キュートアグレッションな彼氏と弱虫彼女~聞き取り下手な彼女に捧ぐくせ強な愛言葉~

「動物園の清掃?」

「共有施設だけどね。たぶん、飲食店とかその辺じゃないかな?」


私にとっては重要なアルバイト探し。

だがそれを彼に相談したわけでもないのに、彼がそれを受け取って寄り添ってくれたことに胸がじんわりと熱くなる。

単なる愚痴と受け取られても仕方のない内容を拾ってもらい、喉が焼けそうだ。


(これなら出来るかも……)

人と関わる仕事に苦手意識が強い。

相手の顔色をみて怯えるのは嫌だった。

避けては通れない道を人はなんとかくぐり抜けて前へと進んでいく。

同じ壁にぶつかることを繰り返し、回り道を探してばかりの人生だった。

言い訳を探して怖気づく私に光が降ってくる。

私の出来る出来ないを受け取って考えてくれる好意がうれしい。


「武藤さん、動物好きでしょ? これなら楽しく出来るかなって」

「……ありがとう。応募してみる」

「ーーーーーっーーー」



ーーキーンコーンカーンコーン。

言葉はチャイム音にかきけされ、私は首を傾げる。

聞き直した方がいいのかいつも言葉が喉に詰まってしまう。

それでも彼の前では勇気を出してみたいと、口を開いて音を押す。


「な、なんて……?」

「武藤さん?」

「……なんて、言ったの?」


ーーその一瞬が長く感じた。


「おーい。授業、はじめるぞー」


いつのまにか静かになった教室で視線が集まっている。

汗が吹き出て、呼吸を整えようと息をのんだ。

「はーい。……また結果教えてね」


耳元で少しかすれた声が響く。

ほんのり紅潮した頬に、柔く目を細めて手を振ってくる。

周りなんて見えなくなるほどに彼が魅せるキラキラは圧倒的だ。

嬉しいという気持ちは時折私を盲目にする。

ざわざわは少しずつ大きくなって、牙をむく。





「ねぇ、なんで鈴木くんと?」
ーーガタッ……カツン。
「〜〜意外だよね。喋ってるの見たことない」
「あたしてっきり杏梨とーーー……」
「He called it cute.It looks like she's crying.」
「今日の昼飯さ〜〜〜………だ……じゃね」
ーーコツン……コロコロ……。
「あ、ごめん。消しゴム落とした」
「しっ! やめなよ」
「There are as many preferences as there are people.(人の数だけ好みがある)」
「落としたのってこれ?」
「わぁー、杏梨ありがとー」
「修学旅行もうすぐ〜〜で、〜〜にこ〜〜〜でさぁ」



普段は言葉を拾わないくせに、こういう時だけ明確に響く。

ーー息が出来なくなって、手が震えだした。
【聞くべき言葉だけを拾えない】

聞かなくてもよい言葉がやけに明確になるときがある。

それは聴覚の検査に引っかかることのない現象。

私の耳は優先順位がなかった。


ーーーーーーーーーー

「武藤さん、一緒にかえ……」

「ごめんなさいっ!」


放課後になって私は彼の笑顔と言葉を振り払って走り出す。

スマートフォンでアルバイトの応募完了の文字をみて息をついた。

次はちゃんと働くことが出来るだろうかと不安の種はつきない。


「……やさしさに甘えるな」

(こんなの、弱い構ってちゃんアピールじゃん。……キライ)

