「おい、新助。座れ」
 新助は起きて早々、恭一郎に声をかけられた。
 新助は眠い目をこすりながら、恭一郎を見る。
 恭一郎は食卓についていて、その食卓には三人分の食事が用意されていた。

「……恭一……、これは何のまねだ……?」
 源次郎が亡くなって数日が経った。
 食卓を囲むとどうしても埋まらない場所が目につくため、源次郎がいなくなってから、自然と二人で食事をすることはなくなっていた。
「まぁ、座れよ。俺がおまえの分まで用意してやったんだ。感謝して食え」
 呆然と食卓を見ている新助に、恭一郎はもう一度声をかけた。
 新助は戸惑いながら、三人でいたときの自分の場所に腰をおろす。
 当然のように、いつもの場所に源次郎の姿はない。
 新助は思わずそこから視線をそらした。

「俺は火消しになる……」
 恭一郎が唐突に口を開いた。
 新助は戸惑いながら恭一郎を見る。
 恭一郎がなぜ今さらそんなことを言うのかわからなかった。
 恭一郎はただ真っすぐに、源次郎がいた場所を見つめている。

「俺は江戸で一番の火消しになる。火事になった長屋の人たちも、火消しの仲間も、もう誰も死なせない。全部助ける。だから…………泣くのはこれで最後だ」
 呆然と食事を見ていた新助はハッとして顔を上げる。
 恭一郎は真っすぐ前を見たまま、涙を流していた。
 その姿に、新助も抑えていたものがこみ上げる。

「おい、そういうのやめろよ。泣き虫だな」
 新助は片手で目元を隠しながら笑った。
「泣き虫はおまえだろ……。隠れてメソメソしやがって。湿っぽくて仕方なかったよ」
 恭一郎は服で涙を拭いながら言った。

「メソメソなんてしてねぇよ。おまえと一緒にすんな! それにあれだ。江戸一は無理だ。江戸で一番の火消しは俺がなるんだ。おまえはよくて二番だな」
 新助は目元の涙を拭うと、顔を上げた。
「馬鹿言え! おまえみたいに勢いだけのやつが真っ先に死ぬんだよ! 俺、おまえのことまで助けてる余裕ないからな! 自分の身は自分で守れよ!」
「おまえの助けなんかいるか! おまえは遠くから火を消すために竜吐水(りゅうどすい)でちまちま水でもかけてろ!」
「馬鹿か! そもそも竜吐水は火を消す道具じゃねぇ! 纏持ちの火消しを火の粉から守る道具だ! おまえまだそんなことも知らないのか! あんな少ない水で火が消えるわけねぇだろ!」
 新助が少したじろぐ。
「し、知ってるよ! お、おまえは知識だけなんだよ! 知識だけじゃ火は消せねぇぞ!」
「おまえは本当に何もわかってないなぁ。知識と経験がありゃあ、火が燃え広がるのは防げるんだよ。おまえは指でもくわえて、俺が江戸一の火消しになるところでも見とけ!」
「なんだと!?」
 新助が恭一郎の胸ぐらを掴む。

 すると、ふいに声が聞こえた気がして、新助は手を止めた。
「おまえら、もうそのへんにしとけよ」
 呆れた顔でそう言う源次郎の姿が見えた気がして、新助は恭一郎の服から手を離した。
 恭一郎も同じように感じたのか、二人のあいだに沈黙が訪れる。


「俺はいつか、江戸を火事が起こっても不安にならない町にするんだ」
 恭一郎がポツリと呟いた。
「……どういうことだ?」
 新助は眉をひそめる。
「江戸には火消しがいるから、絶対にみんな助けてもらえるって。誰もが信じられる町にするんだ。火事で家は失っても、命は失わない町に」
 恭一郎の瞳に宿っている光を見て、新助は言葉を失う。
 恭一郎が火消しとして、自分よりもずっと高いところを見ていると痛感した瞬間だった。
 新助はフッと笑った。
 不思議と悔しさはなかった。
「まぁ、その夢になら、俺も付き合ってやってもいい」
 新助は恭一郎を見て言った。
「は? おまえはまず自分が死なないように頑張れよ」
 恭一郎が鼻で笑う。
「なんだと!? 人がせっかく手伝ってやるって言ってんのに!」
「だから、それがいらないって言ってんだろ!」

 二人はそのまま鳶の仕事が始まるまで食卓にいた。
 食事はすっかり冷めてしまっていたが、食卓は源次郎がいたときのように温かかった。