元カノの未来に、今書いているエロマンガのモデルの正体がバレてしまった……。
しかし、もう彼女を気にする必要はないだろう。
悲しい別れ方だったけど、あれぐらい強く突き放した方が、あいつのためにもなる。
俺みたいな貧乏作家を、東京へ一緒に連れて行くぐらいなら……。
まあ、それは言い訳であって。本当は航太との時間が大切だからだと思う。
今、この胸に抱いている気持ちが、恋愛感情かは分からない。
それでも、あの子が俺にとって、大事な存在になっていることは確かだ。
「……」
無我夢中でキーボードを打つこと、数時間。
真っ白な原稿は、どんどん黒い文字で埋まっていく。
あくまで作品の中だが、未成年の少女がアラサーのおっさんと激しく愛し合う。
部屋に飾っていた、クリスマスツリーが倒れるほど……。
「う~ん」
年の瀬だからと、ヒロインにミニスカサンタのコスプレを着せてみたが。
なんか、現実感が薄いような……。
ここはシンプルに塾帰りという設定にして、セーラー服を着せてみるか。
と顎に手をやり、考え込む。
すると、玄関からチャイムの音が鳴った。
部屋にかけている時計を確認すると、夕方の5時。
航太が学校から帰ってきたのか。
急いで玄関へ向かい、扉を勢いよく開いて見る。
「あ、翔くん! 久しぶりだね」
そこに立っていたのは、本物のセーラー服を着た女子高生。
「なんだ……葵か」
深いため息をつくと、葵が顔を真っ赤にさせる。
「ねぇ! なんか毎回、私に対して酷くない!?」
「別に……」
最近、航太以外だとダメだな。
※
葵がここへ来た理由は、両手に持っていたスーパーのビニール袋にあった。
中には、クリスマス向けのオードブルやローストチキン、それにケーキまでたくさん入っている。
「今夜はクリスマス・イヴじゃん? だけど翔くん、ぼっちでさびしいかと思って」
「大きなお世話だよ」
「だって、未来さんはもう東京でしょ?」
「お前、なぜその話を……」
俺が戸惑っていると、意地の悪い顔をして舌を出す。
「女同士はその辺、ネットワークがあるんですぅ~」
「くっ……」
こいつが弟だったら、ゲンコツの一発ぐらい食らわしてやりたいところだが。
「まあ、終わったことは置いといて……。翔くん、どうせ一人ならパーティーしようよ」
「え?」
「そうそう。色々と揃えてきたんだよ? 三角帽子と小さなツリーでしょ。あとね、家から……」
葵のやつが勝手に話を進めるので、俺は慌てて止めに入る。
「お、おい! なんでそんなことを俺が、お前とやるんだよ?」
しかし、その問いかけに葵は、首をかしげる。
「へ? 何を言ってんの? 私はこれを渡したらすぐに帰るよ。お友達とイルミネーションを見る約束があるし」
「じゃあ、誰とパーティーするんだ?」
「決まってるじゃん。お隣りの男の子」
「なっ!?」
用意したパーティーグッズを玄関におくと、葵は背を向けてしまう。
「それじゃ、お二人で楽しんでねぇ~」
そう言うと、足早にアパートの階段を降りていく。
こちらが拒む隙を与えず、用事が済んだらさっさと消えてしまった。
マジで航太と聖夜を過ごすのか……。
※
よく考えると、中学生の航太はもう冬休みに入っていた。
そのせいか、彼が最近アパートの廊下に座っていることも少ない。
でも、母親の綾さんが、お水系の仕事に向かっている姿は何回も目撃している。
ならば、男を自宅に招き入れるので。
息子の航太は嫌がって、アパートの廊下に逃げるはずだが……。
とりあえず、お隣りの美咲家に向かってみる。
このアパートは壁も薄いが、扉も隙間があるため、家の中から生活音が漏れてくる。
綾さんはいないようだ。
あの人がいたら、いつも男との笑い声が聞こえてくるから。
美咲家のチャイムを鳴らしてみると、すぐに扉が開いた。
「はぁ~い。あ、おっさん……」
白いタートルネックのセーターを着た航太が、ひとりで玄関に出てきた。
下半身は相変わらず、デニムのショートパンツか。
中に黒のタイツを履いてはいるが、寒そうだ。
「お、おう。航太、今ひとりか?」
「え? うん、母ちゃんは仕事だから店に行ってるよ。どうして?」
ブラウンの大きな瞳で、こちらを見つめる。
久しぶりに見たが、その目力は健在だ。
今にも吸い込まれそう……。
「さっき、妹の葵が来てさ。クリスマスだから、俺ん家でパーティーしないかって」
俺がそう言うと、航太は瞳を輝かせる。
「本当に!? 葵さんも一緒にお祝いすんの!?」
「いやぁ……あいつは、友達とイルミネーションを楽しむそうだ。だから俺と二人だけ、それでも良いか?」
「おっさんと?」
目を丸くする航太。
やっぱり、男ふたりでクリスマス・パーティーなんて嫌だよな。
「ああ、別に嫌なら断っていいぞ」
「ち、違うって! いきなりだからビックリしたの……ていうか、パーティーするならちょっと待っててよ!」
そう言うと慌てて、自宅に戻っていった航太。
何か準備でもしたいのかな?
美咲家の前で、しばらく航太を待っていたが全然出て来ない。
仕方ないからチャイムを鳴らしたら、扉越しに彼の声だけが返ってきた。
『おっさん……悪いけど、家で待っていて!』
なにやら、慌てているようだ。
クリスマス・パーティーをするから、料理でも用意しているのだろうか?
しかし、料理が上手な航太でもそんな素早くできるわけないよな。
とりあえず、彼に言われた通り、俺は自宅へ戻ることにした。
※
航太が来る前に、万年床の布団を畳んで押し入れへなおす。
今からパーティーをするんだ。掃除機でもかけておくか……。
久しぶりに掃除機の電源をつけると、何やら音が変だ。壊れたのかな。
と、柄にもないことをしていたら、玄関からチャイムが鳴る。
慌てて玄関に向かい、扉を開けると。そこにはひとりの少年が立っていた。
仮装した姿で……。クリスマス・パーティーを始めるからか?
