今までは浮世事のようにしか感じなかった彼の恋情を知る。
こんなにも熱くて深い愛情が急に襲い掛かってきて、私は硬直ばかり。
顔を上げた彼の目が真っ赤になり、弱々しく潤んでいるものだから口ごもってしまう。
「ちゃんと大事にするから。 だから別れるなんて言わないでくれ」
情熱的な目で見られ、顔が赤くなり汗が吹き出る。
「オレ、武藤さんが好きなんだ。前からずっと、気になって仕方なかった」
(前からずっと?)
「……わかんない。なんで好きなのか、理解できない」
こんなソワソワする彼を見ているともう疑えない。
冗談でもなく、彼は本気で告白してきた。
だがいずれにしても華やかで羨望の的になる彼と私では釣り合わない。
この距離感は間違っている。
……そう、断言できるはずだったのに。
「だって武藤さんってめちゃくちゃかわいいから」
「……はい?」
それはカチッとスイッチが入ったように変貌した。
あの爽やかでカッコイイはずの彼が、弾けるように目をカッと開いている。
ひたすら早口に言葉をまくしたてるので、ついには耳が追い付かない。
「ご飯食べてる時とか、いつもビクビクしてるところとか、すぐそそくさとどこか走っていくところとか」
「ままま、待って! 早い!」
興奮冷めやらぬと彼は深く息を吸い込む。
目まぐるしいスピード感にくらくらして、嬉々と爆発する彼の肩を押す。
「な、なんのご冗談を?」
「そんなわけない! めちゃくちゃ褒めてるよっ!」
毎朝、教室の花に水あげてる優しいところとか。
みんなが騒いで物が落ちてたりするのをこっそり拾って元に戻してるところ。
なんか隠れてかわいいことしてるなってずっと思ってたと、口角を上げて惚気ている。
もう早すぎて言葉として受け取れず、私は石になって彼の感情だけを受け止めた。
「ーーっとにかく! かわいいんだ。武藤さんが何しててもかわいく見える。……それが好きな理由じゃダメ?」
ネガティブな感情が殴り飛ばされる。
強烈な愛情に酔って視界がぐらついていた。
断片的にしか言葉を受け取れなくても、彼の言いたいことは極めて一つ。
”かわいい”と彼は言いたいのだ。
自己否定の塊の私がこうも褒められ、おだてられ、持ち上げられてとわけが分からない。
褒めてくれたこともおそらく彼が思ってるような理由で行ったものではない。
人と上手く関われない。
ただそれだけであり、自分なりに居場所を作ろうとして動いていただけの欲だ。
彼の”かわいい”に応えられるだけの”かわいさ”はない。
人間というものは他人のネガティブは嫌いなもので、距離をとるべき人の代名詞でもある。
「なおさら別れた方がいいよ」
「なら時間ちょうだい! 絶対、武藤さんのこと大事にするから!!」
こんなに愛情をぶつけられて泣かずにはいられない。
世界は音でごちゃごちゃしていて、厳しく冷たい鞭ばかりが襲ってくる。
「好きに……なってもらいたい」
そんな世界で彼は甘い。
唇をきゅっと結び、切なそうに見つめられるとさすがの私も胸が高鳴るというものだ。
「卒業まで……いや、半年でもいいから! ……付き合ってください」
現在が新しいクラスになり、長期休みを終えたばかりの5月。
謙虚な発言に見えて、結構がっつりとお付き合い期間を主張している。
情熱的で欲深い。
自分を卑下してばかりの私が顔をあげて彼を見ている。
(ずるい。こんな風に言われたら私が悪いみたい)
前を向いて歩いてもいいのだろうか?
