ある秋の夜、「イタリアン カーザ・ジョヴィネッツァ」に来た。先生の退官パーティーのあと初めて来たイタリアンレストランだ。
 注文も取らずにビールとお通しのサラミ盛り合わせがやってくる。

 「舞音ちゃんは?」

 「今日から里帰りで。」

 そう説明すると「ああ〜」とすごく納得したような表情で、おかみさんは裏に入って行った。
 最後に舞音と来たのは3か月くらい前だったろうか。今日はあのとき迷ったイカのパスタをメインにして、前菜はしばらく食べていないチーズに、名物の熟成肉も外せない。

 「おお、人見の若旦那。ひさしぶりだな。」

 「マスター、よしてください、若旦那なんて。」

 「優仁(ゆうじん)さんが旦那なんだから、若旦那だろ。」

 たしかに。マスターは父さんのことを「人見の旦那」と呼んでいるから、そうなるか。店の人はみんな「龍仁さん」だから、改めてそう呼ばれると本当に店を継ぐんだという気持ちになる。
 注文のメモをマスターに手渡すとカウンターで調理を始めた。今日は平日だからか、オレ以外のお客さんは個室に入っている男性客だけだった。

 「若旦那、聞いたぞ、若女将、里帰りなんだってな。おめでたか?」

 「そうなんですよ。産まれるまで黙っていたいって舞音は言ってたんですけど、わかりましたか?」

 「そりゃ新婚のお嫁さんが帰省じゃなくて里帰りなら、そうだろうよ。この前、うちに来てくれたときは気づかなかったけどな。」

 マスターはそうこたえながら熱いフライパンにイカを投入する。キュッと身がしまる音がオレの照れ笑いを隠してくれた。

 「2人になったら言おうと思ってたんですけど。」

 ビールをもう一口飲んで、マスターに声をかけた。

 「あのときは、『ちゃんと言え』って言ってくれて、ありがとうございました。」