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朝八時半。休日に朝早く出かけることが珍しいからか、家族からは〝彼氏でもできたのか〟という好奇心強めな視線を浴びせられたけれど、私はそんな家族に対して本当のことを正直に告げた。クラス旗係として、芸術的感性を高めるために出かけるだけだと。
美音には「お姉ちゃんが芸術的感性って」と鼻で笑われたけれど、気にしない。ただ、勘違いされたら面倒なので、一緒に行く相手 が男子だということは伏せて家を出た。
私の地元は決して都会とは言えないけれど、昔から地元の人に愛されている商店街や、学校や病院はもちろん大きな商業施設だってある。だから不便なこともないし、言うなれば都会と田舎のちょうど中間みたいなところだ。
住みやすくて好きだけど、でも、休日に地元で遊ぶことはあまりない。
高校生になってから、厳密に言うと中学三年の三学期から、私は無意味に地元を歩かなくなった。例えば病院に行くなどの理由があっても、地元を歩く時の私の視線は常に地面に向いている。会いたくない人に会ってしまうのが嫌だから。
地元の駅からそそくさと電車に乗り込んだ私は、空いている椅子に座ることなく、ドアの前に立った。そして、外を眺める。こうしていれば車内に誰か知り合いがいたとしても気づかないし、色が見えることもないから。
相手の感情を知りたいと思う時には便利な能力だけれど、どうでもいい時でも常に色が見えてしまうのは、実は結構疲れる。
手すりを掴み、ドアの窓からぼーっと外を眺めた。時間が進むみたいに、見える景色が徐々に都会へと変化していく。
毎日見ているから感動も感想も特にないけれど、都会のビル群が目立ちはじめると、それは地元を離れたという合図みたいなものだから少し安心する。
二度乗り換えて、学校がある駅よりもふたつ前の駅で降りた私は、ホームに立ったまま視線を左右に動かす。出口はひとつしかないようだ。
私は、一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
今日をどう乗り切るか。里美くんの色が見えないなら、とにかく余計なことは言わないほうがいい。でも、ふたりで行くのにひと言も会話を交わさないなんて、きっと無理だ。どうすることが一番なのか分からない以上、あまり考えないようにするしか方法はない。里美くんの反応をいちいち気にしていたらまともに会話なんてできないし、もうそれしかない。
「よしっ」
小さく気合いを入れてからスマホで時間を確認すると、待ち合わせまでまだ十五分もある。少し早く着きすぎた。張り切っていると思われたら嫌なので、コンビニかどこかで時間を潰したほうがいいかもしれない。近くにあればいいけれど……。
と、あまり考えすぎないと決めたばかりなのに、無意識に相手の反応を気にしてしまっている自分に気づき、ため息をついた。
角が立たないように無難な言葉を選べば大丈夫なんだから、気にするな。もし間違えても、それは色を見せてくれない里美くんが悪い。
そう納得させて階段を下り、改札を出た瞬間、飛び込んできた光景に思わず足を止めてしまった。
目に映ったのは、少し先に佇んでいる、待ち合わせ相手の里美くんで間違いない。
早く着きすぎた私よりも、里美くんのほうがもっと早く来ていることには確かに驚いた。けれどそれだけじゃなくて、なんというか……近づくのをためらってしまうほど、里美くんの姿はあまりにも目立っている。
ブラウンのワイドパンツに、長さが左右違うアシンメトリーの黒いTシャツの裾からは、中に重ねている白い裾がちらりと見えている。
なんてことないラフなスタイルで、スマホを見ながら立っているだけなのに、雑誌の撮影でもしているのかと思えるほど立ち姿が美しい。通りすぎる女性が、薄っすらピンク色を浮かべながら里美くんをチラ見してしまうのも頷ける。
もしかすると、これがオーラというやつなのか。今日も変わらず色は見えないけれど、代わりに里美くんは何か特別な光のようなものを放っているのではと思うほどだ。
ワイドストレートのデニムパンツに白Tシャツをインした、超シンプルな格好の平凡な私が『待たせてごめん』なんて言いながら軽々しく駆け寄れる雰囲気じゃない。
制服姿しか見たことがないからか、私服の里美くんは学校にいる時以上に近寄りがたいなと、どこか他人事のように思っていると、里美くんがふと顔を上げた。そして私はなぜか目を逸らす。
いや、なんで逃げてんのよ。待ち合わせ相手なんだから堂々とすればいいのに。
動揺した表情をスンと真顔に戻して里美くんに近づき、里美くんのスニーカーが目に入ったところでゆっくりと顔を上げた瞬間、私はハッと息を呑む。
「お、おは、よう……」
「おはよう。なんだ、眠いのか?」
表情はどうにか保てたけど、間近で見る休日モード里美蒼空のオーラは思った以上に破壊力がすごくて、緊張で口が上手く回らなかった。恥ずかしい。
「朝だから、ちょっと噛んじゃっただけだよ」
「ふーん。ま、別にいいけど。美術館、十時から開くみたいだから、行くぞ」
「場所分かるの?」
昨日調べようと思っていてすっかり忘れていた私は、スマホを取り出して検索しようと思ったのだけど。
「昨日調べた。行くって決まってたら普通調べるだろ」
里美くんにそう言われて、そっとスマホを鞄にしまう。面倒なことはどうしても後回しにしてしまう私とは違って、里美くんは意外としっかりしているのかも。
とりあえず、迷いなく足を進めた里美くんのうしろをついていこう。
「そうだ」
と思った矢先、里美くんが足を止めて振り返った。
「ひとつ言っとくけど、今日一日、雨沢は俺の反応をいちいち気にするの禁止な」
「……え?」
「余計なこと考えるなって意味」
「あの、それってどういう……」
あまり考えないようにすると決めたのは自分だけど、それを里美くん本人から言われるとは思わなかった。
「雨沢が変に俺に気を使うごとに、ジュース一本な」
「ちょっと待って、意味分かんないよ。だいたい、変に気を使ったかどうかなんてどうやって判断するの?」
「どうやってって、俺が決める」
「そんなの、里美くんの匙加減でどうにでもできるじゃん」
私は普通に話しているつもりでも、里美くんが気を使われていると判断したらおごらなきゃいけないなんて、どう考えても私に不利すぎる。
抗議の意味を込めて軽く睨んだつもりが、里美くんは唇の片端を少し上げて、笑った。多分だけど、私にはそう見えた。何がおかしいのか全然分からない。
「じゃ、そういうことだから。行くぞ」
「ちょっと、勝手に謎のルール決められても困るよ」
私の声を無視するように、再び歩き出した里美くん。立ち止まっているわけにはいかないので、しかたなくあとを追う。
土曜の朝だからか、働く大人らしき姿はあまり見当たらなくて、街全体も心なしか静かに感じる。
朝から色々と考えすぎていて気づかなかったけれど、今日は雲ひとつない快晴だし、この時間はまだ朝の清々しい空気を含んでいるから絶好の散歩日和だ。
こんな過ごしやすい休日の朝から里美くんとふたりで出かけているという今の状況は、なんだか不思議でしかたがない。
そんなことを思っていると、目的の美術館は公園を通り過ぎた先にあった。区が運営しているというから、役所っぽいコンクリート感満載の外観なのかと思っていたけれど、茶色いレンガ造りの建物は意外とお洒落だ。
入り口の自動ドアの横には白い看板が立てかけられていて、『第二十三回・夏の思い出作品展』と書いてある。
「これ、夏休みに募集してた作品の展示会らしい」
「もしかして、なんか宿題と一緒に配られてたプリントの?」
私の問いかけに、看板を見ながら里美くんが頷いた。
学校の宿題とは別に、絵画や工作や作文、詩なんかを募るプリントが何枚か配られたのだけれど、それはやりたい人だけが参加するシステムなので強制ではない。
夏休みの宿題だけでも大変なのに、わざわざ時間を割いて応募する生徒なんてほとんどいないんじゃないかなと思う。もちろん私も美術や作文の才能があるわけでもないし、何より面倒だったのでやっていない。
「じゃー行くか」
「うん」
開館時間とほぼ同時なので誰もいないのではと思っていたけれど、中に入るとすでに何人かいた。そのほとんどが、コンクールで選ばれたと思われる子供とその親で、中高生同士のグループも何組かいる。知り合いは見当たらないので、少しホッとした。
展示は小学生、中学生、高校生部門の三つに分かれていて、それぞれ別のフロアで展示されているようだ。案内板を見た私たちは、小学生の展示から順に回ることにした。
小学生の応募作品は紙粘土で、壁に沿って学校別に入選した生徒の名前と作品が飾られている。
〝夏の思い出〟というザックリとしたテーマにもかかわらずどれも個性的で、且つ目を引くものばかりだった。さすが選ばれただけある。
「上手だね」などと言いながら、作品を眺めたり写真を撮っている人たちがたくさんいるけれど、気づくと里美くんが近くにいなかった。てっきりそばで見ていると思っていたのに。
