第3章『あの日、あの場所で。』
私にお父さんはいない。
いや、正確には「今の私」にお父さんはいないと言うべきか。
かれこれもう四年も帰ってきていない。
目の前に広がる大海原から。
*
旅館で火事が起きた次の日。
私は昨夜の出来事が脳裏から離れず、眠りにつくことができなかった。
大事な旅館での火災、二本の足で立つ謎の猫小雪、突然降り出し突然やむ大雨、ドヤ顔を決め込む謎の猫小雪。
そして、私が遮ってしまった啓太の告白……と思われる話。
日の出と大体同じ早朝の時間。
私は着替えて海まで出てきた。
私は目の前に広がるこの海と綺麗なビーチが好き。
伊東の中でも一番好きって言っても良い場所かも知れない。
悩んだとき、苦しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、何かあったらいつもここへ来る。
だって、ここにはお父さんがいるから。
私のお父さんは、漁師と旅館の料理人との二足のわらじを履いていた。
私が小学二年生の時の冬、漁に出た父はその後急に荒れた海に打ち負かされ、二度と帰ってくることはなかった。
その一ヶ月後ぐらいに私は小雪との運命的な出会いを果たした。
依然として大海原で行方不明になった父の足跡はつかめていない。
生きているのか死んでいるのかさえ判然としない。
警察や知り合いの漁師さんたちも一生懸命探してくれたがその甲斐なく、父は当時着ていた衣服も船の一部分も私たちに渡してくれない。
それが母や祖父母や私が踏ん切りをつけられない大きな理由だ。
まだ警察が五十人態勢ほどで全力捜索してくれたとき、母は父の葬式を計画した。
もちろん、祖父母や父の知人からは「生きているかも知れないのに、葬式をするのはおかしい」と猛反発された。
しかし母は「これは弔うためのお葬式ではなくて、生きていることを神様仏様にお祈りするお経をお坊さんに唱えてもらう」と涙ながらに説得していたのを私はうっすらと覚えている。
母だって生きていることを信じたかったに決まっている。
旅館の大広間で遺体も遺骨も遺品もないお父さんの葬式が執り行われた。
白い祭壇には大きな魚を手に持って微笑む父の遺影と少々の果物が供えられた。
まだ小さかった私は状況を理解していなかったが、周りをまねしてただ手を合わせ、無心に「南無妙法蓮華経」とお題目を唱え続けていたのを思い返せる。
ただ、おばあちゃんが「たくさん食べな」と勧めてくれたお寿司の味だけは全く覚えていない。
微かに汗のようなしょっぱい味がした気がする。
お父さんの料理の腕は評判で、それをめがけてわざわざうちの旅館にいらっしゃるお客様も大勢いた。
そんなお父さんが大事にしていた厨房で火事があったなんて、お父さんに会わせる顔がない。
それから四年間私たちはずっとお父さんを待ち続けたが、一向に帰ってくる気配を感じない。
そして私は何かある度にお父さんがどこかにいると思われるこの海へやってくる。
――そんな頭の片隅に微かに残る昔話を呼び戻しながら、私は目の前の海を眺める。
早朝、人はほとんどいない。
ましてや、海パン水着姿の輩はもっといない。
広い砂浜にはただ波が押し寄せるときのざぶんという音だけが響く。
ぼーっとしていた私の視界に一人の人影が入り込む。
その人影は早朝から海パンで海に飛び込んだ。
そのバカは準備体操も何もしないで「寒い寒い」と声を荒げている。
私は無視するつもりだったが、あまりにもうるさいので仕方なく引き上げを手伝うことにした。
やがてのこのこと海から上がってきた啓太のそのアホ面を見て、私は笑ってしまった。
あくまでも彼はこんな性格だが、顔だけは良い。
しかし、唯一良いその顔も今は見るに堪えないほど寒さでゆがんでいる。
私は啓太に手を差し出して、体を起こそうとした。
でも、せっかくだからそれだけじゃつまらないと思い、握ったその手を離し、啓太の体は再度水しぶきを上げながら水の中へ入っていった。
そして、私は一言可愛く「バーカ」と言い残して戻ろうとした。
それが不器用な私なりの愛だった。
すると、後ろから冷たい水が飛んでくる。
