雪だ。
そう言って、彼女は舞い落ちる白粒を見上げた。
見惚れるように、憧れるように目を輝かせる姿から僕は顔を逸らす。
眩しすぎて見ていられなかった。
「ね、藤野くん」
気づけばその視線はこちらを向いていて、黒々と凛々しい瞳は確実に僕を捕えていた。
「君はさ、夢ってある?」
夢、と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、睡眠時の奇想天外な記憶体験。
しかし彼女が指しているのがそうでないことは、どこか遠くを見つめる表情で分かった。
「…特にない、かな」
間を空けた割にはつまらない答えだ。それでも、彼女は僕らしいと笑っていた。
「私はね、夢たっくさんあるの」
聞いてもないことを悠然と話し出すのは、最初から何も変わっていない。
二人が出会ったのは、大学の自動販売機前だった。
「これ、間違えて買っちゃったから貰ってよ。少年」なんて陽気な声で話しかけてきた君。
たまたま近くを通ったというだけでいきなり知らない人にいらない物を押し付けるか、普通。
そうは言っても、当時の僕は儚い彼女の雰囲気に一瞬でも惹かれてしまった。
それが運の尽きだったと今になって思う。
常に一人でいたかった僕にいらないコーヒーと情報を押し付けてきて、知りたくもない名前も誕生日も顔もいつの間にか覚えてしまっていた。
「例えば、どんな夢?」
「一度で良いから、なりふり構わず地面を駆け回ってみたい。車も人混みも気にせずに、町中を全力で!コンクリートを蹴る感じとか好きなんだよね~。分かる?足に自然と力が入って、あー生きてるーって感覚」
「…ごめん、あんまり分からない」
「相変わらず藤野くんとは意見が合わないな」
「そっちの感性が特殊なんじゃない?」
そっかな?と首を傾げながら、また彼女は頬を緩める。今度は心臓から嫌な音がした。
「じゃあさ、後悔は?」
「…人の後悔なんて聞いても面白くないと思うけど」
「私が知りたいから良いの」
ひゅう、と風の音が耳を撫でる。押し黙る僕に構わず、言葉は続いた。
「教えてよ。君の後悔」
どこまでもまっすぐで、曇りのない声に思わず身震いをする。
過去を問うているのに、未来を案じているようで怖かった。
僕は、遠い未来を見通す彼女の瞳が嫌いだ。
「…後悔のない人の方が珍しいよ」
話の逸らし方が流石にあからさま過ぎたか、と顔を上げる。しかし、彼女は気にした様子もなく空を見ていた。
僕は人より粗末な人生を送ってきたと自認している。
それでも思いつく後悔は一つしかなくて、意志さえあればここで葬ることも出来るものだった。
たった「二文字」。それを君に告げるだけだから。
でも、この悔いを消してしまうのは嫌だった。
だって、その中には君がいるから。後悔という呪いに、一生君の存在が残るのならば。僕はそれを望んでやまない。
だから深追いされるのは避けたかった。
そうだね。同意するように返ってきた言葉は、ずっしりと重かった。
「後悔ないように生きるのって大変だもん。みんなさ、一生を長く見積もってるから色々後回しにするんだよね、今じゃなくていいやって。でも大抵のことは気づいたら出来なくなってて、それが後悔になって積み重なっていくの。人生ってそういうものだと思う」
珍しく真剣な音に乗った彼女の台詞には、幾多の記憶が潜んでいるのだろう。
それを全て受け取るには荷が重すぎて、上手く返事が出来なかった。
「でもね、私はそんなもの、ない方が良いと思うんだ。後悔が成功を生むとか言うけど、あんなのは後悔を無駄にしない為の言い訳にしか聞こえない。だって悔いがあるまま死ぬなんて嫌じゃん」
ああ、まただ。また彼女は、僕を通して遥か彼方を見つめている。
