「蒼空ならきっと、それはそれは最高にかっこいい旗作っちゃうんだろうなぁ。楽しみだな~」

「はいはい。ハードル上げなくていいから、さっさと部活行けよ」
 
帰りのショートホームルームが終わってすぐ、矢野くんを追い払うように手を振った里美くんは、そのままダルそうに鞄を肩に担いで私の席の前に立った。
 
見上げると、眉間に軽くしわを寄せているやたらと整った顔が、不機嫌そうに私を見下ろしている。
 
いつものように空気を読まないで、『やっぱり面倒だから係やめるわ』とか言い出しかねない顔だ。それはそれで大歓迎ですが。

「雨沢、美術室行くんだろ」

ちょっとだけ期待したけれど、やめないらしい。内心ガッカリしながら「うん」と頷いた。

私と同じで面倒なことは嫌いそうなのに、実は絵を描くのが好きなのかな? なんて、どれだけ考えてみても、里美くんの感情は今日も見えないから分かるはずがない。

「これからよろしくね」

当たり障りのない言葉をできるだけ愛想よく言うと、里美くんは抑揚(よくよう)のない平坦な声で「あぁ」とだけ応えた。

これが矢野くんだったら、鮮やかなオレンジ色をまといながら『こっちこそ、よろしくね~』とか言ってくれて、私も安心できたはずだ。先行きに不安しかないけれど、もうやるしかない。

「ファイト!」という菜々子のエールに見送られながら教室を出た私は、横に並んでしまわないように里美くんの少しうしろをついていく。

帰る生徒と部活に向かう生徒で溢れている廊下は、随分と(にぎ)やかだ。私の場合はそれプラス色も大渋滞しているので、余計に騒がしく感じられる。

でもこうして改めて見ると、色がない里美くんの背中は変に浮いていて、逆に見つけやすいということがよく分かる。

まぁ、大勢の生徒の中から里美くんを見つけ出す機会なんて、これまでもこれからも絶対にないと思うけれど。

「里美くんだ。どこ行くの?」

「ちょっと」

渡り廊下を抜けて西棟に入ったところで、他のクラスの女子に話しかけられた里美くんは、立ち止まらずに答えた。そっけない返事だ。

というか、今の女子だけではなく、男女問わず数人に声をかけられては「おう」とか「あぁ」とか「ん」とか、めちゃくちゃ簡単な言葉だけで対応していた。

どう考えても面倒くさそうな態度に見えるのに、話しかけた相手のほとんどが、ピンク色をまとっている。中には冷たい態度に赤色を少し浮かべてムッとする子もいたけれど、里美くんはまったく気にしていない。私には、何よりそれが不思議でならなかった。

私なら、嫌われないように色を見て相手の感情に合うようなリアクションを取るけれど、もし里美くんも私と同じように色が見えるとしたら、どうするのかな。さすがに怒らせないようにするのか、それとも真っ赤な色が見えてもやっぱり気にしないのかな……。

そんなことを考えながら、特に会話もなく美術室にたどり着くと、すでに他のクラスの係の姿があった。どうやら私たちが最後みたいだ。

放課後は美術部の活動もあるため、旗制作には学年ごとに交代で美術室を半分使用させてもらうことになる。今日は一年生の番だけれど、他の学年が使う時は教室で作業をする決まりだ。

「一年二組の雨沢です」

「里美です」

「二組のクラス旗係ね。じゃーこれ。今日は多分デザインを考えるくらいで終わっちゃうと思うけど、一応渡しておくから」

美術の先生から白い布を受け取り、六人用の大きな机の上に置いた。ちなみに、制作のために放課後残れるのは十八時までと決まっている。十日ほどで仕上げなければならないのだが、一日平均二時間前後しかないため、あまりのんびりしていたら間に合わなくなりそうだ。

まぁ、まずはデザインを考えないとはじまらないか。

他のクラスも布はまだ広げず、紙に何かを描いたり、ふたりで話し合っている様子が見られる。オレンジや緑など様々な色が混ざり合っていて、時々笑い声も聞こえるし、なんだか楽しそうだ。