いや、この格好は聖夜にふさわしくない。
「お、おっさん……。この前、見られなかったでしょ? だから今日着てみたんだ」
と俯いたまま、ぼそぼそと呟く航太。
彼が恥じらうのも仕方がない。
ずいぶん前に担当編集の高砂さんが、資料用にと俺へ送ってくれたコスプレの一つ。
女子中学生の体操服とブルマだ。
前回、航太が着てくれたけど、元カノの未来と出くわして、ちゃんと見られなかった。
気を使ってくれたのか?
「航太……お前、その格好」
「あ、あれだよ! せっかく編集部の人が送ってくれたのに、着ないのはもったいないじゃん!?」
「でも、俺の家でパーティーするとはいえ、寒くないのか?」
そう言って、彼の太ももを指差す。
彼が履いているのは、古いタイプのブルマだ。
ハイカットで下着に近い。
自ずと、小麦色に焼けた太ももが露わになってしまう。
トップスの体操服も半袖だし……。
「だ、大丈夫だよ! ちゃんと考えてハイソックスを履いてるし!」
彼に言われるまで、気がつかなかった。
そうだ。編集の高砂さんが送ってきた時、体操服に靴下はついてなかった。
航太が自分で用意したのか。
確かに白いソックスで、膝まで肌を隠せてはいるが。
12月も終わりに近づいている。
やせ我慢だろう。その証拠に、彼の二の腕から鳥肌が浮かび上がる。
「わかったよ。とりあえず、家に入れ。パーティーを始めよう」
「うん……」
なんか今日はやけに素直だな。
※
航太を自宅に招き入れたところで、パーティーを開始しようと思ったが。
きれい好きな彼は、俺の部屋を見た瞬間、顔を歪めて「汚い」とダメ出しを始める。
部屋に、ほったらかしにしていた掃除機を手に取ると、そのままお掃除タイムに入ってしまう。
「おっさんは、ちょっとこの部屋から出ててよ!」
「は? なんでだよ?」
「邪魔なの! それにクリスマス用に部屋を飾りつけした方がいいじゃん!」
「……」
正直、そんなものはどうでもいいだろ、と言いたかった。
しかしここは黙って彼に、従うことにした。
部屋から離れてキッチンの奥へ向かい、タバコを取り出す。
換気扇を回すと、咥えたタバコに火を点ける。
「ふぅ……」
口から煙を吐き出しながら、一生懸命、掃除機をかける航太の姿を眺める。
おかしな気分だ。
男とは言え、体操服にブルマ姿の中学生が、俺みたいなアラサーの家でクリスマス・イヴを過ごすことになるとは。
~20分後~
掃除が終わったと思ったら、お次は飾りつけを始めた。
妹の葵が買ってきた物もあるが、航太が亡くなったおばあちゃんと、二人で作った飾りが残っていたらしい。
それらを交互に部屋の壁に飾りたいと言うので、俺は押し入れからパイプイスを取り出す。
背の低い彼では、手が届かないからだ。
まあ、このパイプイスも元々は、こんな脚立代わりに買ったわけではない。
元カノの未来が、たまに俺の髪を切ってくれる時に使っていたものだ。
今では使うことがなくなったけど……。
「う~ん、いまいちかな……」
とパイプイスの上に立って、首をひねる航太。
飾りつけの位置が気に入らないようだ。
俺は下から彼の後ろ姿を眺めている。
当然、紺色のブルマ……彼のヒップがどうしても、目線に入ってしまう。
クリスマスだってのに、俺たちは一体なにをしているんだ?
でも見惚れてしまうのも事実なんだよな。
「おっさん」
「え?」
「オレが持って来た袋の中にさ、星の飾りがあるんだ。取ってくれない?」
「ああ……」
航太が持って来たトートバッグを手に取る。
どうやら、これも手作りの物みたいだ。
バッグを開いて中を確認すると、フェルトで作られた星がたくさん入っている。
「おい、航太」
「え? なに?」
「この中、星だらけだ。どの色を使うんだ?」
「もう! クリスマスなんだから黄色に決まってんじゃん!」
そう言うと航太は、強引に俺からトートバッグを掴もうとする……が。
思ったより彼の手は短く、バッグまで届かず。
態勢を崩してしまう。
「「あ!」」
お互いに叫んだときには、もう遅かった。
航太は椅子から足をすべらせて、宙を舞っている。
咄嗟に俺は両手を差し出す。
すると、俺の腕の中にひとりの少年が抱えられていた。
偶然とはいえ、お姫様抱っこをしてしまった。
「ご、ごめん……おっさん」
「いや、いいさ」
ちょっとしたハプニングもあったが、どうにか準備は完了した。
いつも使っている、ちゃぶ台の上にはオードブルとローストチキンを置いて。
俺と航太はクラッカーを手に持ち、お互いの顔を見て頷く。
「「せーのっ! メリークリスマス!」」
パン! という破裂音と共に、色とりどりのテープが部屋の畳に散らばる。
あとで掃除するのが面倒だが……航太の横顔を見れば、どうでも良いか。
「うわぁ……すごい。オレ、こういうの久しぶりに見たかもしれない」
と大きなブラウンの瞳を輝かせる。
「そうなのか? 綾さんとは祝ったりしないのか?」
「うん、ないよ」
