明日か……。
 綾さんから引っ越しの日時を聞いて、俺は絶望していた。
 それにお腹の中には、赤ちゃんが。
 彼女は「まだ誰にも話していない」と言っていた。
 ということは、航太にも。

 自宅に戻ると、部屋の中は真っ暗で、航太はまだ眠っていた。
 ショックを受けている、彼を起こしたくない。
 だから部屋の灯りは点けないまま、キッチンでタバコを吸うことにした。
 
 換気扇の中に吸い込まれていく、白い煙を眺めて一人考え込む。

 俺は本当に無力な人間だ……。
 少しでも引っ越しの期日を伸ばそうと、抗議に行ったつもりだったのに。
 お腹に赤ん坊が入っていると聞いて、ひるんでしまった。
 だが、そのことは、彼に隠していた方が良いのだろうか?

 近くにあった灰皿でタバコの火を消すと、深いため息をつく。

「はぁ……結婚に、妊娠か」

 そう呟くと、背後からなにか大きな音が聞こえてきた。
 振り返ってみると、俺が普段使っているスエットを着た少年が立っていた。

「おっさん、その話。本当なの!?」

 しまった。航太に聞かれていたか。

  ※

 綾さんが妊娠していることを、彼に聞かれてしまった。
 しかし、バレてしまったものは仕方がない。
 俺はなぜ、綾さんが今回の引っ越しや結婚を急ぐ理由を航太に説明した。


 最初は顔を真っ赤にさせて、興奮していたが。自身の母親が妊娠していることを知ると、次第に落ち着きを取り戻していく。
 いや、正しく表現するのならば、あきらめたのだろう。
 

「じゃあ……オレ、もうすぐお兄ちゃんになるんだね」

 必死に笑顔をつくろうとする彼を見て、胸が激しく痛む。
 やはり、彼はなんだかんだ言っても、家族想いの優しい子だ。
 こんな幼い子供に、母親の綾さんは甘えている……。

「航太、無理をするな。今日ぐらい、俺に甘えても良いんだぞ?」

 そう言って、右手で彼の頭を優しく撫でると。
 やはり我慢していたようで、すすり泣く声が聞こえてきた。

「うう……やっぱり、まだここにいたいよぅ」

 これが彼の本音だとわかった瞬間、俺は航太を力いっぱい抱きしめた。
 クリスマス・パーティーの時にも抱きしめたが、あれは事故に近い。
 今回のは、本当に俺がしたいと思って、やったことだ。

「俺も同じ気持ちだ……」

 彼の耳元でそう囁くと、航太は大声で泣き叫ぶ。

「うわぁぁん!」
「……」

 今すぐこの子を連れて、どこかへ誘拐したいと思った。
 でも、俺にはそんな無責任なこと、出来るはずがない……。

 ~二時間後~

 ショックから、しばらく取り乱していた航太だが。
 時間が経つと共に、落ち着きを取り戻す。
 
「おっさん、長いことくっついてごめんね……。あのさ、お腹すいてない?」
「航太……」

 こんな時でさえ、自分のことより、他人の心配か。
 見ていられない……。

「引っ越しは明日なんだよね? なら最後におかずをたくさん作っておくよ。だって、おっさん。オレがいないとダメじゃん?」
「……」

 彼の言う通りだが、今日だけは俺に甘えて欲しい。
 そうじゃないと、俺の方がどうにかなってしまいそうだ。

「おっさん? どうしたの?」

 黙り込む俺を不思議に思ったのか、下から覗き込む。
 大きなブラウンの瞳を輝かせて……。

「あのな、料理とかしなくていいから……。俺と一緒に布団で寝てくれないか?」
「え? おっさんと一緒に?」
「変な意味じゃないんだ。たぶん最後の夜だろ? さびしくならないように、できるだけ一緒にいたいんだ」

 それを聞いた航太は、頬を赤くして、しばらく黙り込む。
 でも、別に俺からの提案を嫌がったり、恥ずかしがっているようには見えない。
 むしろ、驚いているようだ。
 俺からそんなことを言ったのが……。

「わかった。寒いし、お布団の中でなにか話そうよ!」
「ああ、そうだな」


 部屋の灯りは消したので、隣りに寝ている彼の顔はあまり見えない。
 暖房はつけているが、すきま風が入るボロアパートだ。寒いに決まっている。

 彼から「なにか話そう」と言ってくれたが、布団に入ってからあまり言葉が出ない。
 お互いの身体を密着させて恥ずかしい……というわけではなく、急に決まった引っ越しを受け入れられないのだと思う。
 なにを話していいのか、わからない。

 最初に口を開いたのは、彼からだった。
 
「おっさん、オレ……絶対またここ、”藤の丸(ふじのまる)”へ来るから」
「ああ」
「長崎にも来てよね? 住所と連絡先、あとで送るし。でも、おっさんは貧乏だから無理かな」
 
 正直、彼の皮肉に返す言葉もない。
 航太の言う通り、俺は貧乏作家だからそんな頻繁に長崎へ行くほど余裕がない。

「それでも、必ず行くよ」
「あんまり期待してない」
「……」 
「おっさん、最後だから言ってもいい?」
「ん? なんだ、遠慮せずに言ってみろ」

 俺がそう言うと、航太はなぜか黙り込んでしまう。
 そして、しばらく沈黙が続いたあと、こう言った。

「あのさ、記憶が曖昧なんだけど……クリスマスの日。オレとおっさんって、き……キスしたのかな?」
「!?」
 
 まずい。航太のやつ、記憶が残っていたのか。
 最後の夜とは言え、彼に変態と思われたくないな。

「どうなの? おっさん」
「あ、あの時はお前、かなり酔っぱらっていたからな。夢と勘違いしているんじゃないか?」
「そっか……なら、良いんだ」

 なんだ? 否定したら、少し寂しそうに見えるな。
 どっちが正解だったのだろう。