辛辣な世界に灯る明るさに手を伸ばしていいのか。
背伸びをしては落ち込んでを繰り返す。
強くありたいと覚悟するにはまだ怖い。
だが彼の手を取るくらいの勇気なら出せるかもしれないと、無意識に口を開いていた。
ーーきゅっ……。
「わ、別れたくなったらすぐに言ってね」
「絶対言わない! ありがとう!!」
底なしの明るさに私は強張っていた頬を緩める。
チクッと痛む胸に手をあてながら、つられて笑った。
愛情には上限がある。
最低ラインまで下がってしまえばその先は氷雨。
いつか彼はきっと嫌ってくれる。
この手を取ることは彼の純粋さを裏切るかのようだ。
「武藤さん好き。めっちゃ好き!」
「いたっ!? 痛いっ! 痛いってばぁ!」
……裏切られたという点では同じか。
彼の愛情はかなりオーバーな気がする。
強気なのか弱気なのか、よくわからないアンバランスな彼とお付き合いは継続となる。
彼にとっての”かわいい”とは危険で爆発的なものだと知るのはもう少し先のこと。
「じゃあ、ペア組んでストレッチからなー」
その言葉を聞くたびにいつも絶望する。
和気あいあい女子たちがペアを組んでストレッチをはじめるなか、私はコソコソとその場から逃走した。
(むーりーっ!!)
体育の時間は苦手だ。
運動が嫌いなわけではないけれど、私はあの中には入れない。
ペアを組む相手がいなくてオロオロしていると、気づかって声をかけてくれる人もいる。
その中に入ったときに「気にしなくて大丈夫だよ~」と言われるたび、私は土下座をしたい気持ちでいっぱいだ。
惨めさと、罪悪感と……ひたすら自己嫌悪。
人と同じように笑えばいいだけのことだろうが、それがとても難しい。
普通の女子高生に憧れながら、普通が一番難しいことに気づく。
体育館の裏で段差の部分に座り込み、膝をかかえてうずくまる。
早く終われと願う時ほど、時間が経過するのは遅かった。
体育館から聞こえてくるボールの弾ける音に耳を傾け、顔をあげた。
中からバスケットボールが転がってきて、壁にぶつかって逆走し、止まる。
このままではボールは外に放り出されたままだと、私は立ち上がってボールを拾う。
「そっと投げ入れれば……」
「あ、武藤さん」
「ひあーっ!?」
「あ、ごめん」
ボールを返そうと体育館の中を覗き込むと、扉付近に立っていたであろう彼と目が合う。
勢いだけで後退り壁まで叫んで走る。
クスクスと笑いながら彼は体育館から出てきて、長身で私を見下ろす。
「もしかしてサボり?」
「あぅ……」
グサッと罪深さが痛む。
胸を押さえ、いたたまれずにソワソワしていると彼はふわりと頬を紅潮させて私の頭を撫でる。
このスマートな手癖はなんだろうと思いながらも、振り払う気にはなれずに受け入れた。
「女子ってたしかテニスだよね?」
「そうだけど。……ごめんなさい」
「謝ることあった?」
「さ、サボってるし!」
逃げてばかりの性格だが、基本的には真面目だと認識している。
アルバイトでお金を稼ぐだけで目標が達成できるとは思っていない。
コミュニケーションが満足に取れないのならば相応の学が必要だと考えていた。
だからといって勉強が得意というわけでもないので、周りに置いていかれないよう意地を張っていただけだった。
がんじがらめの私を解くように彼はマシュマロみたいに甘く笑う。
頭を撫でられているとまるで小動物のような気分だった。
「体育苦手な人もいるだろうし、いいんじゃない?」
彼はいつだって開放的で風みたいだ。
優しい見た目からは想像も出来ない熱い感情を秘めている。
それを向けられるとこっぱずかしくなるものだ。
「苦手な人は別なこと出来たらいいのになー。応援に徹するとか、ランニングだけとか」
(ゆるい! 鈴木くん、ゆるいよ!)