その場で背伸びをしながら視線を動かすと、随分と先まで進んでいる里美くんの姿が見えた。ひとりだけ色がないから、やっぱり見つけやすいなと思いつつ、私は観覧スピードを上げながら里美くんのいる場所まで追いついた。そして、里美くんの腕を軽くポンと叩く。
「里美くん、先に進むなら言ってよ。気づいたらいないから探しちゃったし」
小声で告げると、里美くんは横にいる私を一瞥してから、またすぐに目の前の作品を見つめた。
「あぁ、悪い。こういうのって自分のペースがあるし、相手に合わせて観るってできないから」
だったらなぜ一緒に行くなんて言ったんだ、と訴える私の心の声が届いたのか、里美くんの視線が再び私に移った。
「なんか言いたそうだけど、何?」
「え? 別になんでもないよ」
「あれ? 今、俺に気い使ったよな? そういや、ちょうど喉渇いてきたかも」
「いやいや、気なんか全然使ってないし」
疑いの目を向けられた私は、ぎこちなく笑いながら誤魔化すように慌てて手を振った。
勝手に決められた謎のルールのせいでジュースをおごるなんて絶対に嫌だけど、かといって、相手の反応を気にせず本音をそのまま伝えることは、ものすごく難しい。
そんなふうに悩んでいると、里美くんは「あっそ、ならいいけど」と言って作品のほうへ意識を向けた。そしてまた、私のことなんて気にする様子もなく歩きはじめる。
里美くんは確かにかっこいいけど、これじゃあモテないだろうなと密かに思いながら、私も私のペースで進むことにした。
まぁ、そのほうが正直助かる。このままお互い別々に回って最後に合流し、旗について少し話をしてから解散すればいい。そう思うと、少し気が楽だ。
小学生の展示を観終わった私は、続いて隣のフロアにある中学生の絵画を観てから階段で二階に上がり、高校生の作品が展示されているフロアに入った。
その間、里美くんとは完全に別行動で、話をすることも、同じ作品を一緒に観ることもなかった。
やっぱりふたりで来た意味なんてないじゃん。そう思っていたら、フロアの奥のほうで絵を眺めている里美くんの横顔を見つけたけれど、私は私で構わず展示品に目を向ける。
中学生の絵画は全部同じサイズの画用紙に描かれた水彩画だったけれど、高校生部門はキャンパスのサイズは問わず、水彩、油絵、アクリルなど種類も様々だ。
うちの高校もこの作品展に参加しているから、誰か知っている生徒の名前もあるかもしれない。美術部の生徒の名前はありそうだな、などと思いながら順に観ていく。
高校生ともなるとさすがというか、プロだと言われてもなんの疑念も湧かないくらい、どれも素晴らしい絵ばかりだ。
同じ高校生なのに、世の中には才能に溢れた人がたくさんいるんだなと感心しながら見ていると、うちの高校の名前が書かれたプレートが目に入った。これまで観た作品となんら変わらず、それらも魅力ある絵ばかりだ。
すると、私の視線はあるひとつの作品に釘付けになった。
「これ、好きかも」
話す相手がいないので完全にひとりごとだけれど、呟かずにはいられないほど惹き込まれて、見ているだけで胸の鼓動が勝手に速くなる。
目の前にある絵は、どこか高い場所から見た景色が描かれていた。
遠くにはぼんやりと山々が連なっていて、眼下に広がるたくさんの家屋は、屋根や窓などの外観はもちろん、生えている草木や壁の汚れなど一軒一軒どれも細かく丁寧に描かれている。
そして、私が最も惹き込まれたのは、正面に描かれている空だ。明け方だろうか、白く霞む空の上部には、なぜか色とりどりの花々が薄く描かれていた。不思議な光景だけれど、とても美しい。
山々のうしろから昇ろうとしている朝日は、きっとあと一時間もしないうちにこの町を明るく照らしていくのだろう。そして、空から雨や雪が降るように、この町には花が降り、一日がはじまっていく。そんなふうに想像できる絵だ。
この絵を描いた人はきっとこの町が、この景色が好きなのだろう。そう思いながら、絵の下に貼られているプレートに目線を下げた瞬間、
「え!?」
短くも、普段は決して出さないような高い声をあげてしまい、慌てて自分の口を両手で塞いだ。
周囲の人の視線が一瞬だけ集まったけれど、私が「すみません」と言いながら小さく頭を下げると、その視線もすぐに散り散りになった。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、改めて顔を上げる。見間違いではなかった。ぽかんと口を開きながら、そこに書かれている文字をまじまじと見つめる。
【タイトル・新しい世界】
【作者・里美蒼空】
「里美…蒼空……」
確認するように忍び声で読み上げると、正面に影が差した。背後に気配を感じて振り返った私は、再び出そうになる声をグッと呑み込み、瞼を大きく見開く。
「なんだよその顔。俺はバケモンか」
「だっ、だって、これ」
飾られている絵と里美くんを交互に指差した。何度瞬きをしても、この絵の作者の名前は里美くんだ。学校に同姓同名はいないはずだし、多分、目の前にいる里美くんで間違いない。
「もしかして、自分の作品が見たいから一緒に行くって言ったの? ひとりで行くのが恥ずかしかったとか」
別行動を取るなら一緒に行く必要なんてなかったのに、そういう理由ならちょっと納得できる。
「そういうわけじゃねぇよ。たまたまだ」
「だったらなんで言ってくれなかったの? ビックリしたじゃん」
驚いたし、それに、この絵が好きだと思ってしまった。いや、そう思うことは悪くないのだけれど、里美くんの作品だと知った途端、謎の恥ずかしさに襲われて、ちょっと気まずい。
「なんで言わなきゃいけないんだよ」
「なんでって、一緒に行くなら普通最初に言わない?」
「言わなくたってどうせ分かることだろ」
「そうだけど、でもやっぱりどう考えてもおかしいよ。だって、里美くんは絵が上手なんだから……」
旗のデザインなんて、私がいなくてもひとりで簡単に考えられるはずなのに、どうして描いてくれないの?
そんな言葉が浮かんだけれど、口には出さなかった。色が見えないと、ついなんでも言ってしまいそうになるから怖い。
「だから、なんだよ」
「……ううん、別に。なんでもない」
頭を左右に振ると、里美くんが舌を鳴らした。不快にさせるようなことは何も言っていないのに、私を見下ろす目がやたらと怖い。
変に気を使ったのを見抜かれて、またジュースをおごれとかなんとか言い出すのかと思いきや、里美くんはそのまま黙ってフロアを出た。
絶対に不満があるような顔だったのに。私が言えることじゃないけれど、何かあるなら言ってほしい。里美くんは色が見えない分、言葉にしてくれないと反応に困るんだから。
なんだかモヤモヤした気持ちを抱えたまま、美術館を出た。
「で、どうだったんだよ。いいデザイン思いつきそうか」
入り口から少しずれた場所で立ち止まり、里美くんが聞いてきた。
確かに様々な作品を目にしたことで刺激にはなったし楽しかったけれど、それで自分の才能が突然開花するわけじゃないので、思いついたかと言われると微妙だ。
でも里美くんの絵を見た時、実は頭の中で少しだけアイデアが湧いたのだけれど、まだなんとなく浮かんだだけだから言わないでおこう。
「えっと、どれもすごい上手で参考になったけど、すぐにはまだ考えつかないかな。とりあえず家に帰ってから――」
「じゃあ、次行くぞ」
「……え?」
私が言い終わる前に、里美くんは美術館をあとにして歩きはじめた。
今、次って言ったよね? 行くってなんのこと?
頭の中で疑問符が次々と浮かぶ私とは反対に、里美くんの中ではすでに決まっていることがあるのか、迷いなくスタスタと足を進める。
「あの、ちょっと」
さすがにこのまま黙ってついていくわけにはいかないし、美術館の中で自分勝手に動くのとはわけが違う。
「ちょっと待ってよ、里美くん」
呼び止めると、ちょうど信号が赤になって里美くんが止まった。赤じゃなかったら止まってくれなかったのかもしれないと思うと、お腹の底から大きなため息をつきたくなった。
「何?」
嘘でしょ。この状況で何って聞く? 聞かなきゃ分からないの? 私、明らかに戸惑ってるんですけど。
「あのさ、次行くってどういうこと? それは私も行かなきゃいけないのかな」
グッと呑み込んだ言葉をできるだけマイルドに、口調も穏やかにして里美くんに投げた。
「今日はクラス旗係のふたりで出かける日なんだろ。行きますって先生に言ったのは雨沢だよな」
「言ったけど、でもあれは……」
「それとも、なんか用事でもある?」
「用事は……特にないんだけど……」
「だったらいいじゃん」
信号が青になり、里美くんはまた前を向いてしまった。何がいいのか私には全然分からないし、せめて行き先くらい教えてよ。
そう思っても、やっぱり里美くんの反応を気にしてしまう。ただただ里美くんの背中を睨むことしかできない自分が情けない。色さえ見えればうまくやれるのに……。
駅前の大通りに出ると、里美くんがやっと信号とは関係ないところで足を止めた。
「お腹空いたんだけど。昼飯、何食べたい?」
今は十一時半を過ぎたところだ。確かにお腹は空いたけど、一緒にお昼ご飯を食べるなんて、私はひと言も言ってない。
