3月に入ると日差しがやわらぎ、分厚いコートもようやくクローゼットの奥にしまうことができた。マフラーも手袋もニットの帽子も、もう来年まで出番はないだろう。厚手のセーターから薄手のシャツに衣替えをし、ベージュのカーディガンを羽織る。服がパステルカラーに変わる、この季節が一番すきだ。ピンク色のアイシャドウを目蓋に塗り、ビューラーでまつ毛をカールさせる。頬と同じ色のリップを塗って、確かめるように鏡をじっと見た。

この1年でずいぶんとメイクにも慣れた。「花の」でアルバイトを始めてから、自由に使えるお金が増えたことも大きい。アルバイト、メイク、そして写真。去年の自分と比べたら、少しは成長できたのかもしれない。桜の蕾が膨らむにつれ、気持ちも少しずつ上向きになっていく。

冬の間は新熊野神社と蓮華寺くらいしか写真を撮りにいかなかったけれど、この時期になるとようやくわたしも冬眠から覚める。竹田駅から15分ほど歩いてたどり着いた場所には、わたしと同じ目的を持っているであろう人々の姿が多く見えた。

鳥居をくぐればすぐ右手に満開の梅が咲いている。それを見ただけで、今日は素晴らしい写真が撮れると確信した。

「ちょうど満開ですね」

わたしが言うと、隣を歩く間崎教授は「そうだな」とうなずいた。寒がりな教授も、今日は薄手のトレンチコートを羽織っている。

受付を済ませて神苑に入ると、期待通り満開の梅がわたしたちを迎えた。去年は梅を見るために宝ヶ池公園まで行ったけれど、今年やってきたのは伏見区にある城南宮だ。城南宮で見ることのできる梅は、宝ヶ池公園のものとはまた違う。しだれた枝に濃いピンクや白色の花が飴玉のように咲き誇っているのだ。一つ一つの花弁は小さく慎ましやかなのに、それが何百、何千も重なると、空に上がる花火のような絢爛さがある。

「まるで梅のカーテンみたいですね。普通の梅とはまた違って素敵です」

梅に向けてカメラを構えていると、どこからかメジロが飛んできた。小さな鳥たちも、梅の美しさを愛でているのだろうか。

「意外だったな、君から城南宮を提案してくるなんて。去年は私に丸投げだったのに」

普段は行き先をほぼ教授任せにしているので、それを言われると耳が痛い。わたしはごまかすように「あー」とか「えー」とか無意味な音を発した。

「これはあれです。予習です、予習」

「何の」

「ほら、城南宮の神苑って、源氏物語花の庭ともいわれているじゃないですか。この『春の山』エリアも源氏物語に出てくる六条院をまねて造られたとか。3回生になる前に、源氏物語にゆかりのある場所もちゃんと見ておきたいなって思ったんです」

わたしの通う大学では、2回生で「学系」に分かれたあと、3回生からはさらに専門的な「専修」に分かれることになっている。わたしの選択した国語学国文学専修では、源氏物語や伊勢物語など、古典文学をより専門的に学ぶことになるのだ。

「ああ、そう。私はてっきりテレビか何かで城南宮を知って飛びついたのかと」

「違います。断じて違います」

「どうだか。……まぁ、梅だけでなくそういう視点で城南宮を楽しむことには賛成だ。歴史的にも重要な場所だし、『方除(ほうよけ)の大社』としても有名だしね」

「方除って?」

「たとえば引っ越しをする際に、方角や家の間取りを気にすることがあるだろう。そういう方位の障りや家相の心配がないように祈願することを『方除』というんだ。だから、城南宮には工事や引っ越しが無事終わるように、と祈るために来る人も多いんだよ」

「へーっ、風水みたいな感じでしょうか」

家の間取りなんて今まで気にしたことがなかった。今住んでいるマンションを決める時は、日当たりがよくて収納スペースさえあれば何でもいいや、くらいに考えていたなぁ、なんて思い出す。   

そのまま歩いていくと、たくさんの人が中腰になって一心に何かを撮影していた。一体何を撮影しているのだろう。近づいて見てみると、苔の上に真っ赤な椿がいくつも落ちていた。

「わたし、ちょっと行ってきます!」

教授をその場に残し、人混みの中に飛び込んでいく。人と人との隙間に体をねじ込んだら、なんとかシャッターを切ることができた。光に照らされた苔、そして遠くに見えるしだれ梅と赤い椿、そのすべてが絵画のように美しい。