作り出した状況を鼻で笑う。

悲劇のヒロインの面を被っても、世界で鳴る音は変わらない。

ここで彼に会えるかもしれないと、淡く期待しては情けない気持ちを味わう。

下足箱を前にして、私はその場にしゃがみこんだ。


私を変えるのは私しかいない。

だけどあの眩しい笑顔を見ていると私はもう変わった気分になっていた。

何も変わっていないのに、目線が合うだけで壁が低くなった錯覚。


「武藤さん」

「……なんで」


高いところにいる彼と距離が近い。

酸素を吸い込むと喉がヒリヒリと焼けていく。


「急いでたならごめん。でも武藤さんと一緒にいたくて」

微笑みを向ける対象が間違っている。

顔をそらすと彼はムッと頬を膨らませ、私の手首を掴む。


「オレ、何かしたかな? なんか、急に避けられた気がしたんだけど」

「そんなことないからっ……。 も、元々あまり人といるのが好きじゃないだけだから」

「……オレといても楽しくない? 武藤さんには迷惑でしかない?」

目を見ることが出来ない。

誰かを意識すれば私の世界は盲目になる。

その世界がハッと現実に戻った瞬間の足元から絡みつく泥を見たくない。

自覚する影の濃さに吸い込まれる感覚。

人の背中を見なくて済むのなら私は自ら背を向けよう。

彼の手首を振り払い、立ち上がる。


「一人でいたいの。だから構わないで」


足早にその場を去ろうと足を動かした。

それでも彼は後ろを追いかけてくるので、突き放すことが難しい。

自分が傷つかないために相手を傷つける卑怯者。

それが武藤 ひなたという生き物だ。

ーーおぞましくて、救いがたい。
見てくれだけに向けられるかわいいは長く続かない。

(こんなこと言うのも、構ってちゃんなのかな? でも他になんて言えばいいの?)

答えがわからない。

少しでももしかしたらって夢見てしまうのは……後が苦しいとわかってるのに。

構ってちゃんになりたいわけじゃない。

心から彼をやさしい人だと思うからこそ、私に巻き込みたくなかった。


「ーーオレ、やりすぎちゃった?」

「え?」


……だけど見てくれしか見ていなかったのは私も同じ。

いつも笑っている彼の表情が、曇る。

校門を抜ける直前で彼は足をとめていた。


「ごめん、武藤さんを傷つーーーない。でも……おかしいのかもしれない」

「鈴木くん?」

「迷惑かけてごめん。距離感、間違えたのかもしれない」

息の量が多い。

笑おうとしてはすぐに消えていき、見た目にもわかるほどに頬に筋肉がひくひくしている。


「少し落ち着ーーーーね。これで武ーーーーに嫌われちゃーーーーーら」


いつもどこか一線を引いているように見えた。

それだけ彼は完璧だった。

誰も不快にさせず、甘く優しい言葉をささやいてくれる。


「ーーーーーーんね。……また明日、学校で」

「鈴木く……」

ほんの少し、彼との距離が遠い。

たった数歩分なのに、私の耳は彼の音を拾っても声にはしてくれなかった。

彼は背を向けて、校舎へと戻っていく。

とっさに手を前に出すが、足が震えて動かせない。

全身が心臓になってしまったかのようにうるさかった。

足元を見るとくっきりとした影が空に浮かぶ雲に飲まれていなくなった。


「離れてくって、わかってたじゃん」

彼を試すような行動ばかり。

人を疑ってばかりの最低な行為。

このまま彼を見ていたいという気持ちと、呪わしいブレーキが私の心を破壊する。

悲しい、苦しい。

切ない、怒り、嫌悪、諦め、希望、失望、幻想、現実。

喜びをもらった分だけ返せない私は呪わしい。


「……こんなことで泣く私は、ずるい」
  

別れたいはずなのに、痛い。

ほんのちょっとの勇気が私には越えられないほどに高かった。
意気地なしの私はじめじめとした一日を過ごし、翌朝を迎える。

カビの生えそうな湿った空気を漂わせながら教室へ入ると、いつもより騒がしい気がした。

ざわざわした空間はいろんな音がぶつかりあっていた。

「あ! 武藤さん来た!」

教室の隅っこに人だかりができており、その輪から拓海が顔を出して駆け寄ってくる。

数ある音の中でもひときわ大きいそれは声にならなくても私を呼んだと理解した。

「お、おはようございます?」

一対一で話すことははじめてで、どんな顔をすればよいのかわからない。

人見知りのガードが発揮され、肩にかけたカバンの持ち手を握りしめる。

だが拓海に人見知りオーラは関係ないようで、勢いだけで破壊し腕を引っ張ってきた。

「ちょっと来てよ! 隼斗を慰めてやって!」

「え、ええっ?」

状況把握が出来ない。

何も理解していない頭は混乱だけで何も考えられなかった。


「……え?」

人の輪を抜けて見えた光景は目を疑ってしまう。

教室の隅っこで膝を抱え、彼が丸くなっていた。

それは悲壮感漂う姿で、あの明るい太陽のような彼からは連想も出来ない状況だ。

余計に混乱が増す中でキョロキョロすると、彼の自席になにかが置いてあることに気づく。


(なに? ……布?)