啓太は私の行動に応戦するように、さらに私は啓太に応戦するように互いに水を掛け合った
小学生二人の弾けんばかりの笑顔が朝日に照らされてきらきら光る水面に映っていた。
日もどんどんと上昇し、海岸線を歩く人が増えてきたのと同時に、私たちのおなかは空腹を強く主張してきたので、一旦旅館に帰ることにした。
朝早くから水でびちょびちょに濡れた服を絞りつつ、海から陸へ上がろうとしたとき、私の足がもつれて転んだ。
少し先を歩く啓太がこっちを振り返り、手を差し伸べてくれた。
私がその手を離すまいとがっちり掴むと、啓太はさらに私の手を力強くがっちりと握った。
啓太の細い腕が私の体を引っ張り上げたとき、私はそのまま勢い余って前のめりに突っ込んだ。
私の上半身は啓太の胸板に飛び込み、顔が目と鼻の先まで近づいた。
いや、近づいただけではない。微かに唇に湿った柔らかい感触を感じた。
私は急いで啓太から離れ、身の安全を確保した。
腕の距離ほど開いた二人の間には沈黙と重たい空気だけが残った。
二人して赤く染まった顔を見つめ、何がおかしいのか分からないが、自然と笑いがこみ上げてきた。
「も、もしかして……
「そう、もしかしてかもね。……だけど」
私は喉の先まで出かかった言葉を一度飲み込み、考える。
今から言おうとしている言葉は私の本当の気持ちだ。
ここでしかもうチャンスはない。私は覚悟を決めた。
「私は……けいちゃんにだったらあげても良いよ」
「―っ、え? それって……」
言ってしまった。
後悔と遂に言えた嬉しさとが混ざり合ったよく分からない気持ちに襲われる。
脳内も体内も全てが何かぐるぐるしている感覚を感じる。
一応、確認しておこう。
今の時刻はまだ、朝ご飯も食べる前の早朝だ。
数秒考え直して、「何言ってるんだ、私は」と急激に恥ずかしくなってきた。
今思えば、小学生が言うような台詞ではなかった。
ドラマの見過ぎかも知れないと。
そう思うと、私と啓太の目の前を流れる沈黙が気まずくなってきた。
昨日から私はどれだけ気まずさと沈黙を生み出せば気が済むのだろう。
焦って、心の中での自分への下手なツッコみが多くなってきた。
そしてさらに訳が分からなくなっていく。
「……なんでもない。恥ずかしいから、さっきのなかったことにしてくれる? よーし、おなかすいたし、早く戻ろ」
自分が余計に恥ずかしくならないように口数が多くなるが、その姿が余計にイタかった。
私はさっさと旅館へ戻ろうとして海を背に足を回転させたが、何故か前に進まなかった。
反射的に海側に振り向くと、真剣な眼差しで私の右手を掴んだ啓太が見つめてきた。
私は改めて理解させられる目の前の男子の美貌と溢れんばかりのオーラに気圧されてしまった。
「なかったことになんてできないよ。菜月が良いって言ったんだからね。」
啓太はそう言うと、その後の行動は早かった。
整った顔が直視できないほどの距離に迫ってきたと思った瞬間には、もう私だけの唇はなかった。
あまりにも展開が早すぎて、私の頭では到底、状況把握が追いつかない。
残るのは、私の思いが肯定されたことと一歩大人に近づいたという事実だけ。
嬉しいような何というか分からない感情が心の中に渦巻く。
広い砂浜に一人私だけがぽつねんと置き去りにされる。
私の心も現実に追いつけずに、一人で右往左往と彷徨っている。
一方、啓太はすました顔をして、バイパスの方へ向けてずんずん歩いて行く。
少し進んだところで足を止め、こちらを振り返った。
そして、一呼吸おいてから、啓太は思いきって口を開いた。
「好きだよ、菜月」
私はその言葉を聞いた瞬間にふっと安心した。
ようやく、私の心の中で渦巻いていた謎の感情が嬉しさに安定してきた。
私の足は勝手に啓太の方へと走り出し、気づいた時には私たちの間に距離が全くなかった。
「――私も。私も好きだよ、啓太」
お互いの腕の中で私たちは、自分の心の内に潜めていた気持ちをすり合わせる。
散々空回りした結果、たどり着いた最高の答え。
だいぶ遠回りした気がするけど、今となってはそんなことどうだって良い。