うらやましいと思いつつも、マネできることでもない。
根っこに染み付いたネガティブとは相当にしつこいものだ。
自己肯定感をあげようとし、前向きな行動に取り組んでみては病む。
行動そのものが負担であり、容易ではないからだ。
そんなことも考える必要がないくらいに気楽に構えたいと思うものの、胸にはぽっかりと穴が空いたままだった。
「よかったら男子のバスケでも見ていかない?」
「えっ!?」
「中に入らなきゃバレないよ」
背筋を伸ばしてニッと笑う彼は眩しい。
「オレ、バスケには自信あるから見てて」
艶めき柔らかくなる彼に目を奪われ、私は反応できずにいた。
「ボール拾ってくれてありがと。また後で」
全てを包み込んでくれるようなやさしさに手を伸ばしそうになる。
少し指先が反応してグッと引っ込めた。
好きだと告げられて以降、彼の態度は変わらない。
全力で愛情を示してくれるので、一見完璧な恋人だ。
だが抱きしめられたときのインパクトはまだ残っている。
私を好きだという時点で変わり者なのだから、表面だけでは判断しがたいものがあった。
そうマイナスに考えつつも、彼を見ていたいという好奇心はあった。
こっそりと扉の隙間から体育館を覗き込む。
中ではバスケットボールの試合が行われ、彼が粒の汗を弾いて走っていた。
「拓海、こっちパスッ!」
「わわわ! みんな囲むなよぉ! ええい、パス!」
「ナイスパスッ!」
天翔ける翼のはえた人みたいだ。
軽やかにフリースローを決め、スパッと清々しくガッツポーズをとる。
あまりに華麗に決めるものだから周りの男子たちは興奮して盛り上がっていた。
その輪の中心になって彼はキラキラと笑う。
「自分からパス求めるなんて珍しいな」
「いやー、チャンスかなって」
「拓海も囲まれてたからな」
「みんな酷いよ! 俺ばっかり囲んで!」
陽キャの塊は眩しいではなく、もはや失明レベル。
彼らにとって楽しい声は私には混ざって言葉にならない。
誰かが喋っている音となり、言葉を受け取れない私はゆっくりと手を下す。
「全然違う。……遠い人なんだな」
近づきたいと思うことも叶わない人。
生粋のネガティブは天然ものの明るさに消滅する。
煤のような存在になぜ”かわいい”という言葉が出るのだろう。
わからない。
だからと言って問うことも出来ない私は意気地なし。
ーーーーーーーーー
(そろ~り……)
授業を終え、教室に戻りまた授業。
そうして午前が過ぎると私は忍び足で教室を去ろうとする。
「武藤さん」
「ひゃいいっ!?」
(見つかったー!!)
彼の視界に入ることが怖くて逃げようとした。
だが彼の全方位レーダーには敵わず、私の手首は彼という枷をつけていた。
ぎこちない錆びついた動きで振り返る。
「鈴木くん……」
じっと見つめられ、言葉がない。
長身の彼から見下ろされると少しだけ圧迫感があり怖い。
無意識に身体がびくびく震えてしまう。
「あのぉ?」
「あ、ごめん。つい」
パッと目を反らし、顔を隠す。
「かわいくて見ちゃった」
耳まで真っ赤な彼に私まで恥ずかしくなり、紅潮した。
こうも直接的な愛情を見ると勘違いばかりだ。
「お昼、一緒に食べよ?」
「あの、私一人で……」
「無理にとは言わないけど、少しでも一緒にいたいなー」
最近、絶滅したであろう押せ押せの肉食動物。
類まれな存在はきっと太陽よりも燃えるように熱い。
「振り向いてもらうための時間は限られてるし……ね?」
(そんなのずるい。断れるほど私は……)
ーー強くない。
「……はい」
大切にされるとはこうもふわふわした感覚なのだろうか。
世の中にいるキラキラした人たちは生まれつきの天使だ。
なれば私は追い出され、爪弾きとなった欠陥品。
欠けた部分は繊細で、触れられるとやたら泣きたくなるものだった。
(糖分過多……につき注意)
教室の片隅で食べるか、人目につかない場所をさがして食事をとる。
酷い時には清潔感に欠けた場所に隠れたこともあった。
そんな私が強者の称号を得たような場所で彼氏とお昼を食べている。
(ありえないっ!!)
