お弁当を食べ終えて片付けをしていると、一番前の席で話をしている女子の色が目についた。
大人しく、控え目な印象の椎名さんの席の横に立っているのは、クラスでも目立っている陽キャタイプの松田陽菜香。
あまり親しくないふたりが話しているのは珍しいけれど、それよりも気になるのは陽菜香の色だ。うっすら色づいている赤が、じわじわと濃くなっていくのが分かる。
反対に、椅子に座っている椎名さんの色は、黒に近い灰色一色。さっき見た千穂や菜々子の薄雲のような灰色とは違う、どんよりとした黒雲だ。
対照的なふたりの色を見ているだけで、胸がざわついた。
クラスメイトそれぞれ見える色は違うけれど、大抵はそこまで気にならない。でも、赤は駄目だ。赤は見逃せない。
心の中で渦巻く怒りの感情は、とても厄介だ。最初は少し不機嫌なだけだったのが、いつの間にか大きな怒りや不快感に変わり、いじめにつながることだってある。その矛先が私に向かう可能性だってゼロじゃない。
だから揉め事は極力回避したいし、みんなが笑って仲良く過ごせるクラスであってほしい。それができるのは、感情が見える私だけだ。
私がみんなの気持ちを考えて、みんなのために行動する。この五ヶ月は、そんな決意を胸に過ごしてきた。だから、今見えている陽菜香の赤も放っておけない。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
千穂と菜々子にそう告げて立ち上がった私は、一番うしろの窓際からふたつ隣にある自分の席に弁当箱を置いて、そのまま椎名さんの席にゆっくりと近づいた。
「なんで?」
決して大きくはないけれど、これまで聞いたことのない陽菜香の低い声に動揺して、思わず足が止まる。
でも大丈夫。私には見えるんだから、間違えたりしない。そうやって言い聞かせ、心を落ち着かせた。
「他に頼める人がいないから椎名さんにお願いしてるんだけど」
「でも、あの……」
「お願いって言ってるじゃん」
内容は分からないけれど、陽菜香は椎名さんに何か頼み事をしているようだ。
反対に、背中を丸めている椎名さんは、どうしていいのか分からず不安を抱いているように見える。灰色も、さっきよりずっと濃い。
「マジで時間ないんだけど、お願いできない?」
陽菜香の声色には苛立ちがもろに含まれていて、どう考えてもお願いする立場の口調だとは思えなかった。
でも、もしここで私が『もっとちゃんとお願いしなよ』とか『言い方がよくないよ』 なんてことを言ってしまったら、陽菜香のまわりに見える赤は、ますます燃えるように色濃くなってしまうことは確かだ。
だから、そんな空気の読めない発言は絶対にしない。
静かに息を吸い込んだ私は、椎名さんの席の前に立った。
「陽菜香、どうかしたの?」
できるだけ自然に、何げなく声をかけた。
「あっ、花蓮。ちょっと今、椎名さんに頼んでて」
陽菜香は細めた目をちらりと椎名さんに向けた。陽菜香が手に持っているのは、二冊の本だ。
「実はこれ、もう二週間くらい返し忘れててさ、今さら自分で行くの気まずいじゃん? それに私、昼休み終わっちゃう前に四組行かなきゃいけなくて。椎名さんていつも本読んでるから、図書室行くの慣れてるでしょ?」
明るく染めたゆるふわのロングヘアーを、陽菜香は指先でくるくるといじりながらそうこぼした。
なるほど。話が見えてきた。簡単に言えば、本を返しに行くのが面倒だから代わりに行ってほしいということだ。
東棟にある教室から渡り廊下を挟んで反対の西棟にある図書室に行くには、急いでも五分以上はかかる。貴重な昼休みを潰すのが、陽菜香は嫌なのだろう。
ふと視線を下げると、椎名さんの机の上にあるお弁当の中身は、半分ほど残っている。まだ食べ終わっていないのだから、自分の昼食の時間を割いてまで人の借りた本を返しに行く必要なんてない。だから椎名さんは断った。当然の権利だ。
陽菜香はお弁当の残りのことまで気づいていないようで、大人しい椎名さんに断られたのは想定外だったのかもしれない。だからムカついて、陽菜香の色は赤く染まっているんだ。
忘れていたのは自分なんだから、放課後に返しに行けばいいじゃないかと思う。でも陽菜香は、わざわざ遠い図書室に行って 自分の時間を無駄にしたくないのだろう。自分は嫌だけど他の子にはやらせるなんて、自分勝手でしかない。
でも、そんな正直な気持ちを私が口に出すことは、絶対にない。
だって、私が注意したところで言われた陽菜香は当然腹を立てるだろうし、椎名さんもきっと気まずい思いをする。もしかすると、これがきっかけで椎名さんがいじめられてしまう可能性だってある。それに、庇った私が嫌われてしまうかもしれない。
だから、正論を言ったところで問題は解決しない。自分がとんでもなく空気の読めない奴になって、余計に悪いほうへ向かってしまうだけだから。
この場合、穏便にふたりの色を変えるためには……。
「てか、椎名さんのお弁当美味しそうだね。ハンバーグ、私も大好きなんだ」
凍りついた空気を壊すように、できるだけ明るい声で私が言うと、顔を上げた椎名さんとは反対に、陽菜香はお弁当に視線を下げた。椎名さんのお弁当がまだ残っていることに、ようやく気づいたようだ。
「私これから美術室に行こうと思ってたから、ついでに図書室行って返してくるよ」
「え? いいの?」
「うん。ちょうど借りたい本もあるからさ、私が返してもいい?」
ただのついでだから、椎名さんを庇って陽菜香を悪者にするわけじゃない。私が行きたいから行く。むしろ行かせてくれというように、自ら願い出た。すると、陽菜香の赤色が一気に薄くなる。
「マジで? 花蓮ってほんと神かよってくらい、いつもタイミングいいよね。ちょ~助かるわ」
嬉しそうに本を渡してきた陽菜香は「サンキュー」と言って、今度はオレンジ色を浮かべながら弾むような足取りで教室を出た。
「あの、雨沢さん、ありがとう……」
申し訳なさそうに小さく頭を下げたけれど、椎名さんのまわりに見えていた灰色は少し薄くなり、そこにわずかな黄色が浮かんだ。
喜んでくれているのだと分かり、私は満足げに微笑む。
「全然気にしないで。だって、ただのついでだし」
安堵したのか、やっと少しだけ口角を上げてくれた椎名さんに、私は「早く食べないと昼休み終わっちゃうよ」と告げて、足早に教室をあとにした。
椎名さんにはそんなことを言ったけれど、昼休み終了まで十分を切っているのだから、私も急がないと。
今いる東棟四階から一度三階に下り、渡り廊下を進んで急いで西棟へ向かう。
うちの学校は学年が上がるごとに教室の階が下がるため、一年生は毎朝最上階の四階まで階段を上がらなければいけない。その上、特別教室がある反対側の校舎へ行くための渡り廊下は、二階と三階にしかない。
つまり総合すると、一年生は教室の移動がとてつもなく面倒だし、疲れるということだ。
だからか、菜々子は移動教室のたびに、『この校舎の造り、一年生に不利すぎない? 修行かよ!』と、しょっちゅう愚痴をこぼしている。その隣で千穂が余裕の笑みを浮かべ、私は内心ひーひー言いながらもふたりに気を使わせないように笑う。――というのが、いつもの私たちの光景だ。
西棟三階に着くと、額に滲んだ汗をいったんハンカチで拭った。
九月も下旬に入ったけれど、日中の気温はまだまだ夏を引きずっていて暑い。
息を整えてから再び四階へ上がり、一番奥の図書室に入った瞬間、エアコンの涼しさに包み込まれた。無意識に「はぁ~」と幸せな声が漏れる。
とはいえ、のんびりはしていられない。図書室の時計を確認すると、チャイムが鳴るまであと三分。
借りたい本もあると言ったけれど、そんなものはない。本を返却した私は〝行こうと思っていた〟と陽菜香に告げたはずの美術室も素通りして、教室に戻るため足早に歩いた。
なぜあんな嘘をついたのか。それは当然、陽菜香を怒らせることなく椎名さんを助けるためだ。
せっかくこうしてみんなの色が見えるのだから、本音を言って嫌われるくらいなら、みんなの感情に合わせて笑ったり、嘘をつくほうがずっといい。
そう思っているはずの私の口から、なぜか自然とため息が漏れた。