「えっと、なんでも……」
「じゃあここで」
私がなんて返事をするのか分かっていたかのように、里美くんは間髪入れずに目の前の店を指差した。
「調べたら、この定食屋が気になったから」
「調べたの?」
「そりゃあそうだろ。せっかく行くならちゃんと調べて美味しいもん食べたいし」
これまた意外。ランチする店を事前に調べるなんて、絶対にしなそうなイメージだったのに。
「なんか言いたそうだけど、定食屋じゃ嫌なのか?」
「いやいや、全然。定食好きだし」
面倒くさがりで愛想悪くて自分勝手で空気が読めないところはあるけど、実は案外マメなんだね、とはさすがに言えない。
ちょっと汚れたオレンジ色の暖簾には【まるた亭】と書かれている。小さなお店で決して新しくはなく、どちらかというと年季が入った店構えだ。
カウンターが五席と、四人掛けのテーブルが三つの小さな店内で、私は里美くんに続いてカウンターに座った。まだ十二時前だからか、四人掛けのテーブルも空いていたけれど、これから来る客のためにカウンターの席を選んだのかもしれない。
一緒に美術館に行っても自由行動をとるのに、こういう気遣いはできる人なんだ。と思いながら、数ある美味しそうなメニューの中から私は和風ハンバーグ定食を、里美くんは生姜焼き定食を頼んだ。
厨房におじさんがひとりと、注文を取ってくれたおばさんがひとり。お店はそのふたりで営んでいるようなので、まるたさん夫婦なのかな?と思っていると、料理が運ばれてきた。
待っている間、特に会話はなかったのに「いただきます」の言葉だけ、ふたり同時にハモってしまったのがちょっと恥ずかしいと思いつつ、食べはじめた。
肉汁溢れるハンバーグと、刻んだ大葉が入った大根おろしとポン酢の相性がよすぎて、箸が止まらない。チラッと目線を上げると、里美くんも豪快に生姜焼き定食を食べていた。ふたりで感想を言い合うなんてことはないけれど、その食べっぷりから美味しさだけは伝わってくる。
先に食べ終わったのは里美くんだったので、待たせないように私も急いで食べ終えた。お金を払ってまるたさん夫婦に「ごちそうさまでした」と告げ、店を出る。
高校生になってから、一緒にご飯を食べている相手とひと言も会話を交わさなかったのは、里美くんが初めてだ。
一緒にいるんだから楽しく話さなきゃとか、盛り上げなきゃとか、相手にも私といることを楽しいと思ってもらいたいとか、そんなことを考えていつも相手の色を見ていた。だけど、里美くんが相手だとそうはならなかった。無言が続いても何か話さなきゃという焦燥感に駆られなかったのは、私のことを気にする様子が里美くんから微塵も感じられなかったからだ。
色が見えないから、というのも原因なのかは分からないけれど、何も考えず何も話さなくてもいいというのは、ちょっとだけ楽だなと思った。
「雨沢、買い物って好きか?」
「買い物? うん、まぁ好きっていうか、嫌いじゃないけど」
「じゃー次」
「えっ!? まだどこか行くの?」
「嫌ならやめるけど」
「えっと、別に嫌とかそこまでじゃ……」
「だったら行くぞ」
……でも、詳細を告げずに歩き出すような自分勝手なところは、やっぱりすごく疲れる。
今度は電車に乗るらしく、あたり前のように改札を抜けて駅の中に入った。私も鞄から慌ててパスを取り出し、あとを追う。
ていうか、なんで私まで行かなきゃいけないんだ? 嫌ってわけじゃないけど、やっぱり用事があるから帰るって言えばよかった。そう思いながらも言い出せない私は、結局そのままついていくことしかできない。
朝よりも人が増えたようだけれど、平日の通学時に比べたら断然空いている電車に乗り込み、学校とは反対の方向へ三駅戻ったところで降りた。その間、もちろん会話はない。
ここで降りるなら目的地はだいたい察しがつく。駅を出て次に向かったのは予想通りショッピングセンターだった。菜々子の買い物につき合う形で、学校帰りに何度か行ったことがある。
菜々子が嬉しそうなら同調して、悩んでいるようならアドバイスや助言をする。色が見えれば相手の気持ちを考えてあげられるし、気分を損ねることもない。でも実は、菜々子の買い物はちょっと長いから疲れるというのが本音だ。
キープすると言いながら気に入った店を何度も周回する買い物のしかたは、買う物をある程度決めてから行く私には理解できない。エスカレーターを何度も上がったり下がったり、正直『早く決めて』と言いたくなったことが何度もある。もちろん、言えないけれど。
ただ、里美くんは色が見えないという点で不安はあるけれど、まぁ男子だし、買い物なんてパッと済ませるだろう――という考えは、甘かった……。
三階ある建物の上から順に、書店、スポーツ用品店、雑貨屋、靴や鞄や服など、とにかくあちこちのお店を休みなく見て回ること一時間。途中「大丈夫か」と何度か聞かれたけれど、私は「大丈夫」としか言えず、他には特に楽しい会話もなかったため、体感では三時間以上歩いた気分だ。しかも歩き続けた結果、里美くんが購入したのは本一冊。
男が女の買い物につき合わされてぐったりというのはよく聞くけれど、その逆を経験することになるとは思わなかった。正直、菜々子の買い物よりも疲れた。
「疲れたなら疲れたって言えばいいじゃん。なんで言わねぇの?」
ショッピングセンターを出た時、ぐったりしている私に里美くんが言った。
気づいていたなら、そっちが気を使ってくれればよかったのに。と思ったけれど、不満を抱えながらも私は言葉を呑み込む。
「いや、別に疲れたってわけじゃないけど……」
「なんだよそれ」
怒ったのか不満なのか、それとも疑っているのか、一瞬、里美くんの表情が曇った気がした。里美くんの気持ちが分からない私は、黙って視線を足元に落とす。
「まぁいいや、次、行くぞ」
「まだ行くの!?」
パッと顔を上げ、今度は我慢できずに声を張り上げてしまった。
「最後にちょっと休憩」
そう言って、また勝手に歩き出した里美くん。
休憩という言葉は疲れ切った私には魅力的だけれど、行き先くらい言ってほしい。友達相手でも常にこんな感じなのだとしたら、それで嫌われないなんて不思議を通り越して、もはやずるい。
それとも、こんなに自分勝手に行動するのは相手が私だからなのだろうか。いや、でも里美くんとは係で一緒になって初めてまともに話をしたんだから、そんなことをされる理由はないし……。
里美くんの背中を追いながら考えていると、大通りから脇道に入り、一方通行の狭い道路に出た。小さなマンションや一軒家が並ぶ中、椅子に座った大きなクマのぬいぐるみが出迎えている可愛らしい雑貨屋さんに目を奪われた。
里美くんが止まったのは、その雑貨屋から数メートル進んだ先の、小さなカフェの前。ショッピングセンターから徒歩十分もかからないけれど、裏道なのであまり目立たない場所にある。
白を基調とした木目調の小さな店のオーニングには【喫茶 FLOWER】と書かれており、店の前には花屋だと言われてもおかしくないほど、色鮮やかな花や植物が飾られている。
女子が好きそうだし、写真映えもしそうだ。私は写真を撮る習慣がないから撮らないけど。
「里美くんて、こういう可愛いお店が好きなんだ?」
素朴な疑問をぶつけると、勢いよく振り返った里美くんの顔が、少しだけ赤らんでいるように見えた。
「んなわけないだろ。俺の姉がたまにバイトしてんの。まぁ今日はいない日だから来たんだけどな」
ばつが悪そうに首のうしろをかきながら、里美くんがお店のドアを開けた。同時に、カランという控えめな鐘の音が鳴る。
こういう隠れ家的な喫茶店に入ったことはないから、ちょっと楽しみかも。
私が密かに心躍らせていると、
「いらっしゃいませ……って、蒼空じゃん」
「げっ!!」
明らかにテンションの違う高い声と低い声が、同時に響いた。
「なんでいるんだよ。やっぱ別のとこ行くぞ」
そう呟き、もう一度ドアに手をかけて外に出ようとした里美くんを、ひとりの女性が立ちはだかって阻止した。
大きめのクリップで髪をうしろにまとめ、深緑色のエプロンをつけている。恐らく店員さんだと思うし、里美くんの言動からして、この人がお姉さんなのかもしれない。
「なんで私の顔見て逃げるのよ」
目元はなんとなく里美くんと似ている気がするけれど、そっくりかと言われればそうでもない。でも、小顔で目鼻立ちのきりっとした都会的な美人顔で、綺麗だということは間違いない。
お姉さんらしき店員さんはオレンジと黄色がたくさん見えるので、なんだか嬉しそうだ。
「つーか、そっちこそなんでいるんだよ」
「バイトの子が急遽休みになったから、その代わり。ていうか、あんたこそ土曜の昼間から何してんのよ」
「土曜の昼間に高校生が出かけるのは別に普通だろ」
「普通の高校生はね。でもあんたは人混みが嫌いだから、土日はだいたい家にいるじゃん。たいした用もないのにわざわざ混んでる場所に行く意味が分かんねぇ、とかなんとか言ってさ」
人混みが嫌いなのに、土曜日で混んでいるショッピングセンターに行った意味は? しかも買ったのは本一冊。たいした用もないのに、わざわざ行ってるじゃん。何、私への嫌がらせ?
