弘弥は冬の冷たい空気をまとってゼミ室にやって来た。なんとなく、細く冷たい空気が弘弥から吹いている気がする。弘弥のバイト先は進学塾で、中学受験真っ只中の今は「卒論だから休ませてくれ」などとは言えない状況らしい。弘弥は教員採用試験にも合格して、塾での指導実績もピカイチらしいから、なおさらだ。

 「ごめん、遅くなっちゃって。」

 「ごめんもなにも。…やるぞ!」

 弘弥が来たのは18時近くだった。時間はどんどん減っていく。少しでも早く始めるために、ペーさんが弘弥を焚きつけてくれた。

 「ピザじゃ足りないから、なんか買ってくるよ。一緒に行く人。」

 龍仁が車の鍵を手に呼びかける。少しの間があって、私と美波が「はーい」と、手を挙げながらジャンバーを手にとる。

 「ピザもっと食べたいな。」

 「肉が欲しい!」

 「ポテトもいいかも!」

 留守番組は好き勝手に食べたいものを頼む。これもまたいつもの光景。みんなで何か食べよう、となれば、車持ちの龍仁が車を出して、数人で出かける。他の人は好き好きに食べたいものを頼む。頼んだところで全部買うかは行く人が決める。実家の車を借りられれば、昼みたいにぺーさんが行ってくれることもある。
 「じゃあ、駅前のフードコートかな。1時間くらいかかると思うから、ペーさん買ってきたピザ、温めておいて。」
 龍仁はこういう準備も早い。要望を聞いて、どこに行くのが最適かを瞬時に判断して所要時間まで計算してしまう。

 「じゃあね!」

 「行ってきまーす!」

 美波は明るく、私はいつも通り、それぞれあいさつをしてゼミ室を出た。


 龍仁の車は、4人乗りの軽乗用車。よくあるシルバーの四角い車体で、中古だからか内装の色々なところにシミがある。「就職したら新車を買うんだ!」が口ぐせで、最近は車の話をすることも多くなってきた。ゼミに入って3年間。同期みんなで乗ってきた龍仁の車は、アットホームな空間だ。
 運転席の真後ろが私の定位置。今日は隣に美波が座る。駅前のショッピングセンターまで10分くらい、話は卒業旅行のことでもちきりだった。

 「将志くんがアメリカ行きたいなんて、意外だね。」

 「うん。でも、将志くんとなかなか出かけられてないから、最後くらい行きたいところ行きたいよね。」

 美波はスマホ片手にポツリとつぶやく。独り言かわからないけど、一応こたえてみる。

 「麻婆豆腐楽しみだったのにな。ま、この状態なら仕方ないか。」

 「最近ネットニュースもずっと中国だもん。夏休みでも行こうよ。」

 「美波は夏休みあんのかよ。俺はたぶんお盆も正月もないな。若者のうちはそんな贅沢言ってられないだろ。」

 龍仁は意外にかなり中国旅行を楽しみにしていたらしい。今がダメならちょっと先で、というのはごもっともだけど、8人の社会人のスケジュール調整など現実的には無理に近い。

 「中国はさ、全員じゃなくても、ペーさんと4人でもいいじゃん。まずはみんなでアメリカだね。」

 2人はうなずきながら運転にスマホに集中している。

 「先生に聞いてみないとわかんないけどね。」

 「…だな。」

 「先生」というワードを出すと、龍仁から声に出して返事が返ってくる。あと右折したらショッピングモールというところだからか、とりあえず出したような生返事だった。


 買い物にかかった時間は30分くらい。注文で10分、仕上がり待ちで20分。買ったのはフライドチキンとポテト、ナゲット。あとバーガーもいくつか買った。仕上がり待ちを利用して、龍仁と美波で飲み物も買い足してくれた。ジュースもいいけど、卒論が終わったんだから一杯くらい飲みたいね、と。騒いだら汚したり、ゴミを構内に捨てたりしなければゼミ室で飲んでも先生は何も言わなかった。
 龍仁が重たいビール缶が入った袋を持って、美波がおつまみの乾物が入った袋を持って、フードコートに集合した。私の荷物もそれなりに大きかったが、龍仁ほど重くはないから、それぞれがそれぞれの持っているものを持って駐車場に向かった。
 龍仁が小指をひょいと出して、なんとか車のカギを開ける。そのあとは自分が乗っていた席に荷物をお置こうとしていた。