「どうだった」

写真を撮り終えて戻ると、教授がそわそわした様子で尋ねてきた。何も言わずにカメラの画面を教授に見せる。そうすると、教授は何も言わずに微笑むので、そこでわたしはいい写真が撮れたのだ、と実感するのだ。顔の見えない審査員ではなく、目の前のこの人を喜ばせることができたなら、今のわたしは満足だ。

城南宮には平安の庭、室町の庭、桃山の庭、そして城南離宮の庭と名づけられたエリアがある。それぞれの庭がそれぞれの時代を映した造りになっているので、どれだけ眺めても飽きることはない。 

「梅が咲くと、もう春だなぁって感じがしますよねぇ」

室町の庭を歩きながら、わたしは大きく伸びをした。ついこの間までは防寒具が必須だったのに、今日は上着がいらないくらい暖かい。池の鯉も、春になった喜びを表現するかのように悠々と泳いでいる。

「今年は帰省しないのか」

「2月の下旬に一度帰りましたよ。すみません、あの、名古屋のお土産とかは特にないんですけど」

「別に期待していない」

教授はわたしの冗談をさらりとかわした。相変わらずノリが悪い。ああ、そうですか、なんてわざと拗ねたように言ってやると、教授は歩くペースを落とし、わたしの隣に並んだ。

「今度、花のに行ってみようと思って。予約しておいてくれないか」

「花のですか? いいですよ」

わたしはメモをしようと携帯電話を取り出した。

「わたしがバイトしているときはやめてくださいね、恥ずかしいので」

「君がバイトじゃない時に、2名」

2名。文字を打ち込もうとした指がとまった。

「……誰と行くんですか。友だちいないくせに」

「君と行くつもりなんだが」

見上げると、教授が少し不機嫌そうに眉間にしわを寄せている。

「いやですか」

「いや、じゃないです」

そのあとは、なぜか城南宮の梅が全然視界に入らなかった。カメラのシャッターを切ろうとしてもいまいち力が入らず、教授の流暢な説明も右から左へと抜けていく。

教授と晩ご飯を食べたことは今まで何度もある。だけどそれは大抵、どこかへ行ったついでのことで、それ自体が目的だったことは一度もない。年末に順正の湯豆腐を食べたけれど、あれは昼食だったし、そもそも一緒に行くはずだった人の代理として呼ばれただけだ。

その後予定を調整し、3月21日の18時半に決定した。





当日は、よしもと祇園花月の前で待ち合わせをすることになった。花のは少し入り組んだ路地にあるため、初めてだと少々分かりづらい。鏡を見ながら前髪を直していると、「お待たせ」と教授がやってきた。

「いえ、全然待ってないです」

思わず早口でそう応えて、鏡をカバンの中にしまう。なぜこんなに緊張しているのか自分でも分からない。意識しないと右手と右足が一緒に出てしまいそうだ。

花のに入ると、カウンターの一番奥の席に案内された。開店したばかりなのに、もうテーブル席にはお客さんがいる。

「ここに書かれている料理が、カウンターの右端から並んでいるんですよ」

手書きのメニューを見せると、教授は「どれもおいしそうだな」と言った。

「御坂さん、教授、いらっしゃいませ」

バイト中の先輩がやってきて、おしぼりをわたしたちに差し出した。

「お飲み物はどうされますか?」

「えっと、そうですね……」

「成人したんだから、お酒に挑戦してみたらどうだ」

ウーロン茶を頼もうとしたら、突如教授がそんなことを言った。そうだった。わたしは昨日誕生日を迎え、ようやくはたちになったのだ。

「じゃあ、生ビールに挑戦してみます」

「生二つで」

教授のオーダーに、先輩が「生二つですね」と繰り返す。その後、すぐに泡が乗ったビールが二つ運ばれてきた。

「20歳、おめでとう」

互いのグラスを合わせて乾杯する。たったこれだけのことでも、大人の仲間入りをしたようで少し気恥ずかしい。

「覚えていてくれたんですね」

「君が口うるさく言うからな。今日はご馳走してあげようと思って」

なるほど、だからわざわざ誕生日を迎えたあとの日付にしてくれたのか。確かに「祝ってください」とは何度もせがんでいたけれど、まさか本当に祝ってくれるとは思わなかった。何事も言ってみるものである。