唇を結び、疑わしく細めた目を里美くんに向けようとした時、店員さん(多分お姉さん)の視線を感じた私は、わずかに表情を緩めた。
目を大きく見張った店員さんは、まじまじと私を見て口を開く。
「ちょっと待って、嘘でしょ……この子はもしかして蒼空の、かの――」
「違げぇよ!」
私が食い気味に全力で『違います』と言う前に、里美くんが即座に否定した。
「なんだ、そうなの? 珍しく女の子連れてくるから、期待しちゃったじゃん。まーいいわ。とりあえず、そんなところで突っ立って喋ってたら邪魔だから、さっさと座りなさい」
早口でそう告げた店員さんは、里美くんの背中を押して半ば無理やり中へと促した。
入り口の正面にカウンター席と、窓際にふたり掛けの席が四つある。客は誰もいないようだ。
「喋ってたのは俺じゃなくて莉子だけどな」
ブツブツと愚痴をこぼしながらも、里美くんはカウンター内にいる男性にお辞儀をしてから、窓際の一番奥の席に座った。
莉子呼びってことは、お姉さんじゃないのかもしれない。なんだかよく分からないけれど、ここで帰るわけにもいかないので、私も里美くんの正面に腰を下ろす。
「さっきまで結構お客さんいたんだけどね、ちょうど誰もいなくなってひと息ついてたら、まさか蒼空が女の子連れてくるなんてビックリだわ」
お水をふたつテーブルに置いた莉子さんは、嬉しそうに「ふふっ」と微笑んだ。里美くんは不機嫌そうに片肘をついている。
「申し遅れました、私が蒼空の姉の里美莉子で、中にいるのがマスターで伯父の俊次さん」
私は慌ててピンと背筋を伸ばし、莉子さんとマスターにお辞儀をする。やっぱりお姉さんなんだ。
「は、初めまして。あの、里美くんのクラスメイトの雨沢花蓮です」
顎髭を少し生やしたマスターが私のほうを見て、微笑みながら小さく頭を下げた。莉子さんと同じように目鼻立ちがハッキリとしていて、白髪交じりのマスターはイケオジ感満載だ。
「花蓮ちゃん。可愛い名前ね」
「ありがとうございます」
ぼんやりとした笑みを唇に浮かべた私は、莉子さんから目を逸らし、目の前にある透明なグラスを両手で握った。
昔は、花蓮という名前が好きだった。だけど今は、花のない 私なんかには似合わない気がして、呼ばれるたびに複雑な気持ちになる。
「何か飲む?」
「あ、はい。えっと」
莉子さんの声に反応した私は、沈みそうになった顔を起こして里美くんに目をやる。
「俺はアイスコーヒー」
里美くんがテーブルの上でメニュー表を滑らせ、私のほうに向けてくれた。
「えっと……じゃあ、アイスカフェオレで」
「アイスコーヒーとアイスカフェオレね。かしこまりました」
莉子さんが声を張ると、マスターが素早くグラスを用意した。カウンターの中に入った莉子さんも、マスターと何やら小声で話をしながら手伝っているようだ。
実際は分からないけれど、莉子さんはどちらかというと陽気で明るい人に見えるから、姉弟なのに性格は全然違うみたいだ。こうしてふたりで向かい合って座っているのに、相変わらず里美くんは窓の外を見ていて、会話する気がなさそうだし。
「うちの弟、愛想悪くてごめんね。今日はふたりでデート?」
四角いコースターと共に、注文した飲み物をテーブルに置いてから莉子さんが聞いてきた。
「いえ、まさか、違います。学校の係の一環で、美術館に行っただけで……」
本当は定食屋やショッピングセンターにも行ったけど、そうなると本格的にデートのように思えるから、あえて省略した。でも、愛想悪いという莉子さんの言葉には、正直思い切り頷きたくなった。
「美術館か。なんか蒼空の絵が選ばれたんだっけ? 私も見に行ってこようかな」
「別に展示が終われば戻ってくるんだから、わざわざ行く必要ないだろ」
無愛想に答えてため息をついた里美くん。確かに、家族であれば返ってきた絵をいつでも見ることができる。
でもあの絵は、私もまた見てみたいな。
そう思いながらカフェオレをひと口飲んだ。正直コーヒーの味の違いはよく分からないけれど、このカフェオレはなんだかコーヒーが濃いというか、でも嫌な濃さじゃなくてミルクの柔らかさもちゃんとあって、とにかく今まで飲んだカフェオレの中で断トツ美味しいと思った。
「美味しい」
そのひと言にすべての思いを込めて呟くと、莉子さんは「ありがとう」と言って微笑んでくれた。女神かと思うほど、美しい。さすが里美くんのお姉さんだ。
「花蓮ちゃんも蒼空の絵、見たんでしょ? どうだった?」
カフェオレの味に浸っていた私は、焦ってストローから口を離す。
あの絵は素直に素敵だと思う。でも、本人を前にどう言えばいいのか……。
里美くんは聞いていないと言わんばかりに、片肘をついたまま窓の外にずっと目を向けたままだ。
「えっと、すごかったです。正直言って、飾ってあった絵の中で一番好きだなって思いました」
「ちょっと蒼空、聞いた? 好きだってさ」
「いえあの、絵がってことです。最初は里美くんの絵だって気づかなかったので、本当にそういう意味じゃなくて」
あたふたと両手を振ったけれど、その焦りが逆にはぐらかしているように見えるのではと、不安になった。でも莉子さんは「ごめんごめん、冗談よ」と笑ってくれたので、ほっと胸を撫で下ろす。
「でもさ、蒼空と一緒に出かけて疲れなかった?」
カウンター席に腰を下ろした莉子さんは、体をこちらに向けながら言った。
絵のことはいいけれど、その質問にかんしては正直な気持ちを口に出すわけにはいかない。心の中でなら、間髪入れずに『はいっ!』と言えるけど。
「えっと……いえ、全然。楽しかったです」
私が疲れたと正直に言えば、姉である莉子さんのまわりに見えるオレンジや黄色が、暗くなってしまうかもしれない。赤くなってしまう可能性だってある。莉子さんの機嫌を損ねないために、私は笑みを貼りつけてそう答えた。
だけど莉子さんは目を丸くし、長いまつ毛を二、三度上下させた。
「ほんとに? いいんだよ、気を使わなくても。蒼空って自分勝手でしょ」
頷くことはできないので、ヘラヘラと笑いながら「いえ」と答えるしかない。
「私はもう慣れてるから、全然気にならないんだけど。花蓮ちゃんも、蒼空が失礼なことを言ったら遠慮なく文句言っちゃっていいんだからね」
「いえ、本当に大丈夫です」
空気を壊さないため、嫌われないために相手の気持ちを考えて話すことには慣れている。高校生になってからはずっとそうだから。
「俺は楽しくなかったけどな」
――……え?
ずっと黙っていた里美くんがぼそりと漏らした言葉に、私は耳を疑った。
今日は里美くんに散々振り回された挙句、楽しくなかったなんて言われても困るし、その発言はさすがに自分勝手だ。
それはこっちの台詞だと言わんばかりに、私は尖った視線を里美くんへ一瞬だけ放った。
「雨沢を見てると、なんかこっちまで疲れるんだよ」
だけど、私の睨みなんかではまったく動じない里美くんは、続けてためらうことなくハッキリとそう言った。
だったらなんで一緒に行くなんて言ったのか。それに、つまらないならすぐに解散すればよかったのに。
そう思うけど……。
「ごめん……」
悪いと思っていないのに、心配するような莉子さんの灰色を見たら、言葉が勝手に口から出てしまった。
その瞬間、なんだか重い石を抱えているかのように気持ちが沈む。それも、誰かに持たされたんじゃなくて、自分から抱えている重みだ。
まわりの人の色を見て発言するのはいつもと同じなのに、それで上手くいっていると思っていたのに、なんでこんなに胸が苦しくな
るんだろう。
うつむいたまま、顔を上げることができない。
「ちょっと! 女の子になんてこと言うの!」
すると、莉子さんが声高にそう言って、里美くんの背中を手のひらで叩いた。
「あんたみたいに面倒な男につき合ってくれたんだから、むしろお礼を言わなきゃ駄目じゃん!」
「なんでお礼なんだよ」
「あたり前でしょ! ていうか、まず花蓮ちゃんに謝りなさい。ひどいことを言ったんだから」
莉子さんが詰め寄ると、「うるせぇな」と小声でぼやきながらも、里美くんは莉子さんの勢いに圧倒されてたじたじになっている。
「ほらほら、さっさと謝れー」
「やめろよ」
莉子さんが里美くんの背中をツンツンと突くと、体を横に向けて逃げている里美くんの表情が緩んで、ちょっとだけ笑ったように見えた。
学校では決して見られない珍しい里美くんの姿に、硬くなっていた私の心が少しだけ和らぐ。
この場を明るくしてくれているのは間違いなく莉子さんで、空気をよくしてくれているのも莉子さんだ。弟だから、莉子さんには里美くんの気持ちが分かるのだろうか。色が見えたら、私にも里美くんの気持ちがちゃんと理解できて、上手く返せたのかな。
「花蓮ちゃん、本当に失礼な弟でごめんね」
「いえ」
「蒼空は正直すぎるっていうか、相手のことを思うならもっと言い方ってものを学ばないとね。このままじゃ、彼女ができてもすぐ振られるのが目に見えてるわ。すでに何人も振られてたりして~」
「余計なお世話だ」
ムッとした里美くんは、片肘をついて再び窓の外に顔を向けた。でもなんだろう、全然不機嫌そうに見えない。
「まぁでも、よく言えば自分に嘘をつかないってことなんだけどね」
確かに、自分に嘘をつかず思ったことを言う里美くんにピッタリな言葉だ。だけどそれってやっぱり、空気が読めないってことになるんじゃないのかな。
「昔はさ、あ、私たちが姉弟になる前はね、今とは全然違って、人の顔色ばっかり見てる子だったんだけどね」
「――……え?」
今、さらりととんでもない言葉を聞いてしまった気がするけれど、気のせい?