「でも……クリスマスが無くても、誕生日とか祝うだろ?」
「え? ばーちゃんが死んでからは無いかな?」
「……」
俺が思ってた以上に興味がないんだな、綾さんは。
実の息子なのに……。
あまりにかわいそうだったので、俺は航太の頭を撫でながら、こう言った。
「じゃあ、今日はとことん俺の家で遊んでいけ! なんなら、航太の誕生日も今度パーティーしよう!」
すると彼は大きな瞳を丸くする。
「本当!? じゃ、じゃあ今夜は泊まってもいいかな? 母ちゃん、家にいないんだ」
「綾さんに許可を取れたら、全然いいぞ」
「やったぁ!」
~30分後~
航太が温め直してくれた、ローストチキンを二人して仲良く食べる。
福岡のローカルテレビ番組を観ながら、クリスマス気分を味わう。
博多や天神のイルミネーションを中継しているからだ。
「おっさん、こういうところ。行ったことある?」
「ん? ああ……最近は行ってないな。昔、学生時代ならあるけど」
学生時代という言葉で、ローストチキンを持つ航太の右手がピクッと震えた。
また元カノの未来を、想像したのだろう。
しかし、あいつはもう東京だ。
「そ、そっか……いいな。オレ、行ったことないから」
と寂しそうな顔をして、テレビの中の夜景を眺める。
ひとりだけ、仲間外れをされた子供のようだ。
「じゃあ、来年行くか?」
「え?」
「俺でいいなら、連れて行ってもいいぞ」
「ほ、本当に? でも……来年、オレと母ちゃん。まだこのアパートにいられるかな?」
「あぁ……」
そう言えば、忘れていたな。
航太たちがここ、”藤の丸”に引っ越してきた理由を。
母親の綾さんの男癖が悪いから、トラブルが多くて、何度も引っ越していたんだっけ。
「ま、まあ、航太が引っ越したとしても、俺が迎えにいくさ」
彼を元気づけるために、気休めの嘘でもついておく。
「おっさんが? でも、母ちゃんてさ。今までに一年間で3回以上、引っ越したことあるんだぜ?」
「関係ないさ、必ず俺が迎えにいくよ。どうせ引っ越すと言っても福岡市内だろ?」
「う、うん!」
「じゃあ、大丈夫さ」
※
ローストチキンとオードブルを平らげたところで、冷蔵庫で冷やしておいたケーキとシャンメリーをちゃぶ台の上に置く。
俺は包丁なんて扱えないから、ケーキのカットは航太に任せる。
その間、グラスにシャンメリーを注いで待つことにした。
「はい、おっさんの分」
「悪いな」
航太からカットしたケーキを受け取ると、俺も彼にグラスを渡す。
「なにこれ?」
「あ、それはな。妹の葵が実家から持って来たシャンメリーだ」
「お酒じゃないの?」
「大丈夫だ。子供でも飲めるジュースみたいなもんさ、炭酸は入ってるけどな」
俺がそう説明すると、航太は嬉しそうにグラスを受け取る。
「ヘヘ、じゃあ。オレでもシャンパンぽく飲めるね」
「まあな……でも、飲み過ぎたらトイレが近くなるぞ?」
「いいじゃん! そんなの!」
顔を真っ赤にして怒っているが、どこか嬉しそうだ。
俺はそんな彼を見て、苦笑しながらグラスを掲げる。
「乾杯するか?」
「うん!」
航太もグラスを掲げると、互いのグラスを打ち付けて、音を鳴らす。
何も考えず、口元にグラスを運ぼうとしたその瞬間だった。
中に入っている液体から、独特な香りに気がつく。
この香り……アルコールじゃないか?
ちゃぶ台の上に置いてある、シャンメリーの瓶を手に持ち、ラベルを確認する。
『スパークリングワイン アルコール12%』
それに気がついた俺は、思わず大量の唾を吹き出してしまう。
「ぶふーーーっ!」
葵のやつ。間違えて実家から、親父のシャンパンを持って来たな。
恐る恐る航太の方へ視線を向けると……。
「あははは! おっさん、汚いよっ!」
顔を真っ赤にして、大笑いしている。
ヤバい……未成年にお酒を飲ませちゃったよ。
母親の綾さんに、なんて言おう?
あ、でも、今晩は家に泊るんだったな。
一晩あれば、お酒は抜けるだろう。
ここは様子見でいいかな?
「おっさんも、一緒に飲もうよ! まだまだこのジュースあるんだからさ、ひっく!」
気がつくとボトルの半分以上を飲み干していた。
これはもう、完全に出来上がっているな。
酒癖の悪さは母親似か。
「あぁ~ なんかこの部屋って暑くない?」
「え?」
「もう、脱いじゃう!」
「なっ!?」
今晩、この家に彼を泊めても大丈夫だろうか?
「やっぱり、暑いから脱いじゃおうっと!」
どうやら航太はアルコールを飲んだせいで、身体の血流が良くなったようだ。
顔を真っ赤にして、ヘラヘラと笑っている。
今、俺の部屋は暖房など、一切つけていない。
年末に入ったし、寒いに決まっている……。
だが、目の前に立つ少年は、体操服を勢いよく脱ぎ捨てる。
「あ~ すっきりした。おっさんも脱いだらぁ~?」
そう言って、胸を張る航太。
畳で座っている俺からすると、どうしても二つの蕾が目に入ってしまう。
小麦色に焼けた肌とは違い、ピンク色の小さな蕾だ。
ダメだ!