さて、うちのクラス旗はどうしようかな。里美くんが仕切ってくれるとは思えないから、ここは私が切り出さないとはじまらないか。

「えっと、じゃあとりあえずデザインをどうするか決めないといけないから、お互いにいくつか考えて紙に描いて、それをあとで見せながら話し合うっていうのはどう?」

里美くんは布を触りながら「だな」と応えて、椅子に腰を下ろした。

相変わらず無色の里美くんは、私の提案に対してどんな気持ちなのか読めないけど、いちいち気にしていたら先に進めないから見ないようにしよう。

美術室にある下描き用の白い紙を用意し、大きなテーブルを挟んで里美くんと向かい合わせに座った。ペンケースからシャーペンを取り出して、白い紙を見つめながら頭を捻るけれど、アイデアがさっぱり浮かばない。

美術室の机って、改めて見るとカラフルだな。

あまりに何も出てこないからか、そんなことをふと思った。もちろん机の色自体がビタミンカラーとかそういうわけではなく普通に焦げ茶色なのだけれど、そこに所々絵の具の色が飛び散っているのだ。

何年この机が使用されているのか分からないけれど、落ちなかった、もしくは落とし忘れた絵の具が固まって残っているのだと思う。
 
これぞ美術室の机、という感じのこのカラフルな汚れ具合は、結構好きかも。
 
色なんて今まであまり気にしたことがなかったのに、そんなふうに感じるのは、みんなの感情が色で見えるようになったからなのかな。

ふと顔を上げ、正面に座っている里美くんに視線を移した。片肘をつき、眉間にしわを寄せながらゆっくりと何かを描いている。

里美くん、左利きだったんだ。

そんな新たな発見はあったけれど、難しい顔をしている無色の里美くんは機嫌がいいのか悪いのか判断できない。相手の気持ちが分からないと間違えてしまうかもしれないから、簡単に声をかけることができなくて必然的に無言になってしまう。

里美くんの髪の毛が、赤みを帯びた(だいだい)色の光を背後から浴びて輝いている。けれどこれは、楽しいと感じているオレンジじゃない。窓から差す夕陽の色で、あたり前にみんなの目にも映る色だ。

目線を白い紙に落とした私は、過去のクラス旗デザインを参考に、とりあえず思いつくまま描いてみた。

美術室の中は比較的静かだけれど、それでも他のクラスの子たちが話をしている声は耳に入ってくる。でも、私と里美くんのまわりだけはずっと無音だ。

「雨沢って……」

けれど、そんな沈黙を突然打ち破った里美くんの声に、私は驚いて顔を上げた。

「雨沢って、空気読むのうまいよな」

視線を下げたまま、里美くんが言った。

このタイミングで言われると、なんで今?と思うけれど、そう思われたいと頑張っているので素直に嬉しい。

まぁ、実際に色を見て空気を読んで発言しているのだから、当然だけど。

「そうかな? 自分では分からないけど、でもありがとう」

「褒めてないけど」

「……えっ?」

「別に褒めてない」

チラッと私に目を向けて、里美くんは二度も同じことを言った。

空気が読めるって、普通は褒め言葉なはず。

冗談にしては意味不明だし、もし気に障るようなことをしていたなら謝らなきゃのちのち面倒なことになるけれど、そもそも私は里美くんとまともに喋ったことがない。会話をするのは今が初めてだと言ってもいいくらいだ。

それなのに、褒めていないってどういうこと? 褒めていない言葉をわざわざ言う理由は?

手元に視線を戻した里美くんの表情に変化はなく、もちろん色も見えない。だから、返す言葉が思い浮かばない。

謝るべきなのか、笑うべきなのか、それとも同調すべきなのか。相手の気持ちが分からないと、正しい言葉を導き出すことができない。

大事なテストの一問目で超難題を突きつけられたような……いや、それ以上の緊張感が私を支配した。息が詰まって、胸の鼓動が速くなる。エアコンが効いているはずなのに、手のひらにじわりと汗が滲む。