「あれ? 何、話してないの?」
莉子さんが里美くんに確認すると、里美くんは「わざわざ言うことじゃねぇだろ」と、外を見ながら答えた。
「まぁでも隠すことでもないよね。私と蒼空は、本当の姉弟じゃないの」
私は返す言葉がすぐに見つからなくて、黙りこくった。
莉子さんの色は明るくて、重い空気はまったく感じられない。つまり、本当の姉弟ではないという話は、莉子さんにとってつらいことでも悲しいことでもないということになる。
「そ、そうだったんですね。知りませんでした」
ちらりと里美くんの反応を見たけれど、表情に変化はない。
「私が十四歳の時に、母と蒼空のお父さんが再婚したんだけど、今じゃ考えられないくらい、当時の蒼空は気遣いの塊だったんだから。まだ十歳だったのに、まわりの顔色ばっかりうかがってさ」
「えっ!?」
気遣いの塊だという里美くんの姿があまりにも想像できなくて、思わず驚いてしまった。
そんな私を見て、莉子さんは「信じられないでしょ?」と笑い、里美くんは「余計なこと言うなよ」と舌打ちをしたけれど、やっぱり怒っているようには見えない。
「でも本人の中で何かあったんだろうね、しばらくして今の蒼空ができあがったってわけ。まぁ、私たち家族にとっては昔も今も蒼空は蒼空なんだけどね」
気を使ってくれた蒼空も、言いたいことを言って自分に正直な蒼空も、どっちが間違っているということではない。ただ、蒼空が自分らしくいられればそれでいいのだと莉子さんは言った。素敵なお姉さんだ。
私も、家族の前でなら自分でいられる。だからこそ時々喧嘩になることもあるけれど、家族ならどんな私も受け入れてくれる気がするから。
でも学校は違う。私は、何もしなくても人気者でいられる里美くんとは違うから、みんなの感情を見てからじゃないと、怖くて何も言えない。
「こんな奴だけどさ、これでもいいところは結構あるんだよ。なんだかんだ文句言いながらも、言われたことは素直に受け入れるし、優しいところもあるから。とにかく花蓮ちゃんは、遠慮せずになんでも言いなね。もし蒼空がなんか意地悪なこと言ったら、すぐに私にチクっていいから」
里美くんが、気まずさを誤魔化すようにアイスコーヒーを口に運ぶ。
色の見えない里美くんに対して、遠慮せずになんでも言うのは無理だと思うけれど、私は「はい」と返事をした。莉子さんは、そんな私を見て嬉しそうに口角を上げる。
やっぱり自分のことよりも、相手を嫌な気持ちにさせないことこそが一番大事なんだ。クラスに必要な存在だと思われたいし、みんなと仲良くしたい。みんなに好かれたい。嫌われたくない……。
朝八時半。休日に朝早く出かけることが珍しいからか、家族からは〝彼氏でもできたのか〟という好奇心強めな視線を浴びせられたけれど、私はそんな家族に対して本当のことを正直に告げた。クラス旗係として、芸術的感性を高めるために出かけるだけだと。
美音には「お姉ちゃんが芸術的感性って」と鼻で笑われたけれど、気にしない。ただ、勘違いされたら面倒なので、一緒に行く相手 が男子だということは伏せて家を出た。
私の地元は決して都会とは言えないけれど、昔から地元の人に愛されている商店街や、学校や病院はもちろん大きな商業施設だってある。だから不便なこともないし、言うなれば都会と田舎のちょうど中間みたいなところだ。
住みやすくて好きだけど、でも、休日に地元で遊ぶことはあまりない。
高校生になってから、厳密に言うと中学三年の三学期から、私は無意味に地元を歩かなくなった。例えば病院に行くなどの理由があっても、地元を歩く時の私の視線は常に地面に向いている。会いたくない人に会ってしまうのが嫌だから。
地元の駅からそそくさと電車に乗り込んだ私は、空いている椅子に座ることなく、ドアの前に立った。そして、外を眺める。こうしていれば車内に誰か知り合いがいたとしても気づかないし、色が見えることもないから。
相手の感情を知りたいと思う時には便利な能力だけれど、どうでもいい時でも常に色が見えてしまうのは、実は結構疲れる。
手すりを掴み、ドアの窓からぼーっと外を眺めた。時間が進むみたいに、見える景色が徐々に都会へと変化していく。
毎日見ているから感動も感想も特にないけれど、都会のビル群が目立ちはじめると、それは地元を離れたという合図みたいなものだから少し安心する。
二度乗り換えて、学校がある駅よりもふたつ前の駅で降りた私は、ホームに立ったまま視線を左右に動かす。出口はひとつしかないようだ。
私は、一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
今日をどう乗り切るか。里美くんの色が見えないなら、とにかく余計なことは言わないほうがいい。でも、ふたりで行くのにひと言も会話を交わさないなんて、きっと無理だ。どうすることが一番なのか分からない以上、あまり考えないようにするしか方法はない。里美くんの反応をいちいち気にしていたらまともに会話なんてできないし、もうそれしかない。
「よしっ」
小さく気合いを入れてからスマホで時間を確認すると、待ち合わせまでまだ十五分もある。少し早く着きすぎた。張り切っていると思われたら嫌なので、コンビニかどこかで時間を潰したほうがいいかもしれない。近くにあればいいけれど……。
と、あまり考えすぎないと決めたばかりなのに、無意識に相手の反応を気にしてしまっている自分に気づき、ため息をついた。
角が立たないように無難な言葉を選べば大丈夫なんだから、気にするな。もし間違えても、それは色を見せてくれない里美くんが悪い。
そう納得させて階段を下り、改札を出た瞬間、飛び込んできた光景に思わず足を止めてしまった。
目に映ったのは、少し先に佇んでいる、待ち合わせ相手の里美くんで間違いない。
早く着きすぎた私よりも、里美くんのほうがもっと早く来ていることには確かに驚いた。けれどそれだけじゃなくて、なんというか……近づくのをためらってしまうほど、里美くんの姿はあまりにも目立っている。
ブラウンのワイドパンツに、長さが左右違うアシンメトリーの黒いTシャツの裾からは、中に重ねている白い裾がちらりと見えている。
なんてことないラフなスタイルで、スマホを見ながら立っているだけなのに、雑誌の撮影でもしているのかと思えるほど立ち姿が美しい。通りすぎる女性が、薄っすらピンク色を浮かべながら里美くんをチラ見してしまうのも頷ける。
もしかすると、これがオーラというやつなのか。今日も変わらず色は見えないけれど、代わりに里美くんは何か特別な光のようなものを放っているのではと思うほどだ。
ワイドストレートのデニムパンツに白Tシャツをインした、超シンプルな格好の平凡な私が『待たせてごめん』なんて言いながら軽々しく駆け寄れる雰囲気じゃない。
制服姿しか見たことがないからか、私服の里美くんは学校にいる時以上に近寄りがたいなと、どこか他人事のように思っていると、里美くんがふと顔を上げた。そして私はなぜか目を逸らす。
いや、なんで逃げてんのよ。待ち合わせ相手なんだから堂々とすればいいのに。
動揺した表情をスンと真顔に戻して里美くんに近づき、里美くんのスニーカーが目に入ったところでゆっくりと顔を上げた瞬間、私はハッと息を呑む。
「お、おは、よう……」
「おはよう。なんだ、眠いのか?」
表情はどうにか保てたけど、間近で見る休日モード里美蒼空のオーラは思った以上に破壊力がすごくて、緊張で口が上手く回らなかった。恥ずかしい。
「朝だから、ちょっと噛んじゃっただけだよ」
「ふーん。ま、別にいいけど。美術館、十時から開くみたいだから、行くぞ」
「場所分かるの?」
昨日調べようと思っていてすっかり忘れていた私は、スマホを取り出して検索しようと思ったのだけど。
「昨日調べた。行くって決まってたら普通調べるだろ」
里美くんにそう言われて、そっとスマホを鞄にしまう。面倒なことはどうしても後回しにしてしまう私とは違って、里美くんは意外としっかりしているのかも。
とりあえず、迷いなく足を進めた里美くんのうしろをついていこう。
「そうだ」
と思った矢先、里美くんが足を止めて振り返った。
「ひとつ言っとくけど、今日一日、雨沢は俺の反応をいちいち気にするの禁止な」
「……え?」
「余計なこと考えるなって意味」
「あの、それってどういう……」
あまり考えないようにすると決めたのは自分だけど、それを里美くん本人から言われるとは思わなかった。
「雨沢が変に俺に気を使うごとに、ジュース一本な」
「ちょっと待って、意味分かんないよ。だいたい、変に気を使ったかどうかなんてどうやって判断するの?」
「どうやってって、俺が決める」
「そんなの、里美くんの匙加減でどうにでもできるじゃん」
私は普通に話しているつもりでも、里美くんが気を使われていると判断したらおごらなきゃいけないなんて、どう考えても私に不利すぎる。
抗議の意味を込めて軽く睨んだつもりが、里美くんは唇の片端を少し上げて、笑った。多分だけど、私にはそう見えた。何がおかしいのか全然分からない。
「じゃ、そういうことだから。行くぞ」
「ちょっと、勝手に謎のルール決められても困るよ」
私の声を無視するように、再び歩き出した里美くん。立ち止まっているわけにはいかないので、しかたなくあとを追う。
土曜の朝だからか、働く大人らしき姿はあまり見当たらなくて、街全体も心なしか静かに感じる。
朝から色々と考えすぎていて気づかなかったけれど、今日は雲ひとつない快晴だし、この時間はまだ朝の清々しい空気を含んでいるから絶好の散歩日和だ。
こんな過ごしやすい休日の朝から里美くんとふたりで出かけているという今の状況は、なんだか不思議でしかたがない。
そんなことを思っていると、目的の美術館は公園を通り過ぎた先にあった。区が運営しているというから、役所っぽいコンクリート感満載の外観なのかと思っていたけれど、茶色いレンガ造りの建物は意外とお洒落だ。
