──ねぇ、人は必ず死ぬけれど、きみにこんな日が訪れるとは思わなかったよ。


☆☆☆

夏休み明けの学校に、黄色い歓声が轟いた。


この高校に通う生徒なら、何が起きたのか、確認せずともわかるだろう。


昼休み、サッカーに興じるため、数人の男子生徒がグラウンドに姿を現したのだ。


グラウンドに面する窓やベランダにすずなりにへばりついて感嘆の声をあげる女子生徒のお目当ては、二年生の男子生徒、篠崎海(しのざきかい)


ぎょっとするような美形で、モデルのような体格。


明るくさわやかで人望も篤く、成績も常にトップクラス。


皆をまとめるリーダーシップもあわせ持つ。


色素が薄い茶色の髪と、アーモンド型の茶色い瞳。


サラサラな髪を風になびかせて袖をまくり、笑顔でボールを蹴りあっている。


そんな完全無欠の学園の王子様を、うっとりと女子は眺めていた。


普通ならば同性からはやっかみを買いそうなものだが、さっぱりした性格がなせる業か、彼に反感を持つ人間は少ない。


 誇張ではなく、この学校の女子の99パーセントが篠崎海に恋をしている。



一日に何人もの女子生徒に告白され、そのすべてを断っているというから、海に意中の人がいるのかということは、常に注目の的だった。


ちなみに玉砕して帰ってきた女子生徒は、勇者と呼ばれ、健闘をたたえられている。

☆☆☆

まだまだセミの合唱も終わらぬ9月中旬。
 今村彩葉(いまむらいろは)は校舎裏の駐輪場で、篠崎海から告白されていた。


「俺と付き合ってもらえないかな、今村さん。あの・・・」


海は戸惑ったように視線を自転車の群れへと向ける。


彼の視線の先で、何故か彩葉は自転車と自転車の間に身を潜め、縮こまっていたからだ。


「神・・・神の視界に私が映っている・・・!」


彩葉は声を震わせ、半ば涙目になりながら戦慄したように呟いた。


「あの、今村さん?告白の返事を・・・」


すると彩葉は今度は頭を抱え、悶えた。


「今村さん・・・!今、神が私の名前を・・・神が私の名前を呼んでくださった・・・!こんなことが現実なわけがない・・・!しっかりしろ、私、これは夢に違いない、そう、悪夢だ・・・!罪深い夢め!現実にこんなことが起こるはずないのに・・・!」