見惚れている場合じゃない。
早く彼の体内から、アルコールを出してあげないと。
このままでは、危険だ。
「こ、航太……あのな、お水でも飲まないか?」
下から彼の小さな顔を眺めていると、なんとも変な気分だ。
まあブルマ姿で、上半身は裸だものな。
今、誰かにこの場を見られてしまったら、言い訳できない状況だ。
「えぇ~? いらなぁ~い! それより、もっと楽しいことをしようよ!」
「へ?」
「待ってて……今、持ってくるからぁ……」
恐らく、生まれて初めて飲んだお酒だったのだろう。
千鳥足で部屋の中を歩いている。
しばらく待っていると、先ほど壁に飾りつけをする際に使った、トートバッグを持って来た。
「あのね……この中にいいもんが入ってるんだ」
トートバッグの中を見るために、しゃがみ込む。
「ごくん……」
それを見た俺は、思わず生唾を飲み込む。
両脚を左右に大きく広げているため、ブルマがよりフィットしているからだ。
もちろん、小さな”彼のシンボル”もだ……。
おまけに酔っぱらっているから、ブラウンの大きな目はとろんとしている。
まるで……俺を誘惑しているような。
「じゃ~ん! これだよ!」
彼の声を聞くまで、我を忘れていた。
「ど、どうした? 航太?」
「見て見て~ この前の喫茶店のマスターからもらった、”紙風船”だよ!」
「……」
そうだよな、中身はまだ子供だから。
いくら酔っぱらっても、大人の俺みたいな考えには至らないよな。
だって、クリスマス・パーティーだし……。
※
「おい、航太! そんなに走り回ったら危ないぞ!」
泥酔した航太は、俺の声が聞こえていないようだ。
「ははは! この紙風船ってけっこう頑丈だぜ!」
自身の唇で膨らませた紙風船を、手の平で叩いて遊ぶ。
もう、かれこれ10分ぐらい遊んでいると思う。
航太も中学2年生だというのに……脳内はまだまだ子供だな。
しかし、着ている格好が良くない。
体操服は脱いだままだし、下半身は紺色のブルマだ。
最近、見かけないが……。あのクラスメイトに、この場を見られたら通報されるだろう。
そろそろ、彼に体操服を着させるか。
畳に落ちていた上着を拾うと、ゆっくり立ち上がる。
その時だった。
パンッ! という破裂音が部屋に響き渡る。
「あっ……割れちゃった」
どうやら、彼が気に入っていた紙風船が割れてしまったようだ。
驚いた航太はその場で、呆然としている。
「割れたなら仕方ないさ。また買えばいいだろ?」
そう言って、彼の頭に体操服をかけようとした瞬間。
いきなり航太が振り返る。
じーっと俺の目を見つめて、何か考えているようだ。
「どうした?」
「あのさ……おっさんの口にも息を吹きこんだら、紙風船みたいに膨らむと思う?」
「なっ!? 何を言って……」
彼は酔っぱらっている。
だから急に変なことを言いだしたんだ……だって、おかしいだろ。
唇を使って、息を吹きこむなんて。
戸惑う俺を無視して、航太はゆっくりと近づいてくる。
頬を赤くして、微笑みながら……。
気がつけば、俺の首には褐色の細い腕が回されていた。
「こ、航太……?」
「いいじゃん、試そうよ」
身長も低いし、華奢な体型だ。
嫌だったら突き飛ばせいい……のに、出来ない。
彼に言われるがまま、俺は身を任せてしまう。
「んん……」
第一印象は、酒臭かった。
でも、それよりも彼の唇が柔らかくて……。
小さくて愛らしい。
元カノの未来よりも、甘いキスだと思った。
ここまでやったら、止めることが出来ない。
今まで、抑えていた感情が湧き出る。
小麦色に焼けた背中へ手を回して、優しく抱きしめる。
それだけじゃ我慢できなった俺は、手を腰へ下してしまう。
「っさん……」
唇を重ねて、初めて航太の声を聞いた。
あまりの気持ち良さに、彼を無視していたことに気がつく。
「悪い、航太……これは、その……」
「あのね……なんか、頭がフワフワして……」
「え?」
「もう無理かも……」
そのまま、立って眠ってしまった。
胸の中で眠る航太を見て、ようやく理性を取り戻す。
「なにやってんだ、俺は!」
とりあえず、自身の頬をビンタしておいた。
事故とはいえ、未成年の少年とキスしてしまった。
酔っぱらっている航太と……。
彼としては、紙風船のように俺の頬が膨らむか、遊ぼうとしていただけ。
本当に純粋な気持ちで、唇に触れたはず……なのに。
俺はそれを利用して、自らの欲望を満たしてしまった。
罪悪感で胸が押し潰れそうだ。
しかし、後悔するのは後にしよう。
半裸状態の彼を立ったまま寝かせては、風邪を引いてしまう。
航太を抱き上げて、一旦畳の上に寝かせる。
押し入れになおしていた、布団を取り出すためだ。
敷き布団を畳に敷くと、彼を寝かせてあげる。
着ていた体操服では、どちらにしろ寒そうなので、俺がいつも使っているトレーナーを着せておいた。
掛け布団をしっかり首元まで、掛けてあげる。
彼の寝顔を眺めながら、ため息をつく。
「はぁ、酷いクリスマス・パーティーだったな……」
どちらにしろ、母親の綾さんには、このことを内緒にしておかないと……。
※
あれから、一晩が経った。
航太は初めての飲酒を経験したせいか、なかなか起きてくれない。
時おり、いびきをかいている……。
俺はと言えば、キッチンの換気扇の前で立ち尽くしていた。
タバコをくわえながら……。
もう、何本目だろう。
航太とのキスを思い出しては、頬が熱くなり、心臓の音がバクバクとうるさい。
興奮を抑えるために、タバコに火をつけて煙を吐き出す。
静まり返った部屋の中は、掛け時計の針の音……それから、航太の寝息だけが聞こえてくる。
ダメだ、眠れない。
「でも、俺は……」
あの時、もし航太がその場で倒れ込むことなく、続けていたら?
果たして、理性を保てていたのだろうか。
朝になっても、航太が目を覚ますことは無かった。
そろそろ起こさないと、いい加減、あの綾さんでもチャイムを鳴らしてきそう。
キッチンに置いていた灰皿で、タバコの火を消すと。
ゆっくり航太が眠る布団へ近づく。
膝を曲げて、彼の小さな手に触れようした瞬間だった。
パチンと音を立てて、瞼が開く。
俺に気がつくと、ブラウンの大きな瞳がこちらをじっと見つめる。
「お、おう……大丈夫か?」
平静を装うつもりだったが、まだ頭の中は昨晩のキスでいっぱいだった。
「あれ、パーティーはどうなったの?」
人差し指で瞼をこすりながら、身体を起こす。
起きて間もないから、まだボーっとしているようだ。
というか、昨晩のことを覚えていないのか?
俺は恐る恐る、彼に聞いてみることにした。
「昨日のこと……覚えていないのか?」
「なにが?」
と首をかしげる航太。
本当に覚えていない……?