「えっ、えっと……」

逃げるようにあたふたと視線をさまよわせた私は、適切な言葉をどうにか探し出そうと、脳内を模索した。他の生徒たちの色を見たところで里美くんの気持ちは分からないのに、どこかにヒントはないかと探してしまう。

一組の女子二名は悩みながら真剣に向き合っていて、四組の男子二名はただただふざけて楽しんでいるようだ。一方で、笑っているのに不満げな感情が見える生徒もいる。美術部の部員はそれぞれ多彩な感情を浮かべながら、作品と向き合っている。

まるで美術室全体がひとつのキャンパスのように、色で溢れている。ただ一か所を除いては。

「よし、こんなもんだろ」

私があれこれ考えている間にデザイン画を描き終えたようで、里美くんは持っていた鉛筆を置いた。

里美くんの背後を照らす夕陽の位置が、随分と低くなっている。時計を見ると、美術室に入ってから一時間以上経っていることに気づいた。

「雨沢は? 終わったのか?」

「え? あ、う、うん。まぁ……」

さっきの言葉には触れもせず、まるで何事もなかったかのように里美くんが聞いてきたので、思わず口ごもった。『褒めてない』という言葉の意味を先に教えてほしいけれど、掘り下げないほうがいいのかもしれないとも思う。

「とりあえず、俺はこんな感じ」

紙をスッと押し出して、里美くんと私のちょうど真ん中辺りに置いた。それを見た瞬間、私は思わず首を傾げる。

「えっと……これは……トカゲ?」

「龍だ」

「りゅ、龍? これが?」

「そう。龍、ドラゴン。空飛んで火吹いたり、願いを叶えたりするあの龍。知らない?」

いや知ってるけど、龍の説明を求めたわけじゃなくて……。

私は困惑したまま紙を手に取り、龍らしき絵をまじまじと見つめた。

想像している龍よりもだいぶ短めの胴体はスイカのような縦縞がギザギザに描かれていて、尻尾の先にはタンポポの綿毛みたいなモサモサした何かがついている。鳥の足みたいなものが胴体に四つ平行についていて、頭にはモヒカンのような髪がある。

そして顔は……完全に、人間の顔だ。

「なっ、なにこれ」

堪えきれずにプッと噴き出した私は、「あはは」と声をあげて笑った。

「なんで龍に眉毛? 鼻とか完璧に人だし、唇やたらリアルだし!」

里美くんがめちゃくちゃ真顔で描いていた絵がこれかと思うと、ギャップがありすぎて笑うなというほうが無理だ。

けれど、自分の笑い声に引きつけられるように周囲の目線がこちらに向かっていることに気づいた私は、すぐさま我に返った。

しまった、油断した。里美くんの色が見えていたら、絶対に笑うなんてことはしなかったのに。

「ご、ごめん。あの、そういうつもりじゃなくて」

どういうつもりだと自分に問いかけたけれど、分からない。ただ、人が描いた絵を笑うなんて、絶対に怒るに決まってる。

「なんで謝んの?」

里美くんが首を傾げた。

「えっ、だって、せっかく真剣に描いてくれたのに笑っちゃったから」

「俺がこれを真剣に描いたって、なんで分かるんだよ」

「なんでって言われても……。顔が、真剣だったから?」

どんな感情で描いていたのか他の人だったら簡単に分かるけれど、里美くんの場合は表情で判断するしかないし。

「顔で判断されても困るんだけど」

「ご、ごめん。あの……」

どうしよう。絶対に嫌われた。きっと怒ってるんだ。それで、矢野くんとか他の仲のいい友達に私のことを悪く言って、それが他の人に次々と鎖みたいに(つな)がっていって、結果的に私は……。

背中の辺りが冷やりとした。一度感じたことのある絶望と悲しみ。あの感覚がまた(よみがえ)ろうとした時、

「面白いと思ったから笑ったんだろ?」

里美くんの口角が、少しだけ上がったように見えた。多分、微笑んだんだと思う。

でも、なんで? 呆れて笑ったの? それとも取り乱している私がおかしくて?