相変わらず彩葉はぶつぶつと、自転車に囲まれながら意味不明な言葉を、まるで呪詛のように呟き続けている。


ある程度予測できたこととはいえ、彩葉の反応は想像以上だった。


普段、友人の女子生徒やクラスメイトの男子と話しているときの彩葉は、こうではない。


海と話すときだけ、彩葉は挙動不審になるのだ。


それは彩葉が、自分を特別に思ってくれている証だと、海はポジティブにとらえている。


だからこそ今日、海は告白を決行したのだ。


「その神ってのやめてほしいんだけど・・・その、せめてそんなところから出てきてくれないかな」


眉を下げて海がいうと、俊敏に彩葉が自転車の群れを抜けてようやく海の前に全身を現した。

「神がそう仰るのに断るなんてできません。出てこいといわれれば出ていく・・・爆死しろといわれれば爆死する!」


「いや・・・爆死しろとは誰もいわないよ」


「さすが慈悲深い神!ああ、眩しい・・・直視できない!」



小柄で童顔、栗色のトレードマークのポニーテールを揺らしながら、彩葉は肩で息をしていた。


自分と喋るだけで相当なカロリーを消費しそうだな、倒れなければいいが、と海も海で的外れな心配をする。


「もう少し・・・こっちにくれば?」


「出来ません!神の聖域に立ち入るなど、恐れ多いこと!ですが神のいうことは絶対。少し近づかせていただきます!」


彩葉は真っ赤な顔を地面と平行にうつ向けながら、じりじりと海との距離を詰める。


海の頬も、徐々に強ばっていく。


そんな自分を鼓舞するように気合いを入れ直す。


「で、返事なんだけど・・・どうかな?」


探るような上目遣いでうつ向いたままの彩葉を見つめる。


ドクン、と心臓が高鳴るのを感じる。


緊張に汗が滲む。


無遠慮な残暑に目眩がしそうだ。


 晴れ渡る青い空。のんびりと流れていく不揃いな白い雲。感じ始めた秋の気配・・・。


「・・・どうして、私なんでしょうか・・・



ギリギリ聞き取れる声量で彩葉が呟いた。


「どうして、か。笑顔かな」


「・・・え?」


彩葉がかすかに顔をあげる。


「クラスの友達とか、喋ってるときの今村さんの笑顔、可愛いなあって」


ぼっと音がするほどの勢いで彩葉の顔が真紅に染まる。


「・・・の、申し出を・・・」


「え?」


「神の申し出を断るなんておこがましいこと、出来ません」


言葉の意味を咀嚼するのに、少々時間を要した。


「え・・・え?それって告白の返事OKってこと?」


上ずった声の海に、今度は彩葉が半歩後ずさる。


「・・・え?そういうことに・・・なるんですか?」


しかしすでに海は満面の笑みで腕を振り上げ、喜びを爆発させている。


「やったあ!よかったー、本当に!」


「あ、あの・・・その・・・」


「よろしくね、今村さん」


差し出された海の右手をぽかんと見つめて、彩葉は、「神に触れるなんて・・・いやー!!」と絶叫しながら背を向け、全速力で駆け出した。


海に告白されるという現実に理解が追いつかず、沸騰した頭がとらせた行動だった。



差し出した手を引っ込められないまま、海はしばらく硬直したのだった。


☆☆☆

「嫌われたー!!今村さんに絶対嫌われたー!!俺この先どうやって生きていったらいいの!?死ぬ、死んじゃうよ、俺。ぐすんっ」


 床に突っ伏して泣きわめく海を(しお)は冷ややかな目で見下ろしていた。


これが学園の王子様の醜態か。


こんな姿の海を見たら、学校中の女子の千年の恋も冷めるというものだ。幻滅どころではないだろう。人間不信に陥りかねないレベルだ。


「で、大体なんであんたサッカー部の部室にいるのよ。夏休み前に辞めたでしょ」


汐が冷たく告げると、目と鼻を真っ赤にして海が顔をあげた。


「二人きりになれる場所はここしかないだろ」


「サッカー部のマネージャーが忙しいのはあんたもよく知ってるでしょ」


 だって、と子どものように鼻をすすりながら海が潤んだ瞳を向けてくる。


こんな顔を見せられたら女子は皆落ちるんだろうな、ま、あたしには関係ないけど、と汐は頭の中で切り捨てる。


「彩葉があんたのこと好きなのは間違いないんだから、自信持ちなさいよ。あの子があんたの前でだけおかしくなるのは知ってるでしょ」


「だって、嫌だって、いってたし・・・。握手しようとしたら逃げられたし・・・」


ああ、もう、と苛立たしそうに汐は立ち上がると、自分の鞄からペラペラの紙を取り出した。


「ほら、王子様。うまく姫をエスコートしてあげなよ」


ヒラヒラと紙を海の目の前で揺らしてみせる。


それを受け取りながら、海が不思議そうに首を傾げる。


ああ、仕草がいちいち様になる。


「なに、これ」


「秋祭りの福引券。あるでしょ、神社の。彩葉を誘って行ってきなよ。段取りはあたしがつけてあげる」


ジャージ姿の汐は薄茶色のショートカットを得意げにかきあげると、意気揚々と部室から出ていった。



 ☆☆☆

翌朝、登校した彩葉は、困惑しながら辺りをキョロキョロと見渡していた。


靴箱に、上履きがない。


昨日の下校時に、確かにここに入れたのに、おかしい、どうして・・・。


途方に暮れていると、にゅっと視界の端に人の手が侵入してきた。


驚いて目を丸くしていると、上履きを掲げた汐が、仁王立ちで彩葉の横に立っていた。


「汐ちゃん・・・それ、私の?」


健康的に日焼けした、すらりとした背の高い同級生の少女、汐は憮然といった。


「隠されてた。嫌がらせだよ」


「ありがとう。・・・でも、嫌がらせ?」


「昨日の海の告白の噂が学校中に知れてる」


靴を履き替えながら、「えっ」と彩葉が息を呑む。


「海が本気だと思ってる人は少ないけどね。罰ゲームで告白させられたんだろうって見方がほとんどみたい。失礼な話だけど。
でも、理由が何だろうと、海に告白されるなんて体験をしたあんたはやっかみの対象ってわけ」