校舎内のベンチでだらだらと汗をかきながら、巾着袋にいれた弁当を取り出す。
「お、武藤さんはお弁当なんだ!」
「ひゃいっ!」
ここは風通しもよく、声が聞き取りやすい。
まっすぐに飛んでくる言葉にドキドキしながら目を回す。
弁当生活なのは一円でも多くためたいという節約であり、決して料理好きでない。
女子らしいかわいさがなくてごめんなさいと自爆した。
「すごいなぁ。オレは料理が上手く出来なくて」
「でもお弁当持ってきて……」
言葉が出てこない。
見れなくはないが、形の悪く潰れたおにぎりに焦げ付いた卵焼き。
白と黄色しかない単純さだった。
「おにぎり上手く握れなくて。あとつい焼きすぎちゃうんだよね」
おそらく米の量に対しての圧縮度は高いだろう。
妙に艶の多いおにぎりだった。
彼はおにぎりを頬張りながらスマートフォンをいじり、画像をスライドさせている。
「例えばこれなんかはー」
黒い。
それは輪っかが炭と化したドーナツ。
食べれないことはないだろうが、側面はそぎ落とす必要がある。
楽しそうに笑う彼を見ているとそれも悪くはないと邪気がおとされた。
ちょっと過剰なだけだろうと、私は明るい彼にソワソワする。
「ドーナツって……甘いもの好き?」
それはほんのわずかの好奇心。
背伸びのようなものだが、彼にはそうとう嬉しかったのだろう。
ぱぁっと表情を輝かせ、ウキウキとしながら他の画像も見せてくる。
「スイーツはすごいよ。癒される」
砂糖多めの彼はやっぱり糖分多めで出来ている。
ただ一般的な量と比較すると、それはまだ私にはわからない量なのだろう。
「マカロンとか握りつぶしたくなる……」
「に、にぎ?」
「ごめん! なんでもない!!」
大きく笑ってスマートフォンをしまい、おにぎりにかぶりつく。
時折、彼からは枠組みを超えた何かを感じた。
草食を超え、絶滅危惧種となる私は気配に敏感だ。
彼からは稀にぶわっと桃色の塊みたいなものが飛び出てきていた。
……それも考えすぎだろうと、内に秘めるしかなかった。
「あ! 隼斗だー!」
ここは校舎内のベンチ。
陽気な人たちの居住地だ。
私にとって危険地帯となる場所で、華やかな女子が現れるのも必然だった。
「おー、絵里。どーした?」
気さくでフレンドリーな彼はいつも教室で見せている表情と変わらない笑顔で対応する。
「生徒会でちょっとねー。雑用ばっかで嫌になっちゃう」
「大変だなー。まぁがんばれよ?」
「大学推薦狙ってるからね! 早めに受験を終わらせるに越したことはないわ!」
将来をしっかりと考え、計画的に動くタイプだと察し身構える。
絵里の制服を見ると、胸ポケットの校章の横に特進クラスのバッチがついていた。
生徒会も進んで行っている様子で、自分の足で土台を作る女の子だった。
「えらいなぁ。計画的に動いてて尊敬するよ」
「隼斗がゆるすぎなだけよ」
ははっと笑い、受け流す彼。
基本的に彼はゆるい性格をしており、何かに執着することもなくさらっとしている。
付き合うようになってから彼から時折捕食者のような視線を感じるのは意外なことであった。
「ところで隣の子は誰? 見たことはあるけど名前は知らなくて」
黒髪のミディアムストレートの髪を後ろに流し、凛とした切れ長の目で見下ろされる。
私は絵里のことを顔も名前も知らなかったので、一方的に覚えられていることがいたたまれない。
人と話すことが少ないからかもしれないが、私はなかなか人の顔と名前が覚えられなかった。
誰かもわからない人に怯えてばかりの卑屈女子だ。
「あぁ、武藤さんのこと? 同じクラスでオレの彼女ですっ!」
俯き癖のある私でも彼の言葉には顔を上げざるを得ない。
そんな晴れ晴れとした顔をして堂々と言わないでほしいと涙目になった。
付き合ったのも最近の話のため、絵里は目を見開き声をあげる。
「えっ!? 彼女いたの!?」
「なんだよその反応。別にいいだろ、好きな子なんだし」
「いや、意外だった。あんたは恋愛に興味ないと思ってたよ」
「人並みにはあるけど?」
「誰に告られても付き合わなかったくせに」
やはり彼は別次元の人なのだと実感する。
誰かに告白されるくらいには好意を得て生きる人。