渡り廊下の窓から中庭を見下ろすと、小走りで校舎に戻る女子生徒が数人見えた。明るい色を浮かべている彼女たちの、嘘のない笑顔と笑い声に、なぜか胸が痛む。
――私、何してんだろ……。
そんな疑問を抱いたとしても、楽しい高校生活を送るためには、本音を隠すのが正しいんだ。
そう自分に言い聞かせながら、東棟に入った。
廊下を歩きながらちらりと四組の様子をうかがうと、教室の後方に集まっている男女数人の中に、陽菜香の姿を見つけた。仲のいい友達が四組にいるのか、オレンジや黄色を広範囲にまき散らし、随分と盛り上がっている。
昔の私だったら、四組にいる陽菜香に直接、『喋ってるだけなら本返しに行けたよね』とか空気を読まずに言っていたと思う。だけど、今の私には無理だ。陽菜香の楽しそうな明るい色が見えてしまう私には、その空気を壊してまで本音を言うことなんてできない……。
本音を胸の奥底にしまい込んだ私は、苛立ちを無理やり抑えるように深呼吸をしてから、二組に戻った。
「あー、花蓮戻ってきた!」
教室に入るなり、菜々子が大きく手を振ってきた。私は乱れた息と感情を整えながら席に座る。
「陽菜香の本、返しに行ってあげたんでしょ?」
「うん。まぁね」
教室での会話が聞こえていたのか、近づいて来た菜々子が小声で私に耳打ちをすると、四組にいた陽菜香がご機嫌な色をまとって戻ってきた。
「ほんと、花蓮って優しいよね。本くらい自分で返しに行けばいいのに。てか、陽菜香もありがとうとかないのかな」
薄い赤を浮かべた菜々子は、私のために少し怒ってくれているようだ。素直な思いをいつでも口に出せる菜々子が羨ましい。
「別にいいよ。だって、ついでだし」
なんのついででもなかったけれど、あたり前のように私は嘘をつく。
「花蓮がそう言うならいいけどさ、あんまり優しすぎるとなんでも聞いてくれるって思われちゃうよ」
菜々子は口をへの字に曲げながら席に戻り、机に肘をついた。
私のためにそんなふうに言ってくれる気持ちが嬉しい。なんて思った瞬間、菜々子の前の席に座っている千穂がジッと私を見ていることに気づいた。
睨んでいるわけではないけれど、笑っているわけでもない千穂の空気に、薄い紫色が混ざる。疑いの色だ。でも、千穂を不快にさせるようなことや、疑われるようなことはしていない。間違ったことは何もしていないはずなのに。
「千穂、どうかしたの? もしかして、私の顔になんかついてる?」
不安を前に出さないよう、笑顔を貼りつけながらおどけたように聞いてみると、千穂は「別に、なんでもないよ」と前を向く。
なんだろう。気になるけれど、まさか私の秘密に気づいたなんてことはないだろうし……。
千穂の背中に少しだけ不安を覚え、膝の上にのせた自分の手をギュッと握ったタイミングで、予鈴が鳴った。
全員が着席して前を向くと、一番うしろの席に座っている私は、みんなの色を確認するように教室を見回した。そして、ある場所でピタリと視線を止めると、またもや自分の口から自然とため息がこぼれたことに気づく。
把握するのに三ヶ月以上かかったけれど、色について分かった今、どんな時もみんなの気持ちを考え、優先し、時には先回りしてクラスの平穏を築いてきた。
人の心は弱くて脆い。どんなに相手のことを思っていても、気持ちが分からないだけで誤解が生まれる。言葉を少し間違えただけで、昨日まで仲がよかった相手との関係が、いとも簡単に壊れてしまう。
だから、相手の感情が分かるというのは最強だ。どんな子の感情にも寄り添ってあげられるし、嫌われることもない。たとえ本音を隠していたとしても、このままいけば私の高校生活は安泰。なんの問題もなく楽しく過ごすことができる。
そう思っているのだけれど……。
ひとりだけ、この学校でたったひとりだけ、私には苦手な生徒がいる――。
「蒼空~! 今日暇? 暇だよな? ちょっとつき合ってほしいとこがあんだけど、いいよな?」
窓際の一番前の席に駆け寄ったのは、矢野俊太。寝ぐせなのかパーマなのか分からない、微妙にうねった赤茶色の髪。愛嬌のある笑顔を見せている彼は、クラスのムードメーカーで間違いない。とにかくいつもテンションが高く、誰にでもフレンドリーで口調も軽くてちょっとチャラい。
私は色を見て空気を読んでいるけれど、矢野くんの場合は本能的にみんなの空気を明るくできる力を持っているみたいだ。
教室がシーンと静まり返った時なんかも、最初に喋り出すのは決まって矢野くんで、クラスを盛り上げることができる。たまに今は笑う場面じゃないよという時でも面白おかしくしようとするから、ちょっとハラハラすることもあるけれど。
とにかく矢野くんは、根っから明るい性格だ。彼の色はだいたいいつもオレンジか黄色なので、無理してテンションを上げているふうでもない。
問題があるのは、そんな矢野くんが話しかけている相手、里美蒼空 のほう。
「お前さ、俺が暇って決めつけてるだろ」
「だって暇だろ?」
「勝手に決めんなよな。まぁ、暇だけど」
「ほら~、蒼空は俺のことが大好きだから、断わらないと思ってたよ~」
抱きつくふりをした矢野くんの体を、里美くんが両手を伸ばして思いきり拒否をした。
「暑いんだから近づくな。俺から離れろ」
「そんなこと言っちゃって、嬉しいくせに」
矢野くんの色は、変わらず鮮やかなオレンジだ。楽しんでいるのが伝わってくるのに、里美くんのほうは同じように楽しんでいるのか、それとも本気で嫌がっているのか分からない。
なぜなら里美くんのまわりには、色がないから――。
この学校の生徒や先生、私には全員の色が見えるのに、入学からずっと里美くんだけが唯一見えない。だから私は、里美くんが何を考えているのか分からなくて怖い。
高い鼻と大きくて涼しげな目、窓から差す日差しによって明るさが増したさらさらの髪。私の席から時々見える里美くんの横顔は非の打ちどころがないほど整っていて綺麗で、女子に人気があるのも頷ける。
でも、私は苦手だ。表面上は笑っている里美くんだけど、内心どう思っているのか、感情がまったく見えないから。
「なになに、里美くん今日暇なの?」
高い声を出しながら里美くんの席に近づいた陽菜香の色は、明るいオレンジの中にピンクが混ざっている。ピンクは相手に好意を抱いている時に現れる色なので、陽菜香は里美くんに惹かれているということになる。というか、色が見えないとしても、陽菜香は積極的だから分かりやすいけど。
「たまには私とも遊んでよ」
「嫌だ」
そんな陽菜香の誘いを、里美くんは間髪入れずに断った。
「さっき暇って言ってたじゃん」
「うん。暇だから俊太とは遊ぶけど、松田とは遊びたくない」
「ひど~い! だったらせめてメッセージのアカウント交換しようよ。いい加減教えてくれてもよくない?」
陽菜香がスマホを握りしめながら里美くんに詰め寄る。そろそろ本鈴が鳴る頃なので、全員が席についてその光景を見ている状態だ。
里美くんは陽菜香に目もくれず、自分のスマホをいじりながら「無理」と、たったひと言で陽菜香の要求を拒否した。
里美蒼空の、こういうとんでもなく空気が読めないところも私は苦手だ。
言いたいことはなんでも口に出すし態度にも出る。めちゃくちゃ明るく笑っているかと思えば、急に冷たい態度を取る時もあって、それがギャップだとかなんとかで女子からは人気があり、裏表のない性格で男子からも慕われているらしい。
でもそんなの、私からすればただの空気の読めない自由人でしかない。相手のことなんて一ミリも考えずに好き勝手な言動をしているのに、どうして里美くんは気にならないのか。
今だってそうだ。気になる人を遊びに誘うのも、メッセージのやり取りがしたいと言うのも、女子にとってはきっと勇気がいることのはず。それなのに、一刀両断された陽菜香がどんな気持ちになるのかを、考えないのだろうか。実際、陽菜香には少しだけ赤が浮かんでいる。
まわりの空気を悪くしても、相手を怒らせたとしても、空気を読まずに言いたいことを言えるのはなんで? 人気者だから何を言っても最終的には笑って済ませられるし、嫌われることはないから?
