主治医の先生は私の方のレントゲンや病理検査の資料を見ながらすぐに入院して治療するようにと言っていた。

だけど、私はそれを拒否した。

主治医の先生の表情を見れば、私の症状がもう手遅れに近いことなんてわかっていた。

驚くことに、死ぬことに対しての恐怖は無かった。

ただ、腕を切られたくなかった。

利き手を失うくらいなら、死んだ方がマシだと思った。


"君は若いから、進行が早いんだ"


先生がそう言っていたのを思い出す。

仮に右腕を切断すれば治るのか?そんなのわからない。
多分、死ぬ確率の方が高い。

仮に治ったとして、その時私は利き手を失った状態でどう生きていけばいいの?

私は絵を描きたい。腕を失ったら、二度と描けないのに。

そう思って、私は決意した。


"治療で苦しんで命が助かったとしても、その間の人生が帰ってくるわけじゃない"

"腕を切断するくらいなら、私は死を選ぶ"

"それなら、やりたいことをやって悔いなく死にたい"


そう宣言した私は、誰に何を言われようと決して意見を曲げなかった。

それからの私は、今までの自分が嘘のように行動的になった。

受けるかどうか曖昧だった美大の受験も、結果がどうであれ挑戦したいという意欲が湧いた。

私には時間が残されていないことはよくわかっていた。
だから受験が終わったら、最後に一番描きたかったものを描いてみたい。


"今ならまだ間に合うかもしれない。だけど、これ以上治療が遅れたら死ぬかもしれないんだ!"


たとえ、その選択が自分の命を削ることになったとしても。

間に合うかもしれないということは、間に合わないかもしれないということ。

それならば、奇跡に賭けるよりも目の前の残りの人生を精一杯楽しみたい。

私が生きていたことの証明だなんて言ったら、烏滸がましいけれど。

一度でいいから、そういうものを描いてみたい。
今の私にしか描けないものを、描いてみたい。

つまり、ただの私のわがままなのだ。