私は啓太と二人でいる時間がとてつもなく愛おしかった。
1年ぶりの再会。
病院で共に生活していた頃よりも長い間会っていなかった二人だが、それまでの間お互いの存在がどれだけ大切だったのか少し理解できた気がする。
後から聞いた話によると、啓太は先に退院した私と外来なら早く再会できると思って治療を頑張ったらしい。
外来で会うことはなかったが、こうして偶然再会したことに私はただならぬ運命を感じた。
そして、私はこの幸せがずっと続くと思っていた。
ずっと啓太が、私の好きな人が隣に居続けてくれると思っていた。
私の思いが届き続いてほしかった。
*
午前10時過ぎ。
チェックアウトを済ませたお客様が続々と旅館を後にし、旅館はただの建物になりつつあった。
残る最終のお客様は和泉家だった。
私と母は外までお見送りにでた。
「また来てね。いつでもここにいるから」
「それ、昨日も聞いたよ」
啓太は笑みを浮かべた。
私には我慢して笑っているのがすぐに分かった。
だって、私もまた離ればなれになるのが寂しかったから。
せっかく両思いだったっていうのに伊東と浜松だと、会いたくなってもすぐには会いに行けない。
「あっ、そうだ。菜月にこれあげる」
そう言って近づいてきて啓太がポケットから取り出したのは、小さな貝殻だった。
それは今までに見たことがないくらい、きらきらと輝いていた。
「昨日、すごい綺麗だなって思って持ってたんだよ。でも菜月が大事に持っててくれた方が嬉しいな」
私は不意にドキッとした。
ただ何の変哲もない行動なのに、啓太が動いたり言葉を発したりするその一瞬一瞬がきらきらと輝いて見える。
全てに目を奪われてしまう。
これが恋をするっていうことなのかなと、長年の謎が解かれたような納得感を感じた。
しかし、小学生にはまだ恋と愛の違いが分からない。
私の手に貝殻を託し、遠く小さくなっていく啓太の背中を私は切なく思い、口が勝手に啓太を呼び止めた。
「啓太! これ、ありがとう。大事に持ってるね」
「うん。そうしてくれた方が嬉しい」
お互いの距離はそこまで開いてないはずなのに、何故かまた会話が続かない。
見つめ合う二人の間に刻一刻と時間が流れる。
「じゃあね、バイバイ」
「うん、またね」
短いようで長く感じた沈黙を経て、私から出た言葉は「バイバイ」だった。
おそらくこれ以上、啓太と目を合わせ、何か話をしたらきっと本当に別れられなくなると脳が判断したのだろう。
啓太の背中はだんだんと小さくなり、いよいよ見えなくなってしまった。
「ねぇ、二人、もしかして何かあったの? 呼び方だって急に呼び捨てになっちゃって。昔は『なっちゃん』『けいちゃん』なんて言ってたのに」
昨日と今朝の事情を全く知らない母は私たちの関係に少し疑念を抱いたらしい。
ぐいぐいと探ろうとしてくる。
さすがにこの短時間で唇を交わしたことまでは口が裂けても言えない。
「そう、もしかしてかもね。だけど……」
どこかで聞き覚えと言い覚えがある台詞を私は口にする。
一呼吸おいて、私はその後に続く言葉を考える。
この二日間の私にとって、啓太の存在はとても大きかった。
その存在がまた離れてしまった私の心はぽっかりと穴が開いたような気がしていた。
だから、啓太とのおみやげをもう一つつくろうと思った。
「誰にも教えないからね。お母さんにも。……私と啓太の二人だけの秘密なんだから」
私は母を置いて旅館に戻る。
ややスキップがちで。
ただの貝殻と二人だけの秘密という言葉に心躍るとは、まだまだ子どもだなと思いつつも、今の私の感情をコントロールできる人間は私自身ではなかった。
旅館に戻り、私は小雪と遊ぼうと思い立った。
一人では何をするにも寂しくて仕方がない。
しかし、旅館の中のあちこちを探しても、部屋を一つ一つ見て回っても、小雪の姿はどこにも見当たらない。
自由奔放でどこへでも勝手に散歩してしまう小雪だが、私の心を読み取るのか、いつもは私が声をかけながら探すとすぐに見つかる。
だが、今日は結局ご飯の時間になっても帰って来なかった。
私には何か嫌な予感がした。
――そして、それは残念ながら見事的中した。