というか多分、里美くんは相手の反応をまったく気にしないんだ。私と正反対で、嫌われてもいいと思っているのかもしれない。
だけどそんなのは、みんなの気持ちを考えないただの自分勝手で、ずるい。ずるくて、羨ましくて……嫌いだ。
「蒼空のことは諦めるんだな。こいつは俺のことが好きで好きでたまらないんだよ。他の女が入る隙間なんてこれっぽっちもないのさ」
「やめろよ俊太。変な噂が立ったらどうすんだよ」
矢野くんがふざけると、里美くんはそう言って笑った。それにつられるように笑った陽菜香からはすっかり赤色が消えていて、他のクラスメイトからもクスクスと笑いが漏れる。
溢れそうになる感情を静かに落ち着かせた私は、そんな里美くんに改めて訝しげな視線を送った。
この学校で、私と同じ中学出身の生徒はひとりもいない。いない学校をあえて選んだのだからあたり前だ。
でも実は、里美くんとは小学校が一緒で、五年生の時に同じクラスになったことが一度だけあるのだけれど、当時からこんなに空気が読めない人だっただろうか。
もう五年も前のことで、しかも里美くんは一学期の終わりで転校してしまったから、一緒の教室で過ごしたのはたったの四ヶ月程度。だから正直よく覚えていないし、どうやら里美くんも私のことは覚えていないみたいだ。
「ほらー、席につけ」
本鈴の少しあとに、担任が教室へ入ってきた。
教室には、今のところ明るい色ばかりが浮かんでいる。だけど里美くんの色は、やっぱり何も見えない。
心から楽しんでいるのか、それとも内心はつまらないと思っているのか分からないけれど、今まで通り里美くんとは極力かかわらないようにしよう。というか、かかわりたくない。
そう思いながら、私は里美くんから目を逸らした。
今日のロングホームルームでは、体育祭について色々と話し合うことになっている。
学級委員二名と、事前に立候補で決定していた体育祭実行委員二名が前に出る。そして、大縄と綱引き、借り物競争に出る生徒を分けるため、誰がどの競技に出るかなどを決めた。
全員リレーは文字通り全員参加なので、走る順番はタイムを計ってから決めることになった。
ちらりと左に顔を向けると、どんよりとした色をまとった菜々子が私のほうを見て、不服そうに唇を尖らせた。そんな菜々子に対して、私は「頑張ろう」と口パクで伝える。
「じゃあ、次はクラス旗係を決めたいと思います。クラス旗のデザインを決めて制作してもらう係です。立候補はいますか?」
実行委員の男子の言葉が響くと、教室の中が一瞬にして静まり返った。さっきまで騒いでいた男子グループも、騒々しさに紛れて関係のない話で盛り上がっていた女子たちも全員、口を閉じて視線を下げる。
授業中、難しい問題を当てられたくなくて目を逸らすそれと同じだ。分かりやすすぎる。感情の色が見えなかったとしても、みんなの『やりたくない』という気持ちが静寂の中に表れていた。
生徒会や委員会の代表ならまだしも、高校一年の体育祭でクラス旗係をやったからといって、内申がよくなるとか特別な恩恵を受けられるわけじゃない。
おまけに使うのは体育祭の当日だけ。しばらく教室に飾られたとしても、いつの間にか捨てられてしまうような儚いものだ。だから私も、みんなと同じで旗制作なんて正直面倒なだけだと思っている。
「誰かいませんか?」
実行委員がもう一度声をかけるけれど、視線を別の方向へ向けたまま誰も応えない。
放課後残って作成しなければならないのだから、まず部活動が忙しいと不可能だ。部活に入っていないとしても、塾やら習い事で忙しい場合も同じ。あとは、単純に遊びたいという場合も。
比較的明るい色で満たされていた教室が、リレーに対する菜々子の心情と同じような暗い色に変わっていく。
「お前やれよ。暇じゃん」
「めんどくせ~」
「絵が上手い子がやればいいのに」
「私運悪いから、くじ引きだけは絶対勘弁してよね」
教室のあちこちから嫌な色が生まれ、広がっていく。中には大人しそうなクラスメイトの名前を出して「あいつならやってくれそうじゃん」と、わざと聞こえるように言う奴まで出てきた。全員から目を逸らされる実行委員も気の毒だ。
私は絵が上手いわけじゃないし、それに放課後は菜々子と遊びに行ったり、家でダラダラしながらアニメを見たり音楽を聴いたりしたい。放課後残って作業とか、絶対に面倒くさい。
でも……。
――最悪。
私は、誰にも聞こえないほど小さなため息をつく。そして、右手を上に伸ばした。
「私、やります」
クラスメイト全員の視線が、うしろの席に座っている私に集まった。次いで、安堵と喜びの色が波紋のように広がる。
前に出て進行している実行委員と学級委員を包む空気も、パッと晴れた。
「おぉ! 雨沢さんありがとう」
そう言って実行委員が手を叩くと、安堵感が溢れ出ているクラスメイトからも、拍手が沸き起こった。選挙にでも当選したかのような気分だ。
「さすが花蓮、頼りになる」
誰かがそう言った。こんな時だけ持ち上げられても嬉しくないけれど、クラスの空気を読んで立候補するしかなかった。
本当はやりたいわけじゃない。でも、心配してくれている千穂と菜々子に、大丈夫だよと伝えるように口角を上げる。
幸い私は部活に入部していないし、人気があって放課後は多くの友達から引く手あまたというわけでもない。それに絵は上手いというわけじゃないけれど美術は好きだし、やってみたら意外と楽しいかも。
などと無理やり自分を納得させていた私は、続けて実行委員が発した言葉に、頭から抜け落ちていた肝心なことを思い出した。
「えっと、じゃあもうひとり、誰かやってくれる人はいませんか?」
しまった。クラス旗係は二名だった……。
さっきだって誰も手を挙げなかったんだから、私以外に引き受けてくれる人なんているわけない。
本当は千穂か菜々子に一緒にやってほしいけれど、千穂は部活が忙しいし、菜々子も係とかはやりたくないとずっと言っていたから無理には頼めない。それに何より、嫌われたくないから、ふたりには絶対に言えない。
だから私は、あえてふたりのほうを見ないようにした。
クラスの空気がまたじわじわと悪くなってくるのを感じた私は、前を向いたままもう一度手を挙げる。
「あの、私ひとりでもいいですよ。部活もやってないし、暇だから」
ヘラヘラと笑ってみせると、助かったと言わんばかりに安心しているクラスメイトの中で、ひとりだけ真顔でこっちを見ている生徒がいた。里美くんだ。
真っ直ぐに私を見ている目が何を言いたいのか、何を考えているのかまったく分からなくて、私はすぐにその視線から逃げた。
「ひとりは駄目だぞ。話し合ってちゃんと決めなさい」
生徒たちの自主性に任せるためか、ずっと黙っていた担任の佐藤先生が、ひと言だけ口を挟んだ。
――空気読んでよ、先生!
そう訴えたけれど心の声が届くはずもなく、サッカー部顧問で体育教師の佐藤先生は大きな背中を丸め、手に持っている書類に再び目線を落とした。
「誰かいませんか。いないとなると、くじ引きになりますが……」
言いにくそうに実行委員が口を開くと、教室のあちこちから「絶対やだ」「最悪」「誰かやれよ」と、不満が湧いた。
明るい色が再びどんよりとした色に支配され、どんどん空気が悪くなっていく。
みんなは見えないからいいけれど、私の目には教室の空気が悪いウィルスか何かに汚染されているかのように映って、気分が悪い。
お願いだから、もう誰でもいいから手を挙げて!
念を送るように眉根に力をこめると、スッと一本の腕が伸びた。
「俺、やるわ」
救世主! やっと嫌な空気から解放され……――。
「えっ……」
手を挙げた人物を見て、思わず声が出してしまった。
いや、ちょっと待ってよ。確かに誰でもいいって思ったけど、そうじゃなくて。
「ありがとう、里美」
心の底から助かったと言いたげに、揃って愁眉を開いた実行委員と学級委員。それとは対照的に、私の眉間のしわは深くなる。
違う! 誰でもいいっていうのは、里美くん以外ならってことなんだけど!
私の焦りとは裏腹に、安堵するクラスメイトたち。教室の空気も少しずつ明るい色に戻っていくのが分かる。
色が見えない里美蒼空。彼だけは、絶対に嫌だったのに……。
クラス旗制作を一緒にやるということは、里美くんと一緒にいる時間も必然的に長くなるということ。最悪だ。
色が、感情が見えない里美くんと話すのは、間違った言葉を言ってしまいそうで怖い。何か変なことを口走ってしまって、里美くんに誤解を与えて、嫌われて、それがクラス中に広がったら?