もし、そうなら俺にとっては、好都合なことかもしれない。
だってキスの相手が、アラサーのおっさんだからな。
たぶん初めての経験だっただろうし、彼が酒で記憶を消してしまったのなら。
その方がお互いに良い……今後のためにも。
「ところで、おっさん。オレ、寝ちゃったみたいだけど、パーティーは終わったんだよね?」
「ああ……昨晩はかなり興奮していた見たいだからな。疲れていたんじゃないか」
「そっか。ならさ、またしない?」
ゆっくりと俺に身を寄せ、上目遣いで頼み込む。
彼が何を考えているかは分からない。
自然と、昨晩のキスを思い出してしまう。
また……して欲しいということか?
生唾を飲み込んだあと、その質問の意味を聞く。
「な、なにをするんだ?」
すると、彼は満面の笑みでこう答えた。
「もちろん、クリスマス・パーティーだよ! あんなに楽しい夜は初めてだったからさ」
変な期待した俺がバカだった……。
「そうだな。じゃあ来年も二人でするか?」
「うん、約束!」
そう言うと、お互いの小指で契りを交わすのだった。
~一週間後~
色々とハプニングだらけの年末だっただが、無事に年を越せた。
まあ、お正月だからと言って、特にやることもなく……。
いつも通り、近所のコンビニで酒とつまみを買って、アパートへ歩いて帰ろうとしていると。
どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。
俺が住んでいる、アパートの方からか?
気になったので近くにあった電柱の裏に隠れて、様子を見ることにした。
「だからさ! なんでそうなるんだよ、母ちゃん!?」
この甲高い声、航太か。
元旦から一体なにを怒っているんだ。
「仕方ないでしょ? もう決まったことなんだから……」
電柱から少し顔を出してみると、アパートの廊下で航太と綾さんが話していた。
「母ちゃんはいつもそうだ! 勝手に選んで、決めて……オレの気持ちは考えてくれないじゃん!」
航太のやつ……泣きながら、怒鳴っているのか?
なんか、いつもの親子ゲンカとは、雰囲気が違うような。
「航太、お願い。一緒に来てよ、あなたがいないと……」
綾さんは、まだ航太と話したかったようだが、彼がそれを遮る。
「ふざけんな!」
そう叫ぶと綾さんに背を向けて、アパートの階段を駆け下り。
泣きながら、どこかへ走り去ってしまった。
一体、あの親子に何があったんだ?
年が明けて間もない二日目に、それは起きた。
お正月の空と言えば、静かなイメージが強い。
もし天気が崩れたとしても、小雨か曇り、それか雪かな……。
しかし、今年の天気はいつもと違い、かなり荒れている。
夕方に近づくと、突然激しい雨が降り始めて、雷まで鳴っている。
まるで、誰かが怒っているようだ。
自室の窓を、しっかり閉めていることを確認すると。
電気を消して、布団へ潜り込む。
寒くて仕方ないからだ。
この前、航太とクリスマス・パーティーで一晩中、夜遊びしたからな。
電気代を節約しておかないと……。
暖房がなくても布団に潜り込んで、酒を飲んでいれば身体は温まるさ。
そう思いながら焼酎の瓶に口をつけようとした瞬間。
玄関のチャイムが鳴る。
なんだろう。”三が日”だってのに勧誘か?
いや、まさかな……航太だって、正月に入ってから顔を出さない。
きっと冬休みを家族で楽しんでいるのだろう。
「あほらしい……寝よ……」
再度、焼酎を飲もうと試みるが、今度は自宅の扉を凄まじい音で殴られた。
ドンドンっ! と何度も叩き続け、怒っているように感じる。
「まったく、人が休んでいる時に……」
重い腰を上げて、ゆっくり玄関へ向かう。
その間も相手はずっと扉を叩き続けている。
「はいはい……」
鍵をあけて、ドアノブを回した瞬間。あちら側から無理やり扉を開けられた。
「おっさん! 早く開けてよっ!」
そこには、ずぶ濡れの少年が立っていた。
黄色のショートダウンを着ていたが、中の綿は濡れてしまい、保温性が失われている。
デニム生地のショートパンツも同様だ。
震えながら、涙目で俺を下から睨む。
「こ、航太……一体どうして?」
俺の疑問を一切、無視して航太は叫んだ。
「何も聞かないで、オレの頼みを聞いてよっ!」
「頼み事?」
「そう……お願いだから、オレを誘拐してよっ!」
「なっ!?」
どうして、俺がそんな犯罪者にならないといけないんだ?
