わたしの住んでいるマンションは、一乗寺というところにある。

一乗寺と聞いて、大抵の人が最初に思い浮かべるのはラーメンだろう。超濃厚スープで有名な「極鶏」や、ボリューム満点の「夢を語れ」など、行列のできる店が数多く立ち並ぶ、西のラーメン激戦区。それが、一般的な一乗寺のイメージだ。

だけどその一方で、おしゃれなカフェや雑貨屋がひっそりと存在する、小粋な場所であるのもまた事実。これはもしかしたら、ここに住んでいる人しか知らないことなのかも。

急遽、間崎教授の担当する金曜2限の講義が休講になった。1限目は元々講義を取っていないため、午前中が丸々あいたことになる。それならゆっくり寝ていればよかったのだけれど、こういう日に限って早く目が覚めてしまった。このぽっかりあいた時間をどう埋めようか。二度寝するのももったいないし、せっかくならば、少し近くを散策してみよう。そう思い立って、わたしは部屋の隅に置きっ放しだった段ボールを開いた。

奥底から取り出したのは、愛用の一眼レフカメラだ。黒くって、つやつやしていて、手に持つとずしりと懐かしい重みがある。受験生になる前は、時間があればこのカメラを持って写真を撮りに出かけていたっけ。最近まで忙しくてなかなか機会がなかったけれど、せっかく京都に来たのだから、たくさん写真を撮らなければもったいないわ。わたしはカメラを手に取って、勢いよく部屋から飛び出した。

本日はお日柄もよく、ふと見上げればラムネ色の空がどこまでも続く。桜は散ってしまったけれど、まだまだ春は終わらない。だってね、生まれ変わったようなこの空は、確かに春の色をしているわ。肩まで伸びた黒髪を揺らす風は、琵琶湖疏水からやってきたようにみずみずしいし、耳をすませば、そばを走る叡山電車がガタンコトンと祭囃子のような音を奏でる。きっと心に余裕がなければ気づけない。ありふれた日常がこんなにも、楽しさに満ち溢れているってことに!

曼殊院通を西に進むと、左手にレンガ造りのレトロな建物が見えてきた。「けいぶん社」という丸文字が書かれた看板が特徴的だ。店の前には小さな椅子と植木が、かわいらしく並べられている。

恵文社一乗寺店は、京都好きには言わずと知れた有名な本屋だ。おしゃれな外観だけでも目を引くものがあるけれど、それだけでなく、取り扱っている書物が少し特殊でおもしろいから。

普通の本屋なら流行の本、売れる本を置くのが常だろうけれど、ここでは大型書店の物置に入っていそうな本、つまりニッチな書物がたくさん揃っている。併設されているギャラリー「アンフェール」では個性的な文具が置かれているほか、さまざまな個展が開催されているし、「生活館」と呼ばれるフロアでは、衣食住にまつわる書籍だけでなく生活雑貨まで置かれているので、何度行っても飽きることはない。

マンションから徒歩3分くらいの場所にあるため、忙しさに追われた日々の中でも、買い物ついでに立ち寄ることがよくあった。何を買うわけでもないけれど、なんだかよく分からない写真集や、米粒ほどの小さな黒板消しを見て、忘れかけていた子供心をくすぐられるのが心地よかった。この日も、せっかくならちょっと寄っていこうかしら、と、恵文社の扉を開けたのである。

通い慣れたなじみの本屋。立ち寄ったのもただの気まぐれ。それなのにまさか――あんなことに、なるなんて。





いつものようにぱらぱらと写真集をめくっていると、ふっと視界に影が落ちた。後ろから誰かがやってきて、わたしと同じように棚から写真集を取り出す。ちらり、と何気なく隣を見たわたしはぎょっとした。

眼鏡の隙間から見える憂いを帯びた瞳に、少し茶色がかった、やわらかそうな髪。そこにいたのは、いつも遠くから見ているだけの人――間崎教授だ。

一体なぜこんな場所にいるのだろう。休講になったのは、てっきり他の用事ができたからだと思っていたのに。あっけにとられてその横顔を見つめてみるけれど、教授が気づく気配はない。今手にした写真集を、ぱらりぱらりと、わたしと同じように眺めている。

どうしよう。適切な言葉を探す前に、口が開いてしまったわ。呼吸音だけ聞こえるのが恥ずかしくて、慌ててきゅっと唇を結ぶ。茂庵で出会ったあと、何度も話しかけようとしたの。でも、講義が終わったら学生なんて見向きもしないで、風のように教室を出てしまうから、結局まだ、何も伝えられていないの。

「……間崎、教授」

こうして直接名前を呼ぶのもこれが初めて。だから、少しだけ声が震えてしまった。絶対に壊してはいけないガラス細工に触れる時のように、緊張が小さな胸を支配して、なぜだか怯えてしまったの。立場が上の人に話しかけるのって、やっぱりいくつになっても緊張する。

教授は写真集から顔を上げ、薄い色の瞳でわたしを捉えた。茂庵で出会った時のように、表情を変えることもなく、ああ、ともうん、とも言わず。まるで、わたしを無機物だとでも思っているような。そんな興味のなさそうな顔をして、すぐにまた視線を戻す。