遠い、遠い未来を羨んでいる。
僕は、その目が大嫌いだ。
「だから、藤野くんには悔いのないように生きて欲しいな。時間は有限だよ、少年!」
やめて。やめてくれ。そんな悟ったような顔、しないでくれ。
僕と同い年のくせに妙に物言いが上からなのも好きじゃない。
君の時間だってまだ、終わっちゃいないのに。
「そうだ。ね、私の後悔、一個失くしてくれない?」
不意に降ってきたのは、いつも通りの弾けたような声。何か提案する時に目を細めるのも、悔しいくらい何も変わらない。まだ髪が長かった頃の、君と。
「…僕に出来ること?」
「君にしか頼めないことだよ」
彼女はこれまで会った人の中で一番行動が読めない。
だから、突拍子もないことを言ってくることは分かり切っていた。奇しくもその破天荒さに慣れてしまった自分もいた。
何が来ても驚いたりしない。そう思っていたのに。
「手、握って。私低体温だから寒くて」
ぽつり。零れた言葉に、耳を疑う。
同時に、驚いた声が漏れていたことにも気が付いた。
これまで聞いたことがない、細くて、弱い音。
吹雪にかき消されてしまいそうなそれは、喧騒なんてないここでははっきりと聞き取れてしまった。
少し間を置いて、つうっと垂れた汗が滴り落ちる。おかしい、今日はこんなに暑いわけないのに。
感覚として遅緩に過ぎていく時間の中で、手を握るという行為について深く考えてしまう。
どうせ君のことだから理由なんてないのだろう。僕が高体温だと知っての言動だとも理解出来る。
彼女の前では、意識なんてする方が馬鹿馬鹿しい。
でもこれは、流石に突拍子がなさすぎる。
今提案に乗ってしまったら、これまで必死に抑えていた気持ちを言わないで済むとは思えない。
きっと、言うまいと決めた「二文字」が流れ出てしまう。こんな所で、後悔を失いたくはなかった。
そう、固く決心したはずなのに。
「握ってくれないの?」
「…っ」
笑ってしまうくらい、僕は単純だ。
眉を下げて優しく口角を上げる彼女に、見惚れてしまったのだから。
こんなの、やるしかないじゃないか。
想いを押し殺すよう息を飲む。か細くて、僕より小さい、綺麗な指。
壊れないように、零れないように、ゆっくり腕を伸ばした。
ドクドクと生々しい脈のリズムが全身に轟く。自然に吐き出された息が熱かった。
ああ、もう少しで触れてしまう。恐怖と劣情が入り混じって、頭が痛い。
あと、少し。あと。
「宮坂さん。検査の結果を知らせに来ました」
突然開いたドアから、看護師さんが顔を出す。
僕の手は宙に浮いたまま、二人の距離も5cmで止まっていた。
「あちゃー、時間だ」
数秒前とはまるで別人と感じるほど、普段通りに言い放つ彼女。
続いて、いつもより遅いな、なんて呟きが耳に入る。
呆然としながら段々と下がっていく自分の手を無意識に追うと、震えているのが見えた。
「これから話、聞かなきゃだから。藤野くん、バイバイ」
さっぱりした顔で手を振る姿に、心臓は苦しいくらい跳ねた。
ここにいてはいけない。
そう言われているみたいで、逃げるように病室のドアをくぐる。
「待って!!」
焦りが滲む声が後ろから注がれて、思わず足を止めた。
声の主は、看護師さんだった。
「時間なら大丈夫よ…!今日なら、まだ」
ここまで必死な看護師さんは見たことがない。額にわずかな汗を伝らせ、くしゃりと顔を歪めている。
本気で引き留めてくれていると分かっても、僕は知らないフリをした。
「いえ、もう良いんです」
いつも交わすはずのまたね、の代わりの言葉。
いつもより長い検査時間。
そして、看護師さんの辛苦の表情。
この三つが導き出す答えは、僕がもうここに来ない理由に相応しかった。
「さようなら」
雪はまだ、止まらずに降りしきっていた。