里美くんは人気者だから、みんな彼の味方になるに決まっている。そしたら私はひとりぼっちだ。千穂も菜々子も、みんな私から離れていく。空気が読めない奴だって思われて、嫌われてしまう。
里美くんと一緒にやるくらいなら、辞退したほうがいいのかもしれない。でも、そうすると今度は『自分からやるって言ったくせに』と不満が出て、それこそ嫌われてしまう。そんなの駄目だ。
となると、今みんなはほとんどが明るい安心したような色に戻っているから、えっと、この場合、どんなことを言うのが正解で、どうしたら空気を壊さずに済ませられるだろう……。
「え~!? 里美くんが立候補するなら私もやろっかな~」
私が必死に思考を巡らせていると、陽菜香が両手を机について立ち上がった。
ハッと顔を上げた私は、その手があったかと陽菜香に熱い眼差しを送る。
さっきは誰も立候補しなかったからしかたなく私が手を挙げたけれど、相手が里美くんなら一緒にやりたいという女子もいるはず。
陽菜香の色は相変わらずピンクが多くて、だけどそこに少しだけ赤も混ざっている。この赤は、私に対する赤だろうか。きっと、係を自分に譲れという感情だ。
もちろん、喜んでそうさせてもらいます。
「あの私、代わ――」
「嫌だね」
陽菜香に『代わろうか』と言おうとした私の言葉を、里美くんが遮った。
そして、
「松田がやるなら俺はやらない。でも雨沢がやるなら俺もやる」
とんでもなく空気の読めない発言をした……。
最悪、ほんと最悪。どういう意図なのか知らないけど、そんなことを言ったら陽菜香がどう思うかなんて誰でも分かるのに!
「え~なんでよ! どうして私は駄目で花蓮ならいいの!?」
案の定、陽菜香の赤が濃くなっていく。ピンクに濃い赤がぐるぐる混ざり合って、嫉妬の色になった。
「今の発言、聞き捨てならないなぁ。俺の蒼空が他の女に取られちゃうのかよぉ」
ガタンと椅子の音を大きく鳴らして立ち上がった矢野くんが、「ぴえん」と言いながら自分の指で涙ポーズを作ると、「古い」と誰かが言って、どっと笑いが起きた。里美くんも「気持ち悪りー」と笑っている。
だけど、陽菜香は笑っていなかった。それから、陽菜香と仲のいいグループの女子数名にも、陽菜香の嫉妬の色が伝染している。
ちらりと私に視線を向けた陽菜香の目が怖くて、私はうつむいた。
陽菜香の気持ちを汲んで私が辞退したら、里美くんもやらないと言う。そうなれば、せっかく決まりかけていたのに、また振り出しに戻って他のクラスメイトから不満が出てしまう。だけど私が引き受けたら里美くんと一緒にやることになって、陽菜香や隠れ里美くんファンの反感を買うことになる。
私はいったい、誰の気持ちを一番に考えたらいいんだろう。みんなが嫌な気持ちにならずに済むには、誰の気持ちを優先させれば……。
「松田は本当にクラス旗係がやりたいのかよ」
そう呟くように言ったのは、里美くんだ。
「や、やりたいよ。もちろん」
「じゃあ俺はやめるから、雨沢と松田でやれよ」
「えっ!? いや、それは違うでしょ。そんなの嫌だよ。だったら私やらないし」
「さっきは係やりたいって言ったのに、おかしくね?」
里美くんは確かに間違ったことは言っていないけれど、嫌われたらどうしようという不安はやっぱり微塵もないのだろうか。私なら、絶対にそんなこと言えない。
クラスの空気がどんどん悪化している中で「あのさー」と、手を挙げながら矢野くんが立ち上がった。
「蒼空も結構適当なとこあるし、俺はしっかりしてる雨沢がやったほうが安心だけどなー」
「ちょっと矢野、何言ってんの!? 私だってちゃんとやれるし!」
「いや、松田はただ蒼空と一緒に係をやりたいだけでしょ? ここにいる全員が分かっていることだと思うけど」
その瞬間、陽菜香の怒りの矛先が矢野くんに移った。
正論だ。そう言わんばかりに無言で頷いているクラスメイトが多数いる中、濃い赤色を浮かべた陽菜香は矢野くんを睨む。
「しっかり者の雨沢が一緒なら、さすがに蒼空もサボらないだろうし。まぁ、普段適当な蒼空でも、いないよりは雨沢の役に立つっしょ」
「おい、どういう意味だよ」
里美くんがそう突っ込んでから笑顔を見せると、どういうわけかつられてみんなも笑った。
「雨沢は、それでどうよ」
「あっ、うん。私は、みんながそれでいいなら……」
矢野くんに聞かれた私は、みんなのまわりに見える色を見回した。陽菜香はまだあまり納得していないようだ。
「でも正直、ひとりでも本当に全然大丈夫だから、忙しい時は無理して放課後残らなくてもいいからね」
里美くんはいなくてもいい、里美くんが係になったのは私の意思ではないし、私が望んだわけじゃない。それだけは陽菜香に分かってもらいたくて、そうつけ足した。
もちろん、ひとりのほうがやりやすいし気楽だというのは本心だ。
「花蓮いいなぁ~。ま、でもなんだかんだ言って里美くん真面目にやらなそうだし、私も放課後残るとか正直だるいから、いっかぁ」
普段、私が里美くんと話すことはほとんどないからか、ひとりでも大丈夫という言葉を信じてくれたのかもしれない。陽菜香の私に対する嫉妬はだいぶ薄れてくれたようで、ようやく少しだけ胸を撫で下ろす。
でも、里美くんと一緒にクラス旗を制作するという現実は、覆らない。
「ではクラス旗係は雨沢さんと里美くんということで、明日から制作のほう、よろしくお願いします。体育祭まであと二週間なので、練習もみんなで頑張りましょう」
実行委員の締めの言葉に拍手が起こり、何事もなく……とは言えないけれど、今度こそ無事決定して、クラスの空気ももとに戻った。
なんだかどっと疲れたな……。
「偉すぎるよ~。花蓮はマジで神だよ神」
机の上にぐったりと伏せた私の頭上に、菜々子が労いの言葉をかけながらポンと手を置いた。帰りのホームルームを終え、クラスメイトは次々と教室を出ていく。
「花蓮、本当にいいの?」
のそりと顔を上げると、荷物を持った千穂が心配そうに私を見下ろしていた。
気にかけてくれるふたりの気持ちが嬉しくて、私は机に預けていた体を起こす。
「全然大丈夫だよ。だって暇だし。それに絵を描くのは好きだから、やってみたいんだ」
嫌いではないけれど、本当はそこまで好きなわけじゃない。やってみたいという言葉も、嘘だ。
「手伝ってあげたいけど、部活があるからさ……」
「いいのいいの、気にしないで。部活頑張ってほしいし」
申し訳なさそうに眉を下げた千穂に、私は笑顔を見せながら両手を振った。
千穂と菜々子と三人で旗を作れたら楽しいだろうなって、本当は少しだけ思った。
意見がぶつかることがあっても、三人で過ごす放課後の色は鮮やかなオレンジや黄色で、きっと思い出に残る楽しい旗制作になると思うから。
「あたしって絶望的に絵が下手なんだけどさ、何かやれることがあったら手伝うから、遠慮なく言ってね」
「絶望的に下手なら、足手まといになるだけでしょ」
「むー。千穂は分かってないなぁ。あのね、絵は心なんだよ」
いつものふたりのやり取りに、私はまた笑みを浮かべる。
「ふたりともありがとう。何かあったらお願いね」
両手のひらを合わせてみせたけれど、私がふたりに手伝ってほしいと声をかけることは、多分ない。だって、迷惑をかけたくないから。大好きな友達だからこそ、煩わせたくない。面倒だと思われたくない。嫌われたくない。
「てか、花蓮と里美って組み合わせは、かなり新鮮だよね」
さりげなく千穂が出した名前に、私の体がピクリと反応を示した。悪い意味で。
そうだった。まずは里美くんのことをどうするか考えなきゃ。
里美くんの姿は教室にないので、もう帰ったのだろう。お互いだけど、『これからよろしく』とかの挨拶はもちろんなかった。
「あぁ、それね……。どうだろう。里美くんは謎だからなぁ。ひとりのほうが逆に楽だったりして」
「え? そうかな、里美くんって分かりやすくない?」
私の言葉に、そう言って人差し指を顎に当てながら斜め上に目線を向ける菜々子。
「確かに、あんな分かりやすい人そうそういないよ」
菜々子と千穂から予想外の言葉が返ってきたことに、私は驚いた。
色がない里美くんは私にとって唯一、何を考えているのか分からない人だ。でも、ふたりにとっては違うらしい。
「言いたいことハッキリ言うし、思ってることもろ顔に出るし、何も考えてなさそうで実はちゃんとまわりを見てるっぽいし」