「サボりですか」

「……サ、サボってるのは教授でしょう」

慌てて言い返すと、教授はおかしそうにふふっと笑った。なぁに、そのさりげない笑みは。今の今まで、わたしを素っ気ない瞳で見ていたくせに。途端に、角ばった空気がふんわりと丸っこくなる。

「あの、わたし、御坂です。御坂琴子。……先日は、ありがとうございました」

茂庵にてアイスティーをご馳走になったお礼を言うと、教授は「何のことでしょう」とすっとぼけた声を出した。そうやって忘れたふりをするのが、大人の余裕というやつかしら。男の人にしては細く長い指が、風の仕業を装うように、はらりとページをめくっていく。それ以上何か言うこともはばかられて、わたしも再び写真集を眺めることにした。

ああ、どうして。気まぐれに立ち寄っただけなのに、教授と出会ってしまったのだろう。一度目は向かい合って。そして今は、肩を並べて。講義以外で同じ時間を共有することになるなんて思ってもいなかった。こんなに近かったら、呼吸をする音とか、心臓の音とか、全部筒抜けなんじゃないかしら。そんなどうでもいい考えが頭の中を支配して、見ているはずの写真集は、なんだか全部同じ景色に見える。特別な関係ではないし、特別な感情を抱いているわけでもないけれど。「学生A」であるわたしが、こういう特殊な空間で肩を並べていたら、そりゃあ緊張だってする。だって、お互い顔は知っているけれど、話すのはこれが初めてなんですもの。

まったく内容が入ってこない写真集を棚に戻すと、いつからだろう、教授が、じぃっとわたしを見ていることに気がついた。……いいえ、わたしではない。わたしの首にぶら下がっているカメラを、興味深そうに見つめている。

「これは、えっと、カメラです」

「そのくらい、見れば分かります。あなたは写真を撮るんですか」

「はい。小学生の頃から、父の影響で……」

わたしはしどろもどろになって答えた。なんだか恥ずかしくって、目を見ていられない。それなのに教授は、全然質問をやめてくれる気配がない。

「そうですか。……どんな写真を?」

「風景が多いです。人はあまり撮りません。せっかく京都に越してきたので、これからは神社やお寺を撮るのもいいかなって」

「それはいいですね」

静けさに満ちた店内で、ないしょ話をするように、声を潜めて話す。茂庵で出会った時は、言葉を交わすどころか、目を合わすことさえしなかったのに。普段だってそう。教授は壇上で講義をし、わたしは少し離れた場所でそれを聞いている、それだけ。いつも、たったそれだけなのに。

「私も昔から京都を巡るのがすきでね。学生時代は圓光寺に毎日通ったり、暇さえあれば桜やもみじを見に足を伸ばしたりしていたんですよ。……まぁ、今もですけど」

「へぇーっ、そうなんですね」

饒舌に話す教授を見て、わたしも自然と笑みがこぼれた。講義の時と全然違う。まるで、すきなヒーローについて語っている少年みたいな表情だ。

「もしかして、今日もどこかに出かけるつもりだったとか」

冗談めかして聞いてみたら、教授はいたずらがバレた子供のように「正解です」と声を潜めた。

「今日は久しぶりに金福寺に行こうと思って。それで、ついでにここに寄ったんですよ」

「金福寺ってどこですか? 近いんですか?」

何気なく問いかけると、それまで穏やかだった教授の表情が一変した。信じられないというように目を見開いて、わたしの呆けた顔をまじまじと見つめる。

「……御坂さん、住まいはこの辺ですか?」

「はい、すぐそこのマンションです」

「京都に来てから、近くを散策したりとか……」

「それが、バタバタしていて全然できていなくて……。カメラを持って出かけるのも、今日が初めてなんです」

「……ずいぶん熱心に私の講義を聞いていると思っていたが、他にすることがなかったからか」

講義中の穏やかな物言いとはまったく違う、棘のある声だった。意味が分からなかったけれど、なんとなく、ばかにされているんだろうなと思った。教授はすっかり興味を失ったように、手元の写真集に視線を戻した。

「せっかく京都にいるのだから、いろいろなところを巡りなさい。でないとカメラがかわいそうだ」

「教授は、カメラがおすきなんですか」

「なぜ」

「写真集をご覧になっているから」

「……カメラは、苦手だ。設定とか、構図を考えるのが面倒でね。挑戦しようと思ったこともあったけど、結局手が出なかった」

「難しく考えているから撮れないんですよ、きっと」

言い返してやると、教授は機嫌を損ねたように、じろりとわたしを睨んだ。

――おや、なんだか、何だろう。

この人、本当に間崎教授なのかしら。欠点を言い当てられた子供のような、そんな表情をするなんて。普段の教授からは考えられない。ふしぎに思って、ああ、とすぐに納得した。わたしはこの人の、表面的な部分しか知らないのだ。講義中に見せる真剣な瞳とか、上品な微笑みとか、そういう、一部分しか知らなかったのだ。

「では、あなたはさぞかしすばらしい写真を撮るんだろうね」

「……まぁ、教授よりはうまく撮れると思います」

「金福寺も知らないのに?」

「じゃあ、連れていってくださいよ!」

売り言葉に買い言葉、半ば意地になってそう言ったら、教授は渋い顔をして、「いいだろう」とうなずいた。

「その代わり、最高の写真を見せてみなさい」

こうしてわたしたちは、金福寺へ向かうことになったのである。