そう言って、彼女は舞い落ちる白粒を見上げた。
見惚れるように、憧れるように目を輝かせる姿から僕は顔を逸らす。
眩しすぎて見ていられなかった。
「ね、藤野くん」
気づけばその視線はこちらを向いていて、黒々と凛々しい瞳は確実に僕を捕えていた。
「君はさ、夢ってある?」
夢、と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、睡眠時の奇想天外な記憶体験。
しかし彼女が指しているのがそうでないことは、どこか遠くを見つめる表情で分かった。
「…特にない、かな」
間を空けた割にはつまらない答えだ。それでも、彼女は僕らしいと笑っていた。
「私はね、夢たっくさんあるの」
聞いてもないことを悠然と話し出すのは、最初から何も変わっていない。
二人が出会ったのは、大学の自動販売機前だった。
「これ、間違えて買っちゃったから貰ってよ。少年」なんて陽気な声で話しかけてきた君。
たまたま近くを通ったというだけでいきなり知らない人にいらない物を押し付けるか、普通。
そうは言っても、当時の僕は儚い彼女の雰囲気に一瞬でも惹かれてしまった。
それが運の尽きだったと今になって思う。
常に一人でいたかった僕にいらないコーヒーと情報を押し付けてきて、知りたくもない名前も誕生日も顔もいつの間にか覚えてしまっていた。
「例えば、どんな夢?」
「一度で良いから、なりふり構わず地面を駆け回ってみたい。車も人混みも気にせずに、町中を全力で!コンクリートを蹴る感じとか好きなんだよね~。分かる?足に自然と力が入って、あー生きてるーって感覚」
「…ごめん、あんまり分からない」
「相変わらず藤野くんとは意見が合わないな」
「そっちの感性が特殊なんじゃない?」
そっかな?と首を傾げながら、また彼女は頬を緩める。今度は心臓から嫌な音がした。
「じゃあさ、後悔は?」
「…人の後悔なんて聞いても面白くないと思うけど」
「私が知りたいから良いの」
ひゅう、と風の音が耳を撫でる。押し黙る僕に構わず、言葉は続いた。
「教えてよ。君の後悔」
どこまでもまっすぐで、曇りのない声に思わず身震いをする。
過去を問うているのに、未来を案じているようで怖かった。
僕は、遠い未来を見通す彼女の瞳が嫌いだ。
「…後悔のない人の方が珍しいよ」
話の逸らし方が流石にあからさま過ぎたか、と顔を上げる。しかし、彼女は気にした様子もなく空を見ていた。
僕は人より粗末な人生を送ってきたと自認している。
それでも思いつく後悔は一つしかなくて、意志さえあればここで葬ることも出来るものだった。
たった「二文字」。それを君に告げるだけだから。
でも、この悔いを消してしまうのは嫌だった。
だって、その中には君がいるから。後悔という呪いに、一生君の存在が残るのならば。僕はそれを望んでやまない。
だから深追いされるのは避けたかった。
そうだね。同意するように返ってきた言葉は、ずっしりと重かった。
「後悔ないように生きるのって大変だもん。みんなさ、一生を長く見積もってるから色々後回しにするんだよね、今じゃなくていいやって。でも大抵のことは気づいたら出来なくなってて、それが後悔になって積み重なっていくの。人生ってそういうものだと思う」
珍しく真剣な音に乗った彼女の台詞には、幾多の記憶が潜んでいるのだろう。
それを全て受け取るには荷が重すぎて、上手く返事が出来なかった。
「でもね、私はそんなもの、ない方が良いと思うんだ。後悔が成功を生むとか言うけど、あんなのは後悔を無駄にしない為の言い訳にしか聞こえない。だって悔いがあるまま死ぬなんて嫌じゃん」
ああ、まただ。また彼女は、僕を通して遥か彼方を見つめている。