入り口の自動ドアの横には白い看板が立てかけられていて、『第二十三回・夏の思い出作品展』と書いてある。
「これ、夏休みに募集してた作品の展示会らしい」
「もしかして、なんか宿題と一緒に配られてたプリントの?」
私の問いかけに、看板を見ながら里美くんが頷いた。
学校の宿題とは別に、絵画や工作や作文、詩なんかを募るプリントが何枚か配られたのだけれど、それはやりたい人だけが参加するシステムなので強制ではない。
夏休みの宿題だけでも大変なのに、わざわざ時間を割いて応募する生徒なんてほとんどいないんじゃないかなと思う。もちろん私も美術や作文の才能があるわけでもないし、何より面倒だったのでやっていない。
「じゃー行くか」
「うん」
開館時間とほぼ同時なので誰もいないのではと思っていたけれど、中に入るとすでに何人かいた。そのほとんどが、コンクールで選ばれたと思われる子供とその親で、中高生同士のグループも何組かいる。知り合いは見当たらないので、少しホッとした。
展示は小学生、中学生、高校生部門の三つに分かれていて、それぞれ別のフロアで展示されているようだ。案内板を見た私たちは、小学生の展示から順に回ることにした。
小学生の応募作品は紙粘土で、壁に沿って学校別に入選した生徒の名前と作品が飾られている。
〝夏の思い出〟というザックリとしたテーマにもかかわらずどれも個性的で、且つ目を引くものばかりだった。さすが選ばれただけある。
「上手だね」などと言いながら、作品を眺めたり写真を撮っている人たちがたくさんいるけれど、気づくと里美くんが近くにいなかった。てっきりそばで見ていると思っていたのに。
その場で背伸びをしながら視線を動かすと、随分と先まで進んでいる里美くんの姿が見えた。ひとりだけ色がないから、やっぱり見つけやすいなと思いつつ、私は観覧スピードを上げながら里美くんのいる場所まで追いついた。そして、里美くんの腕を軽くポンと叩く。
「里美くん、先に進むなら言ってよ。気づいたらいないから探しちゃったし」
小声で告げると、里美くんは横にいる私を一瞥してから、またすぐに目の前の作品を見つめた。
「あぁ、悪い。こういうのって自分のペースがあるし、相手に合わせて観るってできないから」
だったらなぜ一緒に行くなんて言ったんだ、と訴える私の心の声が届いたのか、里美くんの視線が再び私に移った。
「なんか言いたそうだけど、何?」
「え? 別になんでもないよ」
「あれ? 今、俺に気い使ったよな? そういや、ちょうど喉渇いてきたかも」
「いやいや、気なんか全然使ってないし」
疑いの目を向けられた私は、ぎこちなく笑いながら誤魔化すように慌てて手を振った。
勝手に決められた謎のルールのせいでジュースをおごるなんて絶対に嫌だけど、かといって、相手の反応を気にせず本音をそのまま伝えることは、ものすごく難しい。
そんなふうに悩んでいると、里美くんは「あっそ、ならいいけど」と言って作品のほうへ意識を向けた。そしてまた、私のことなんて気にする様子もなく歩きはじめる。
里美くんは確かにかっこいいけど、これじゃあモテないだろうなと密かに思いながら、私も私のペースで進むことにした。
まぁ、そのほうが正直助かる。このままお互い別々に回って最後に合流し、旗について少し話をしてから解散すればいい。そう思うと、少し気が楽だ。
小学生の展示を観終わった私は、続いて隣のフロアにある中学生の絵画を観てから階段で二階に上がり、高校生の作品が展示されているフロアに入った。
その間、里美くんとは完全に別行動で、話をすることも、同じ作品を一緒に観ることもなかった。
やっぱりふたりで来た意味なんてないじゃん。そう思っていたら、フロアの奥のほうで絵を眺めている里美くんの横顔を見つけたけれど、私は私で構わず展示品に目を向ける。
中学生の絵画は全部同じサイズの画用紙に描かれた水彩画だったけれど、高校生部門はキャンパスのサイズは問わず、水彩、油絵、アクリルなど種類も様々だ。
うちの高校もこの作品展に参加しているから、誰か知っている生徒の名前もあるかもしれない。美術部の生徒の名前はありそうだな、などと思いながら順に観ていく。
高校生ともなるとさすがというか、プロだと言われてもなんの疑念も湧かないくらい、どれも素晴らしい絵ばかりだ。
同じ高校生なのに、世の中には才能に溢れた人がたくさんいるんだなと感心しながら見ていると、うちの高校の名前が書かれたプレートが目に入った。これまで観た作品となんら変わらず、それらも魅力ある絵ばかりだ。
すると、私の視線はあるひとつの作品に釘付けになった。
「これ、好きかも」
話す相手がいないので完全にひとりごとだけれど、呟かずにはいられないほど惹き込まれて、見ているだけで胸の鼓動が勝手に速くなる。
目の前にある絵は、どこか高い場所から見た景色が描かれていた。
遠くにはぼんやりと山々が連なっていて、眼下に広がるたくさんの家屋は、屋根や窓などの外観はもちろん、生えている草木や壁の汚れなど一軒一軒どれも細かく丁寧に描かれている。
そして、私が最も惹き込まれたのは、正面に描かれている空だ。明け方だろうか、白く霞む空の上部には、なぜか色とりどりの花々が薄く描かれていた。不思議な光景だけれど、とても美しい。
山々のうしろから昇ろうとしている朝日は、きっとあと一時間もしないうちにこの町を明るく照らしていくのだろう。そして、空から雨や雪が降るように、この町には花が降り、一日がはじまっていく。そんなふうに想像できる絵だ。
この絵を描いた人はきっとこの町が、この景色が好きなのだろう。そう思いながら、絵の下に貼られているプレートに目線を下げた瞬間、
「え!?」
短くも、普段は決して出さないような高い声をあげてしまい、慌てて自分の口を両手で塞いだ。
周囲の人の視線が一瞬だけ集まったけれど、私が「すみません」と言いながら小さく頭を下げると、その視線もすぐに散り散りになった。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、改めて顔を上げる。見間違いではなかった。ぽかんと口を開きながら、そこに書かれている文字をまじまじと見つめる。
【タイトル・新しい世界】
【作者・里美蒼空】
「里美…蒼空……」
確認するように忍び声で読み上げると、正面に影が差した。背後に気配を感じて振り返った私は、再び出そうになる声をグッと呑み込み、瞼を大きく見開く。
「なんだよその顔。俺はバケモンか」
「だっ、だって、これ」
飾られている絵と里美くんを交互に指差した。何度瞬きをしても、この絵の作者の名前は里美くんだ。学校に同姓同名はいないはずだし、多分、目の前にいる里美くんで間違いない。
「もしかして、自分の作品が見たいから一緒に行くって言ったの? ひとりで行くのが恥ずかしかったとか」
別行動を取るなら一緒に行く必要なんてなかったのに、そういう理由ならちょっと納得できる。
「そういうわけじゃねぇよ。たまたまだ」
「だったらなんで言ってくれなかったの? ビックリしたじゃん」
驚いたし、それに、この絵が好きだと思ってしまった。いや、そう思うことは悪くないのだけれど、里美くんの作品だと知った途端、謎の恥ずかしさに襲われて、ちょっと気まずい。
「なんで言わなきゃいけないんだよ」
「なんでって、一緒に行くなら普通最初に言わない?」
「言わなくたってどうせ分かることだろ」
「そうだけど、でもやっぱりどう考えてもおかしいよ。だって、里美くんは絵が上手なんだから……」
旗のデザインなんて、私がいなくてもひとりで簡単に考えられるはずなのに、どうして描いてくれないの?
そんな言葉が浮かんだけれど、口には出さなかった。色が見えないと、ついなんでも言ってしまいそうになるから怖い。
「だから、なんだよ」
「……ううん、別に。なんでもない」
頭を左右に振ると、里美くんが舌を鳴らした。不快にさせるようなことは何も言っていないのに、私を見下ろす目がやたらと怖い。
変に気を使ったのを見抜かれて、またジュースをおごれとかなんとか言い出すのかと思いきや、里美くんはそのまま黙ってフロアを出た。
絶対に不満があるような顔だったのに。私が言えることじゃないけれど、何かあるなら言ってほしい。里美くんは色が見えない分、言葉にしてくれないと反応に困るんだから。
なんだかモヤモヤした気持ちを抱えたまま、美術館を出た。
「で、どうだったんだよ。いいデザイン思いつきそうか」
入り口から少しずれた場所で立ち止まり、里美くんが聞いてきた。
確かに様々な作品を目にしたことで刺激にはなったし楽しかったけれど、それで自分の才能が突然開花するわけじゃないので、思いついたかと言われると微妙だ。
でも里美くんの絵を見た時、実は頭の中で少しだけアイデアが湧いたのだけれど、まだなんとなく浮かんだだけだから言わないでおこう。
「えっと、どれもすごい上手で参考になったけど、すぐにはまだ考えつかないかな。とりあえず家に帰ってから――」
「じゃあ、次行くぞ」
「……え?」
私が言い終わる前に、里美くんは美術館をあとにして歩きはじめた。
今、次って言ったよね? 行くってなんのこと?
頭の中で疑問符が次々と浮かぶ私とは反対に、里美くんの中ではすでに決まっていることがあるのか、迷いなくスタスタと足を進める。
「あの、ちょっと」
さすがにこのまま黙ってついていくわけにはいかないし、美術館の中で自分勝手に動くのとはわけが違う。
「ちょっと待ってよ、里美くん」
呼び止めると、ちょうど信号が赤になって里美くんが止まった。赤じゃなかったら止まってくれなかったのかもしれないと思うと、お腹の底から大きなため息をつきたくなった。
「何?」
嘘でしょ。この状況で何って聞く? 聞かなきゃ分からないの? 私、明らかに戸惑ってるんですけど。
「あのさ、次行くってどういうこと? それは私も行かなきゃいけないのかな」
グッと呑み込んだ言葉をできるだけマイルドに、口調も穏やかにして里美くんに投げた。