※
とりあえず、ずぶ濡れの航太を家に入れて、脱衣所で服を脱ぐようにと伝える。
その間、俺は急いで自室のエアコンの電源をつけて、部屋を暖める。
航太に貸せる着替えなど無いが……俺のスエットで良いだろう。
前にも、着せたことあるし。
スエットを持って脱衣所へ向かうと、航太が裸のまま突っ立っていた。
目の前にある鏡をじーっと眺めて、一切動かない。
いつもなら、その姿を見て動揺する俺だが、彼の顔を見れば、なんとなく気持ちは分かる。
大きなブラウンの瞳から、涙を流しているから。
「航太。なにがあったか分からないけど、とりあえず服を着ろ」
「……」
俺が声をかけても、反応がない。
相当、ショックなことがあったのだろう。
仕方ない。俺が服を着せてあげよう。
相変わらず、俺のスエットじゃ、小さな彼の身体には合わないようで。
ワンピースのようにして、着ている。
暖房の効いた部屋で、航太を座らせ、濡れた髪をドライヤーで乾かす。
「おい、そろそろ話してくれても良いんじゃないか?」
少し落ち着き始めたのか、何も言わず頭だけをこくりと動かす。
髪が乾いたところで、ドライヤーのスイッチを切って、航太と向かい合って座る。
「さ、ゆっくりでいいから、話してくれ」
「……母ちゃんが、また引っ越すって」
「!?」
俺はその言葉に耳を疑った。
彼から、ようやく理由が聞けたのはいいが……。
航太が引っ越すだと? 俺まで激しい痛みが胸に伝わってきた。
それから、航太は淡々と話を続ける。
「母ちゃんさ。結婚するんだって……」
「け、結婚!?」
「うん。それで、今後の引っ越し先は福岡市内じゃなくて、長崎らしい」
「長崎!?」
彼が説明する度に、俺の方がオーバーリアクションしてしまう。
しかし、航太が俺の顔を見るなり「誘拐して!」と必死になるのも、分かる気がする。
そういうことか……。
「だからさ……おっさん。オレのことを誘拐してよ! まだおっさんと一緒にいたい!」
泣きながら、俺の腕を掴んで揺さぶる。
本気なのか? 航太……。
「俺は、お前の親でもないし、兄弟でもない。もし、航太を連れてどこかへ行けば、捕まる……」
「だ、大丈夫だよ! オレが頼んだってことにすれば」
「無理だ。お前は未成年だし、俺は赤の他人だ」
言っている俺の方が、目頭が熱くなる。
泣きじゃくる彼を見て、平静を装うのに苦労する。
「そんな……じゃあ、もうおっさん家に毎日、来られないし、遊べないの?」
「今のような生活は、無理だろう」
そう俺が言うと、航太は更に大きな声で泣き叫ぶ。
「うわぁぁん!」
その姿を見て、俺は彼の身体を抱きしめた。
少しでも航太の痛みが和らぐように、強く抱きしめる。
俺の肩の上で泣き叫ぶ航太。
耳元で叫ばれているが、うるさく感じない。
航太の頭を優しく撫でながら、俺は憤りを隠せずにいた。
綾さん、こんなのあんまりだ……。
1時間ほど経ったころ。
泣き疲れたのか、航太は眠り始めた。
このままにしておくと、風邪を引くので。とりあえず、俺が使っている布団で寝かせることにした。
「結婚に、引っ越しか……」
母親の綾さんも、酷なことをするな。
でも、ただの隣人である俺が、どうこう言える身分じゃないし。
誘拐なんて度胸は無い。
航太は眠るまで、ずっと泣き叫んでいたが。
ここから離れるのが、よっぽど嫌なようだ。
泣きながら、溜め込んだ感情を吐きだしていた……。
『母ちゃんが勝手に決めたんだ!』
『引っ越したくない!』
『せっかく、おっさんと仲良くなれたのに……』
これが彼の本音なのだろう。
寝ている航太のおでこに触れてみる。
少し熱いが、風邪は引いてないな。
しかしだ……ここで大人の俺がなにもしない、ってのもダサい。
いや、自分が許せない。
少しぐらい、綾さんに文句を言ってもいいだろう。
※
寝ている航太を起こさないように、そっと家の扉を閉めて、鍵をかける。
そして、隣りの美咲家へ向かい、チャイムを押してみる。
「はぁ~い」
すぐに甘ったるい声が返ってきた。
結婚すると航太から聞いていたから、恋人と一緒かと思ったが。
そんな気配はない。
扉が開くと、そこには見慣れないショートヘアの女性が立っていた。
別の家のチャイムを、鳴らしたかと思った。
しかし表札は、間違いなく美咲家だ。
「あら? 黒崎さん、お久しぶりですね」
「綾さんっすか? 髪が……」
「あぁ、これですか? これから髪が長いと、いろいろ邪魔になりそうだからぁ」
と短くなった髪を、どこか嬉しそうに触れてみせる。
結婚するからと言って、長い髪を切るか? 普通は逆に伸ばすだろ。
ウェディングドレスのためにとか……。
「あの……航太から聞いたんですけど。ご結婚されるんですか?」
「そうなんですよぉ~ もう結婚なんてしないと思っていたんですけど、急に決まってぇ」
まるで他人事のように話すな。聞いていて腹が立ってきた。
じゃあ航太のことは、どうでもいいのか?
泣きじゃくる彼の姿を思い出し、目の前にいるお気楽な母親と比べてしまう。
相手は女性だけど、この人も親だし少しぐらい、良いよな。
決心がついた俺は両手に拳をつくり、綾さんの目をじっと睨みつける。
「あ、あの! 他人の俺が、言うのもなんですけど……お子さんのこと、ちゃんと考えていますか!?」
元カノの未来や妹の葵にも、怒鳴ったことはない。
生まれて初めて、人に怒りをぶつけてしまった。
ただこれは、航太のためだと思う……。
「え? 子供?」
俺の言葉が足りなかったのか、綾さんはきょとんとした顔で、こちらを見つめる。
「だから、その……ご自分でお腹を痛めて産んだ、お子さんでしょ? もっと彼のことを考えてあげてください」
「お産? あれ、まだ誰にも言ってないのに、バレちゃいました?」
「え? 一体、何を言って……」
そう言いかけている際中に、綾さんは自身のお腹を撫でまわして、衝撃の一言を放った。
「まだ3カ月なんですけどねぇ~」
俺は耳を疑った。
「は? もしかして、お腹に赤ちゃんがいるんですか……?」
「そうなんですよぉ~ 以前、住んでいた場所で仲良くなった男性の赤ちゃんでぇ。”おめでた婚”ってやつです」
「……」
驚きのあまり、怒りを忘れて言葉を失う。
しかし、綾さんが妊娠しているなら、急な引っ越しも理解できる。
航太にも弟か、妹が出来たんだ。
新しい……”お父さん”と暮らさないといけないのだろう。
もう航太が、ここ”藤の丸”に残る……希望がないことに気がついた、俺は絶望した。
綾さんが新しい旦那の話や引っ越し先のことを、ベラベラと話しているが、頭に入らない。
きっと航太がお腹の赤ちゃんのことを知れば、全てを受け入れてしまうだろう。
家族想いの子だから、自分のことは後回しにして我慢するはずだ。
俺じゃ役不足みたいだ。悪い、航太……。
※
その後も、綾さんから一方的に話を聞かされたが、全然頭に入らなかった。
ただ急に決まった引っ越しだから、少しは航太のことも心配しているようで。
俺との繋がりが切れることを、不安に思っているらしい。
それを聞いた俺は「今自分の家で泣いて寝ている」と綾さんに伝えると。
口を大きく開いて、かなり驚いている様子だった。
「そうなんですか……あの子、家ではそんな姿を見せてくれないから」
一応、親としての自覚はあるようだな。
それを聞いた俺は一度、冷静になって、情報を整理してみる。
「ところで、引っ越しはいつするんですか?」
「あ、それは……。実は明日なんです……」
「明日っ!?」
「はい。だから、その良かったら……航太を黒崎さんの家で一泊させてください」
「え?」
「航太。黒崎さんと遊んでもらっている時が、一番楽しそうだから」
正直、どこまでも自分勝手な母親で、女性だと思った。
文句を言いに来たはずなのに、何も言えない。
だって、お腹に赤ちゃんがいるんだ……。
父親違いとは言え、航太の家族になる小さな命。
「わかりました……お身体を大事にされてください」
そう言うと、俺は美咲家を後にした。
明日か……。
綾さんから引っ越しの日時を聞いて、俺は絶望していた。
それにお腹の中には、赤ちゃんが。
彼女は「まだ誰にも話していない」と言っていた。
ということは、航太にも。
自宅に戻ると、部屋の中は真っ暗で、航太はまだ眠っていた。
ショックを受けている、彼を起こしたくない。
だから部屋の灯りは点けないまま、キッチンでタバコを吸うことにした。
換気扇の中に吸い込まれていく、白い煙を眺めて一人考え込む。
俺は本当に無力な人間だ……。
少しでも引っ越しの期日を伸ばそうと、抗議に行ったつもりだったのに。
お腹に赤ん坊が入っていると聞いて、ひるんでしまった。
だが、そのことは、彼に隠していた方が良いのだろうか?