慌てる彩葉を遠巻きに眺めて、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべていた女子3人組を睨み付けて、汐が声を張った。


「あんたたちも、正々堂々と戦いなよ。イジメをするような人間を海が好きになると思うの?」


すると、バツの悪そうな表情になった3人は、すごすごと退散していった。


それを確かめると、二人は並んで歩き出す。


「海と付き合うってのは、こういうことの連続なんだよ。あとは自分でどうにかしなよ」


「付き合う・・・付き合うんだよね、私たち」

「何を今更」


汐が鼻を鳴らす。

 海からの告白なんて、天地がひっくり返るような衝撃のせいで、昨夜は目が冴えて眠れなかった。


そのせいで目の下のクマが目立つ。


うつ向きがちになった彩葉の頭を、汐がぺちぺち、と薄い紙で叩く。


「なに・・・?」


「福引券。お祭り海と行ってきな。浴衣指定。じゃあね」


彩葉の手に福引券を持たせると、汐は教室に入っていく。


「え、浴衣って・・・」


とてとて、と彩葉は慌てて汐のあとを追って教室へ入っていった。


☆☆☆

気温も一段落した初秋の、神社の境内。


まだまだ陽は長く、夜に足りない夕方の色鮮やかな空が広がる祭り会場。


涼しい風が吹き始めた夕暮れ。昼の熱気を和らげていく。


甚平や浴衣に身を包んだ人々、走り回る子どもたちのはしゃぐ声。


匂いだけで食欲をそそられるような屋台の煙に、笛や太鼓の賑やかな音頭。


非日常に人々の熱気が重なり、境内は人でごった返していた。



「・・・ごめんなさい・・・」


周りの騒音に埋もれるように、巾着で顔を隠した浴衣姿の彩葉は、消え入りそうな声で呟いた。


 「・・・浴衣、おばあちゃんに着付けしてもらったんですけど・・・下駄が合わなくて・・・」


彩葉は、浴衣には到底似合わぬスニーカーに目を落としていった。


「・・・こんな姿を神の目に触れさせるのは、罰当たりだと思ったんですがお誘いを断るのは、もっと失礼だと思いましたので、無礼を承知で・・・」


知り合いとは思えない距離で喋り続けるその姿は、見ようによっては危ない人に見える。


「別にそのくらいいいけど・・・。大丈夫だから、今村さん、もうちょっとこっち来ない?」


「い、いえっ・・・眩しい・・・!眩しくて直視できないっ、尊い・・・。ああ、こっち見ないでくださいっ。消えてしまいそうです!」


「・・・その神っていうのやめない?」


ぶんぶん、と千切れそうなほど首を振って、彩葉は戦慄したように叫ぶ。


「とんでもございません!私のような庶民が神の名を呼ぶなど・・・!」


「俺も彩葉って呼ぶし、海でいいよ、紛らわしいし」


「ひいぃぃ!」


ついにはしゃがんで頭を抱えると、容量オーバーに陥り、悲鳴を上げるのだった。



付き合いはじめてからずっと、彩葉はこんな感じだった。


しかし、取り乱しようが酷いのは、彩葉だけではない。


海も海で、初めて見る制服ではない彩葉の浴衣姿に、手に汗が滲んで仕方がないくらい、緊張していた。

 高校生にもなって子どもみたいだな、と海は心の中で苦笑する。


「福引き、行こうよ」


視線を逸らしながら手を差し出す。


「そ、そんな、神に触れるなど・・・っ」


彩葉が一歩後ずさると、後ろを歩く人とぶつかり、「ひゃっ」と声を上げてバランスを崩した。


慌てて海がその腕を掴む。


引き寄せられた彩葉の顔と海の顔が接近する。


お互い火が点くように赤面する。


ぱっと身を離すと、数メートルの距離まで後退し、彩葉が頭を下げた。


「すみませんっすみません」


海の美貌に思わず振り返った人々が不審そうに二人を眺めている。


いよいよ怪しい人に見えている気がして、海が彩葉の手を強引に掴んで進み出す。


「学校の人に見られたら・・・っ」


「雰囲気が違うから気付かないよ」

「ああっこっち見ないでくださいっ」


海の歩幅に合わせて小走りになった彩葉に、海は悪戯っぽく笑いながら、普段とは違うお団子頭をぽんぽんと優しくたたく。


「行こう、俺からの申し出は断れないんだよね?」


「・・・う、はい」


夜の闇が迫る中。

二人は互いに気付かれないように手の汗を拭いながら、きらめく屋台の並ぶ道のりを、やや歩くスピードを落としながら進んで行くのだった。


☆☆☆

「・・・で、何もせずに帰ってきた、と。中学生か。いや、小学生だな」