おそるおそるビールに口をつけた。アルバイトの時は何度もお客さんに提供しているが、自分が飲むのは初めてだ。

「どう?」

「苦いです」

思わず顔をしかめると、先輩が「御坂さん、はいお茶」とカウンターからウーロン茶を出してくれた。ビールの味を消すように、慌てて喉に流し込む。

「やっぱりまだまだ子供だな」

わたしの様子を見て、教授がおかしそうに笑った。

「そのうち飲めるようになります。シュゴーになります」

「ならなくていいよ。ゆっくり大人になればいい」

わたしたちはメニューを眺め、おばんざいを数点注文した。いつもまかないで食べているとはいえ、客として食べるとより一層おいしい。教授も気に入ってくれたようで、「おいしいな」と何度も言ってくれた。

「あと、忘れないうちに」
 
そう言って、教授がカバンから小さな箱を取り出した。

「これは?」

「チョコレートのお礼。いや、誕生日プレゼントかな」

「どうしちゃったんですか!」

今日の教授は何かおかしい。ご飯をごちそうしてくれるだけでなく、プレゼントまで用意してくれるなんて。きっと何か企みがあるに違いない。わたしの考えを察したのか、教授が
「お礼はちゃんとするのが大人です」と言った。

「開けてもいいですか」

「いいよ」

箱を開けた途端、あっ、と声が漏れた。そこにあったのは、桜を模したかんざしだった。うっすらとピンクに色づいた小さな花が3輪、そこからこぼれ落ちるように花弁が垂れ下がっている。

「普段は使わないかもしれないが、浴衣や着物を着る時にはいいだろうと思って。……夏に着ていた浴衣、とても似合っていたから」

教授は照れ隠しのようにビールを飲んで顔を背けた。京の七夕に行った時、わたしが浴衣を着ていたことを、この人は覚えていてくれたのだ。

「ありがとうございます。一生大事にします」

「大袈裟だな……」

「大袈裟じゃないです。本気です。ずっとずっと大事にします。今日のこと、一生忘れません」

「忘れるよ、いつか」

「忘れません。わたし、記憶力はある方なんです。徳川将軍の名前だって、歴代総理大臣の名前だって覚えました」

「それは受験に必要だったからだろう」

教授はそう言って肩をすくめた。

「忘れてしまうんだよ、いつか。どんなに忘れまいと思っても、忙しくなれば思い出す暇もなくなるだろう。人は、忘れるようにできているんだ」

そう話す教授の声は、どこかさみしさを含んでいた。何かを諦めたように、横顔に影が落ちる。

この人にはきっと、わたしの知らないことがたくさんあるのだろう。わたしだって教授にすべてを話しているわけじゃない。それが普通だ。どれだけ一緒にいたって、他人のすべてを理解することなんてできやしない。

それでも、この2年で分かったことが一つある。この人が写真を大切にするのは、何かを忘れないようにするためだ。一瞬を切り取り、いつまでも残していたいと願っているのだ。

「確かにそうかもしれません。おととい食べた夜ご飯すら思い出せないし……」

「ああ、そう……」

「でも、だからこそ写真があるんでしょう」

わたしはかんざしを両手で包んだ。

「教授、前に言ったじゃないですか。写真は記憶そのものだって。他の人は忘れてしまうかもしれないけれど、わたしには写真があります。教授と一緒に行った場所は、全部写真に残っています。今日のことだって、このかんざしを見るたびにきっと思い出します。……だから、教授も忘れないでください。わたし、たくさん写真を撮りますから。立派な賞を獲れなくても、プロじゃなくても、教授に褒めてもらえるような写真を撮れるよう、頑張りますから」

わたしなんかがどれだけ言葉を並べたって、説得力なんかないのかもしれない。だけど、それでも信じたいのだ。教授との日々が永遠に記憶に刻まれると。そして、教授もそうであってほしいと願ったのだ。

教授はしばらくあっけにとられたようにわたしを見ていたが、やがて「……楽しみにしているよ」と微笑んだ。その声にもうさみしさはなかった。

生ビールをもう一度喉に流し込む。きっともう少し大人になれば、このおいしさが分かるだろう。

梅がすべてこぼれ落ちても、写真を見ればその美しさを思い出す。桜が咲いたらどこへ行こう、また写真を撮りますね。そんなこと言い合いながら、春の夜がゆっくりと更けていった。



第三章へ続く