青春卒業旅行

 ピンポーン。

 うちのインターフォンが鳴った。
 重たい身体をなんとか持ち上げ、玄関を開ける。

 「ただいま。」

 「ごめんね、こんなんで。」

 「舞音の元気が一番だよ。一番辛い時に来れてよかった!」

 そのまま龍仁に支えられてベッドまで案内し、横になる。
 楽しみにしていたカップルになって初めての連休、ゴールデンウィークを前に、私は熱を出してしまっていた。頭痛が始まった頃には病院がしまっていて、龍仁が来るまでベッドで一人うなされていたというわけだ。

 「キッチン借りていい?」

 「うん。なんでも使っていいよ。っていうか、片付けできてなくて、ごめん。」

 昨日体調を崩して、そこからというもの、家事が全くできていない。洗濯はもちろん、茶碗洗いも掃除も、何もできていなかった。
 キッチンからは茶碗を洗う音が聞こえる。昨日、何か食べなくてはと、奇跡的に冷凍庫に埋もれていたうどんをレンジで温め、麺つゆをかけて食べたやつ。今日ヨーグルトを食べたスプーンも、水を飲んだコップも、全て龍仁が洗ってくれた。

 「本当にごめん。」

 「仕方ないじゃん、具合悪いんだもん。いいから寝てて。」

 「ありがとう。」

 ベッドからは見えないキッチンで、龍仁が茶碗洗いの後に包丁仕事をしている音が聞こえる。何かご飯を作ってくれるのだろうか。
 昨日なんとかうどんを食べてから、今日は喉の痛みや関節痛も出てきて、いよいよ何も作る気力がなくなっていた。食べたものはそのまま食べられるヨーグルトと、奇跡的に冷凍庫に入っていたレンジでチンするタイプのパスタだけ。具合が悪いのもそうだが、お腹も空いていた。

 「舞音、起きられる?」

 「うん。ちょっと待ってね。」

 身体をベッドの上でくの字に折り曲げてから慎重に身体を起こす。せっかく龍仁がいるのに、今が一番身体が辛い。

 「なんか、美味しそうな匂いする。」

 「味は保証できないけど、元気になってもらいたいなって思って。」

 やや散らかったリビングのテーブルには、クリーム色のおかゆが作られていた。

 「おかゆ?」

 「うん。玉子がゆ。オレ風邪ひいたときは親がいつも作ってくれてたから。さ、食べよ!」

 「ありがとう。いただきます。」

 「全然、気にしないで。いただきます。」

 龍仁が作ってくれたおかゆから、今も湯気が出ている。冷凍食品を温めたときの細いまばらな湯気ではなく、おかゆ全体から出ている。スプーンを入れると湯気がさらに濃くなり、バターのいい匂いもしてくる。

 「おいしい…。」

 「そんな、初めて作ったんだよ? 無理しないでね。」

 「ううん。本当においしいの。優しさの味がする。」

 「ハハハ、何それ。どんな味?」

 「なんか、うまくいえないけど、優しい気持ちになれる味!」

 「よくわかんないけど、喜んでもらえてよかった。食べれるだけ食べてね。」

 龍仁は完全にテレているが、本当においしくできていた。初めて作ったとは思えない。キッチンに目をやると大きなレジ袋が転がっている。また最近レジ袋が値上げされて、今はほとんどの人がエコバッグを持ち歩いている。きっと空港についてから家に来るまでに食材を買って来てくれたのだろう。
 一旦スプーンを置いて、飲み物を取りに立ちあがろうとすると、龍仁が手で制止する。

 「舞音はゆっくり食べてて。何とってくる?」

 「申し訳ないよ。冷蔵庫からポカリとってほしい。」

 「オッケー。」

 私の偉いところは、こうやって具合が悪くなったときのためにポカリと熱さまシートを冷蔵庫に、レンジでチンするだけのうどんやパスタを冷凍庫に、ある程度置いてあるところ。ちょっと抜けているのは風邪薬の常備がないこと。一応、生理痛や頭痛に効く鎮痛剤はあるが、これがちょうど切れたタイミングで、これだけ具合が悪いのに、薬を飲めていなかった。

 「はい、ポカリ。」

 「ありがとう。」

 「あとこれ。症状に合いそうな薬買ってきたんだけど、飲めない薬とかってある?」

 「いや、特にないよ。本当に何から何まで、ありがとう。」

 ポカリと一緒に出してくれたのは、喉の風邪に特化した風邪薬だった。こんなに優しくされた経験がないから、どう反応していいのかわからないでただただおかゆを食べ、ポカリを飲んでいた。

 「なんでこんなに優しいの?」

 「大事な人が辛い時に優しくするのって、当たり前じゃん。」

 龍仁は当たり前のようにそう言いながら、自分のおかゆと買ってきていた惣菜を食べ進めている。

 おかゆを食べ終わり、龍仁が買ってきた薬も飲んで、今日はシャワーを浴びて寝ることにした。食器を下げたついでに冷蔵庫をのぞくと、私が常備しているよりも多く、ポカリが並んでいた。きっと龍仁が買ってきてくれたに違いない。シャワーを浴びてベッドに戻ると布団が整った上に、保冷剤まで用意されている。

