男が茶屋に着いたとき、額に傷のある男はひとり茶を啜っていた。
「珍しいな。俺より早いなんて」
 男は微笑んだ後、少し離れた席に腰を下ろした。

「今日は説教だろうと思ってな。早めに来たんだ」
 傷のある男は、湯飲みの茶を見つめながら苦笑した。
「説教されるようなことをしたわけだね」
 男は横目で傷のある男を見る。

 夕暮れ時の茶屋にほかの客はなく、今日は店主すらいなかった。
「あれ、茶屋の親父は?」
 男は店の奥を見る。
 傷のある男は静かに息を吐いた。
「出掛けた。店番頼むってさ……」
「あらら、今日は茶も飲ませてもらないのか」
 男はフッと笑った後、傷のある男をじっと見つめた。
「それで、本題だけどさ……」

 傷のある男は小さく舌打ちする。
「悪かったと思ってるよ」
「悪かったとは思ってるけど、後悔はしてないって感じだろ? 結構危なかったよ、今回」
「……わかってるよ!」
 傷のある男は苛立ったように言った。

「おまえは優しすぎるんだよね……。名簿を盗み出せたのはよかったけど……鬼の方はさ……。死にたがってたんだからサクッと殺しちゃえばよかったのに、薬でゆっくりなんて……。おかげで、毛色の違うのに『あの方』のこと知られちゃっただろ?」
 男は呆れ顔で言った。

 傷のある男は不満げに男を睨む。
「……別に『あの方』が誰かなんてあいつにわかんねぇんだから、大丈夫だろ?」
「まぁ、()()()わからないだろうけどさぁ……。とにかく気をつけてよ。結構、危ないところまで来てると思うよ、俺たち」
 男は鋭い視線を傷のある男に向けた。
 男の視線を受けて、傷のある男は目を伏せる。
「……わかってるって。今後は気をつけるさ。さ、これで説教は終わりだろ? 俺は帰る」
 傷のある男はそう言うと立ち上がった。

 男は目を丸くする。
「おいおい、おまえ店番任されてるんだろ? 帰るって……」
「おまえが来たんだから、俺はもういいだろ? 店番頼んだぞ」
 傷のある男はそう言うと片手を振り、足早に去っていった。

「まったく……、勝手だなぁ……」
 男は静かにため息をつく。
 誰もいなくなった店で、男はぼんやりと店の外を眺めた。
 茶屋の外はまだ少し明るかったが、光が差し込まなくなった茶屋はゆっくりと闇に沈んでいこうとしていた。

「結構危ないところまで来てるよ、本当に……」
 男はひとり呟いた。
「鬼の烙印の意味も、あの方の正体も……そろそろバレてもおかしくない……」
 男は目を閉じると、長い息を吐いた。

「まぁ、あの方の場合……それも楽しんでるふしがあるからな……。あの方がいいなら……まぁ、それでいいか……」
 男は闇に沈んでいく茶屋の中で、小さく苦笑した。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 境内を掃除していた叡正は、足元に伸びた人影を見て思わず顔を上げた。
 そこには男がひとり立っていた。
「こちらに叡正様はいらっしゃいますか?」
 身なりを見る限り、どこかの屋敷の奉公人のようだった。

「あ、叡正は……私ですが……」
 叡正がそう言うと、男は嬉しそうに笑った。
「ああ! すぐにお会いできてよかったです! 私は笠本様のお屋敷で働いておりまして、佑助様からの手紙を届けに参りました。必ず叡正様に直接渡すように言われていたものですから……」
 使いの男は、そう言うとホッとしたように懐から手紙を取り出した。

(手紙……? あ、茜が残した名簿が見つかった……とかか……?)
「わざわざありがとうございます」
 叡正は手紙を受け取ると、使いの男に頭を下げた。
「いえいえ、すぐにお渡しできてよかったです。それでは、私はこれで失礼いたします」
 使いの男はそう言うと深々と頭を下げ、門の方へと去っていった。

(手紙か……)
 叡正は手の中の紙を広げると、ゆっくりとその文面に目を通す。

『永世様
 先日は笠本の屋敷にお越しいただき、
 誠にありがとうございました。
 直接お伺いできればよかったのですが、
 なかなか屋敷をあけることができず
 手紙となることをお許しください。
 その後、改めて茜の残した名簿を
 探してみたのですが、やはりどこにも
 名簿らしきものはありませんでした。
 その名簿が何なのかもわからない状態
 ではございますが、父上や奉公人が
 名簿を見た際に覚えていた名前をここに
 したためます。
 永世様に渡そうとしていたものなので
 永世様であれば何かわかるのかも
 しれません。
 これが何かお役に立つことを願って。

 名簿にあった名前は次のとおりです。
 ………………………………………………
 ………………………………………………
 ………………………………………………』


 最後まで手紙に目を通した叡正は、静かに顔を上げた。
「これって……」
 叡正は小さく首を傾げる。

「それは何かな~?」
 そのとき、叡正の耳元で聞き慣れた声が響く。
「うわっ……!」
 叡正は思わず飛びのいた。

「さては恋文だなぁ」
 そこには嗣水がニヤニヤしながら立っていた。
「耳元で気色悪い声出すなよ……!」
 叡正は思わず耳を押さえる。

「気色悪いって失礼だな~」
 嗣水はそう言いながらも、ニヤニヤと手紙を覗き込もうとしていた。
「おい、勝手に見るなよ」
 叡正は慌てて手紙を畳んだ。

「若いってのはいいね~。まぁ、可愛い叡正くんの恋だから、目を瞑ってあげようかな~」
 嗣水はそう言うと叡正を見た。
「そういうのじゃねぇよ……。それに目を瞑るって仮にも住職だろ……」
 叡正は呆れて息を吐いた。

「私はおまえの親みたいなものだからね。可愛くて仕方ないのさ」
 嗣水はそれだけ言うと笑って、叡正に背を向けた。
「まぁ、ほどほどにね~。掃除が終わったら早く中に戻りなよ~」
 嗣水はそう言うと、鼻歌交じりに本堂の方へと歩いていった。

「まったく……。あれこそ生臭坊主だろ……」
 叡正はそう言うと苦笑した。
「それにしても……」
 叡正はもう一度手紙を広げる。
 叡正はそこに書かれている名前に目を通した。

「ここに書いてある人たちって……」
 叡正は首を傾げる。
「全員、この寺の……檀家の人たちだよな……。これって一体、何の名簿なんだ……?」
 叡正はゆっくりと顔を上げた。
 日は傾き、辺りは少しずつ暗くなり始めていた。