ってしまったせいかもしれない。
それに、彼が思っていた以上にバカ正直で、あけっぴろげで、それなのに本当の自分を出せなくて。
……そういう部分が、なんだか私と似ている気がして。
彼にとっての『いい人』でありたいと思ってしまった。
だから、作り上げた文章じゃなくて、私の気持ちそのままの言葉を紡いだ。
「……教室では無理だからね」
「それは俺もまだ無理だって」
大溝くんから視線を逸らして言うと、また彼は笑い声をあげた。
そんな彼に、心の中でひっそりと謝った。
教室で話したくない本当の理由を告げないこと。
本当の大溝くんを知っているのに、周りに流されたまま彼を避けること。
それが正しくないと知っていて、優等生の皮をかぶり続けること。
「……それと、昨日のことだけどさ」
「うん?」
急に真面目な声のトーンになって大溝くんが話しかけてくるから、彼に耳を傾けた。
「言葉はきつかったかもだけど、昨日言った言葉に嘘はねーよ」
その言葉に、今度は私が首を傾げる番だった。
なんのことかわかっていない私に、大溝くんはため息交じりの声で話し出す。
「だって香坂、いつも周りに合わせてばっかで、俺に話しかけたのだってそうだろ?」
その言葉にどきりとした。
『優等生の皮』がはがれかけているなんて、それも大溝くんに気付かれてしまうなんて、思ってもなかったから。
気まずい気持ちが胸の中を占めていって、自然とうつむいてしまう。
「香坂はもっと、自分の気持ちに素直になっていいと思う」
「え……?」
大溝くんのその言葉に、下に向いていた頭を上げて彼を見た。
「俺は、喋る練習。香坂は、もっと自分に素直になる練習」
「う、うん……」
私が返事をしたのを確認すると、大溝くんは「決まり、な」とマスクの下で小さく笑った気がした。
◇
そのあともいくらかくだらない話をした。
いつなら話せるかという大溝くんの質問に、昼休みが終わる十分前くらいならいいよと返事をする。
場所は、この前人気のなかった四階の東階段を提案した。
大溝くんが頷いたちょうどその時、保健室の扉が開いて先生が私たちに声をかけた。
元気な様子の私たちを見て心配する声をかけるでもなく、呆れたようにまだいたの、早く帰りなさいよ、とだけ言われた。
ふたりきりじゃなくなった途端、さっきまでの大溝くんはどこにいったのかと思えるほど無口になって、そんな彼を難儀だなあと心の中で思った。
大溝くんと一緒に帰る、なんてことはなく。
保健室で挨拶も交わさないまま別れて、たったひとりでいつも通り帰路についた。
今日はいろいろあったなあ。
アパートの扉を開けて部屋に入ると、お母さんが出かける準備をしているところだった。
……三者面談、来れるわけがないのはわかっている。
だけど、私の進路のことくらい、少しは話してみてもいいんじゃないだろうか。
興味なんて、ないかもしれないけれど。
そう思えば思うほど、鞄の中で存在感を放つように小さな音を立てる今日一番の問題児に、心は沈んでいくばかりだった。
こう見えてこの母親は十八時から二十二時までスーパーのレジ打ち、二十二時半から明け方まではラウンジ、いわゆる夜職の仕事をしている。
愛衣が生まれてから始めた仕事だ。
だから、毎日疲れているというのは私もわかってる。
それを知っているから余計、言えないのだ。
でも、そうも言ってられないのもまた事実だ。
鞄の中でかさっと乾いた音を立てたそれに、気付かないふりをすることもできるけど。
「……お母さん」
意を決して話しかける。
いったいいつから、自分の母親に話しかけるだけなのに、こんなにも緊張するようになってしまったのだろう。
「なあに? 詩央ちゃん」
こうやって私と話すお母さんは昔と変わらず優しいのに、何が変わってしまったんだろう。
変わったのはお母さん?それとも自分?なんて馬鹿げた自問自答をしてみるけど、答えはずっとわからないままだ。
優しくこっちを見て笑ってくれるその姿に、やっぱり喉元で声が詰まってしまう。
「……ううん。なんでもない」
「そう?」
言わなきゃいけないことほど、言えなくなった。
いったいいつから、こうなったんだっけ。
いくら記憶を掘り起こしてみても、思い出すことはできなかった。
私がそんなことを考えているなんて露ほども知らない母親は、いそいそとしたくを終わらせてしまった。
「じゃあ詩央ちゃん、行ってくるね」
「ああ、うん……」
いってらっしゃいを言う間もなく、お母さんはばたばたと出て行った。
一気に部屋の中が静まり返る。
私とお母さんが家で話せる時間は、たったこれだけだ。
時間にするとものの数分。
私が帰ってくる時間にお母さんは仕事のために家を空けて、私が寝ている間に働いている。
私が起きる少し前に帰ってきて、私が学校に行っている間は眠っている。
愛衣が生まれてからの五年間、ずっとこんな生活だ。
私はお母さんが嫌いじゃない。
文句のひとつやふたつ……いや、百くらいはあるけれど。
それでも、嫌いにはなれないのだ。
だからこそ迷惑をかけたくなくて、いつの間にかなにも言えない私になってしまった。
「あはは、やっぱり言えなかったなー」
自分でも驚くくらい、乾いた笑いが漏れた。
今日こそは話すんだと息巻いて帰ってきたのに、不思議だ。
結局、前と同じように『いいえ』に自分で丸を付けた。
保護者の署名欄には母親の字に似せて、母親の名前を自分で書いた。
印鑑のある場所はわかっているから取り出して判を押した。
前と同じ紙が、また出来上がってしまった。
それを綺麗に折りたたんで、鞄に入れ直す。
「おねえちゃん、おかえりぃ」
「愛衣ちゃん、ただいま」
リビングでそんなことをしていると、寝ぼけ眼でのそのそと寝室から愛衣が起きてきた。
かわいい私の妹。……憎らしい妹。
「ごはん急いで作るから。食べたら一緒にお風呂入って寝ちゃおうね」
バイトのない日は、帰ったらご飯を作って愛衣とお風呂に入り、寝かしつける。
そのあとは翌日の洗い物や朝ごはんとかの下準備をして、お米をセットし、学校の課題を終わらせてから二十三時には就寝する。
私の毎日は、あわただしく終わっていく。
真結も凛花も、大溝くんも知らないだろう私の生活は、みんなが想像するよりずっと過酷だ。
眠っている愛衣のかわいい寝顔を見ていると、思ってしまうときがある。
この子がいなければ——なんて、ひどいことを。