「……なつ! 千夏!」
遠くの方で声がして、私ははっと我に返った。見れば静那ちゃんが不思議そうに私を見ている。
「千夏、どうしたの? ぼーっとして。暑さにやられた?」
心配そうに問う静那ちゃんに、私はううん、大丈夫とだけ答えた。
辺りを見回してもさっき突っ込んできた車はどこにもない。何事もなくみんな日常を過ごしていた。
さっきのは、一体……?
「きっと水分不足なんだよ。早く行こう」
いつまでも動こうとしない私の手を、静那ちゃんが引いて歩き出した。
日差しがまだ照りつけているせいか、私の手はじんわりと汗ばんでいた。
夕方六時頃、静那ちゃんと別れた私は自宅であるアパートの階段を上がっていった。
大学生になってから借りたワンルームの古い小さなアパートだ。別に実家から通えない距離ではなかったけど、家族とはいえ、あまり人と生活が好きじゃなかった私は一人暮らしを選んだ。
鞄の中から鍵を取り出し、差し入れて回す。軽快な音を立てて鍵が開く。
「ただいま」
中に入って下駄箱の上に無動作に鍵を置く。中には誰もいないと分かってはいたけれど、つい口に出してしまっていた。
「おかえり」
返ってくるはずのない返事が返って来て、思わず靴を脱ぐ手を止めた。今確かに「おかえり」って聞こえたような……。
なるべく音を立てないように靴を脱ぐ。玄関に置いてあるビニール傘を手に取り、武器替わりに構えながらそろりそろりと中へ入る。
いつもキッチンとワンルームの間にある扉は閉めてある。玄関に入るときに声を出したから意味がないと思いつつも、なるべく音を立てないように扉に近づいて耳を澄ます。
中からは特に目立った音は聞こえないものの、何故か時折パリッと乾いた音が聞こえた。
一度深呼吸して勢いよくドアを開ける。傘を構えて部屋の中に向かって叫んだ。
「だ、誰ですか!? 警察呼びますよ!」
怖くて前を見れず、構えた傘も心なしか下を向いていた。その傘の先も自分で見て分かるほど震えていた。
「久しぶり、蓮見さん」
聞いたことあるような声に恐る恐る顔を上げて正面を見ると、一人掛けの座椅子に座った男が柔らかく微笑んでこっちを見ていた。
「葛西先輩……?」
その笑顔を見た途端私は気が抜けてしまい、気付いたら手から傘が滑り落ちていた。