その時が来るのは唐突だった。思ったよりも早かった。あれから約一ヶ月経った、二月二一日。曇りと雨が繰り返す暗い一日だった。

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『樹月、死んじゃった』
 昼頃、大学構内で掛かってきた一本の電話。震えた咲良さんの声に、胸が締め付けられる。嘘だと思いたい。脳がけたたましくサイレンを鳴らす。
「いきます」
 やっとの思いで絞り出した声は、酷く掠れていた。
 電話を切った途端、身体中の力が抜ける。それでも脳は休む事無く回り続ける。
 信じられる訳が無いだろう。だって早すぎるでしょ。恋文はどうしたの。……しかしそんな事を言ったって嘘な訳も無い。咲良さんの声、あれは本物だ。
 いずれ死ぬ事は初めから分かっていた。しっかりと理解して、彼に恋をしていた。それでも、それでも私は信じたくない。彼の死が嘘だと信じていたい。
 焦りと虚無感に支配され、そこで脳はショートした。どうやら思考の線が焼き切れたようだ。
 急速に世界が冷やされて行くような感覚に陥った。

 高く叫ぶ心臓に呼び戻される。行かなければ。
「樹月くん……」
 全速力で走った。他人の目線なんて気にする暇も無い。ただがむしゃらに、醜く走る。
 約束はどうしたんだ。そう心の中で何度も叫ぶ。あれの完成系も。世界から愛を叫ばれる作品だって、まだ見せて貰ってない。
 肺が痛い。足が痛い。でも止まる事は出来なかった。貴方はどんな色彩を秘めていたの? 答えを聞くまで、足は止められない。
 その時私は、空が青くない事に気が付かなった。

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 ガラガラとドアを開ける。病室にはたくさんの大人が居た。俯く医者と看護師。泣き叫ぶ彼の母親とそれを慰める涙を浮かべた父親。
 何故私がここにいるのだろう。ふとそんな思考が過ぎる。それと同時に、本当に死んでしまったのか、と淡い期待が崩れ去った。
 入口で呼吸のままならない私の背中を咲良さんがさすってくれる。少し落ち着いて見上げた彼女の目は真っ赤で、宝石のように潤んでいた。
「辛いよね。ごめんね……」
 謝られる事なんて一つもしていないのに、咲良さんはそう口にした。
 私には分からない。咲良さんの思いが。家族を亡くした者の思いが。あの頃散々書いていたはずなのに、私は死というものが分からない。
「ごめんなさい」
 誰に向ける訳でも無い言葉が落ちた。

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 幾分かして、部屋は私と樹月くんの二人だけの空間となった。彼の眠る場所へ近付く。眠っているだけのように見える。首筋の模様は黒に変わっていた。
「ねぇ、起きないの?」
 返事なんて来ない。それなのに何度も口にする。
「樹月くん」
「約束は?」
「また展覧会行こうよ」
 そんな言葉の数々を両手でも数え切れないぐらい呼びかけたところで視界が歪む。彼の輪郭がぼやけて行く。
「私はまだ待ってるよ……」
 膝から崩れ落ち、空っぽになった彼の胸に顔を埋めた。
 呼吸はしないの? 心臓の鼓動はどこに行っちゃったの?
 子供のように泣きじゃくる。喉が潰れるぐらいに泣き叫んだ。一生分の涙をここで使い果たしそうだ。

 君はもうここには居ないんだ。

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 もうどれだけ泣いたか分からない。数分なのか、数十分なのか、はたまた数時間なのか。体内時計は完全に狂っている。
 目を強く擦り、鼻を啜る。それから細く息を吐いて呼吸を整える。歪な形の痣がある頬を、震える手で撫でた。

「君の色彩を教えて」

 いつかと同じように呟く。どれだけ待っても、声が聴ける事は無かった。
 人は、こんなにも呆気なく死んでいくものなのか。家族でも無い第三者の私は、傍観者なのか。
 小説ならきっと、私に言葉の一つや二つを遺してくれる。創り物だったら、もっと美しく、儚く人は散っていく。
 しかし現実では電話一本。彼の最後の言葉なんて知る由もない。現実の死は、美しいものばかりでは無いのか。
 ああ、私も少しの儚さを味わいたい。小説のような美しさを身に纏いたい。生きている間に出来なかった事。それをしよう。
 私は歪んでいるのだろうか。彼の死に顔さえ美しいと思ってしまうのも。彼の死に花束を添えたいと思ってしまうのも。夢をみたいと思ってしまうのも。歪みから来ているものなのだろうか。
 誰か答えてはくれないか?


「……大好きだよ」


 無彩色の唇を重ねた。