 「チキンとポテト、ここに置いて! 私の軽いから上に載せるね。」

 「うん、よろしく!」

 「龍仁のは重いから足元でいい?」

 「俺はいいけど、ま、缶に入ってるし、いいか。」

 なぜかこういう荷詰め系は美波が得意だ。龍仁は足元に飲み物を置くのを気にしているが、そこまで気にもしなくていいというところに落ち着いたようだ。買ったものを隣に置いて、私はいつもの運転席後ろにどしっと構える。「前、座れる?」という美波の声がドア越しに聞こえる。「うんわかった」というような表情で龍仁が運転席に乗り込み、助手席に置いてあったティッシュやなんかを、さっき飲み物を置いた足元にさっと片付ける。


 運転席に龍仁。助手席に美波。後ろに座る私。
 多分今までも何度も見た光景なのに、今日は2人との差を広く広く感じる。


 「弘弥、進んでるかな?」

 「進んでるんじゃない?」

 「だよな。」

 「塾もしながら大変だよね。」

 「まあ、それでもやらなきゃいけないのが卒論って先生言ってたしな。」

 「印刷くらい手伝ってもいいかな?」

 「ま、場合によるんじゃない?」

 龍仁と美波の会話に入っていける隙間はなかった。私にはただ車窓を眺めていることしかできない。2人の何気ない会話はいつまでも続く。龍仁の返事はいつもよりもテキトーで、美波はずっとニコニコほほえんでいる。


 ただの同期なのに、ただの友達なのに、2人はずっと大人に見えて、私とは違う、2人だけの空間にいるように見えた。


 結局、帰り道の10分間は一言もしゃべらず、ただ2人の会話を聞いているだけだった。時折笑い合うのが眩しかった。
 駐車場に着くと、龍仁がさっと降りて、私に軽い荷物を振り分けてくれる。

 「はい、舞音。はい、美波。」

 それはいつもの光景で、何十回も何百回も見た光景なのに、今日は私に向けられる親切が切なく心に刺さってきた。駐車場からゼミ室までの5分くらい、私はまた2人の後ろを歩いていた。2人を見ているだけで、1月の冷たい風が頬に突き刺さり、一筋の線を感じさせる。2人に気付かれないように冷たい空気を肺の底まで大きく吸い込む。喉の奥にあったピリ辛さを凍らせてしまう。頬の線も、服の袖で消してしまう。
 こうして胸の奥から出そうになっていた何かは、ここで胸の底へと沈んでいった。

 「卒論終わったら何するんだ?」

 「うーん、まず彼氏とデートでしょ。あとは社交ダンスの追いコンに行って、手話サークルの同期と卒業旅行行って。そんな感じ!」

 冷たくなっていた喉元に温かさが戻って来た。美波に彼氏がいるなら、私がさっき胸の底に沈めたのは何だったのだろう。
 相変わらず並んで歩く美波と龍仁は眩しく見えるけど、きっと美波が私に変わったって、眩しく見えるはずだ。


 (ああ、後悔、したくないな。)


 キョーコさんが言っていた「後悔」とは、こういうことなのかと、やっと腑に落ちた。中国だろうが、アメリカだろうが、どこでもいい。


 (卒業旅行で、伝えよう。)


 私はこれからも龍仁の隣にいたい。他の誰かが龍仁と歩んでいくのは嫌だ。龍仁が望まないなら、仕方がないけれど、伝えないと後悔する。
 決意を固めた私を迎えるゼミ室は、ピザが温まった幸せな空気だった。