極力かかわらないようにしていたからか、ハッキリ言う――ついでに空気が読めない――ところは同感だけど、色が見えないからか、 里美くんを分かりやすいと思ったことはなかった。だから、菜々子の言っている意味はよく分からない。
それに、表面だけで相手を判断して円満に過ごせるなら、誰も苦労はしない。嫌われることもないし、いじめだって起こらないはずだ。
でも実際は違う。どんなに仲がいい相手でも、どんなに笑っていても、心の中で感じている気持ちに気づけなければ、簡単に壊れてしまう。
『花蓮って、空気読めないよね』
ふと、思い出したくない言葉が頭をよぎったけれど、私はもうあの頃の私じゃない。
もう空気が読めないなんて言われることはないんだと、それを冷静にかき消した。
大人しく、控え目な印象の椎名さんの席の横に立っているのは、クラスでも目立っている陽キャタイプの松田陽菜香。
あまり親しくないふたりが話しているのは珍しいけれど、それよりも気になるのは陽菜香の色だ。うっすら色づいている赤が、じわじわと濃くなっていくのが分かる。
反対に、椅子に座っている椎名さんの色は、黒に近い灰色一色。さっき見た千穂や菜々子の薄雲のような灰色とは違う、どんよりとした黒雲だ。
対照的なふたりの色を見ているだけで、胸がざわついた。
クラスメイトそれぞれ見える色は違うけれど、大抵はそこまで気にならない。でも、赤は駄目だ。赤は見逃せない。
心の中で渦巻く怒りの感情は、とても厄介だ。最初は少し不機嫌なだけだったのが、いつの間にか大きな怒りや不快感に変わり、いじめにつながることだってある。その矛先が私に向かう可能性だってゼロじゃない。
だから揉め事は極力回避したいし、みんなが笑って仲良く過ごせるクラスであってほしい。それができるのは、感情が見える私だけだ。
私がみんなの気持ちを考えて、みんなのために行動する。この五ヶ月は、そんな決意を胸に過ごしてきた。だから、今見えている陽菜香の赤も放っておけない。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
千穂と菜々子にそう告げて立ち上がった私は、一番うしろの窓際からふたつ隣にある自分の席に弁当箱を置いて、そのまま椎名さんの席にゆっくりと近づいた。
「なんで?」
決して大きくはないけれど、これまで聞いたことのない陽菜香の低い声に動揺して、思わず足が止まる。
でも大丈夫。私には見えるんだから、間違えたりしない。そうやって言い聞かせ、心を落ち着かせた。
「他に頼める人がいないから椎名さんにお願いしてるんだけど」
「でも、あの……」
「お願いって言ってるじゃん」
内容は分からないけれど、陽菜香は椎名さんに何か頼み事をしているようだ。
反対に、背中を丸めている椎名さんは、どうしていいのか分からず不安を抱いているように見える。灰色も、さっきよりずっと濃い。
「マジで時間ないんだけど、お願いできない?」
陽菜香の声色には苛立ちがもろに含まれていて、どう考えてもお願いする立場の口調だとは思えなかった。
でも、もしここで私が『もっとちゃんとお願いしなよ』とか『言い方がよくないよ』 なんてことを言ってしまったら、陽菜香のまわりに見える赤は、ますます燃えるように色濃くなってしまうことは確かだ。
だから、そんな空気の読めない発言は絶対にしない。
静かに息を吸い込んだ私は、椎名さんの席の前に立った。
「陽菜香、どうかしたの?」
できるだけ自然に、何げなく声をかけた。
「あっ、花蓮。ちょっと今、椎名さんに頼んでて」
陽菜香は細めた目をちらりと椎名さんに向けた。陽菜香が手に持っているのは、二冊の本だ。
「実はこれ、もう二週間くらい返し忘れててさ、今さら自分で行くの気まずいじゃん? それに私、昼休み終わっちゃう前に四組行かなきゃいけなくて。椎名さんていつも本読んでるから、図書室行くの慣れてるでしょ?」
明るく染めたゆるふわのロングヘアーを、陽菜香は指先でくるくるといじりながらそうこぼした。
なるほど。話が見えてきた。簡単に言えば、本を返しに行くのが面倒だから代わりに行ってほしいということだ。
東棟にある教室から渡り廊下を挟んで反対の西棟にある図書室に行くには、急いでも五分以上はかかる。貴重な昼休みを潰すのが、陽菜香は嫌なのだろう。
ふと視線を下げると、椎名さんの机の上にあるお弁当の中身は、半分ほど残っている。まだ食べ終わっていないのだから、自分の昼食の時間を割いてまで人の借りた本を返しに行く必要なんてない。だから椎名さんは断った。当然の権利だ。
陽菜香はお弁当の残りのことまで気づいていないようで、大人しい椎名さんに断られたのは想定外だったのかもしれない。だからムカついて、陽菜香の色は赤く染まっているんだ。
忘れていたのは自分なんだから、放課後に返しに行けばいいじゃないかと思う。でも陽菜香は、わざわざ遠い図書室に行って 自分の時間を無駄にしたくないのだろう。自分は嫌だけど他の子にはやらせるなんて、自分勝手でしかない。
でも、そんな正直な気持ちを私が口に出すことは、絶対にない。
だって、私が注意したところで言われた陽菜香は当然腹を立てるだろうし、椎名さんもきっと気まずい思いをする。もしかすると、これがきっかけで椎名さんがいじめられてしまう可能性だってある。それに、庇った私が嫌われてしまうかもしれない。
だから、正論を言ったところで問題は解決しない。自分がとんでもなく空気の読めない奴になって、余計に悪いほうへ向かってしまうだけだから。
この場合、穏便にふたりの色を変えるためには……。
「てか、椎名さんのお弁当美味しそうだね。ハンバーグ、私も大好きなんだ」
凍りついた空気を壊すように、できるだけ明るい声で私が言うと、顔を上げた椎名さんとは反対に、陽菜香はお弁当に視線を下げた。椎名さんのお弁当がまだ残っていることに、ようやく気づいたようだ。
「私これから美術室に行こうと思ってたから、ついでに図書室行って返してくるよ」
「え? いいの?」
「うん。ちょうど借りたい本もあるからさ、私が返してもいい?」
ただのついでだから、椎名さんを庇って陽菜香を悪者にするわけじゃない。私が行きたいから行く。むしろ行かせてくれというように、自ら願い出た。すると、陽菜香の赤色が一気に薄くなる。
「マジで? 花蓮ってほんと神かよってくらい、いつもタイミングいいよね。ちょ~助かるわ」
嬉しそうに本を渡してきた陽菜香は「サンキュー」と言って、今度はオレンジ色を浮かべながら弾むような足取りで教室を出た。
「あの、雨沢さん、ありがとう……」
申し訳なさそうに小さく頭を下げたけれど、椎名さんのまわりに見えていた灰色は少し薄くなり、そこにわずかな黄色が浮かんだ。
喜んでくれているのだと分かり、私は満足げに微笑む。
「全然気にしないで。だって、ただのついでだし」
安堵したのか、やっと少しだけ口角を上げてくれた椎名さんに、私は「早く食べないと昼休み終わっちゃうよ」と告げて、足早に教室をあとにした。
椎名さんにはそんなことを言ったけれど、昼休み終了まで十分を切っているのだから、私も急がないと。
今いる東棟四階から一度三階に下り、渡り廊下を進んで急いで西棟へ向かう。
うちの学校は学年が上がるごとに教室の階が下がるため、一年生は毎朝最上階の四階まで階段を上がらなければいけない。その上、特別教室がある反対側の校舎へ行くための渡り廊下は、二階と三階にしかない。
つまり総合すると、一年生は教室の移動がとてつもなく面倒だし、疲れるということだ。
だからか、菜々子は移動教室のたびに、『この校舎の造り、一年生に不利すぎない? 修行かよ!』と、しょっちゅう愚痴をこぼしている。その隣で千穂が余裕の笑みを浮かべ、私は内心ひーひー言いながらもふたりに気を使わせないように笑う。――というのが、いつもの私たちの光景だ。
西棟三階に着くと、額に滲んだ汗をいったんハンカチで拭った。
九月も下旬に入ったけれど、日中の気温はまだまだ夏を引きずっていて暑い。
息を整えてから再び四階へ上がり、一番奥の図書室に入った瞬間、エアコンの涼しさに包み込まれた。無意識に「はぁ~」と幸せな声が漏れる。
とはいえ、のんびりはしていられない。図書室の時計を確認すると、チャイムが鳴るまであと三分。
借りたい本もあると言ったけれど、そんなものはない。本を返却した私は〝行こうと思っていた〟と陽菜香に告げたはずの美術室も素通りして、教室に戻るため足早に歩いた。