「別にいいじゃん。面白いと思ったなら笑えば。謝る意味が分かんねぇよ」

「だ、だけど、人が描いた絵を笑うなんて、悪いっていうか……」

「この絵を見て、すごい上手だね、とか、真剣に描いてくれたんだね、とか思う奴いるか?」

確かに。これは絵が苦手とかいうレベルではなく、どう見てもふざけて描いたとしか思えない。

「つーかさ、笑ってくれなかったら逆に寒いっていうか、真面目に返されてもこっちが困るんだけど」

「そう……なの?」

里美くんの言葉が本心かどうか分からない私は、恐る恐る聞いてみた。

「そりゃそうだろ」

「本当に? 本当に怒ってないの?」

繰り返し確認すると、里美くんが大きなため息をついた。呆れているというより、もしかしてなんか切れてる?

「あのさぁ、何をそんなに気にしてんの?」

「……え?」

頬杖をつきながら真っ直ぐ私に向けられる視線。里美くんに見つめられると、どうしたらいいか分からなくて目を逸らしたくなる。

「雨沢は面白くて笑ったわけで、俺も笑ってほしかったって言ってんだから、それでいいだろ」

「私は……」

気にしているのは、色だ……。

言葉では確かに怒ってないと言っているけれど、それが本音かどうか分からないから怖い。だから、里美くんの色が、感情が知りたい。

みんなと同じように見えたら、こんなふうに悩まなくて済むし、間違えたんじゃないかと不安になることもないのに。でも、それを正直に告げることはできない。

「で、雨沢は描いたのかよ」

「あ、えっと、一応描いたけど」

沈黙に(しび)れを切らしたのか、それとも面倒くさくなったのか、話題はクラス旗のデザイン画に移った。

私の気持ちはまだ切り替えられていないけれど、絵を描いた紙を今度は私が里美くんのほうに近づける。

「過去のクラス旗にはやっぱり龍が多くて、高く舞い上がる強そうな感じが体育祭っぽくていいのかなって思ったから」

私が説明すると、里美くんは絵に視線を落としたまま固まった。不満でもあるのか、またもや眉間に深いしわを寄せている。

今度は何?

里美くんの(いっ)(きょ)(しゅ)(いっ)投足(とうそく)にいちいち反応してしまう自分が、本当に嫌だ。

「これ、真面目に描いたのか?」

「え? もちろんそうだよ」

何を言われるのかと思ったら、ふざけて描いた里美くんと一緒にしないでほしい。ちょっとだけイラッとして、思わず語気を強める。

「つーか、これ何?」

「何って、火の鳥だよ。大きく広げた翼の感じとか、鳥のまわりに炎がこう、ぼわっと出てる感じとか。あ、でも色塗ってないから分かりにくかったかも」

「いや、色がどうこうとかの問題じゃないだろ。真面目に描いてこれなら逆に怖いっつーか、雨沢の絵心だいぶヤバいな」

「ちょっと、それどういう意味!? 里美くんにだけは言われたくない」

確かに絵は得意なわけじゃないけど、この火の鳥はなかなか上手く描けたほうなのに。というか、里美くんが描いた謎の生き物のほうがよっぽど怖いし!

「この二枚を並べたら、どう考えても私のほうが上手いでしょ」

唇を尖らせたまま二枚の紙を見比べていると、クスッと小さな笑い声が聞こえて顔を上げる。ついさっきまでは、険しい顔で不機嫌な空気をバンバンこちらに向けて放っていた里美くんが、笑っていた。

大きな目を細め、一直線だった唇の端を上げ、相好(そうごう)を崩している。

あまり表情を変えない里美くんを見慣れているせいか、笑っているところを間近で見るというのは、なんだか不思議だ。

「これ、じっくり見たらどっちもヤバいよな。体育祭の日に、この絵が描かれたクラス旗持ってる真面目な顔の俺らを想像したら、なんか笑える」

うつむきながら笑いをこらえている里美くんの小刻みに震える肩を見ていたら、なんだか私までおかしくなってきてしまった。

自称龍だという奇妙な絵が描かれたクラス旗を持って、真面目な顔をしているジャージ姿のイケメンモテ男――里美蒼空の姿を想像した瞬間、笑いがこみ上げてきた。

まわりに迷惑をかけないよう両手で顔全体を覆っているけれど、指の隙間から「くくくっ」という笑い声が漏れる。

どうしてこんなに笑っているのか、自分でもよく分からないと思いはじめてきたころ、「そろそろ時間だね」という誰かの声が耳に届き、ようやく高ぶった感情が収まってきた。

呼吸が落ち着き両手を顔から離すと、同じタイミングで頭を起こした里美くんと目が合った。そこでまた笑いそうになってしまったけれど、私は(せき)(ばら)いをして、なんとか誤魔化(ごまか)す。