近くにあった灰皿でタバコの火を消すと、深いため息をつく。
「はぁ……結婚に、妊娠か」
そう呟くと、背後からなにか大きな音が聞こえてきた。
振り返ってみると、俺が普段使っているスエットを着た少年が立っていた。
「おっさん、その話。本当なの!?」
しまった。航太に聞かれていたか。
※
綾さんが妊娠していることを、彼に聞かれてしまった。
しかし、バレてしまったものは仕方がない。
俺はなぜ、綾さんが今回の引っ越しや結婚を急ぐ理由を航太に説明した。
最初は顔を真っ赤にさせて、興奮していたが。自身の母親が妊娠していることを知ると、次第に落ち着きを取り戻していく。
いや、正しく表現するのならば、あきらめたのだろう。
「じゃあ……オレ、もうすぐお兄ちゃんになるんだね」
必死に笑顔をつくろうとする彼を見て、胸が激しく痛む。
やはり、彼はなんだかんだ言っても、家族想いの優しい子だ。
こんな幼い子供に、母親の綾さんは甘えている……。
「航太、無理をするな。今日ぐらい、俺に甘えても良いんだぞ?」
そう言って、右手で彼の頭を優しく撫でると。
やはり我慢していたようで、すすり泣く声が聞こえてきた。
「うう……やっぱり、まだここにいたいよぅ」
これが彼の本音だとわかった瞬間、俺は航太を力いっぱい抱きしめた。
クリスマス・パーティーの時にも抱きしめたが、あれは事故に近い。
今回のは、本当に俺がしたいと思って、やったことだ。
「俺も同じ気持ちだ……」
彼の耳元でそう囁くと、航太は大声で泣き叫ぶ。
「うわぁぁん!」
「……」
今すぐこの子を連れて、どこかへ誘拐したいと思った。
でも、俺にはそんな無責任なこと、出来るはずがない……。
~二時間後~
ショックから、しばらく取り乱していた航太だが。
時間が経つと共に、落ち着きを取り戻す。
「おっさん、長いことくっついてごめんね……。あのさ、お腹すいてない?」
「航太……」
こんな時でさえ、自分のことより、他人の心配か。
見ていられない……。
「引っ越しは明日なんだよね? なら最後におかずをたくさん作っておくよ。だって、おっさん。オレがいないとダメじゃん?」
「……」
彼の言う通りだが、今日だけは俺に甘えて欲しい。
そうじゃないと、俺の方がどうにかなってしまいそうだ。
「おっさん? どうしたの?」
黙り込む俺を不思議に思ったのか、下から覗き込む。
大きなブラウンの瞳を輝かせて……。
「あのな、料理とかしなくていいから……。俺と一緒に布団で寝てくれないか?」
「え? おっさんと一緒に?」
「変な意味じゃないんだ。たぶん最後の夜だろ? さびしくならないように、できるだけ一緒にいたいんだ」
それを聞いた航太は、頬を赤くして、しばらく黙り込む。
でも、別に俺からの提案を嫌がったり、恥ずかしがっているようには見えない。
むしろ、驚いているようだ。
俺からそんなことを言ったのが……。
「わかった。寒いし、お布団の中でなにか話そうよ!」
「ああ、そうだな」
部屋の灯りは消したので、隣りに寝ている彼の顔はあまり見えない。
暖房はつけているが、すきま風が入るボロアパートだ。寒いに決まっている。
彼から「なにか話そう」と言ってくれたが、布団に入ってからあまり言葉が出ない。
お互いの身体を密着させて恥ずかしい……というわけではなく、急に決まった引っ越しを受け入れられないのだと思う。
なにを話していいのか、わからない。
最初に口を開いたのは、彼からだった。
「おっさん、オレ……絶対またここ、”藤の丸”へ来るから」
「ああ」
「長崎にも来てよね? 住所と連絡先、あとで送るし。でも、おっさんは貧乏だから無理かな」
正直、彼の皮肉に返す言葉もない。
航太の言う通り、俺は貧乏作家だからそんな頻繁に長崎へ行くほど余裕がない。
「それでも、必ず行くよ」
「あんまり期待してない」
「……」
「おっさん、最後だから言ってもいい?」
「ん? なんだ、遠慮せずに言ってみろ」
俺がそう言うと、航太はなぜか黙り込んでしまう。
そして、しばらく沈黙が続いたあと、こう言った。
「あのさ、記憶が曖昧なんだけど……クリスマスの日。オレとおっさんって、き……キスしたのかな?」
「!?」
まずい。航太のやつ、記憶が残っていたのか。
最後の夜とは言え、彼に変態と思われたくないな。
「どうなの? おっさん」
「あ、あの時はお前、かなり酔っぱらっていたからな。夢と勘違いしているんじゃないか?」
「そっか……なら、良いんだ」
なんだ? 否定したら、少し寂しそうに見えるな。
どっちが正解だったのだろう。
俺と航太は、ここ”藤の丸”へ引っ越してきてからの出来事を夜通し、話し続けた。
狭い布団の中だけど限られた時間を、少しでも二人の思い出に残したかった。
しかし、さすがに夜明けになると、大人の俺でも眠たくなってきた。
「航太……悪い、少し寝てもいいか?」
「いいよ。オレもまだおっさんと話したいから、10分後に起こすよ」
「ああ、頼む……」
~10分後~
たった、10分間寝ただけなのに、ずいぶんと頭がスッキリした。
瞼を人差し指でこすりながら、隣りに寝ている航太の方へ視線を向けると。
「あれ、航太?」
隣りに寝ていた航太の姿が、見当たらない。
ひょっとして、トイレか?