なぜあんな嘘をついたのか。それは当然、陽菜香を怒らせることなく椎名さんを助けるためだ。
せっかくこうしてみんなの色が見えるのだから、本音を言って嫌われるくらいなら、みんなの感情に合わせて笑ったり、嘘をつくほうがずっといい。
そう思っているはずの私の口から、なぜか自然とため息が漏れた。
渡り廊下の窓から中庭を見下ろすと、小走りで校舎に戻る女子生徒が数人見えた。明るい色を浮かべている彼女たちの、嘘のない笑顔と笑い声に、なぜか胸が痛む。
――私、何してんだろ……。
そんな疑問を抱いたとしても、楽しい高校生活を送るためには、本音を隠すのが正しいんだ。
そう自分に言い聞かせながら、東棟に入った。
廊下を歩きながらちらりと四組の様子をうかがうと、教室の後方に集まっている男女数人の中に、陽菜香の姿を見つけた。仲のいい友達が四組にいるのか、オレンジや黄色を広範囲にまき散らし、随分と盛り上がっている。
昔の私だったら、四組にいる陽菜香に直接、『喋ってるだけなら本返しに行けたよね』とか空気を読まずに言っていたと思う。だけど、今の私には無理だ。陽菜香の楽しそうな明るい色が見えてしまう私には、その空気を壊してまで本音を言うことなんてできない……。
本音を胸の奥底にしまい込んだ私は、苛立ちを無理やり抑えるように深呼吸をしてから、二組に戻った。
「あー、花蓮戻ってきた!」
教室に入るなり、菜々子が大きく手を振ってきた。私は乱れた息と感情を整えながら席に座る。
「陽菜香の本、返しに行ってあげたんでしょ?」
「うん。まぁね」
教室での会話が聞こえていたのか、近づいて来た菜々子が小声で私に耳打ちをすると、四組にいた陽菜香がご機嫌な色をまとって戻ってきた。
「ほんと、花蓮って優しいよね。本くらい自分で返しに行けばいいのに。てか、陽菜香もありがとうとかないのかな」
薄い赤を浮かべた菜々子は、私のために少し怒ってくれているようだ。素直な思いをいつでも口に出せる菜々子が羨ましい。
「別にいいよ。だって、ついでだし」
なんのついででもなかったけれど、あたり前のように私は嘘をつく。
「花蓮がそう言うならいいけどさ、あんまり優しすぎるとなんでも聞いてくれるって思われちゃうよ」
菜々子は口をへの字に曲げながら席に戻り、机に肘をついた。
私のためにそんなふうに言ってくれる気持ちが嬉しい。なんて思った瞬間、菜々子の前の席に座っている千穂がジッと私を見ていることに気づいた。
睨んでいるわけではないけれど、笑っているわけでもない千穂の空気に、薄い紫色が混ざる。疑いの色だ。でも、千穂を不快にさせるようなことや、疑われるようなことはしていない。間違ったことは何もしていないはずなのに。
「千穂、どうかしたの? もしかして、私の顔になんかついてる?」
不安を前に出さないよう、笑顔を貼りつけながらおどけたように聞いてみると、千穂は「別に、なんでもないよ」と前を向く。
なんだろう。気になるけれど、まさか私の秘密に気づいたなんてことはないだろうし……。
千穂の背中に少しだけ不安を覚え、膝の上にのせた自分の手をギュッと握ったタイミングで、予鈴が鳴った。
全員が着席して前を向くと、一番うしろの席に座っている私は、みんなの色を確認するように教室を見回した。そして、ある場所でピタリと視線を止めると、またもや自分の口から自然とため息がこぼれたことに気づく。
把握するのに三ヶ月以上かかったけれど、色について分かった今、どんな時もみんなの気持ちを考え、優先し、時には先回りしてクラスの平穏を築いてきた。
人の心は弱くて脆い。どんなに相手のことを思っていても、気持ちが分からないだけで誤解が生まれる。言葉を少し間違えただけで、昨日まで仲がよかった相手との関係が、いとも簡単に壊れてしまう。
だから、相手の感情が分かるというのは最強だ。どんな子の感情にも寄り添ってあげられるし、嫌われることもない。たとえ本音を隠していたとしても、このままいけば私の高校生活は安泰。なんの問題もなく楽しく過ごすことができる。
そう思っているのだけれど……。
ひとりだけ、この学校でたったひとりだけ、私には苦手な生徒がいる――。
「蒼空~! 今日暇? 暇だよな? ちょっとつき合ってほしいとこがあんだけど、いいよな?」
窓際の一番前の席に駆け寄ったのは、矢野俊太。寝ぐせなのかパーマなのか分からない、微妙にうねった赤茶色の髪。愛嬌のある笑顔を見せている彼は、クラスのムードメーカーで間違いない。とにかくいつもテンションが高く、誰にでもフレンドリーで口調も軽くてちょっとチャラい。
私は色を見て空気を読んでいるけれど、矢野くんの場合は本能的にみんなの空気を明るくできる力を持っているみたいだ。
教室がシーンと静まり返った時なんかも、最初に喋り出すのは決まって矢野くんで、クラスを盛り上げることができる。たまに今は笑う場面じゃないよという時でも面白おかしくしようとするから、ちょっとハラハラすることもあるけれど。
とにかく矢野くんは、根っから明るい性格だ。彼の色はだいたいいつもオレンジか黄色なので、無理してテンションを上げているふうでもない。
問題があるのは、そんな矢野くんが話しかけている相手、里美蒼空 のほう。
「お前さ、俺が暇って決めつけてるだろ」
「だって暇だろ?」
「勝手に決めんなよな。まぁ、暇だけど」
「ほら~、蒼空は俺のことが大好きだから、断わらないと思ってたよ~」
抱きつくふりをした矢野くんの体を、里美くんが両手を伸ばして思いきり拒否をした。
「暑いんだから近づくな。俺から離れろ」
「そんなこと言っちゃって、嬉しいくせに」
矢野くんの色は、変わらず鮮やかなオレンジだ。楽しんでいるのが伝わってくるのに、里美くんのほうは同じように楽しんでいるのか、それとも本気で嫌がっているのか分からない。
なぜなら里美くんのまわりには、色がないから――。
この学校の生徒や先生、私には全員の色が見えるのに、入学からずっと里美くんだけが唯一見えない。だから私は、里美くんが何を考えているのか分からなくて怖い。
高い鼻と大きくて涼しげな目、窓から差す日差しによって明るさが増したさらさらの髪。私の席から時々見える里美くんの横顔は非の打ちどころがないほど整っていて綺麗で、女子に人気があるのも頷ける。
でも、私は苦手だ。表面上は笑っている里美くんだけど、内心どう思っているのか、感情がまったく見えないから。
「なになに、里美くん今日暇なの?」
高い声を出しながら里美くんの席に近づいた陽菜香の色は、明るいオレンジの中にピンクが混ざっている。ピンクは相手に好意を抱いている時に現れる色なので、陽菜香は里美くんに惹かれているということになる。というか、色が見えないとしても、陽菜香は積極的だから分かりやすいけど。
「たまには私とも遊んでよ」
「嫌だ」
そんな陽菜香の誘いを、里美くんは間髪入れずに断った。
「さっき暇って言ってたじゃん」
「うん。暇だから俊太とは遊ぶけど、松田とは遊びたくない」
「ひど~い! だったらせめてメッセージのアカウント交換しようよ。いい加減教えてくれてもよくない?」
陽菜香がスマホを握りしめながら里美くんに詰め寄る。そろそろ本鈴が鳴る頃なので、全員が席についてその光景を見ている状態だ。
里美くんは陽菜香に目もくれず、自分のスマホをいじりながら「無理」と、たったひと言で陽菜香の要求を拒否した。
里美蒼空の、こういうとんでもなく空気が読めないところも私は苦手だ。
言いたいことはなんでも口に出すし態度にも出る。めちゃくちゃ明るく笑っているかと思えば、急に冷たい態度を取る時もあって、それがギャップだとかなんとかで女子からは人気があり、裏表のない性格で男子からも慕われているらしい。
でもそんなの、私からすればただの空気の読めない自由人でしかない。相手のことなんて一ミリも考えずに好き勝手な言動をしているのに、どうして里美くんは気にならないのか。
今だってそうだ。気になる人を遊びに誘うのも、メッセージのやり取りがしたいと言うのも、女子にとってはきっと勇気がいることのはず。それなのに、一刀両断された陽菜香がどんな気持ちになるのかを、考えないのだろうか。実際、陽菜香には少しだけ赤が浮かんでいる。
まわりの空気を悪くしても、相手を怒らせたとしても、空気を読まずに言いたいことを言えるのはなんで? 人気者だから何を言っても最終的には笑って済ませられるし、嫌われることはないから?