私にお父さんはいない。
いや、正確には「今の私」にお父さんはいないと言うべきか。
かれこれもう四年も帰ってきていない。
目の前に広がる大海原から。
*
旅館で火事が起きた次の日。
私は昨夜の出来事が脳裏から離れず、眠りにつくことができなかった。
大事な旅館での火災、二本の足で立つ謎の猫小雪、突然降り出し突然やむ大雨、ドヤ顔を決め込む謎の猫小雪。
そして、私が遮ってしまった啓太の告白……と思われる話。
日の出と大体同じ早朝の時間。
私は着替えて海まで出てきた。
私は目の前に広がるこの海と綺麗なビーチが好き。
伊東の中でも一番好きって言っても良い場所かも知れない。
悩んだとき、苦しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、何かあったらいつもここへ来る。
だって、ここにはお父さんがいるから。
私のお父さんは、漁師と旅館の料理人との二足のわらじを履いていた。
私が小学二年生の時の冬、漁に出た父はその後急に荒れた海に打ち負かされ、二度と帰ってくることはなかった。
その一ヶ月後ぐらいに私は小雪との運命的な出会いを果たした。
依然として大海原で行方不明になった父の足跡はつかめていない。
生きているのか死んでいるのかさえ判然としない。
警察や知り合いの漁師さんたちも一生懸命探してくれたがその甲斐なく、父は当時着ていた衣服も船の一部分も私たちに渡してくれない。
それが母や祖父母や私が踏ん切りをつけられない大きな理由だ。
まだ警察が五十人態勢ほどで全力捜索してくれたとき、母は父の葬式を計画した。
もちろん、祖父母や父の知人からは「生きているかも知れないのに、葬式をするのはおかしい」と猛反発された。
しかし母は「これは弔うためのお葬式ではなくて、生きていることを神様仏様にお祈りするお経をお坊さんに唱えてもらう」と涙ながらに説得していたのを私はうっすらと覚えている。
母だって生きていることを信じたかったに決まっている。
旅館の大広間で遺体も遺骨も遺品もないお父さんの葬式が執り行われた。
白い祭壇には大きな魚を手に持って微笑む父の遺影と少々の果物が供えられた。
まだ小さかった私は状況を理解していなかったが、周りをまねしてただ手を合わせ、無心に「南無妙法蓮華経」とお題目を唱え続けていたのを思い返せる。
ただ、おばあちゃんが「たくさん食べな」と勧めてくれたお寿司の味だけは全く覚えていない。
微かに汗のようなしょっぱい味がした気がする。
お父さんの料理の腕は評判で、それをめがけてわざわざうちの旅館にいらっしゃるお客様も大勢いた。
そんなお父さんが大事にしていた厨房で火事があったなんて、お父さんに会わせる顔がない。
それから四年間私たちはずっとお父さんを待ち続けたが、一向に帰ってくる気配を感じない。
そして私は何かある度にお父さんがどこかにいると思われるこの海へやってくる。
――そんな頭の片隅に微かに残る昔話を呼び戻しながら、私は目の前の海を眺める。
早朝、人はほとんどいない。
ましてや、海パン水着姿の輩はもっといない。
広い砂浜にはただ波が押し寄せるときのざぶんという音だけが響く。
ぼーっとしていた私の視界に一人の人影が入り込む。
その人影は早朝から海パンで海に飛び込んだ。
そのバカは準備体操も何もしないで「寒い寒い」と声を荒げている。
私は無視するつもりだったが、あまりにもうるさいので仕方なく引き上げを手伝うことにした。
やがてのこのこと海から上がってきた啓太のそのアホ面を見て、私は笑ってしまった。
あくまでも彼はこんな性格だが、顔だけは良い。
しかし、唯一良いその顔も今は見るに堪えないほど寒さでゆがんでいる。
私は啓太に手を差し出して、体を起こそうとした。
でも、せっかくだからそれだけじゃつまらないと思い、握ったその手を離し、啓太の体は再度水しぶきを上げながら水の中へ入っていった。
そして、私は一言可愛く「バーカ」と言い残して戻ろうとした。
それが不器用な私なりの愛だった。
すると、後ろから冷たい水が飛んでくる。