そう思った俺は起き上がって、キッチンの方へ向かう。
「航太~? トイレか?」
そう叫んでも、家の中は静まり返っている。
俺以外、人の気配を感じない。
まさかと思い、壁にかけてある時計を確認すると。
時計の針は、午前10時を過ぎていた。
「なんでだ!? どうして、起こしてくれなかったんだ、航太っ!」
気がついた時には、もう遅かった。
航太のやつ、俺に気を使ったな……。
でも、まだ午前中だし、ひょっとしたら、隣りの美咲家にいるかもしれない。
そう思った俺は、裸足のまま家を飛び出る。
ペタペタと音を立てて、アパートの廊下を走り、隣りの家の扉を力いっぱい拳で叩く。
「美咲さん! まだいますか!?」
しかし、いくら待っても中から声は聞こえてこない。
それでも、俺は扉を叩き続ける。
「航太っ! いるんだろ? 開けてくれよ!」
うそだろ……こんな別れ方、最悪だ。
※
10分以上、美咲家の扉を叩いて叫ぶ男がいる……とアパート内で噂になっていたらしい。
苦情を聞いた大家さんが、二階まで上がってきた。
「黒崎くん、なにしてるの?」
振り返ると、そこには頭の薄い中年の男が立っていた。
学生時代からお世話になっている、大家さん。
しかし、今はそれどころじゃない。
航太がどこにいるか、知りたいんだ。
「大家さん! ここにいた……美咲さんはどこへ行ったか、知りませんか!?」
「え、美咲さんのこと? 昨日、引っ越したでしょ」
「昨日? ウソでしょ!? 俺はこの家の子供、航太と一晩を一緒に過ごしましたよ!」
「航太くんと黒崎くんが、一晩を一緒に……?」
いかん、興奮のあまり、誤解を生むような発言をしてしまった。
「いえ、そう意味じゃなくて。俺は母親の綾さんとも、昨晩一緒に話をしました」
「はぁ……ああ、なるほど。それなら、あれじゃない? 昨日、引っ越し作業と手続きをして、今朝早くに出て行ったとか。身軽にして出たいでしょ」
そう言われたら、俺たちの住んでいるアパートは前から、そんな感じだった。
学生向けに建てられたアパートだし、あまりご近所と仲良くなることもない。
引っ越してきたからと、わざわざ挨拶に来たのは、美咲家が初めてだ。
「じゃあ、もう……あいつは、航太は出て行ったんですね」
「うん。そんなに仲が良かったのなら、あとから連絡でも来るんじゃない?」
「!?」
大家さんに言われるまで忘れていた。
そうだ。航太は昨晩、こう言っていた……。
『長崎にも来てよね? 住所と連絡先、あとで送るし。でも、おっさんは貧乏だから無理かな』
それを思い出して、少し安心した。
※
航太が引っ越してから、三ヶ月が経った。
しかし、彼から連絡が来ることは一切、無く……。
引っ越し先の住所や電話番号も知らない、俺からは何も出来ない。
後悔だけが残る。
あの時、航太が俺に言った言葉は、本気だったのじゃないか?
『お願いだから、オレを誘拐してよっ!』
なら……、あのまま航太を連れてどこかへ。
そんなことを毎日、考えては悔やみ、己の弱さに苛立つ。
胸に大きな穴が開いてしまったようだ。
たった数ヶ月の関係だが、俺にはすごく大きな存在なんだろう。
まるで、失恋した男みたいだ。
いや、今感じている喪失感こそ、失恋なのかもしれない。
元カノの未来と別れても、こんなにダメージは大きくなかった。
まだ何も気持ちを伝えられていないのに……。
彼が居なくなっても、仕事はいつものように依頼される。
編集部の高砂さんから、頻繁に電話が掛かってくるが……。
『SYO先生、まだ原稿を書けてないんですか?』
「すみません……」
『あのロリもの、人気なんですから、早く書いてくださいよっ!』
彼をモデルにしたロリものエロ漫画だが、単行本で発売され人気だそうだ。
でも、俺は続きを書く気が無かった。
ノートパソコンなんて、もう一ヶ月以上、起動した覚えがない。
毎日、安酒を浴びるように飲み続けて、酔いつぶれる。
目が覚めると、激しい頭痛が待っているが、それでも飲まずにはいられない。
そんな生活をずっと送っているから、昼夜逆転してしまう。
でも、近所には24時間営業のコンビニがあるから、すぐに酒を調達できてしまう。
もう春が近い。
俺が愛用している半纏も、もう必要ないかな。
ゆっくり布団から、起き上がると、キッチンへ向かう。
ふと、冷蔵庫へ目をやると……。
『おっさんへ。別れの挨拶がさびしいから、ごめん。バイバイ』
とぐしゃぐしゃになった、メモ紙が貼られていることを思い出す。
引っ越したあとに見つけた航太からの手紙だ。
「挨拶ぐらいしていけよ……」