というか多分、里美くんは相手の反応をまったく気にしないんだ。私と正反対で、嫌われてもいいと思っているのかもしれない。
だけどそんなのは、みんなの気持ちを考えないただの自分勝手で、ずるい。ずるくて、羨ましくて……嫌いだ。
「蒼空のことは諦めるんだな。こいつは俺のことが好きで好きでたまらないんだよ。他の女が入る隙間なんてこれっぽっちもないのさ」
「やめろよ俊太。変な噂が立ったらどうすんだよ」
矢野くんがふざけると、里美くんはそう言って笑った。それにつられるように笑った陽菜香からはすっかり赤色が消えていて、他のクラスメイトからもクスクスと笑いが漏れる。
溢れそうになる感情を静かに落ち着かせた私は、そんな里美くんに改めて訝しげな視線を送った。
この学校で、私と同じ中学出身の生徒はひとりもいない。いない学校をあえて選んだのだからあたり前だ。
でも実は、里美くんとは小学校が一緒で、五年生の時に同じクラスになったことが一度だけあるのだけれど、当時からこんなに空気が読めない人だっただろうか。
もう五年も前のことで、しかも里美くんは一学期の終わりで転校してしまったから、一緒の教室で過ごしたのはたったの四ヶ月程度。だから正直よく覚えていないし、どうやら里美くんも私のことは覚えていないみたいだ。
「ほらー、席につけ」
本鈴の少しあとに、担任が教室へ入ってきた。
教室には、今のところ明るい色ばかりが浮かんでいる。だけど里美くんの色は、やっぱり何も見えない。
心から楽しんでいるのか、それとも内心はつまらないと思っているのか分からないけれど、今まで通り里美くんとは極力かかわらないようにしよう。というか、かかわりたくない。
そう思いながら、私は里美くんから目を逸らした。
今日のロングホームルームでは、体育祭について色々と話し合うことになっている。
学級委員二名と、事前に立候補で決定していた体育祭実行委員二名が前に出る。そして、大縄と綱引き、借り物競争に出る生徒を分けるため、誰がどの競技に出るかなどを決めた。
全員リレーは文字通り全員参加なので、走る順番はタイムを計ってから決めることになった。
ちらりと左に顔を向けると、どんよりとした色をまとった菜々子が私のほうを見て、不服そうに唇を尖らせた。そんな菜々子に対して、私は「頑張ろう」と口パクで伝える。
「じゃあ、次はクラス旗係を決めたいと思います。クラス旗のデザインを決めて制作してもらう係です。立候補はいますか?」
実行委員の男子の言葉が響くと、教室の中が一瞬にして静まり返った。さっきまで騒いでいた男子グループも、騒々しさに紛れて関係のない話で盛り上がっていた女子たちも全員、口を閉じて視線を下げる。
授業中、難しい問題を当てられたくなくて目を逸らすそれと同じだ。分かりやすすぎる。感情の色が見えなかったとしても、みんなの『やりたくない』という気持ちが静寂の中に表れていた。
生徒会や委員会の代表ならまだしも、高校一年の体育祭でクラス旗係をやったからといって、内申がよくなるとか特別な恩恵を受けられるわけじゃない。
おまけに使うのは体育祭の当日だけ。しばらく教室に飾られたとしても、いつの間にか捨てられてしまうような儚いものだ。だから私も、みんなと同じで旗制作なんて正直面倒なだけだと思っている。
「誰かいませんか?」
実行委員がもう一度声をかけるけれど、視線を別の方向へ向けたまま誰も応えない。
放課後残って作成しなければならないのだから、まず部活動が忙しいと不可能だ。部活に入っていないとしても、塾やら習い事で忙しい場合も同じ。あとは、単純に遊びたいという場合も。
比較的明るい色で満たされていた教室が、リレーに対する菜々子の心情と同じような暗い色に変わっていく。
「お前やれよ。暇じゃん」
「めんどくせ~」
「絵が上手い子がやればいいのに」
「私運悪いから、くじ引きだけは絶対勘弁してよね」
教室のあちこちから嫌な色が生まれ、広がっていく。中には大人しそうなクラスメイトの名前を出して「あいつならやってくれそうじゃん」と、わざと聞こえるように言う奴まで出てきた。全員から目を逸らされる実行委員も気の毒だ。
私は絵が上手いわけじゃないし、それに放課後は菜々子と遊びに行ったり、家でダラダラしながらアニメを見たり音楽を聴いたりしたい。放課後残って作業とか、絶対に面倒くさい。
でも……。
――最悪。
私は、誰にも聞こえないほど小さなため息をつく。そして、右手を上に伸ばした。
「私、やります」
クラスメイト全員の視線が、うしろの席に座っている私に集まった。次いで、安堵と喜びの色が波紋のように広がる。
前に出て進行している実行委員と学級委員を包む空気も、パッと晴れた。
「おぉ! 雨沢さんありがとう」
そう言って実行委員が手を叩くと、安堵感が溢れ出ているクラスメイトからも、拍手が沸き起こった。選挙にでも当選したかのような気分だ。
「さすが花蓮、頼りになる」
誰かがそう言った。こんな時だけ持ち上げられても嬉しくないけれど、クラスの空気を読んで立候補するしかなかった。
本当はやりたいわけじゃない。でも、心配してくれている千穂と菜々子に、大丈夫だよと伝えるように口角を上げる。
幸い私は部活に入部していないし、人気があって放課後は多くの友達から引く手あまたというわけでもない。それに絵は上手いというわけじゃないけれど美術は好きだし、やってみたら意外と楽しいかも。
などと無理やり自分を納得させていた私は、続けて実行委員が発した言葉に、頭から抜け落ちていた肝心なことを思い出した。
「えっと、じゃあもうひとり、誰かやってくれる人はいませんか?」
しまった。クラス旗係は二名だった……。
さっきだって誰も手を挙げなかったんだから、私以外に引き受けてくれる人なんているわけない。
本当は千穂か菜々子に一緒にやってほしいけれど、千穂は部活が忙しいし、菜々子も係とかはやりたくないとずっと言っていたから無理には頼めない。それに何より、嫌われたくないから、ふたりには絶対に言えない。
だから私は、あえてふたりのほうを見ないようにした。
クラスの空気がまたじわじわと悪くなってくるのを感じた私は、前を向いたままもう一度手を挙げる。
「あの、私ひとりでもいいですよ。部活もやってないし、暇だから」
ヘラヘラと笑ってみせると、助かったと言わんばかりに安心しているクラスメイトの中で、ひとりだけ真顔でこっちを見ている生徒がいた。里美くんだ。
真っ直ぐに私を見ている目が何を言いたいのか、何を考えているのかまったく分からなくて、私はすぐにその視線から逃げた。
「ひとりは駄目だぞ。話し合ってちゃんと決めなさい」
生徒たちの自主性に任せるためか、ずっと黙っていた担任の佐藤先生が、ひと言だけ口を挟んだ。
――空気読んでよ、先生!
そう訴えたけれど心の声が届くはずもなく、サッカー部顧問で体育教師の佐藤先生は大きな背中を丸め、手に持っている書類に再び目線を落とした。
「誰かいませんか。いないとなると、くじ引きになりますが……」
言いにくそうに実行委員が口を開くと、教室のあちこちから「絶対やだ」「最悪」「誰かやれよ」と、不満が湧いた。
明るい色が再びどんよりとした色に支配され、どんどん空気が悪くなっていく。
みんなは見えないからいいけれど、私の目には教室の空気が悪いウィルスか何かに汚染されているかのように映って、気分が悪い。
お願いだから、もう誰でもいいから手を挙げて!
念を送るように眉根に力をこめると、スッと一本の腕が伸びた。
「俺、やるわ」
救世主! やっと嫌な空気から解放され……――。
「えっ……」
手を挙げた人物を見て、思わず声が出してしまった。
いや、ちょっと待ってよ。確かに誰でもいいって思ったけど、そうじゃなくて。
「ありがとう、里美」
心の底から助かったと言いたげに、揃って愁眉を開いた実行委員と学級委員。それとは対照的に、私の眉間のしわは深くなる。
違う! 誰でもいいっていうのは、里美くん以外ならってことなんだけど!
私の焦りとは裏腹に、安堵するクラスメイトたち。教室の空気も少しずつ明るい色に戻っていくのが分かる。
色が見えない里美蒼空。彼だけは、絶対に嫌だったのに……。
クラス旗制作を一緒にやるということは、里美くんと一緒にいる時間も必然的に長くなるということ。最悪だ。
色が、感情が見えない里美くんと話すのは、間違った言葉を言ってしまいそうで怖い。何か変なことを口走ってしまって、里美くんに誤解を与えて、嫌われて、それがクラス中に広がったら?
里美くんは人気者だから、みんな彼の味方になるに決まっている。そしたら私はひとりぼっちだ。千穂も菜々子も、みんな私から離れていく。空気が読めない奴だって思われて、嫌われてしまう。
里美くんと一緒にやるくらいなら、辞退したほうがいいのかもしれない。でも、そうすると今度は『自分からやるって言ったくせに』と不満が出て、それこそ嫌われてしまう。そんなの駄目だ。
となると、今みんなはほとんどが明るい安心したような色に戻っているから、えっと、この場合、どんなことを言うのが正解で、どうしたら空気を壊さずに済ませられるだろう……。
「え~!? 里美くんが立候補するなら私もやろっかな~」
私が必死に思考を巡らせていると、陽菜香が両手を机について立ち上がった。
ハッと顔を上げた私は、その手があったかと陽菜香に熱い眼差しを送る。
さっきは誰も立候補しなかったからしかたなく私が手を挙げたけれど、相手が里美くんなら一緒にやりたいという女子もいるはず。
陽菜香の色は相変わらずピンクが多くて、だけどそこに少しだけ赤も混ざっている。この赤は、私に対する赤だろうか。きっと、係を自分に譲れという感情だ。
もちろん、喜んでそうさせてもらいます。
「あの私、代わ――」
「嫌だね」
陽菜香に『代わろうか』と言おうとした私の言葉を、里美くんが遮った。
そして、
「松田がやるなら俺はやらない。でも雨沢がやるなら俺もやる」
とんでもなく空気の読めない発言をした……。
最悪、ほんと最悪。どういう意図なのか知らないけど、そんなことを言ったら陽菜香がどう思うかなんて誰でも分かるのに!