呆れた調子で廊下を歩きながら、汐は隣の彩葉を見下ろした。


「で、でも手は繋いだよ。緊張したけど楽しかった」


「楽しんだなら何よりだけどさ。キスとかするでしょ、普通」


「キス!?考えられない・・・!」


戦慄くような眼差しを汐に向ける彩葉。


「別におかしなことじゃないでしょ。付き合ってるんだし」


「汐ちゃんだったらどうするの?」


「あたし?あたしなら自然と成り行きでって感じよ」


「へー。すごいね、さすが汐ちゃん」


「あんたたちが奥手すぎ」


 彩葉が何気なく視線を隣の教室に向けると、友人と話している海と目が合ってしまった。


微笑んだ海がウインクする。


その途端、彩葉の目の前が真っ暗になった。


倒れていく彩葉を目にして、海は「しまった」という表情で青ざめた。

☆☆☆

ぼんやりと、彩葉はベッドに仰向けに横たわり、保健室の天井を眺めていた。


すぐそばで丸椅子に座っていた汐がいった。


「失神する人なんて初めてみた」


「・・・私もしたのは初めて」


海のウインクは絶大な効力を持っていて、免疫のない彩葉にとっては、失神級の衝撃だったのだ。


「早く慣れなさいよ。いつまでも恥ずかしがってたら何も始まらないじゃない」


「・・・う、そうなんだけどね・・・」


「何であたしとはこんなに普通に話せるのに海とだけは駄目なんだろ」


「うん、何でだろう?」


「あまり悠長に構えてられないわよ。時間は無限じゃないんだから」


「うん、そうだね。でも何でだろ?」


二人は揃って首を捻った。


☆☆☆

秋は深まっていく。


映画館デートの帰り。


待ち合わせから帰途まで、「こっち見ないでください!」とついぞ彩葉が顔を上げることはなかった。


手は握っているが、できるだけ距離を取ろうとする。


彩葉の家の前まで来ると、「ねえ」と海が切り出した。


「告白したとき、いったよね?俺の申し出は断ることはしないって」


「え・・・はい。いいましたけど・・・」

「俺の頼みきいてほしい」


「・・・何でしょう?」


「ハグしてほしい」


その申し出に、彩葉は身を強張らせる。


しばしの熟考のあと、「・・・私でいいのなら」。


言うや否や、海はすっぽりと包み込むように彩葉を抱きしめていた。


待ちきれないというように。


頭ひとつぶん以上背の高い海の腕の中で、その匂いと包容力に身を委ねる。


「大好きだよ、彩葉」


その声はどこか、震えているようだった。


それを聞いた途端、彩葉の目から一筋の涙が伝っていた。


大切な人に大切に思われていた。
ただそれだけでこんなにも幸福になれる。


そっと身体を離すと、海はその指で彩葉の涙を拭った。


嘘であってほしい、と思うくらい幸せだった。


そうでなければ、この持て余すくらいの溢れる幸せを失うことへの恐怖がむくむくと膨れて、自分を保つことができなくなりそうで。


「また明日ね」


名残惜しそうに彩葉と指を絡めて微笑むと、海は背を向けた。


☆☆☆

ファミレスでささやかな夕食をすませると、二人は極寒にも関わらず、カップルや家族連れでごった返す街の夜景を一望できる高台へと向かった。


地方の中核都市の夜景は、お世話にも絶景とはいえないけれど、クリスマスという特別な日が人々を高揚させてた。


「寒い」


そういいながら、海は握っていた彩葉の手を、自分のコートのポケットへと入れた。


「あああ、海くんに気を遣わせるなんて恋人失格ですっ」


彩葉は、相変わらず海を直視できず、自身のファーのついた淡いピンクのコートの裾にひたすら視線を落としている。


白い息を吐きながら、海は彩葉を見下ろす。


  下ろした髪の隙間からのぞくキラキラと輝きながら揺れるイヤリングは、海がさっきプレゼントしたものだ。


彩葉からは、ダークブラウンのマフラーをもらった。


「貢ぎ物です」と妙な言葉をチョイスしながら恐縮しきりで海にプレゼントを渡すのに、十数分を要した。


「ねえ、俺の申し出は断れないんだよね?」


「はい、もちろんです」


「・・・好きっていってほしい」


「・・・え?」


「一度もいってもらったことないな、と思って」


彩葉は更にうつ向く。


「・・・好きです、大好きです。神々しく輝いているあなたがずっと好きだったんです!あなたの特別になれるなんて夢にも思わなかったんです!今でも本当は信じられないんです!」