「今日はクラス旗係のふたりで出かける日なんだろ。行きますって先生に言ったのは雨沢だよな」
「言ったけど、でもあれは……」
「それとも、なんか用事でもある?」
「用事は……特にないんだけど……」
「だったらいいじゃん」
信号が青になり、里美くんはまた前を向いてしまった。何がいいのか私には全然分からないし、せめて行き先くらい教えてよ。
そう思っても、やっぱり里美くんの反応を気にしてしまう。ただただ里美くんの背中を睨むことしかできない自分が情けない。色さえ見えればうまくやれるのに……。
駅前の大通りに出ると、里美くんがやっと信号とは関係ないところで足を止めた。
「お腹空いたんだけど。昼飯、何食べたい?」
今は十一時半を過ぎたところだ。確かにお腹は空いたけど、一緒にお昼ご飯を食べるなんて、私はひと言も言ってない。
「えっと、なんでも……」
「じゃあここで」
私がなんて返事をするのか分かっていたかのように、里美くんは間髪入れずに目の前の店を指差した。
「調べたら、この定食屋が気になったから」
「調べたの?」
「そりゃあそうだろ。せっかく行くならちゃんと調べて美味しいもん食べたいし」
これまた意外。ランチする店を事前に調べるなんて、絶対にしなそうなイメージだったのに。
「なんか言いたそうだけど、定食屋じゃ嫌なのか?」
「いやいや、全然。定食好きだし」
面倒くさがりで愛想悪くて自分勝手で空気が読めないところはあるけど、実は案外マメなんだね、とはさすがに言えない。
ちょっと汚れたオレンジ色の暖簾には【まるた亭】と書かれている。小さなお店で決して新しくはなく、どちらかというと年季が入った店構えだ。
カウンターが五席と、四人掛けのテーブルが三つの小さな店内で、私は里美くんに続いてカウンターに座った。まだ十二時前だからか、四人掛けのテーブルも空いていたけれど、これから来る客のためにカウンターの席を選んだのかもしれない。
一緒に美術館に行っても自由行動をとるのに、こういう気遣いはできる人なんだ。と思いながら、数ある美味しそうなメニューの中から私は和風ハンバーグ定食を、里美くんは生姜焼き定食を頼んだ。
厨房におじさんがひとりと、注文を取ってくれたおばさんがひとり。お店はそのふたりで営んでいるようなので、まるたさん夫婦なのかな?と思っていると、料理が運ばれてきた。
待っている間、特に会話はなかったのに「いただきます」の言葉だけ、ふたり同時にハモってしまったのがちょっと恥ずかしいと思いつつ、食べはじめた。
肉汁溢れるハンバーグと、刻んだ大葉が入った大根おろしとポン酢の相性がよすぎて、箸が止まらない。チラッと目線を上げると、里美くんも豪快に生姜焼き定食を食べていた。ふたりで感想を言い合うなんてことはないけれど、その食べっぷりから美味しさだけは伝わってくる。
先に食べ終わったのは里美くんだったので、待たせないように私も急いで食べ終えた。お金を払ってまるたさん夫婦に「ごちそうさまでした」と告げ、店を出る。
高校生になってから、一緒にご飯を食べている相手とひと言も会話を交わさなかったのは、里美くんが初めてだ。
一緒にいるんだから楽しく話さなきゃとか、盛り上げなきゃとか、相手にも私といることを楽しいと思ってもらいたいとか、そんなことを考えていつも相手の色を見ていた。だけど、里美くんが相手だとそうはならなかった。無言が続いても何か話さなきゃという焦燥感に駆られなかったのは、私のことを気にする様子が里美くんから微塵も感じられなかったからだ。
色が見えないから、というのも原因なのかは分からないけれど、何も考えず何も話さなくてもいいというのは、ちょっとだけ楽だなと思った。
「雨沢、買い物って好きか?」
「買い物? うん、まぁ好きっていうか、嫌いじゃないけど」
「じゃー次」
「えっ!? まだどこか行くの?」
「嫌ならやめるけど」
「えっと、別に嫌とかそこまでじゃ……」
「だったら行くぞ」
……でも、詳細を告げずに歩き出すような自分勝手なところは、やっぱりすごく疲れる。
今度は電車に乗るらしく、あたり前のように改札を抜けて駅の中に入った。私も鞄から慌ててパスを取り出し、あとを追う。
ていうか、なんで私まで行かなきゃいけないんだ? 嫌ってわけじゃないけど、やっぱり用事があるから帰るって言えばよかった。そう思いながらも言い出せない私は、結局そのままついていくことしかできない。
朝よりも人が増えたようだけれど、平日の通学時に比べたら断然空いている電車に乗り込み、学校とは反対の方向へ三駅戻ったところで降りた。その間、もちろん会話はない。
ここで降りるなら目的地はだいたい察しがつく。駅を出て次に向かったのは予想通りショッピングセンターだった。菜々子の買い物につき合う形で、学校帰りに何度か行ったことがある。
菜々子が嬉しそうなら同調して、悩んでいるようならアドバイスや助言をする。色が見えれば相手の気持ちを考えてあげられるし、気分を損ねることもない。でも実は、菜々子の買い物はちょっと長いから疲れるというのが本音だ。
キープすると言いながら気に入った店を何度も周回する買い物のしかたは、買う物をある程度決めてから行く私には理解できない。エスカレーターを何度も上がったり下がったり、正直『早く決めて』と言いたくなったことが何度もある。もちろん、言えないけれど。
ただ、里美くんは色が見えないという点で不安はあるけれど、まぁ男子だし、買い物なんてパッと済ませるだろう――という考えは、甘かった……。
三階ある建物の上から順に、書店、スポーツ用品店、雑貨屋、靴や鞄や服など、とにかくあちこちのお店を休みなく見て回ること一時間。途中「大丈夫か」と何度か聞かれたけれど、私は「大丈夫」としか言えず、他には特に楽しい会話もなかったため、体感では三時間以上歩いた気分だ。しかも歩き続けた結果、里美くんが購入したのは本一冊。
男が女の買い物につき合わされてぐったりというのはよく聞くけれど、その逆を経験することになるとは思わなかった。正直、菜々子の買い物よりも疲れた。
「疲れたなら疲れたって言えばいいじゃん。なんで言わねぇの?」
ショッピングセンターを出た時、ぐったりしている私に里美くんが言った。
気づいていたなら、そっちが気を使ってくれればよかったのに。と思ったけれど、不満を抱えながらも私は言葉を呑み込む。
「いや、別に疲れたってわけじゃないけど……」
「なんだよそれ」
怒ったのか不満なのか、それとも疑っているのか、一瞬、里美くんの表情が曇った気がした。里美くんの気持ちが分からない私は、黙って視線を足元に落とす。
「まぁいいや、次、行くぞ」
「まだ行くの!?」
パッと顔を上げ、今度は我慢できずに声を張り上げてしまった。
「最後にちょっと休憩」
そう言って、また勝手に歩き出した里美くん。
休憩という言葉は疲れ切った私には魅力的だけれど、行き先くらい言ってほしい。友達相手でも常にこんな感じなのだとしたら、それで嫌われないなんて不思議を通り越して、もはやずるい。
それとも、こんなに自分勝手に行動するのは相手が私だからなのだろうか。いや、でも里美くんとは係で一緒になって初めてまともに話をしたんだから、そんなことをされる理由はないし……。
里美くんの背中を追いながら考えていると、大通りから脇道に入り、一方通行の狭い道路に出た。小さなマンションや一軒家が並ぶ中、椅子に座った大きなクマのぬいぐるみが出迎えている可愛らしい雑貨屋さんに目を奪われた。
里美くんが止まったのは、その雑貨屋から数メートル進んだ先の、小さなカフェの前。ショッピングセンターから徒歩十分もかからないけれど、裏道なのであまり目立たない場所にある。
白を基調とした木目調の小さな店のオーニングには【喫茶 FLOWER】と書かれており、店の前には花屋だと言われてもおかしくないほど、色鮮やかな花や植物が飾られている。
女子が好きそうだし、写真映えもしそうだ。私は写真を撮る習慣がないから撮らないけど。
「里美くんて、こういう可愛いお店が好きなんだ?」
素朴な疑問をぶつけると、勢いよく振り返った里美くんの顔が、少しだけ赤らんでいるように見えた。
「んなわけないだろ。俺の姉がたまにバイトしてんの。まぁ今日はいない日だから来たんだけどな」
ばつが悪そうに首のうしろをかきながら、里美くんがお店のドアを開けた。同時に、カランという控えめな鐘の音が鳴る。
こういう隠れ家的な喫茶店に入ったことはないから、ちょっと楽しみかも。
私が密かに心躍らせていると、
「いらっしゃいませ……って、蒼空じゃん」
「げっ!!」
明らかにテンションの違う高い声と低い声が、同時に響いた。
「なんでいるんだよ。やっぱ別のとこ行くぞ」
そう呟き、もう一度ドアに手をかけて外に出ようとした里美くんを、ひとりの女性が立ちはだかって阻止した。
大きめのクリップで髪をうしろにまとめ、深緑色のエプロンをつけている。恐らく店員さんだと思うし、里美くんの言動からして、この人がお姉さんなのかもしれない。
「なんで私の顔見て逃げるのよ」
目元はなんとなく里美くんと似ている気がするけれど、そっくりかと言われればそうでもない。でも、小顔で目鼻立ちのきりっとした都会的な美人顔で、綺麗だということは間違いない。
お姉さんらしき店員さんはオレンジと黄色がたくさん見えるので、なんだか嬉しそうだ。
「つーか、そっちこそなんでいるんだよ」
「バイトの子が急遽休みになったから、その代わり。ていうか、あんたこそ土曜の昼間から何してんのよ」
「土曜の昼間に高校生が出かけるのは別に普通だろ」
「普通の高校生はね。でもあんたは人混みが嫌いだから、土日はだいたい家にいるじゃん。たいした用もないのにわざわざ混んでる場所に行く意味が分かんねぇ、とかなんとか言ってさ」
人混みが嫌いなのに、土曜日で混んでいるショッピングセンターに行った意味は? しかも買ったのは本一冊。たいした用もないのに、わざわざ行ってるじゃん。何、私への嫌がらせ?