遠い、遠い未来を羨んでいる。
僕は、その目が大嫌いだ。
「だから、藤野くんには悔いのないように生きて欲しいな。時間は有限だよ、少年!」
やめて。やめてくれ。そんな悟ったような顔、しないでくれ。
僕と同い年のくせに妙に物言いが上からなのも好きじゃない。
君の時間だってまだ、終わっちゃいないのに。
「そうだ。ね、私の後悔、一個失くしてくれない?」
不意に降ってきたのは、いつも通りの弾けたような声。何か提案する時に目を細めるのも、悔しいくらい何も変わらない。まだ髪が長かった頃の、君と。
「…僕に出来ること?」
「君にしか頼めないことだよ」
彼女はこれまで会った人の中で一番行動が読めない。
だから、突拍子もないことを言ってくることは分かり切っていた。奇しくもその破天荒さに慣れてしまった自分もいた。
何が来ても驚いたりしない。そう思っていたのに。
「手、握って。私低体温だから寒くて」
ぽつり。零れた言葉に、耳を疑う。
同時に、驚いた声が漏れていたことにも気が付いた。
これまで聞いたことがない、細くて、弱い音。
吹雪にかき消されてしまいそうなそれは、喧騒なんてないここでははっきりと聞き取れてしまった。
少し間を置いて、つうっと垂れた汗が滴り落ちる。おかしい、今日はこんなに暑いわけないのに。
感覚として遅緩に過ぎていく時間の中で、手を握るという行為について深く考えてしまう。
どうせ君のことだから理由なんてないのだろう。僕が高体温だと知っての言動だとも理解出来る。
彼女の前では、意識なんてする方が馬鹿馬鹿しい。
でもこれは、流石に突拍子がなさすぎる。
今提案に乗ってしまったら、これまで必死に抑えていた気持ちを言わないで済むとは思えない。
きっと、言うまいと決めた「二文字」が流れ出てしまう。こんな所で、後悔を失いたくはなかった。
そう、固く決心したはずなのに。
「握ってくれないの?」
「…っ」
笑ってしまうくらい、僕は単純だ。
眉を下げて優しく口角を上げる彼女に、見惚れてしまったのだから。
こんなの、やるしかないじゃないか。
想いを押し殺すよう息を飲む。か細くて、僕より小さい、綺麗な指。
壊れないように、零れないように、ゆっくり腕を伸ばした。
ドクドクと生々しい脈のリズムが全身に轟く。自然に吐き出された息が熱かった。
ああ、もう少しで触れてしまう。恐怖と劣情が入り混じって、頭が痛い。
あと、少し。あと。
「宮坂さん。検査の結果を知らせに来ました」
突然開いたドアから、看護師さんが顔を出す。
僕の手は宙に浮いたまま、二人の距離も5cmで止まっていた。
「あちゃー、時間だ」
数秒前とはまるで別人と感じるほど、普段通りに言い放つ彼女。
続いて、いつもより遅いな、なんて呟きが耳に入る。
呆然としながら段々と下がっていく自分の手を無意識に追うと、震えているのが見えた。
「これから話、聞かなきゃだから。藤野くん、バイバイ」
さっぱりした顔で手を振る姿に、心臓は苦しいくらい跳ねた。
ここにいてはいけない。
そう言われているみたいで、逃げるように病室のドアをくぐる。
「待って!!」
焦りが滲む声が後ろから注がれて、思わず足を止めた。
声の主は、看護師さんだった。
「時間なら大丈夫よ…!今日なら、まだ」
ここまで必死な看護師さんは見たことがない。額にわずかな汗を伝らせ、くしゃりと顔を歪めている。
本気で引き留めてくれていると分かっても、僕は知らないフリをした。
「いえ、もう良いんです」
いつも交わすはずのまたね、の代わりの言葉。
いつもより長い検査時間。
そして、看護師さんの辛苦の表情。
この三つが導き出す答えは、僕がもうここに来ない理由に相応しかった。
「さようなら」
雪はまだ、止まらずに降りしきっていた。