「隼斗! 武藤さん連れてきたよ!」

「……武藤さん?」

「えっと……何でしょう? だ、大丈夫?」


昨日のこともあり、気まずい。

だが鼻を赤くして涙目になる彼を見ていると放っておけなかった。

どうしてそんな辛そうな顔をしているのかと心配になり、彼の前に膝をついて手を伸ばす。

カーディガンの袖を掴み、じっと彼を見ていると余計に彼の目は潤みだしていた。


「かわいいってやっぱりいい……」

ギュッと手を握られる。

その手つきは変態そのもので、指で手のひらを押しつぶしては腹で撫でる。

人前で大胆すぎる情欲をみせた彼に私は真っ赤になって背筋を伸ばした。


「す、鈴木くんっ! 何やって……!」

「……ハッ!? ご、ごめん。が、我慢しなきゃ。武藤さん、離れて……」

そう言っておきながら一向に手が離れない。

周りは冷やかすばかりで、この場所に私の救いはなかった。
「ほら座れ座れ。チャイム鳴り終わってるぞ」

いつのまにか朝のチャイムが鳴っていたようで、担任の橋場が教室へと入ってくる。

手慣れた様子で隅っこに集まった生徒を散らし、席へと座らせた。

残された私と彼を橋場はじとっと見下ろし、大きくため息を吐いた。


「先生は生徒の色恋沙汰に興味ありませーん。さっさと座れ」

「いっ!? ご、ごめんなさいっ!!」


もう限界だと私は彼を突き飛ばし、走って席へと座る。

背を丸めて俯いていると、よろよろとしながら彼が席の前に立つ。


「ん? 机どうした?」

座ろうとしない彼にようやく橋場は彼の席にある異常に気付いた。


「……脱皮? なんかよくわからんが片付けろよ?」

「……はい」

それはこの世の終わりといった絶望感。

ティッシュ越しにそれを摘まみ、指先だけでごみ箱へと運んでいく。

女子たちは身を引いて苦笑いをし、男子たちはゲラゲラと笑っている。

……何かが脱皮したようなそれを片付ける彼は非常に辛そうだった。


ーーーーーー


それから彼の周りで不思議なことが起きるようになった。


「それで他のクラスの奴らに撮られててよぅ。アイツら動画あげやがって」

「お、これか? うわー、見事に逃げられてる」

「こっちはハートが傷だらけなんだよぅ!」


ーーシュッ!! バシッ、ボトッ……。


拓海を含めたクラスの男子生徒と喋っていた彼の後頭部に何かが飛んできた。

視界の中に飛び込んできた異物に視線を下すと、彼の後ろにはゴムでできた中年男性の顔マスクが落ちていた。

それを拓海が拾い、まわりの男子たちが指をさして笑い出す。


「えっ!? なにこのオヤジ顔! ……って、おい。隼斗、大丈夫か?」


彼はその場にしゃがみこみ、すっかりしょんぼりとして丸くなっていた。

落ち込む彼の前に拓海がゴム顔をぶらぶらさせ、からかっている。


「笑った天罰だ」

「……臭い」


どうやらゴム臭さが彼の鼻を刺激しているらしい。


「やだー。隼斗、今日どうしたの?」


クラスメイトの女子がやや引き気味に彼に問う。


「……知らない。オレが聞きたいくらいだよ」

(あんな眉間に皺寄せた鈴木くん、はじめて)


相当彼にダメージを与えているようだ。

どこから飛んできたのか不明なゴム顔はしわくちゃの中年男性。

加齢臭代わりのゴム臭さに彼は渋そうな顔をしていた。


「鈴木くん、大丈夫?」


どうしても気になってしまい、私は後先考えずに声をかける。


「だ、大丈夫っ! ありがとね!」


だが彼から距離をとられてしまう。

彼のことが心配な気持ちと保身で板挟みとなり、私は追いかけることが出来なかった。
家庭科室での調理実習に盛り上がりを見せ、教室内がいつもより音に溢れている。

カレーライスとクッキーを作る班に分かれており、私はカレーライス班として黙々と作業を行っていた。


(美味しそうに出来てよかった)


他の生徒がご飯を皿によそい、私がルーをかけていく作業だが手が震えてしまう。


(キレイに盛り付け、キレイに盛り付け……)

緊張はかろうじて表に出ず、それは食欲のそそるカレーライスの出来上がりとなった。

ホッと息を吐き、安心に胸をなでおろすと突如、背後から冷たい空気を感じ背筋を震わせる。


(な、なに?)