「え~なんでよ! どうして私は駄目で花蓮ならいいの!?」
案の定、陽菜香の赤が濃くなっていく。ピンクに濃い赤がぐるぐる混ざり合って、嫉妬の色になった。
「今の発言、聞き捨てならないなぁ。俺の蒼空が他の女に取られちゃうのかよぉ」
ガタンと椅子の音を大きく鳴らして立ち上がった矢野くんが、「ぴえん」と言いながら自分の指で涙ポーズを作ると、「古い」と誰かが言って、どっと笑いが起きた。里美くんも「気持ち悪りー」と笑っている。
だけど、陽菜香は笑っていなかった。それから、陽菜香と仲のいいグループの女子数名にも、陽菜香の嫉妬の色が伝染している。
ちらりと私に視線を向けた陽菜香の目が怖くて、私はうつむいた。
陽菜香の気持ちを汲んで私が辞退したら、里美くんもやらないと言う。そうなれば、せっかく決まりかけていたのに、また振り出しに戻って他のクラスメイトから不満が出てしまう。だけど私が引き受けたら里美くんと一緒にやることになって、陽菜香や隠れ里美くんファンの反感を買うことになる。
私はいったい、誰の気持ちを一番に考えたらいいんだろう。みんなが嫌な気持ちにならずに済むには、誰の気持ちを優先させれば……。
「松田は本当にクラス旗係がやりたいのかよ」
そう呟くように言ったのは、里美くんだ。
「や、やりたいよ。もちろん」
「じゃあ俺はやめるから、雨沢と松田でやれよ」
「えっ!? いや、それは違うでしょ。そんなの嫌だよ。だったら私やらないし」
「さっきは係やりたいって言ったのに、おかしくね?」
里美くんは確かに間違ったことは言っていないけれど、嫌われたらどうしようという不安はやっぱり微塵もないのだろうか。私なら、絶対にそんなこと言えない。
クラスの空気がどんどん悪化している中で「あのさー」と、手を挙げながら矢野くんが立ち上がった。
「蒼空も結構適当なとこあるし、俺はしっかりしてる雨沢がやったほうが安心だけどなー」
「ちょっと矢野、何言ってんの!? 私だってちゃんとやれるし!」
「いや、松田はただ蒼空と一緒に係をやりたいだけでしょ? ここにいる全員が分かっていることだと思うけど」
その瞬間、陽菜香の怒りの矛先が矢野くんに移った。
正論だ。そう言わんばかりに無言で頷いているクラスメイトが多数いる中、濃い赤色を浮かべた陽菜香は矢野くんを睨む。
「しっかり者の雨沢が一緒なら、さすがに蒼空もサボらないだろうし。まぁ、普段適当な蒼空でも、いないよりは雨沢の役に立つっしょ」
「おい、どういう意味だよ」
里美くんがそう突っ込んでから笑顔を見せると、どういうわけかつられてみんなも笑った。
「雨沢は、それでどうよ」
「あっ、うん。私は、みんながそれでいいなら……」
矢野くんに聞かれた私は、みんなのまわりに見える色を見回した。陽菜香はまだあまり納得していないようだ。
「でも正直、ひとりでも本当に全然大丈夫だから、忙しい時は無理して放課後残らなくてもいいからね」
里美くんはいなくてもいい、里美くんが係になったのは私の意思ではないし、私が望んだわけじゃない。それだけは陽菜香に分かってもらいたくて、そうつけ足した。
もちろん、ひとりのほうがやりやすいし気楽だというのは本心だ。
「花蓮いいなぁ~。ま、でもなんだかんだ言って里美くん真面目にやらなそうだし、私も放課後残るとか正直だるいから、いっかぁ」
普段、私が里美くんと話すことはほとんどないからか、ひとりでも大丈夫という言葉を信じてくれたのかもしれない。陽菜香の私に対する嫉妬はだいぶ薄れてくれたようで、ようやく少しだけ胸を撫で下ろす。
でも、里美くんと一緒にクラス旗を制作するという現実は、覆らない。
「ではクラス旗係は雨沢さんと里美くんということで、明日から制作のほう、よろしくお願いします。体育祭まであと二週間なので、練習もみんなで頑張りましょう」
実行委員の締めの言葉に拍手が起こり、何事もなく……とは言えないけれど、今度こそ無事決定して、クラスの空気ももとに戻った。
なんだかどっと疲れたな……。
「偉すぎるよ~。花蓮はマジで神だよ神」
机の上にぐったりと伏せた私の頭上に、菜々子が労いの言葉をかけながらポンと手を置いた。帰りのホームルームを終え、クラスメイトは次々と教室を出ていく。
「花蓮、本当にいいの?」
のそりと顔を上げると、荷物を持った千穂が心配そうに私を見下ろしていた。
気にかけてくれるふたりの気持ちが嬉しくて、私は机に預けていた体を起こす。
「全然大丈夫だよ。だって暇だし。それに絵を描くのは好きだから、やってみたいんだ」
嫌いではないけれど、本当はそこまで好きなわけじゃない。やってみたいという言葉も、嘘だ。
「手伝ってあげたいけど、部活があるからさ……」
「いいのいいの、気にしないで。部活頑張ってほしいし」
申し訳なさそうに眉を下げた千穂に、私は笑顔を見せながら両手を振った。
千穂と菜々子と三人で旗を作れたら楽しいだろうなって、本当は少しだけ思った。
意見がぶつかることがあっても、三人で過ごす放課後の色は鮮やかなオレンジや黄色で、きっと思い出に残る楽しい旗制作になると思うから。
「あたしって絶望的に絵が下手なんだけどさ、何かやれることがあったら手伝うから、遠慮なく言ってね」
「絶望的に下手なら、足手まといになるだけでしょ」
「むー。千穂は分かってないなぁ。あのね、絵は心なんだよ」
いつものふたりのやり取りに、私はまた笑みを浮かべる。
「ふたりともありがとう。何かあったらお願いね」
両手のひらを合わせてみせたけれど、私がふたりに手伝ってほしいと声をかけることは、多分ない。だって、迷惑をかけたくないから。大好きな友達だからこそ、煩わせたくない。面倒だと思われたくない。嫌われたくない。
「てか、花蓮と里美って組み合わせは、かなり新鮮だよね」
さりげなく千穂が出した名前に、私の体がピクリと反応を示した。悪い意味で。
そうだった。まずは里美くんのことをどうするか考えなきゃ。
里美くんの姿は教室にないので、もう帰ったのだろう。お互いだけど、『これからよろしく』とかの挨拶はもちろんなかった。
「あぁ、それね……。どうだろう。里美くんは謎だからなぁ。ひとりのほうが逆に楽だったりして」
「え? そうかな、里美くんって分かりやすくない?」
私の言葉に、そう言って人差し指を顎に当てながら斜め上に目線を向ける菜々子。
「確かに、あんな分かりやすい人そうそういないよ」
菜々子と千穂から予想外の言葉が返ってきたことに、私は驚いた。
色がない里美くんは私にとって唯一、何を考えているのか分からない人だ。でも、ふたりにとっては違うらしい。
「言いたいことハッキリ言うし、思ってることもろ顔に出るし、何も考えてなさそうで実はちゃんとまわりを見てるっぽいし」
極力かかわらないようにしていたからか、ハッキリ言う――ついでに空気が読めない――ところは同感だけど、色が見えないからか、 里美くんを分かりやすいと思ったことはなかった。だから、菜々子の言っている意味はよく分からない。
それに、表面だけで相手を判断して円満に過ごせるなら、誰も苦労はしない。嫌われることもないし、いじめだって起こらないはずだ。
でも実際は違う。どんなに仲がいい相手でも、どんなに笑っていても、心の中で感じている気持ちに気づけなければ、簡単に壊れてしまう。
『花蓮って、空気読めないよね』
ふと、思い出したくない言葉が頭をよぎったけれど、私はもうあの頃の私じゃない。
もう空気が読めないなんて言われることはないんだと、それを冷静にかき消した。