 「どうしたの、これ?」

 「保冷剤? 冷凍庫にあったから、出してみた! 気持ちよく寝た方がいいじゃん。」

 本当にどこまでも気がきく。こんなに尽くしてくれるとは思っていなかった。

 「私ベッドで寝てるけど、移したら悪いなあと思って…。」

 (龍仁はソファーで寝てもらってもいい?)の部分は言えないでいた。同じベッドで寝ることが楽しみでいたのに、そんなこと言えない。でも、移したくもないから、できれば龍仁が自分で決めてほしい。でもきっと、一緒には寝られないんだろうな。

 「今日は一緒に寝ていい? 舞音が辛いときにすぐ起きたいから。」

 私の頭によぎっていた色々な不安を龍仁は一蹴(いっしゅう)する。言われてみればすごく当たり前なのに、そんなことにも気づかないくらい、自分の殻に閉じこもろうとしていた。
 「ありがとう」と伝えて、そのままベッドに横になる。龍仁はというと、私がシャワーに入っている間に茶碗洗いを済ませ、私の後にすぐにシャワーを浴びて、私がベッドの中で龍仁の優しさに感動している間に寝る支度を全て済ませて、布団の中に入ってきてくれた。

 「まだ起きてたの?」

 「うん。っていうかお風呂早くない?」

 「いや、舞音と長く一緒に居たいじゃん。」

 「かわいいこと言うね。」

 そう言うと少しスネた顔をしてプイッとそっぽを向いてしまった。

 「背中向けてるけど、辛いときいつでも言ってね。」

 「うん、ありがとう。風邪うつしちゃったら悪いから、私も後ろ向いて寝るね。」

 「オレにうつして治るなら、うつしてほしいくらい。」

 どこまでも優しい龍仁に、本当にこんな人がいるのかとびっくりしてしまう。

 「舞音が一番辛い時に隣に居られてよかった。おやすみ。」

 「うん。本当にありがとう。おやすみ。」

 いつもはラインだけの「おやすみ」がリアルになって布団の中をより暑くする。龍仁の背中を飽きもせず眺めていられる。こちらを向いていたら恥ずかしくてずっとは見ていられないが、背中ならいくらでも見ていられてる。

 「なんか、いいな。」

 「え?」

 思わず心の声がこぼれて、案の定龍仁に聞かれてしまい、聞き返されてしまった。

 「なんか、こう…。本当の家族みたいだなって思って。」

 「家族か。ってか早く寝て治して。」

 「うん。」

 そんな何気ない会話をしたところで今日の記憶は終わっている。

 *

 目が覚めると、隣に龍仁はいなかった。重たい頭をフル回転させて昨日の記憶を呼び戻す。やはり龍仁はうちに来ている。

 (居ないのは、なせ?)

 何をしても痛い頭をフル回転させて、あらゆる可能性を模索していると、台所から「サクッ」と「コツン」が混ざった音が聞こえてくる。さらに「パチパチ」とフライパンを使っている音と香ばしい匂いもしてきた。

 「おはよう。」

 「起こしちゃった? まだ寝てていいからね! おはよう。」

 台所から聞こえてきたのはたしかに龍仁の声だった。いつもラインだけの「おはよう」なのに、今日はリアルで、しかも朝食付き。さっきまでマックス硬く重たかった頭が、軽くスッキリした気がする。

 「まだ寝てていいって言ったじゃん。」

 「見ていたいの。それに、おかげさまでだいぶ良くなったし。」

 「そっか、よかった。」

 龍仁は柔らかく笑うとまたフライパンに向かい始めた。丸と四角の皿の上には目玉焼きがのっている。フライパンでごげ目をつけられているのはベーコンだろうか。

 「お待たせ。」

 目玉焼きとベーコン。キャベツの千切りが入った味噌汁。主食は病人仕様のうどん。

 「ありがとう。いただきます。」

 いつものバタートーストとは違うけど、他人に作ってもらうご飯というのはこんなにも美味しいものなのだろうか。箸がどんどん進む。ゴクゴクと冷たいポカリを飲むと、つむじから胸を通って身体中に気持ちいい感覚でいっぱいになる。

 「はぁ〜。生き返るぅ〜。」

 「よかった。作ったかいがあるよ。」

 ゼミ室にいた頃とは違う柔らかさのある笑顔で、龍仁はこたえてくれた。

 「ご飯だけじゃなく、色々ありがとうね。もう元気だよ。」

 そういうと龍仁は歯を見せて笑った。

 「一日少なくなっちゃったけど、札幌観光しない?」

 「じゃあ舞音の無理ない範囲で行こうか。」

 朝食を終えると、龍仁が食器洗いを始め、その間に洗面を済ませ、見事な察し合いで身支度が完成した。