堰を切ったように彩葉は叫び出した。


海が目を丸くする。


一息に喋った彩葉に、海はもうひとつ提案をした。


「キスしたい」


「・・・はっ!?」


周囲の人々が振り返る。


「俺の申し出は?」


「・・・断れません・・・」


ズルい、とはわかっていた。


けれど海は、自分を止められなかった。


 「目を閉じていいですか?」


「どうぞ」


彩葉がゆっくりと目を閉じる。


腰を屈めながら、その顔に近付いていく。


やがて唇が重なった。


☆☆☆

「お、大吉!」


海は満面の笑みで、おみくじを彩葉の目の前で揺らした。


「・・・私は凶です・・・」


もふもふのマフラーに口元まで埋めながら、彩葉は苦い表情を浮かべた。


「じゃ、運のお裾分け」


彩葉の手からおみくじを取り上げると、自分の大吉を握らせる。


「やっぱり海くんは、神様にも好かれているんですね・・・」


手の中のおみくじを、しげしげと眺めながら、「家宝にします。今年もよろしくおねがいします」と頭を下げる。


「俺たちも受験生になるんだもんな、今年は。遊んでいられるのも今だけだよな」


彩葉が頷く。

「海くんの、その、進路は・・・」


「あー・・・、まだ決まってないんだよねえ。どうするかなあ」


頭の後ろで手を組んで、海は澄んだ元旦の空を見上げた。


海がそのまま青空に溶けてしまいそうにみえて、彩葉は思わず、彼のコートの裾を握った。


海はそれには気付かなかった。


☆☆☆

バレンタインデー前夜。


海へ渡すためのチョコ作りに、彩葉が苦戦しているときだった。


キッチンのテーブルの上でスマホが振動した。


思わず驚いて時計を見ると、深夜二時だった。


ディスプレイには、汐の表記があった。


「もしもし?」


「夜遅くにごめん。すぐ中央病院まで来て」


汐の声は切迫していた。


「どうしたの?」


「海の容体が急変した」


「容体?何の・・・」


「とにかくすぐ来て」


通話が途切れた。


彩葉はエプロンを外し、スマホと家の鍵だけ持って、部屋着のまま家を飛び出した。


冷たい風を切って、夜の路地に足音と荒い呼吸音を響かせながら、彩葉は駆けた。


夜間用の裏口から病院内に入ると、照明が落とされた待ち合い室に、汐の姿があった。


汐は無言のまま、付いて来るよう目で合図する。


階段を上がり、二階のとある病室の前で立ち止まる。


すると中から、泣いている中年女性と、その背に手を添えている中年男性が、医師らしき白衣の男性とともに出てきた。


汐は入れ違いに部屋へと彩葉を伴って入る。


照明が目映い部屋にはベッドが一台だけ殺風景に置かれていた。


規則正しく機械音が鳴り響くばかりである。


彩葉は目を見張る。


酸素マスクをつけて横たわっているのは、海だった。


「うそ・・・どうして・・・」


一歩また一歩と、覚束ない足取りでベッドへ近付いていく。


すると海が視線だけ彩葉に寄越す。


察した汐が酸素マスクを外すと枯れた声で海がいった。


「・・・彩葉。格好悪いところ見られちゃったな」


その声のあまりの弱々しさに、彩葉は涙が溢れるのを止められなかった。


しゃくり上げる彩葉の肩に手を添えながら、汐が話し始めた。


「海の病気がわかったのは去年の夏休みだったの。その時余命宣告もされた。それを知ってサッカー部を辞めたの。スポーツ万能のくせに一番好きなサッカーだけは才能がなくて万年補欠だったしね。・・・辞めた理由は、あんたよ」


