『汐織ちゃんに見せなきゃいけないものがあるんだけど』
 一週間が経ったある日、堕落した生活の中で一つの連絡が来た。それは咲良さんからのもの。この連絡が、私を少し変えた。
『この場所に来てくれる?』
『了解です!』
 文字では元気を演じる。見せなきゃいけないもの。なんだろうか。私には皆目見当もつかない。
 足の踏み場も見つからない散らかった部屋を歩く。何だか少し、生きている心地がしない。この一週間ずっとそうだった。
 青が見えなくなって、寂しくなった。

𓂃✍︎

 私が向かったのは、とあるアパートの一室。小さなチャイムを鳴らした。無機質な音が響いた数秒後、ガチャリと扉が開く。
「いらっしゃい。入って入って」
「お邪魔しま〜す」
 出て来たのは、いつも通りの姿をした咲良さん。誘いに流されるままに、靴を脱いで部屋へ上がった。
「ここ、樹月のアトリエみたいな場所なんだよね」
 そう言われて納得する。確かにここには絵の具の独特な匂いが漂っていた。どうやら私は画家、早海樹月の聖地に来てしまったようだ。
 玄関の短い廊下を歩き、使った形跡の無いキッチンを横目に、彼女はドアを開いた。
「……!」
 部屋の中を見た瞬間、声にならない声が飛び出る。作品が生まれていた形跡。画家が居た形跡。樹月くんが生きていた形跡。六畳の部屋には、それが詰まっていた。
 まるで金縛りにあったかのように身体が動かな買った。ただ視線だけを彷徨わせる。
 カーテンが閉じた薄暗い部屋に散らかるのは数多もの画材と、大小様々なキャンバス。何かが描かれているものもあれば、真っさらな状態のものもあった。
「あれ……」
「あ、気付いた? おいで」
 虚ろに呟いたその言葉に反応した彼女は小さく手招きをする。彼女の元へ、いや、そこにある一つの作品の元へ、吸い込まれるように足を動かした。
 暗順応した目に映るのは、幾度となく夢に見たあの色彩。

『純恋の月』

 雷に打たれたような衝撃が全身に走る。痛みを感じるほどの作品の圧をこの身の全てで受け取った。地蔵を背負っているかのように、計り知れない重さが私にのしかかる。気を抜けば倒れてしまいそうだ。
 これは、ずっと待っていた、あの感覚。
 わたしはもう、青が見えない。だからあの時見せて貰った絵を元に色を補完する。しかし、決してあの時のように淡くない色彩は、私のその行為を拒んだ。彼の色彩感覚を、私は想像出来ない。
「色、色を教えてくださいっ」
 泣きつくようにそう言った。咲良さんは横に立って、指を指しながらゆっくりと教えてくれた。隅から隅まで余す事無く。それはまるで、彼から説明を受けているようだった。

𓂃✍︎

 色の説明が終わった。この作品はあの時と変わらぬ美しさだった。

 色に溢れているであろう部屋で二人、しばし感傷に浸る。私はただ虚ろに立っているだけ。作品と目を合わせて、貴方への恋を垂れ流している。
「この作品、二人で美術館に言ってた日からずっと描いてたんだよ」
 小川のような透明感のある声に耳を傾ける。
「汐織ちゃんの為に、ってずっと言ってた。たった一人の為に描いた愛の作品が、世界から愛を叫ばれる作品になる。この絵を、そんな作品にしたい。そうやってずっと言ってたんだよ」
 口を押さえる。声を漏らさぬように。温かな声で語られる彼の心情に、全ての黒かった感情が浄化されて行った。
「汐織ちゃんの為の遺作兼、遺書。綺麗だよ」
 耐えきれずに涙のダムが決壊する。散々泣いたはずなのに、まだ涙は残っていた。
 頭のどこかで受け入れられなかった彼の死が、スっと身体中に染み込む。もう少し早く出会いたかった。そんな後悔も同時に湧き上がった。

 彼と過ごした日々の一日一日。その一瞬一瞬。それは全て何にも変え難いものだった。純粋な宝物だ。彼との記憶の箱を開ければ、それは宝石箱のようにキラキラと輝いている。
 冬の間だけの、二万文字にも満たない短い日々だったけれど、私はそこに、一生モノの愛を見つける事が出来た。

 深呼吸をして呼吸を整えた。
『作品に触れてはいけない』鑑賞者の絶対の掟。しかし今だけは、それを破らせて欲しい。
「樹月くんと春を見たかったよ」
 作品に宿る彼の魂に触れる。彼が生きた証に触れる。
「愛してくれてありがとう。……恋文、届いてるよ」



 彼の色彩をなぞった。