啓太は私の行動に応戦するように、さらに私は啓太に応戦するように互いに水を掛け合った
小学生二人の弾けんばかりの笑顔が朝日に照らされてきらきら光る水面に映っていた。
日もどんどんと上昇し、海岸線を歩く人が増えてきたのと同時に、私たちのおなかは空腹を強く主張してきたので、一旦旅館に帰ることにした。
朝早くから水でびちょびちょに濡れた服を絞りつつ、海から陸へ上がろうとしたとき、私の足がもつれて転んだ。
少し先を歩く啓太がこっちを振り返り、手を差し伸べてくれた。
私がその手を離すまいとがっちり掴むと、啓太はさらに私の手を力強くがっちりと握った。
啓太の細い腕が私の体を引っ張り上げたとき、私はそのまま勢い余って前のめりに突っ込んだ。
私の上半身は啓太の胸板に飛び込み、顔が目と鼻の先まで近づいた。
いや、近づいただけではない。微かに唇に湿った柔らかい感触を感じた。
私は急いで啓太から離れ、身の安全を確保した。
腕の距離ほど開いた二人の間には沈黙と重たい空気だけが残った。
二人して赤く染まった顔を見つめ、何がおかしいのか分からないが、自然と笑いがこみ上げてきた。
「も、もしかして……
「そう、もしかしてかもね。……だけど」
私は喉の先まで出かかった言葉を一度飲み込み、考える。
今から言おうとしている言葉は私の本当の気持ちだ。
ここでしかもうチャンスはない。私は覚悟を決めた。
「私は……けいちゃんにだったらあげても良いよ」
「―っ、え? それって……」
言ってしまった。
後悔と遂に言えた嬉しさとが混ざり合ったよく分からない気持ちに襲われる。
脳内も体内も全てが何かぐるぐるしている感覚を感じる。
一応、確認しておこう。
今の時刻はまだ、朝ご飯も食べる前の早朝だ。
数秒考え直して、「何言ってるんだ、私は」と急激に恥ずかしくなってきた。
今思えば、小学生が言うような台詞ではなかった。
ドラマの見過ぎかも知れないと。
そう思うと、私と啓太の目の前を流れる沈黙が気まずくなってきた。
昨日から私はどれだけ気まずさと沈黙を生み出せば気が済むのだろう。
焦って、心の中での自分への下手なツッコみが多くなってきた。
そしてさらに訳が分からなくなっていく。
「……なんでもない。恥ずかしいから、さっきのなかったことにしてくれる? よーし、おなかすいたし、早く戻ろ」
自分が余計に恥ずかしくならないように口数が多くなるが、その姿が余計にイタかった。
私はさっさと旅館へ戻ろうとして海を背に足を回転させたが、何故か前に進まなかった。
反射的に海側に振り向くと、真剣な眼差しで私の右手を掴んだ啓太が見つめてきた。
私は改めて理解させられる目の前の男子の美貌と溢れんばかりのオーラに気圧されてしまった。
「なかったことになんてできないよ。菜月が良いって言ったんだからね。」
啓太はそう言うと、その後の行動は早かった。
整った顔が直視できないほどの距離に迫ってきたと思った瞬間には、もう私だけの唇はなかった。
あまりにも展開が早すぎて、私の頭では到底、状況把握が追いつかない。
残るのは、私の思いが肯定されたことと一歩大人に近づいたという事実だけ。
嬉しいような何というか分からない感情が心の中に渦巻く。
広い砂浜に一人私だけがぽつねんと置き去りにされる。
私の心も現実に追いつけずに、一人で右往左往と彷徨っている。
一方、啓太はすました顔をして、バイパスの方へ向けてずんずん歩いて行く。
少し進んだところで足を止め、こちらを振り返った。
そして、一呼吸おいてから、啓太は思いきって口を開いた。
「好きだよ、菜月」
私はその言葉を聞いた瞬間にふっと安心した。
ようやく、私の心の中で渦巻いていた謎の感情が嬉しさに安定してきた。
私の足は勝手に啓太の方へと走り出し、気づいた時には私たちの間に距離が全くなかった。
「――私も。私も好きだよ、啓太」
お互いの腕の中で私たちは、自分の心の内に潜めていた気持ちをすり合わせる。
散々空回りした結果、たどり着いた最高の答え。
だいぶ遠回りした気がするけど、今となってはそんなことどうだって良い。