「里美くんて、笑うんだね」

「あたり前だろ。つーか、いつも普通に笑ってるし」

「そうだけど、なんか笑う時も、もっとこう、かっこいい感じでクールに笑うイメージだったから」

「どんなイメージだよ」

努めて見ないようにしていたというのもあるけれど、里美くんの表情を、私はよく知らなかった。こんなふうに笑うのだということも。

「そういう雨沢も、普通に笑うことあるんだな」

「え? 私?」

「雨沢がちゃんと笑ってるところ、あんま見たことないから」

学校にいる時の私は、友達と話していて笑うことなんてしょっちゅうある。一匹狼ってわけでもないし、クール女子ってわけでもない。笑うなんて別に珍しいことじゃないと思うけれど。

それとも、里美くんも私と同じで、普段から私を見ていないのかもしれない。だから、私のことをあまり知らないんだ。

「でもさ、よく考えたらめっちゃくだらないことで笑ってたよね、私たち」

私はペンケースを鞄にしまい、帰る準備をした。他のクラスの生徒たちも同じように片付けをしていて、美術部はまだ絵を描いている。

「確かに」

そう言って里美くんが鞄を肩に担ぎ、椅子を持ち上げて静かに机の下に戻した。

私は、まだ何も描かれていない旗用の真っ白い布を、美術室の棚の隅に置かれている〝二組〟の箱の中に入れる。

「まぁ、くだらないことでもなんでも、面白いから笑うっていう、そういうあたり前のことが大事なんじゃねーの。あとは、ムカついたら怒るとか」

うしろにいた里美くんの言葉に、私は振り返って小首を傾げた。大事だという意味が分からなかったからだ。面白いから笑うのはあたり前で、そんなことは当然だ。

「えっと、どういう意味?」

素直に聞いてみたけれど、里美くんは私に背を向けて歩き出してしまった。

先生に挨拶をして美術室を出ると、里美くんがピタリと足を止める。

「このまま帰るんだろ?」

「あ、えっと、今日は千穂が部活終わるのを待ってから、一緒に帰る予定なんだ」

「あっそ。じゃあ俺行くわ」

背を向けた直後、里美くんはすぐにもう一度私のほうを向いて、思い出したように折りたたんだ一枚の紙を渡してきた。

「何?」

「俺が〝真剣に〟描いたほうの龍」

紙を開いた私は目を見張り、(まぶた)を何度も上下させる。

「すごい。龍だ……」

(うろこ)まできちんと描かれた龍は、どこからどう見ても龍で、今にも昇っていきそうな躍動感が伝わってくる。鉛筆書きだというのに、ふざけて描いた奇妙なモヒカン人面龍とは比べものにならないほど、毛並みの揺れまで繊細に描かれていた。

「めちゃくちゃ上手いんですけど!」

「子供の頃から絵描くの好きで、家でしょっちゅう描いたりしてたからかもな」

「へぇー……って、ちょっと待って。もしかして、私のことからかったの?」

上手に描いた絵があるのに、わざと下手に描いたほうを先に見せるなんて、そうとしか思えない。

「からかったっていうか、笑わせたかっただけ」

笑わせたかったという言葉は、ちょっと意外だった。矢野くんみたいな人が言うなら分かるけれど、里美くんはなんかもっとこう冷静沈着で、くだらないことはしないし、誰かを笑わせるなんて面倒くさいって思うような人かと思っていたから。