周囲に無頓着な私でさえ、女子たちが彼を見て騒いでいるのを知っている。
人の輪に入れないような凡人以下の私が見ることさえ許されない人だと思っていた。
「武藤さんが一番かわいいし、好きだから」
褒められるどころか、人の目に触れることに慣れていない私には直球すぎるもの。
一撃必殺と空高く飛ばされる勢いで彼の愛情が襲ってきた。
小さくなってびくびく震えるしかない私に彼はピカピカしている。
「うわ、ガチじゃん」
「あ、あの……大げさ……」
「大げさじゃないよ。武藤さんはかわいいよ」
浄化されて消し飛びそうだ。
何故そうも躊躇いなく好意を表に出せるのか。
今まで関わったことがないというのに、その全力な愛情はどこから湧いたのだろう。
砂糖菓子のような彼の甘さは私だけでなく、絵里にも伝わるくらい威力があった。
「絵里ちゃーん! 橋場先生が呼んでるー!」
「今いくー!」
渡り廊下から同じ特進クラスの女子に呼ばれ、絵里が振り返る。
ふぅと一息をつくと、やや顔をしかめてこちらを見た。
「ま……まあ、おめでとう。お邪魔なようだから行くわ……」
「というわけで認識よろしく」
「はいはい、じゃーね」
(ああああ! 外堀が埋められていくぅ……)
どうせすぐに嫌われる。
押しに押されてお付き合いをしているが、彼の愛情はなくなるどころか肥大していく。
逃げても逃げても四方八方塞がれたようなもの。
理由を聞いたところで甘く口説かれてしまうとわかっていたので口を閉ざしていた。
「そうだ、うちのさぎうさなんだけど」
絵里が去ってすぐ彼は次の話題へと切り替える。
”さぎうさ”と聞き覚えのある存在に私は表情を明るくして彼を見た。
「さぎうさちゃん。あの子かわいいよね。元気?」
さぎうさはキリッとした濃い顔をしていながら、中身は人懐っこくかわいらしい。
動物好きな私にとって犬は非常に和む存在だった。
ところがそれが彼にはありえない回答だったらしく、ぎょっとして私の腕を掴んできた。
短い悲鳴が私の口から洩れる。
「かわいい!? 全然かわいくないよっ! 武藤さんと比べ物にならないくらいかわいくない!!」
(あれ、鈴木くんちの子だよね? かわいくないの?)
「クシャッとしててかわいいと思うけど……」
このやさしい眼差しに唇をきゅっと結ぶ。
こうして縮こまるときにやさしく声をかけられると涙が出そうになった。
泣いたら人を困らせると、私は彼から目を反らして震える声で会話を続ける。
「や……れそうなバイトがあまりなくて」
「高校生だと出来るの限られるからね。コンビニとかカフェは?」
「……接客は避けたくて」
「うーん、なら調理はどうかな? 裏方だし、お客さんとあまり関わらないよ」
幅の狭い選択肢のなかで彼は思いつく限りのアイデアを出してくる。
ワガママばかりの私にあわせて、前の席に座ってにこっと微笑んできた。
「武藤さん、料理出来るんだし」
「調理……」
意見が出たところで先にマイナス要素が思い浮かぶのが情けない。
ドンくさくて不器用な私にてきぱきと動くことを要求されてこなせるだろうか。
ドタバタしているときに指示されて聞き直さずに理解できるだろうか。
やってもいないくせに、不安ばかりを具体的に想像する。
前向きにとらえられず、返事が出来ないことにまた自己嫌悪した。
「……ねぇ、武藤さん。週末、一緒に出かけない?」
「えっ?」
(週末って言った?)
「煮詰まってても仕方ないしさ。少しリラックスしようよ」
彼は私の中に新しい風を通してくれる。
「フラフラしてたらやりたいこと見つけられるかもしれないし」
一人でうずくまり、負のループに陥りがちな私に手を差し出してくれる。
怯えて握り返せないでいると、向こうからぐっと引っ張ってくるものだから息をのむ。
前向きな姿に私は泣いてしまいそうだ。
唇を震わせながら、私はあたたかい気持ちが嬉しくて笑った。
「うん。……動物園、行きたいな」
「っうん! 行こう!」
前を向きたい。
だけど私は前を向こうとして頑張ってしまう。
結局、頑張ってもうまくいかずに落ち込んでいた。
彼のそれでもいいよ、と絶対的に受け入れてくれる姿勢。
考えて動くことが出来ない私の手が、いつのまにか彼の手を握り返していた。