「・・・私?」


「そう。そう長くない時間なんだから、後悔しないように、好きなら意を決して告白しろってあたしがけしかけたの。残された時間を彩葉と過ごせってね」


  汐の言葉に彩葉は脱力して座り込んだ。


怖い。
ひどく怖かった。
海を、喪うことが。
こんなにも大切に思う人がいなくなる。
もう話してくれない、笑ってくれない。
この世界の何処を探しても存在しない。
置いていかれるのだ、一人きりで。
手の届かない所へいってしまう。


それは、恐怖以外の何物でもなかった。


穴が空いたようだ、ぽっかりと。


「・・・覚えてる?秋祭り、楽しかったな。・・・彩葉の浴衣姿・・・初めて手を繋いだっけ」


苦し気な息遣いの合間に切れ切れに言葉を挟む海。


そんな彼が痛々しくて、「もういいから」と彩葉が止めようとする。


しかし海は楽しそうに天井を眺めながら言葉を継ぐ。


「・・・映画館にも行ったな。感想は正反対だったけど。・・・初めてハグもしたっけ。柔らかかった。いい匂いもしたな・・・」


「・・・もう喋らなくていいから・・・お願い」


彩葉の願いも届かず、うわ言のように話は続く。


「ハロウィンで仮装パーティーにも参加した。魔女の仮装した時可愛かったのに、全然顔上げてくれなくてさ。写真もちゃんと撮れなくて・・・残念だったなあ。・・・文化祭ではベタにお化け屋敷をやった・・・クリスマスは、キスしたね。初詣にも行った・・・ねえ、彩葉」


彩葉がハッと顔を上げるほど真摯な呼び掛けだった。


「・・・俺の申し出は、断らないんだよね?」


「・・・そう、ですけど・・・」


「じゃあ、笑ってほしい。俺の目を見て」


泣き濡れた顔を、ごしごしと服で乱暴に拭い、ゆっくりと立ち上がる。


目を逸らしそうになるのを堪えて、彼の美しい瞳に自分の目を固定して、唇の端を吊り上げた。


すると、それを見た海が堪えきれないとばりに吹き出した。


「ふふっ。嘘だよ。汐もやりすぎなんだよ、たかが検査入院くらいでさ」


その声の力強さは、普段の彼と寸分の違いもなかった。


目まぐるしい展開についていけずに彩葉は呆然と立ち尽くした。


「俺も悪いよ。汐の芝居に乗ったんだから」


「・・・芝居・・・じゃあ、嘘ってこと・・・?」


「そうなるな」


海は何でもないことのように答える。


「・・・死なないってこと?」


「まあ、そうだな」


「本当に?」


「ああ」


海が肯定すると、彩葉が「よかった~」といいながら、ずるずると床にへたり込む。


その瞳からは安堵の涙が止めどなく溢れていた。


そんな彩葉を見遣って、海が呆れたように呟く。


「ほらみろ、汐、やりすぎなんだよ」


すると体勢を立て直すと、窺うように彩葉が口を開く。


「・・・じゃあ、チョコも食べてくれますか?」


「チョコ?」


「今日、バレンタインだから」


「もちろん、食べるよ。楽しみにしてる」


「放課後、ここに持ってきます」


「わかった。今日はもう遅い。呼び出しといて何だけど、帰ったほうがいい」


彩葉は大きく頷くと、「じゃあ、帰ります。おやすみなさい」といって、極上の笑顔を海に向け、足取りも軽やかに帰っていった。



「嘘つき。信じちゃったわよ、あの子。本当にあれでよかったの?」


月明かりしか差し込まない病室でベッド脇の丸椅子に腰かけた汐がいった。


「・・・よかったんだよ。彩葉には最後まで笑っていてほしかった。これは、俺の最期のエゴ」


「彩葉を呼んだこと、感謝してくれていいのよ。どうせ格好つけて最後まで何もいわないつもりだったんでしょ。・・・でも本当は最期に会いたかった」


「さすが、よくわかってらっしゃる」


汐は、したり顔で胸を張った。


「当たり前でしょ。あんたと何年、双子やってると思ってんのよ。あんたの考えなんてお見通しなのよ」


「感謝してるよ、姉貴」


海も笑い返す。


笑いのさざ波がゆっくり引くと。


「もう、行くよ」


海は目を閉じ、家族が見守る中、静かに眠るように、息を引き取った。