けれど、そうじゃないということは、この二時間ほどで少しだけ分かった気がする。

「笑わせなくていいから。せっかくこんなに上手なデザインがあるのに見せないなんて、今の時間が無駄になっちゃったじゃん」

「これからしばらくは嫌でもふたりでいることが多くなるだろうし、謎に気を使われてばっかだとこっちが疲れるから、一回思い切り笑ってもらおうと思ったんだよ」

「別に気を使ってるつもりなんて……」

ないとは言わなかった。むしろ、里美くんの色が見えなくて不安で不安でしかたがなかった。言葉のひとつひとつに本当はどんな意味があるのだろうと考えて、気を使ってしまう。

「えっと……とにかく、その、明日はちゃんとデザイン決めようね」

私は誤魔化すようにそう言って顔を上げた。

頭ひとつ分以上は上にある里美くんの視線と、私の視線がぶつかる。何を考えているのか分からない目は、逸らすことができないくらい真っ直ぐだ。

「面白くて大笑いしたり、ムカついて唇尖らせながら怒る雨沢のほうが、俺はいいと思うけど」

「――……!?」

なんの前触れもなく突然投げかけられた言葉に驚いて、声が出なかった。

美術室から出てきた他のクラスの生徒が、私たちを横目でチラチラ見ているのが分かる。

「えっと、じゃあ、私もう行かないとだから、また明日よろしくね」

そう言って里美くんを追い越した私は、足早に、逃げるように去った。

大丈夫かな……。さっきいた子たちに誤解されていないだろうか。深い意味なんてまったくないのに、『里美が雨沢のこと〝いい〟って言っていた』なんて間違った噂が立ったらと思うと、胃の辺りがキリキリと痛くなる。

お腹を押さえながら西棟の階段を一階まで下り、そこから裏手にある体育館に向かった。

夕方のこの時間はまだ明るさが残っているけれど、真夏に比べると日が暮れるのは随分と早くなったように思う。でも日中はまだまだ暑いし、じめっとした空気は肌にまとわりつくので、秋の気配はあまり感じない。

ドアまで近づくと、ボールの音や部員のかけ声までよく聞こえてくる。中をそっと(のぞ)くと、広い体育館の半分を女子バレー部が、もう半分を男子と女子のバスケ部が分けて使っている。

たくさんいる女子バスケ部員の中で、千穂の姿を見つけるのは結構簡単だ。一番というわけではないけれど背が高いし、それ以上に動きが目立っている。バスケ素人の私が見ても、千穂のプレイは目を引くものがあった。

千穂が放ったシュートが見事に決まると、千穂のまわりに見える色の中で、オレンジが一瞬だけ濃くなった。それを見た私は嬉しくなって、小さく拍手を送る。

「ラスト一回!」

かけ声を聞いた私は、もうすぐで終わるのだと悟り、外で待つことにした。

体育館の壁に寄りかかると、少し伸びた雑草が足元をくすぐる。

ふーっと息を吐き、昼間とは違う色の空を見上げた。

「さっきの私か……」

里美くんの言葉が脳裏をよぎり、空に向かってぽつりと呟いた。

言われてみれば、学校の中で相手の色を見ずに自分の感情のまま笑ったりしたのは、久しぶりかもしれない。里美くんに誘導されてしまったというのもあるけれど、色が見えるようになってからは、家族以外で初めてだ。

千穂や菜々子と一緒にいて楽しいと思う気持ちは本物だけれど、常に相手の気持ちを考えて発言してしまうのも事実。相手の色を見てからでないと、怖くて何も言えなくなるから。

けれど里美くんが相手だと、見えないからこそ何も考えずに言うしかなかった。

不安が九割だったけれど、残りの一割は、正直ちょっとだけ……楽しかったかも。

でも、今日はたまたま上手くいっただけかもしれないから、これからも里美くんと話す時は気をつけて、よく表情を見ないと。

それから旗制作も進めよう。まずは明日デザインを決めて、二日くらいで下描きでしょ、それで今週中にはある程度色塗りまでいけたらいいな。

バスケ部の声を背に、今後の計画をなんとなく頭の中で組み立てながら、うっすら残っていた空の明かりが消えていくのを、少しの間見届けた。