それは彼と、彼と仲の良い女子生徒の会話だった。


「ご、ごめん。うちの班、みんな料理が下手な集まりだったみたいで……全部焦げちゃった」

「……仕方ないよ。オレも料理得意じゃないからわかるよ」

「で、でね? オーブンのところに紙袋と手紙が置かれてて……」


紙袋の中を彼がのぞきこむ。

とたんに鼻をつまみ、ググっと眉間に皺を寄せて後退っていた。


「焼きすぎてごめんなさい。お詫びにどうぞって残されてたの」

「ひ、干物?」

「誰が置いたんだろうね~?」

「……とりあえず、片付けしよっか」


彼はこれ以上、紙袋の中身を見る気がないようだ。

手を前に出し、青ざめてため息をつきながら歩き出す。


(なんだか……鈴木くんがまた落ち込んでる?)


騒がしい中で私は会話を聞き取れない。

カレーの香ばしい匂いでわからないが、紙袋からちらりと干物が見えたような気がした。

クッキーを焦がして落ち込んでいたかと思えば、干物を見た途端に彼はげっそりしてしまった。

気にはなるものの、私は傍観者となって立っていることしか出来なかった。


「ひなたちゃん、カレー出来た?」


別班でカレーを作っていた特進クラスの絵里が声をかけてくる。

私はやや背伸びをしながら頷き、じっと絵里の大きな黒目を見た。

にこっと模範的な笑顔を浮かべる絵里がちょんちょんと指をさす。

その方向を見ると干物をどうするか悩み、教師に相談する女子生徒の集団。

それが一体なんだろうと首を傾げると、絵里が苦笑いをしていた。


「ごめんね」

(……ごめんって言った?)


それは聞き直して良いものなのか。

わからずに反応できずにいると、絵里は友人に腕を引かれて去ってしまった。


(干物……?)


結局、彼の身の回りで起きている珍事件は解決することなく、時間は過ぎていった。

放課後、私は掃除当番を終えてその片付けをしていた。

スカートに入れていたスマートフォンを手に取ると、メールボックスのアイコンが受信を知らせている。

箒を壁にたてかけ、メールボックスを開くとアルバイトを募集していたところから面接日の連絡が来ていた。

順調にことが進み、私の気持ちは舞い上がる。


(これで決まればまたお金貯めていかないと!)


ふと、彼の笑顔が脳裏に過った。


(鈴木くんにはお世話になったし、報告はしておいた方がいいよね?)


彼が見つめてくれなかったら、彼が考えてくれなければ。

私は先へ進む勇気がもてなかったかもしれない。

アルバイトに応募するだけで私には重い選択であり、恐怖の塊だ。

他人から見たら小さなことでも、私には大きな大きな一歩だった。


(鈴木くん、まだいるかな?)


片付けを終えて教室内を見渡す。

いつもなら目立つ彼が教室の隅っこで換気のため開けていた窓から外を眺めている。

風が入り込み、彼の赤褐色の髪がなびいていた。


「……武藤さん」

「あ……」


風を追うように視線を動かした彼と目が合う。

声をかけることも出来ないのに、私は無意識に彼の前まで歩み寄っていた。

まだ明るさの戻らない彼が無理やり口角をあげ、クシャっと笑う。


「今日は掃除当番だったの?」

「うん……」

(なんだか、変なの)