唇を結び、疑わしく細めた目を里美くんに向けようとした時、店員さん(多分お姉さん)の視線を感じた私は、わずかに表情を緩めた。
目を大きく見張った店員さんは、まじまじと私を見て口を開く。
「ちょっと待って、嘘でしょ……この子はもしかして蒼空の、かの――」
「違げぇよ!」
私が食い気味に全力で『違います』と言う前に、里美くんが即座に否定した。
「なんだ、そうなの? 珍しく女の子連れてくるから、期待しちゃったじゃん。まーいいわ。とりあえず、そんなところで突っ立って喋ってたら邪魔だから、さっさと座りなさい」
早口でそう告げた店員さんは、里美くんの背中を押して半ば無理やり中へと促した。
入り口の正面にカウンター席と、窓際にふたり掛けの席が四つある。客は誰もいないようだ。
「喋ってたのは俺じゃなくて莉子だけどな」
ブツブツと愚痴をこぼしながらも、里美くんはカウンター内にいる男性にお辞儀をしてから、窓際の一番奥の席に座った。
莉子呼びってことは、お姉さんじゃないのかもしれない。なんだかよく分からないけれど、ここで帰るわけにもいかないので、私も里美くんの正面に腰を下ろす。
「さっきまで結構お客さんいたんだけどね、ちょうど誰もいなくなってひと息ついてたら、まさか蒼空が女の子連れてくるなんてビックリだわ」
お水をふたつテーブルに置いた莉子さんは、嬉しそうに「ふふっ」と微笑んだ。里美くんは不機嫌そうに片肘をついている。
「申し遅れました、私が蒼空の姉の里美莉子で、中にいるのがマスターで伯父の俊次さん」
私は慌ててピンと背筋を伸ばし、莉子さんとマスターにお辞儀をする。やっぱりお姉さんなんだ。
「は、初めまして。あの、里美くんのクラスメイトの雨沢花蓮です」
顎髭を少し生やしたマスターが私のほうを見て、微笑みながら小さく頭を下げた。莉子さんと同じように目鼻立ちがハッキリとしていて、白髪交じりのマスターはイケオジ感満載だ。
「花蓮ちゃん。可愛い名前ね」
「ありがとうございます」
ぼんやりとした笑みを唇に浮かべた私は、莉子さんから目を逸らし、目の前にある透明なグラスを両手で握った。
昔は、花蓮という名前が好きだった。だけど今は、花のない 私なんかには似合わない気がして、呼ばれるたびに複雑な気持ちになる。
「何か飲む?」
「あ、はい。えっと」
莉子さんの声に反応した私は、沈みそうになった顔を起こして里美くんに目をやる。
「俺はアイスコーヒー」
里美くんがテーブルの上でメニュー表を滑らせ、私のほうに向けてくれた。
「えっと……じゃあ、アイスカフェオレで」
「アイスコーヒーとアイスカフェオレね。かしこまりました」
莉子さんが声を張ると、マスターが素早くグラスを用意した。カウンターの中に入った莉子さんも、マスターと何やら小声で話をしながら手伝っているようだ。
実際は分からないけれど、莉子さんはどちらかというと陽気で明るい人に見えるから、姉弟なのに性格は全然違うみたいだ。こうしてふたりで向かい合って座っているのに、相変わらず里美くんは窓の外を見ていて、会話する気がなさそうだし。
「うちの弟、愛想悪くてごめんね。今日はふたりでデート?」
四角いコースターと共に、注文した飲み物をテーブルに置いてから莉子さんが聞いてきた。
「いえ、まさか、違います。学校の係の一環で、美術館に行っただけで……」
本当は定食屋やショッピングセンターにも行ったけど、そうなると本格的にデートのように思えるから、あえて省略した。でも、愛想悪いという莉子さんの言葉には、正直思い切り頷きたくなった。
「美術館か。なんか蒼空の絵が選ばれたんだっけ? 私も見に行ってこようかな」
「別に展示が終われば戻ってくるんだから、わざわざ行く必要ないだろ」
無愛想に答えてため息をついた里美くん。確かに、家族であれば返ってきた絵をいつでも見ることができる。
でもあの絵は、私もまた見てみたいな。
そう思いながらカフェオレをひと口飲んだ。正直コーヒーの味の違いはよく分からないけれど、このカフェオレはなんだかコーヒーが濃いというか、でも嫌な濃さじゃなくてミルクの柔らかさもちゃんとあって、とにかく今まで飲んだカフェオレの中で断トツ美味しいと思った。
「美味しい」
そのひと言にすべての思いを込めて呟くと、莉子さんは「ありがとう」と言って微笑んでくれた。女神かと思うほど、美しい。さすが里美くんのお姉さんだ。
「花蓮ちゃんも蒼空の絵、見たんでしょ? どうだった?」
カフェオレの味に浸っていた私は、焦ってストローから口を離す。
あの絵は素直に素敵だと思う。でも、本人を前にどう言えばいいのか……。
里美くんは聞いていないと言わんばかりに、片肘をついたまま窓の外にずっと目を向けたままだ。
「えっと、すごかったです。正直言って、飾ってあった絵の中で一番好きだなって思いました」
「ちょっと蒼空、聞いた? 好きだってさ」
「いえあの、絵がってことです。最初は里美くんの絵だって気づかなかったので、本当にそういう意味じゃなくて」
あたふたと両手を振ったけれど、その焦りが逆にはぐらかしているように見えるのではと、不安になった。でも莉子さんは「ごめんごめん、冗談よ」と笑ってくれたので、ほっと胸を撫で下ろす。
「でもさ、蒼空と一緒に出かけて疲れなかった?」
カウンター席に腰を下ろした莉子さんは、体をこちらに向けながら言った。
絵のことはいいけれど、その質問にかんしては正直な気持ちを口に出すわけにはいかない。心の中でなら、間髪入れずに『はいっ!』と言えるけど。
「えっと……いえ、全然。楽しかったです」
私が疲れたと正直に言えば、姉である莉子さんのまわりに見えるオレンジや黄色が、暗くなってしまうかもしれない。赤くなってしまう可能性だってある。莉子さんの機嫌を損ねないために、私は笑みを貼りつけてそう答えた。
だけど莉子さんは目を丸くし、長いまつ毛を二、三度上下させた。
「ほんとに? いいんだよ、気を使わなくても。蒼空って自分勝手でしょ」
頷くことはできないので、ヘラヘラと笑いながら「いえ」と答えるしかない。
「私はもう慣れてるから、全然気にならないんだけど。花蓮ちゃんも、蒼空が失礼なことを言ったら遠慮なく文句言っちゃっていいんだからね」
「いえ、本当に大丈夫です」
空気を壊さないため、嫌われないために相手の気持ちを考えて話すことには慣れている。高校生になってからはずっとそうだから。
「俺は楽しくなかったけどな」
――……え?
ずっと黙っていた里美くんがぼそりと漏らした言葉に、私は耳を疑った。
今日は里美くんに散々振り回された挙句、楽しくなかったなんて言われても困るし、その発言はさすがに自分勝手だ。
それはこっちの台詞だと言わんばかりに、私は尖った視線を里美くんへ一瞬だけ放った。
「雨沢を見てると、なんかこっちまで疲れるんだよ」
だけど、私の睨みなんかではまったく動じない里美くんは、続けてためらうことなくハッキリとそう言った。
だったらなんで一緒に行くなんて言ったのか。それに、つまらないならすぐに解散すればよかったのに。
そう思うけど……。
「ごめん……」
悪いと思っていないのに、心配するような莉子さんの灰色を見たら、言葉が勝手に口から出てしまった。
その瞬間、なんだか重い石を抱えているかのように気持ちが沈む。それも、誰かに持たされたんじゃなくて、自分から抱えている重みだ。
まわりの人の色を見て発言するのはいつもと同じなのに、それで上手くいっていると思っていたのに、なんでこんなに胸が苦しくな
るんだろう。
うつむいたまま、顔を上げることができない。
「ちょっと! 女の子になんてこと言うの!」
すると、莉子さんが声高にそう言って、里美くんの背中を手のひらで叩いた。
「あんたみたいに面倒な男につき合ってくれたんだから、むしろお礼を言わなきゃ駄目じゃん!」
「なんでお礼なんだよ」
「あたり前でしょ! ていうか、まず花蓮ちゃんに謝りなさい。ひどいことを言ったんだから」
莉子さんが詰め寄ると、「うるせぇな」と小声でぼやきながらも、里美くんは莉子さんの勢いに圧倒されてたじたじになっている。
「ほらほら、さっさと謝れー」
「やめろよ」
莉子さんが里美くんの背中をツンツンと突くと、体を横に向けて逃げている里美くんの表情が緩んで、ちょっとだけ笑ったように見えた。
学校では決して見られない珍しい里美くんの姿に、硬くなっていた私の心が少しだけ和らぐ。
この場を明るくしてくれているのは間違いなく莉子さんで、空気をよくしてくれているのも莉子さんだ。弟だから、莉子さんには里美くんの気持ちが分かるのだろうか。色が見えたら、私にも里美くんの気持ちがちゃんと理解できて、上手く返せたのかな。
「花蓮ちゃん、本当に失礼な弟でごめんね」
「いえ」
「蒼空は正直すぎるっていうか、相手のことを思うならもっと言い方ってものを学ばないとね。このままじゃ、彼女ができてもすぐ振られるのが目に見えてるわ。すでに何人も振られてたりして~」
「余計なお世話だ」
ムッとした里美くんは、片肘をついて再び窓の外に顔を向けた。でもなんだろう、全然不機嫌そうに見えない。
「まぁでも、よく言えば自分に嘘をつかないってことなんだけどね」
確かに、自分に嘘をつかず思ったことを言う里美くんにピッタリな言葉だ。だけどそれってやっぱり、空気が読めないってことになるんじゃないのかな。
「昔はさ、あ、私たちが姉弟になる前はね、今とは全然違って、人の顔色ばっかり見てる子だったんだけどね」
「――……え?」
今、さらりととんでもない言葉を聞いてしまった気がするけれど、気のせい?
「あれ? 何、話してないの?」
莉子さんが里美くんに確認すると、里美くんは「わざわざ言うことじゃねぇだろ」と、外を見ながら答えた。
「まぁでも隠すことでもないよね。私と蒼空は、本当の姉弟じゃないの」
私は返す言葉がすぐに見つからなくて、黙りこくった。
莉子さんの色は明るくて、重い空気はまったく感じられない。つまり、本当の姉弟ではないという話は、莉子さんにとってつらいことでも悲しいことでもないということになる。
「そ、そうだったんですね。知りませんでした」
ちらりと里美くんの反応を見たけれど、表情に変化はない。
「私が十四歳の時に、母と蒼空のお父さんが再婚したんだけど、今じゃ考えられないくらい、当時の蒼空は気遣いの塊だったんだから。まだ十歳だったのに、まわりの顔色ばっかりうかがってさ」
「えっ!?」
気遣いの塊だという里美くんの姿があまりにも想像できなくて、思わず驚いてしまった。
そんな私を見て、莉子さんは「信じられないでしょ?」と笑い、里美くんは「余計なこと言うなよ」と舌打ちをしたけれど、やっぱり怒っているようには見えない。
「でも本人の中で何かあったんだろうね、しばらくして今の蒼空ができあがったってわけ。まぁ、私たち家族にとっては昔も今も蒼空は蒼空なんだけどね」
気を使ってくれた蒼空も、言いたいことを言って自分に正直な蒼空も、どっちが間違っているということではない。ただ、蒼空が自分らしくいられればそれでいいのだと莉子さんは言った。素敵なお姉さんだ。
私も、家族の前でなら自分でいられる。だからこそ時々喧嘩になることもあるけれど、家族ならどんな私も受け入れてくれる気がするから。
でも学校は違う。私は、何もしなくても人気者でいられる里美くんとは違うから、みんなの感情を見てからじゃないと、怖くて何も言えない。
「こんな奴だけどさ、これでもいいところは結構あるんだよ。なんだかんだ文句言いながらも、言われたことは素直に受け入れるし、優しいところもあるから。とにかく花蓮ちゃんは、遠慮せずになんでも言いなね。もし蒼空がなんか意地悪なこと言ったら、すぐに私にチクっていいから」
里美くんが、気まずさを誤魔化すようにアイスコーヒーを口に運ぶ。
色の見えない里美くんに対して、遠慮せずになんでも言うのは無理だと思うけれど、私は「はい」と返事をした。莉子さんは、そんな私を見て嬉しそうに口角を上げる。
やっぱり自分のことよりも、相手を嫌な気持ちにさせないことこそが一番大事なんだ。クラスに必要な存在だと思われたいし、みんなと仲良くしたい。みんなに好かれたい。嫌われたくない……。