私の故郷に、「天使の涙」と呼ばれる景勝地があります。

 水底が見通せるほどに透明度の高い水が、蜿蜒(えんえん)と連なる山脈の斜面に棚田のような湖沼を作り出し、その壮大な景観は地元民から観光客まで、多くの人を魅了してきました。

 しかし、この場所が「天使の涙」と称される理由はそれだけではありません。

 「そろそろ時間です」

 私は隣に立つ喜三郎(きさぶろう)様に告げました。
 背後から明々とした輝きが放たれ、私と喜三郎様、それから周囲の原生林の影が前方に伸びていきます。

 日の出です。辺りを覆っていた霧は晴れ、湖沼の底に沈澱している石灰成分が陽光をあらゆる方向に反射させていきました。

 やがて湖沼の水面は、蒼穹をそのまま写し取ったように青く輝き始めます。
 煌めきは、太陽の動きに合わせて徐々に広がっていきました。

 「ああ……」

 一面が青に染まる頃になって、喜三郎様は感嘆のため息をつきました。

 私は水質や石質について解説をしようとしましたが、恍惚の色を浮かべている喜三郎様の横顔を見て口をつぐみました。
 
 神々しさすら覚える圧倒的な美しさを前に、科学的な理屈は無意味です。
 
 私は代わりに、「天使の涙」の所以について話すことにしました。

 「ある日、天界に住んでいる天使が下界の人間に恋をしました。種族の違いから天使は想いを伝えることができずに、毎日涙を流していたそうです。地上に降り注いだ天使の涙は雨となり、川となり、やがてこの美しい湖となりました」
 
 「……哀しい伝説だね」
 
 そう呟くと、喜三郎様は寂しそうに微笑みました。きっと、小百合様のことを想っているに違いありません。

 「哀しいけど、いや、哀しいからこそかもしれない。どちらにしても素晴らしい景色だ」

 「はい。私が知る限りこの景観に勝る美しさはありません」

 だからこそ、と私は心の中で続けました。

 最期に見る景色はこの場所にしようと決めていたのです。
 
 自然と頬を伝う雫を、私は隠すように拭いました。
 この美しい湖に、穢れた私の涙が混ざらないように。