別世界で生きている人が同じ目線になったような……。

手の届かない人も同じ人間だとわかっていながら、遠くに見えてしまう。

そうやって彼を認識していたが、今日の彼は弱々しい。

無自覚に私を引き寄せる。

背伸びをして、私は彼の頬に手を伸ばしていた。



「うわっ!?」


バクバク。

喉のヒリヒリ感と、目が渇く感覚。

驚きが重なって距離が出来る。

耳まで真っ赤にした彼が動揺し、じりじりと後退りながら顔を隠していた。


「ごめっ……! オレ、帰るからっ……!」

「まっ……待って!」


腕を掴んで引き止めてしまう。


「えっと、どうしたの?」

「あの……その……」


衝動だった。

今まではきっと背中を見送るだけだった。

言葉を間違えることに怯えて手を引っ込めるばかり。
「あ……アルバイトなんだけど」

そんな私が手を伸ばしている。

背を向けないでほしいと。

私の言葉を聞いてほしいと。

……彼の反応を見てみたいと、抑えきれない欲望に支配された。


「面接決まったから鈴木くんにはちゃんと伝えておきたく……て!?」

「よかった! 気になってたんだ!」


がしっと手を握られ、上からキラキラの星が降ってくる。

じめっとした空気を吹き飛ばして眩い笑顔が心臓を鷲掴みしてきた。


「武藤さんならきちんと丁寧な仕事出来るよ! だって料理だってあんなに手際いいし!」

息をのみ、短い悲鳴をあげる。


「み、みみ見てたの!?」
「あ、えっと、その……ごめんなさい」

どんどん小声になっていき、ソワソワした目つきで私の顔色を伺ってくる。

なんとなく彼が俯いているのは嫌だと思った。

弾けるように笑ったり、慈愛に満ちた穏やかな笑顔の彼を見ていたい。

私にとっては太陽のような人であり、落ち込んでいるならば顔を持ち上げたくなった。


「怒ってないからいいよ」


どうしてこんな気持ちになるのだろう。

いや、本当はわかっている。

わかってて、頭の中でも言語化しないように意識を反らした。

のろのろドンくさい歩き方で、つまずいては転ぶを繰り返す。

それでも彼は笑って手を差し伸べてくれた。

いつ、その笑顔は苛立ちに変わると不安になっていた。

それが訪れても「ほらやっぱり」と分かった顔をしたがる。

そうやって構えていても、彼の表情は想像を超えてうっとりと見つめてきた。

情欲に濡れる瞳に恥ずかしくなり、赤面すると彼はハッとして後退る。


「ごめん。あんまり見ないで」


廊下にたまる男子たちの輪へ逃げようと彼は背を向けようとした。

背中は見たくないと、離れようとする彼の手につかみかかった。

いつもと立場が逆転し、お互いに言葉が出てこない。

そうやって見つめ合い、やがて彼が折れて赤くなって吐息混じりに声を出す。


「かわいくて抱きしめたくなっちゃうから。……怖がらせてしまうから、ごめんね」


先に拒絶したのは私だ。

彼を遠ざけたくて冷たい言葉を吐いた。

情緒不安定さから逃げ癖に甘えて私から背を向けていた。

怒ることのない彼を試すように何度も突き放して……。

新しく見えた顔は、罪悪感に押しつぶされそうな戸惑う顔だった。

「オレ、帰るね。帰り、気をつけて」


私は世界一のワガママだ。

拒絶して、怖がって、自分の殻に閉じこもった。

だが怒りではなく、悲しみを見た瞬間に私は焦燥感に襲われる。

気持ちを直視する勇気なんてないくせに、彼にはそんな表情でいてほしくないと願う。

好意を向けられることは怖いが、失うのは嫌だった。

返せるものはないのに、欲してばかりのワガママ娘だった。


「……おいていかないで」


こんなか細い声ではきっと届かない。

言葉に込めた気持ちは簡単には伝わらない。

届いたところで歪みが歪みを生んでいく。

言葉が届かない恐怖も、言葉が受け取れない苦しみも、知っている。

それでも私は泥水をすすって諦めることが出来ずにいた。


「武藤さん、いま……」


怯えていたのは、執着していたから。

自分を傷つけるのは、気持ちの裏返し。

ほしいものほど遠ざけるのは、拒絶されるのが怖いからだ。

自分がされて一番嫌なことを人にする卑怯者。

そんな私が今できる精一杯が、琴線に触れた想いを口にすることだった。


「どうしたらいいとか、何にもわかんないけど私ーーっ!」


ーーバシッ!!

「「……」」


夢から覚めたような気分だった。

閉ざされていた音が一気にあふれ出す。

熱っぽく浮いていた視界がはっきりとした輪郭を出していき、足元に落ちた”顔”も鮮明だ。


(……顔?)

休み時間にどこからか飛んできたゴムの顔。

しわくちゃの中年男性が哀愁を漂わせながら地面に落ちている。


(シュール……)

それを笑いとばせるだけの力が私にはない。

困惑だけが残り、私は恐る恐る顔をあげて彼を見た。


「……もうムリ」

「鈴木くん?」


それは見たことのない新しい彼。


「あーっ! もうムリ! かわいくねぇ!!」


赤鬼が顕現する。

鋭い眼光が廊下で身を潜める一人の女子生徒に向けられた。

ずんずん詰め寄り、女子生徒の首根っこを掴んで声を荒げた。


「お前ふざけんなよ、何なんだよ!」

「や、やばぁ……」

捕まってギクッと身を縮め、汗をダラダラと流す。

こげ茶色の髪を二つに結い、眼鏡をかけた色白の女の子。