私は啓太と二人でいる時間がとてつもなく愛おしかった。
1年ぶりの再会。
病院で共に生活していた頃よりも長い間会っていなかった二人だが、それまでの間お互いの存在がどれだけ大切だったのか少し理解できた気がする。
後から聞いた話によると、啓太は先に退院した私と外来なら早く再会できると思って治療を頑張ったらしい。
外来で会うことはなかったが、こうして偶然再会したことに私はただならぬ運命を感じた。
そして、私はこの幸せがずっと続くと思っていた。
ずっと啓太が、私の好きな人が隣に居続けてくれると思っていた。
私の思いが届き続いてほしかった。
*
午前10時過ぎ。
チェックアウトを済ませたお客様が続々と旅館を後にし、旅館はただの建物になりつつあった。
残る最終のお客様は和泉家だった。
私と母は外までお見送りにでた。
「また来てね。いつでもここにいるから」
「それ、昨日も聞いたよ」
啓太は笑みを浮かべた。
私には我慢して笑っているのがすぐに分かった。
だって、私もまた離ればなれになるのが寂しかったから。
せっかく両思いだったっていうのに伊東と浜松だと、会いたくなってもすぐには会いに行けない。
「あっ、そうだ。菜月にこれあげる」
そう言って近づいてきて啓太がポケットから取り出したのは、小さな貝殻だった。
それは今までに見たことがないくらい、きらきらと輝いていた。
「昨日、すごい綺麗だなって思って持ってたんだよ。でも菜月が大事に持っててくれた方が嬉しいな」
私は不意にドキッとした。
ただ何の変哲もない行動なのに、啓太が動いたり言葉を発したりするその一瞬一瞬がきらきらと輝いて見える。
全てに目を奪われてしまう。
これが恋をするっていうことなのかなと、長年の謎が解かれたような納得感を感じた。
しかし、小学生にはまだ恋と愛の違いが分からない。
私の手に貝殻を託し、遠く小さくなっていく啓太の背中を私は切なく思い、口が勝手に啓太を呼び止めた。
「啓太! これ、ありがとう。大事に持ってるね」
「うん。そうしてくれた方が嬉しい」
お互いの距離はそこまで開いてないはずなのに、何故かまた会話が続かない。
見つめ合う二人の間に刻一刻と時間が流れる。
「じゃあね、バイバイ」
「うん、またね」
短いようで長く感じた沈黙を経て、私から出た言葉は「バイバイ」だった。
おそらくこれ以上、啓太と目を合わせ、何か話をしたらきっと本当に別れられなくなると脳が判断したのだろう。
啓太の背中はだんだんと小さくなり、いよいよ見えなくなってしまった。
「ねぇ、二人、もしかして何かあったの? 呼び方だって急に呼び捨てになっちゃって。昔は『なっちゃん』『けいちゃん』なんて言ってたのに」
昨日と今朝の事情を全く知らない母は私たちの関係に少し疑念を抱いたらしい。
ぐいぐいと探ろうとしてくる。
さすがにこの短時間で唇を交わしたことまでは口が裂けても言えない。
「そう、もしかしてかもね。だけど……」
どこかで聞き覚えと言い覚えがある台詞を私は口にする。
一呼吸おいて、私はその後に続く言葉を考える。
この二日間の私にとって、啓太の存在はとても大きかった。
その存在がまた離れてしまった私の心はぽっかりと穴が開いたような気がしていた。
だから、啓太とのおみやげをもう一つつくろうと思った。
「誰にも教えないからね。お母さんにも。……私と啓太の二人だけの秘密なんだから」
私は母を置いて旅館に戻る。
ややスキップがちで。
ただの貝殻と二人だけの秘密という言葉に心躍るとは、まだまだ子どもだなと思いつつも、今の私の感情をコントロールできる人間は私自身ではなかった。
旅館に戻り、私は小雪と遊ぼうと思い立った。
一人では何をするにも寂しくて仕方がない。
しかし、旅館の中のあちこちを探しても、部屋を一つ一つ見て回っても、小雪の姿はどこにも見当たらない。
自由奔放でどこへでも勝手に散歩してしまう小雪だが、私の心を読み取るのか、いつもは私が声をかけながら探すとすぐに見つかる。
だが、今日は結局ご飯の時間になっても帰って来なかった。
私には何か嫌な予感がした。
――そして、それは残念ながら見事的中した。